2016年7月26日火曜日

フシギな短詩27[金原まさ子]/柳本々々




  やがて叫びだすつけ合わせの紫蘇  金原まさ子


紫蘇は夏の季語。掲句では、紫蘇がシャウトしている。なんでだろう。


いや、フシギではない。金原さんの句においてはモノがリミッターを解除していくことがたびたびあるのである。季語がその〈沸点〉を越えること。たとえば、

  蛍狩ほたる奇声を発しおり  金原まさ子
  月明の喪服しずかに失禁す  〃

この句においても「ほたる」の奇怪なシャウトを聴くことができる。二句目は〈シャウト〉ではないが、「失禁」をひとつのリミッターの解除ととらえることもできる。身体のシャウトとみて、いい。

注意してみたいのは〈出力〉の様態である。その〈出力〉の様態を俳句として描くことが金原さんの俳句の強度につながっていく。入力ではなく、出力が。

  父がいまわのわらいをわらいおる父が  金原まさ子
  母は魚の息していなくなるのか母は  〃

どちらも「父/母」をめぐる〈出力〉の句である。ただしそれは助辞によって様態が異なっている。「父」は助詞「が」により〈未知〉の情報として出てくるためこの「いまわのわらい」はまだ誰も知ることのないような勢いのある〈出力〉になっているが、「母」は助詞「は」により〈既知〉の扱いとされ、「魚の息」という文字通りあたかも知っていたかのように勢いは矯められている。

「紫蘇」や「ほたる」や「失禁(者)」は助詞の拘束具が外されリミッターが解除されるのに対し、〈父/母〉は助詞という拘束具をつけられ、その出力が調整させられている。そこに語り手の出力への微妙な息づかいを感じることができる。語り手は〈出力〉を渡り歩いているのだ。

こうした言辞のありかたを、金原さんの〈悪意〉にならって、言葉を文法的に〈折檻〉しているということもできるかもしれない。言葉を、季語を〈折檻〉するのが金原さんの俳句だと。

わたしたちは金原まさ子の俳句を通してたやすく「折檻部屋」を出たり入ったりすることができる。真顔で。すました顔をして。折檻される季語のシャウトを目撃しながら。ああ。

世界はなんて〈初めて〉ばかりなんだろう、とおもう。

  あさぎまだらが近づく気配折檻部屋  金原まさ子


          (「沸点」『-俳句空間-豈』58号・2015年12月 所収)

2016年7月19日火曜日

フシギな短詩26[兵頭全郎]/柳本々々



  受付にポテトチップス預り証  兵頭全郎


全郎さんには〈ポテチ川柳〉なるポテトチップスをめぐる一連の句がある。紹介しよう。

  ポテチからポップコーンの上申書  兵頭全郎

  小銭ともポテチの厚みとも言えず  〃

  タンカーに横付けされるポテチ工場  〃

  拳からポテチがのぞいている 許せ  〃

  ポテチ踏む戦争映画はエンドロール  〃

ここにみられるのは徹底的なしつこいまでの〈ポテチ〉への執着である。

注意したいのは〈ポテトチップス〉ではなく、〈ポテチ〉という呼称が一貫して使用され続けていることだ。〈ポテトチップス〉は〈ポテトチップス〉ではなく、語り手にとっては〈ポテチ〉と略される何よりも〈言語存在〉なのである。だから「ポテトチップス」という正式名称が使われたときにはそれは「受付」に「預」かられてしまい、語り手の手に入らないカタチになるのだ。

これらの〈ポテチ川柳〉を通して、これだけ語り手がポテチに執着しているにも関わらず、わたしたちはなにかがおかしいとすぐに気づくはずだ。ここには重要ななにかが決定的に欠けている、と。それは、なにか。

《なぜ、語り手はポテチを食べようとはしないのか》。

語り手は決してポテチを口に入れようとはしない。これだけポテチに執心しながらも、ポテチの周縁をえんえんとめぐっているだけなのである。手を出そうとしないのだ。

これはどこまでいっても〈ポテチ〉を円心に据え置いた〈ポテチをめぐる周縁〉なのである。たとえば「ポテトチップス預り証」や「横付けされるポテチ工場」、「拳」からちら見しているポテチ、「ポテチ踏む戦争映画」など、なにかそれはつねに〈間接的〉なのだ。言語的に略された〈ポテチ〉が、〈ポテトチップス〉の物質性を奪われてしまうように、全郎さんの句にあらわれる〈ポテチ〉とは言語によって構造化された食べることが不可能なポテチなのである。

