草の実になるなら盗人萩がよい 大石悦子
11月初旬、田圃の畦道を抜け、里山を歩く。道すがら、いろいろな草が実を結んでいた。桜蓼、小蜜柑草、屁屎葛、鵯上戸、石美川、牛膝、そして盗人萩などなど。いずれもかわいらしい小さな実である。
これら草の実は、野趣に富み野山を彩るが、あまり人々に注目されることもなく、束の間に消えてしまう。
掲句、〈草の実になるなら〉 はそんな草の実への、作者の愛情の表れのような気がする。自分が草の実になるのを想像するのは楽しい。選択肢は豊富だ。すてきな遊びだと思う。また、人間もしょせんは草の実と同じ存在なのだという感懐も感じられる。
作者は〈盗人萩がよい〉という。いささか物騒な名前からして愉快だし、名の由来となる実の形、なるほど盗人の忍び足に似ていて面白い。衣服に付いてもチクチクしないので、棘のある実ほどは嫌がられないだろう。旅人の服や鞄にくっついて、その相手と一緒に思わぬところまで移動し、旅先で落ちて、その地に芽吹くというロマン。盗人萩いいなあ。では、私は小蜜柑草に。
〈月刊『俳壇』12月号(2019年/本阿弥書店)所収〉
-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2019年12月1日日曜日
2019年11月9日土曜日
DAZZLEHAIKU39[鈴木牛後] 渡邉美保
黄落や牛の尻追ふ牛の鼻 鈴木牛後
木々は黄葉し、地にも黄の落葉、真青な空を背景に黄葉の落葉が宙を舞う黄落期。秋の終りの黄の光にみちた空間には哀切さが漂う。
降りそそぐ黄色い光の中に放牧の牛のシルエットが浮かぶ…、そんな牧歌的な景を思い描こうとするとき、〈牛の尻〉〈牛の鼻〉という生き物の器官が生々しくクローズアップされ、一瞬たじろいてしまう。
「牛の尻追ふ牛の鼻」は、生殖行動の一環なのか、牛同士のコミュニケーションの手段なのか、よくわからないが、黄落もまた生命の現場なのだと思わされる。
牛の尻に鼻先を近づける牛、その後にまた牛が鼻を寄せ、さらにその牛の尻を追う牛の鼻。そんな光景を想像するとちょっとユーモラス。それは生命の連環であり、高揚ではないだろうか。
黄落がはじまると、いよいよ寒くなってくるという。
〈句集『にれかめる』(2019年/KADOKAWA)所収〉
2019年9月27日金曜日
DAZZLEHAIKU38[川島 葵] 渡邉美保
冬瓜をどうするかまだ決められず 川島 葵
句会で冬瓜が話題に上った。「味がない」「歯ごたえがない」「あんまり美味しいもんじゃない」などとその場の男性諸氏の評判は芳しくなかった。「淡白な味は、出しによって引き立つし、翡翠煮など見た目も美しい」という擁護派もいて、冬瓜は、好き嫌いの分かれる食べ物だと思う。
掲句、台所にごろんと置かれた大きな冬瓜が目に浮かぶ。
料理の目的があって買い求めたのではなく、思いがけない頂き物としての冬瓜なのだろう。
その冬瓜を前に、さてどうしたものかと思案中の作者。〈まだ決められず〉に作者の軽い困惑と逡巡が伺える。
スープ、煮付、あんかけなどの料理法はいくつか思い浮かぶが、決まらない。どうするか決まらないままに、数日が経ち…。〈まだ決められず〉である。放置された冬瓜の、のっぺらぼうの無聊を思うと、なんだか可笑しい。そして冬瓜に同情する。
〈句集『ささら水』(2018年/ふらんす堂)所収〉
2019年8月23日金曜日
DAZZLEHAIKU37[ふけとしこ] 渡邉美保
ごきぶりの髭振る夜も明けにけり ふけとしこ
ごきぶりを見ると、反射的に臨戦態勢をとってしまうので、(たいていは逃げられてしまうのだが)「髭振る」ことに注目したことは、ほぼない。
確かにごきぶりには一対の髭がある。その髭は嗅覚、触覚などをつかさどり、食物を探したり、外敵を防ぐ用をするという。
このごきぶりは、髭を振り振り何を探しているのだろうか。それをじっと見ている作者の視線。ここでは、ごきぶりは忌み嫌う対象ではないようだ。
「夜も明けにけり」の「も」は、「ごきぶりの夜も」「私の夜も」の「も」ではないかと思う。