だから、ポテチはここでは〈核心/確信への迂回〉として機能していることになる。しかしそれが〈迂回〉だからこそ、語り手はかたくなにポテチに執着しつづけることになる。いつまでも食べられないし、意味が終わらないからだ。

そう、実はこのポテチとは〈意味〉に置換してもいいものなのである。受付に「意味」の預り証があるように、横付けされる「意味」工場のように、拳からちら見している「意味」のように、「意味」を踏む戦争映画のように、ポテチは〈意味〉を担保してもいる。ポテチが、食べられてしまうポテトチップスにならないことによって、だ。

そしてその意味の担保=保留=迂回にあえて執心してみせること。意味のエンドロールをえんえんと遅延させること。それが兵頭全郎の川柳なのではないかと私は思うのだ。

私はこれまで、川柳は執心をくりかえすことによって意味の大気圏を突破しようとすることがあると思ってきた。でも全郎さんのポテチをめぐる川柳を通して、今はこう言い換えてみたいと思っている。

川柳は執心をくりかえすことによって意味が公転し続ける〈意味の太陽系〉を織りなしていくことがあるのだと。それは大気圏の突破ではない。ぐるぐるシステムを循環しつづける〈太陽系〉の生成なのだ。

だからこそ、全郎さんの句集にはこんな太陽系的なぐるぐるした句もある。

  風車風見鶏風くるくるくると墜ちていくのが最後尾行から直帰刑事は夜の顔という顔がくるくる遊園地にも足跡のない轍とも堀ともとれる幅に立つとすぐ椅子を持ち去る第二秘書くるくるさっきまでの罠らしく唇として開けてある  兵頭全郎

句集タイトルは、『n≠0』。0は一枚のポテチにも見えるだろう。しかし、もちろん、0≠0であるように、それは〈ポテチ〉ではないのだ。

n≠0。意味の任意性としてのnを、どこまで行っても無意味ではないという「≠0」というかたちで生き続けること。意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。

          (「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』私家本工房・2016年 所収)

2016年7月12日火曜日

フシギな短詩25[木下龍也]/柳本々々



幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう  木下龍也

木下さんが描く幽霊はいつも〈いきいき〉している。たとえば、

  ザ・ファースト・クリボー無限回の死を忘れて無限回の出撃  木下龍也

  リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる  〃

任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に出てくる敵キャラクターのクリボーはゲームのシステム上じぶんじしんの〈死〉を忘れて何度も〈いきいき〉と出撃してくるし、「リクルートスーツ」を着込んだ〈生まれたて〉の幽霊たちは生前よりも〈いきいき〉とするかのように「はきはき」と「死亡理由」をしゃべる。

これはいったいどういうことなのか。

私が思ったのは、ここで起こっている事態とは〈死の/への忘却〉ではないかということだ。

ひとはその生の過程においていろんなことを忘れていくが、ひとは〈死〉の過程において〈死〉さえも忘れる。それが木下さんの歌におけるひとつの〈死生観〉なのではないか。

だから「幽霊になりたて」の自分は〈死んでいる身体〉を忘れ、〈生きていた身体〉を自動的に想起し、反射的に「おめめ」を「閉じ」てしまう。〈わたし〉の意思にかかわらず、身体のシステム、思い出のシステム、忘却のシステムが〈そう〉させてしまうからだ。

「クリボー」もそうだ。じぶんの〈死〉をわすれて、ゲームのプログラムのシステムによって何度でもマリオにつっこんでくる。「リクルートスーツ」もまた〈就活〉というプログラム化されたものである以上、〈死〉を忘れさせる装置になる。

このとき大事なことは、〈忘却〉である。この〈忘却〉にこそ、木下さんが描く幽霊の〈いきいき〉がある。そしてそこから逆照射されたわたしたちの生も。

なぜ、死の忘却にわたしたちの生があるのか。

それは、忘れることが、生者の特権だからだ。

ひとがなにかを忘れるということ。ついうっかり忘れてしまうということ。それが〈生きている〉ということであり〈生の複雑さ〉なのだ。

いっけんわたしたちの生はシステムによっているようでいて、それでもそのシステムのプログラムを忘れ、ノイズを引き起こしてしまう。それが生きていることのやっかいさであり同時に愛おしさでもある。生きるとは、この生のノイズを増幅させることであり、たとえ幽霊になったとしても〈その死〉に対し〈このわたし〉が〈生きるおっちょこちょい〉であることにほかならないのだ。

だから木下さんの「おめめ」は〈幽霊〉化したはずの死のプログラムに生のエラーを引き起こす。〈彼〉はまだ〈生きている〉のだ。誰のシステムでもない、じぶんじしんの生として。

どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。

          (「雲の待合室」『現代歌人シリーズ12 きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房・2016年 所収)

2016年7月5日火曜日

フシギな短詩24[岡野大嗣]/柳本々々



  空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った  岡野大嗣

『かばん』(2016年5月号)に掲載された岡野大嗣さんの連作「とぎれとぎれ」にこんな一首がある。



  写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい  岡野大嗣
 
 (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)

この歌にある〈祈り〉の強度は、歌そのものの〈長さ〉にあらわれているのではないかと私は思う。

  写メでしか(5)/見てないけれど(7)/きみの犬は(6)/きみを残して(7)/死なないでほしい(8)

こんなふうに6音と8音の「きみの犬は/死なないでほしい」と祈りを〈とりわけ〉込めた箇所を語り手がていねいに・長く・饒舌に語っているのに注意したい。そのせいでこの歌を読むときにわたしたちは祈りの箇所だけ語り手とともに〈いつもより長く〉言葉のなかに留まるのだ。〈いつもより長い〉時間の共有。

もちろん〈いつもより長い〉とは言ってもそれは一音ぶんの長さでしかない。しかし短歌のなかの時間は、たった一音といえども、〈長い〉。その〈留まった〉ぶんだけ、わたしたちは語り手と〈祈り〉を共有している。時間の〈長さ〉がそのまま〈強度〉になっていくような、祈り。

この歌の「写メ」という瞬間的な時間は、ひきのばされた短歌定型のなかの長い時間のなかで、〈祈り〉の時間へと変わる。そしてそのことによってこの歌の「写メ」という言葉は日常的に消費される〈瞬間的な時間〉を越えて、「死」と等価の時間としての〈長い時間〉をまとうのだ。

「写メでしか見てないけれど」語り手は〈祈り〉の時間をここに歌った。ひきのばされた時間の強度として。

それでは冒頭に掲げた今回の歌をみてほしい。どうしてこんなに長いのだろう。これは〈短歌〉なのだろうか。それとも〈長歌〉なのだろうか。東直子さんは歌集解説でこの歌の形式をこんなふうに書いている。

  五七五七七五九五七七七というリズムを刻み、二首分以上の音数が費やされている。
 
 (東直子「本音の祈り」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年)

この歌には「二首分以上の長さ」をもった〈時間〉がある。「青年の/ナップサックは/手作りで/それはわたしの/母が作った」と一首に縮約できるはずのものが、ここでは「青年」をめぐる〈空間描写〉から入ったために非常に長い時間を読み手は経験=共有することになる。しかし問題はやはりその〈時間経験〉の濃度だ。

「母が作った」ものに対しては「二首分以上の長さ」としての〈時間経験〉を要すること。それがこの歌がもつ〈時間の強度〉なのではないかと思うのだ。

「母」に至るには長い時間を費やさなければならなかったこと。それは〈短歌〉の想像力を越える長さでなければならなかったこと。

  母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように  岡野大嗣

長い長い歌と時間の〈終わり〉に「母」に出会ったように、語り手はこの歌では〈始まり〉に「母」との出会いを置いたのちにそこから「死」までの〈長い長い時間〉を歌う。

「母と目が初めて合ったそのとき」から「死」までの時間を「母」がつかさどること。

だとしたら、「母」とは〈時間の強度〉そのものではないか。そしてその「母」で始まった〈時間の強度〉は「死ねますように」という〈祈り〉に通じていくのだ。「写メでしか見てな」くても〈生死〉の祈りを賭けられるひと。それは〈母〉のまなざしを持つことができた者だけができる行為なのだ。

〈母〉そのものがひとつの〈祈りの形式〉であること。「母と目が初めて合ったそのとき」から、わたしたちが生まれたときから、わたしたちの〈祈り〉はもう始まっていたこと。

そう、わたしたちは聞いていたはずだ。〈母〉の祈りを。それは〈きれいな鼻歌〉の、終わりのない、〈とぎれとぎれ〉の、たったひとつの〈長い歌〉としての祈りを。

  前をゆく女のひとは鼻歌がきれいで赤ちゃんを抱いている  岡野大嗣
  (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)


      (「選択と削除」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年 所収)