「明けにけり」(明けてしまったよ)にどことなく感じられるやるせなさや倦怠感。短夜と言われる夏の夜。作者にもごきぶりにも夜はまだ続いて欲しかったのではないだろうか。同句集中
〈ごきぶりに子がうまれるぞこんな夜は〉の句も。
〈句集『眠たい羊』(2019年/ふらんす堂)所収〉
2019年7月25日木曜日
DAZZLEHAIKU36[栗林 浩] 渡邉美保
行く夏のからとむらひか沖に船 栗林 浩
「からとむらひ」という言葉にはっとする。
広辞苑に「空葬。死体の発見されない死人のために仮に行う葬式」とある。
「からとむらひ」から
〈屍なき漁夫の弔ひ冬鷗〉 平野卍
〈屍なき柩のすわる隙間風〉 〃
の句が思い浮かぶ。冬の海で遭難した死者の葬儀、空の柩の虚しさが悲しみを深くする。
しかし、掲句の「からとむらひか」という軽い疑問形には、悲愴感や暗さはない。
作者の視線は沖へ向いている。過ぎてゆく夏へ向けた遠まなざし。
沖を行く船が、行く夏を弔っているかのようだということだろうか。
空の色や雲の形、海の色、波の高さに夏の衰え、秋の気配を感じる、明るいけれど、どこかもの悲しさを秘めた景を思わせる。
夏の終りは、太平洋戦争の死者たち、海で命を落とした人たちを思う季節でもある。沖を行く船や寄せる波に鎮魂の思いが込められているような気がする。
〈句集『うさぎの話』(2019年/角川書店)所収〉
2019年7月1日月曜日
DAZZLEHAIKU35[榎本 亨] 渡邉美保
飛んでくる蠅に大らか烏賊を干す 榎本 亨
海辺の町の「烏賊を干す」というイメージは鮮やかだ。
ずらりと一列に干された烏賊の白い身が光り、その向こうに青い空と青い海が広がっている。潮風がときおり、干された烏賊を揺らす。
そこへ、匂いを嗅ぎつけてか、蠅が飛んでくる。不衛生ということで、嫌われることの多い蠅であるが、ここでは多分、想定内の許容範囲。いちいち気にしてはいられないのだ。
烏賊を干す作業、飛んでくる蠅、その一部始終を見ている作者の眼差しもまた大らかで、一句一章の伸びやかな景に懐かしさを覚える。
衛生管理の行き届いた設備の中、機械的に乾燥させた干し烏賊よりは、少々蠅がとまろうとも、天日を浴び、潮風に吹かれた烏賊の方が断然美味しいと思う。
〈季刊『なんぢゃ』[夏]45号(2019年)所収〉
2019年5月17日金曜日
DAZZLEHAIKU34[市川薹子] 渡邉美保
戸袋の鳥の巣壊したる夕べ 市川薹子
近所に、いつも二階の雨戸が閉まっている家がある。その庭には大きな柿の木があり、小鳥たちの格好のたまり場になっている。
二階のベランダから、その木に来る小鳥を見るのが、楽しみでもある。春の終わり頃、雨戸の辺りがことに騒がしくなる。その開かずの雨戸の戸袋に椋鳥が巣を作っているのだ。仲間の椋鳥も大勢やってきて騒ぐ。
親鳥と思われる二羽が、ひっきりなしに餌を運んでいる。親鳥が戸袋の隙間に身を入れるやいなや、雛鳥たちの一斉に囃し立てるような鳴き声がきこえる。親鳥が出ていくとたちまちシーンとなる。しばらくすると、別の一羽が戸袋に入り、再びピチュピチュざわざわ。その繰り返しが続く。親はたいへんである。
親鳥二羽のうち、一羽は慎重派で、餌を運んできてもすぐに巣に入らないで、一旦、近くの屋根や庇に着地、周りを見回して安全確認後、巣に入る。しかし別の一羽は、何の用心もせず、さっと来てすっと巣に入る。慎重派と大胆派、どちらが母鳥なのか、興味深い。
掲句、戸袋の鳥の巣を壊したという、ただそれだけが述べられている。しかし、その言葉には、作者の忸怩たる思いが滲んでいるように思う。これから命を育もうとする鳥の営為を阻むことは決して作者の本意ではない。できればそういうことはしたくないのだ。しかし、日常的に使用する戸袋であれば、鳥の巣を看過することはできない。悲しい「夕べ」が暮れていく。
〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉
2019年4月9日火曜日
DAZZLEHAIKU33[福田鬼晶] 渡邉美保
放哉忌うみ凪げば凪ぐ寂しさも 福田鬼晶
尾崎放哉は、大正十五年(1926年)四月七日小豆島の庵で息を引取った。享年四十二歳。
四月初旬の頃の天候は、不安定である。
風が吹き、海が荒れている日もあれば、陽光が降りそそぐ、穏やかな日もある。
掲句、作者が今見ている海は、穏やかに凪いでいる。
凪いだ海を見ていると、心もおだやかになるがその反面、凪いでいることが寂しく思えてくるという。
その寂しさに、作者の放哉への思いの深さが感じられる。
また、海が「うみ」と平仮名表記されることによって、「うみ」は眼前の海であると同時に、かつて晦冥の世界であり死者の国でもあったという「うみ」も想起される。
凪いだ海を見ている寂しさは、放哉にもあるのではないか。
作者が思う放哉も「うみ」の凪を見ながら寂しさを募らせているのではないのだろうか。と思われてくる一句だ。
〈句集『リュウグウノツカイ』(2018年/ふらんす堂)所収〉
2019年3月21日木曜日
DAZZLEHAIKU32[嵯峨根鈴子] 渡邉美保
もう人にもどれぬ春の葱畑 嵯峨根鈴子
葱畑で主人公は何になっていたのだろう。どうして人に戻れなくなったのだろう。葱畑で、主人公に何があったのか。
つぎつぎと疑問が膨らむ。
春の葱畑。そこは駘蕩として、葱も長けていることだろう。畑土と葱の混じり合う匂いがする。葱の一種独特の匂いは、どこか官能的でさえある。その中で、人ではない何者かに変身した主人公の姿を想像する。
「もう人にもどれぬ」というのっぴきならぬ情況。
「ああ、どうしよう」という困惑や後悔。しかしそこには、「もう人に戻りたくない」(戻れなくてもいい)という願望も含まれていそうな気がする。
春の葱畑には、誰も覗くことの出来ない深い愉楽の世界が潜んでいるに違いない。
葱畑に行ったきり帰ってこなくなった人が、どこかにいたのではないかと、ふと思う。
〈句集『ラストシーン』(2016年/邑書林)所収〉
2019年2月22日金曜日
DAZZLEHAIKU31[柘植史子] 渡邉美保
冴え返る紙のコップに水摑み 柘植史子
水の中に手を入れ、手のひらを思いっきり広げ、エイヤッと摑んでも水は逃げてしまう。当然のことながら水は摑めない。それでも水を摑みたいという願望がどこかにある。
掲句の「水摑み」に妙に納得させられた。紙のコップに入った水は摑めるのだ。
水の入った紙コップを持った時の、あの危うい感じが指先に甦る。そしてその冷たい感触。まさしく「水摑み」だと共感する。
暖かくなり始めた早春の頃、折からの寒さがぶり返してきて、気持ちの上でも寒くなる感じを「水摑み」と重ね合わせられている巧みさに惹かれる。
また、紙コップを使う場面は、日常的なものでなく、何かの集まりなのかもしれない。そんな集まりの中での、ある種の疎外感や寂寥感をも感じられる一句だと思う。
〈句集『雨の梯子』(2018年/ふらんす堂)所収〉
2019年1月22日火曜日
DAZZLEHAIKU30[岡田一実] 渡邉美保
夜の森や濡れてマフラー置かれある 岡田一実
これは確かにどこかで〈見た〉景色です。
現実に、想念に〈見た〉景色です。
と「あとがき」にある。掲句を読むと、作者が〈見た〉景色を作者の眼を通して見ているような不思議な感覚になる。
夜という時間、森という場所、濡れたマフラー。
ただこれだけの情報から私たちは、それぞれが自分の記憶を頼りに物語を作り始める。
そんな仕掛けが施されているかのようだ。
寒い夜の森の中。切株の上に置かれた一本のマフラー。
月の光に照らされて、マフラーはまるで生き物のように、しっとりと息づいている。現実から遠く離れたこの光景に、何故か懐かしさがこみ上げてくる。
誰もいない森の中で、動物たちもこのマフラーを首に巻いて遊んだのだろうか。
夜の森の湿った空気の中でマフラーは濡れている。その濡れたマフラーを私も首に巻いてみる。ひやりとする感触。巻いた瞬間、マフラーと同時に私も消えてしまった。そんな夢をみた。
〈句集『記憶における沼とその他の在処』(2017年/青磁社)所収〉
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