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2017年8月17日木曜日

続フシギな短詩160[柴田千晶]/柳本々々


  夜の梅鋏のごとくひらく足  柴田千晶

さいきんたまたまこんな鋏の短歌を考えていた。

  残された下着を細かく切り刻み袋に捨てる ばらばらのブルー  谷川電話

こんな鋏の短歌について考えたこともあった。

  前髪を5ミリ切るときやわらかなまぶたを鋏の先に感じる  中家菜津子

こんな鋏の川柳についても考えたことがあった。

  蟹歩き時に鋏を目に当てて  松岡瑞枝

どれも身体が傷つくことのメタファーになっていると思う。たとえば別れた恋人の下着を「細かく切り刻」む。もちろん、下着を捨てるときに鋏で細かく切ってから捨てることはあるだろう。しかしそれが「残された」側の「残された下着」になるときに、それはぎりぎりのラインをもはらんだメタファーになるかもしれない。

「やわらかなまぶた」にあてられた「鋏の先」。「前髪を5ミリ」という繊細さが要求される行為のなかで、ふっと〈死〉と〈傷み〉が訪れる。いつでもそこにあるわたしの可傷性。

「鋏を目に当て」る行為はとてもこわい経験だ。「蟹歩き」のような〈まっすぐ〉歩けない自分が試す行為かもしれない。

柴田さんの掲句の「鋏」は上記の詩歌とやや重なりながらも、ベクトルが異なる。上記の詩歌は、対象化された、使われる鋏だった。わたしを傷つける鋏だった。

でも柴田さんの句の「鋏」は、自身の「足」になっている。わたしが鋏を使うのではなく、わたしが直喩(ごとく)として「鋏」なのである。たとえばもしこれをセックスの句だとするならば、〈きもちよさ〉ではなく、まったく逆のセックスにおける可傷性を描いた句だということができる。「鋏のごと」きわたしの「足」はあなたを傷つけるかもしれないが、しかしあなたは同時に傷つけられながらも・わたしを傷つける可能性をもっていること。セックスにおける相互的可傷性。穴を輻輳させること。

  単純な穴になりたし曼珠沙華  柴田千晶

そして「穴」を込み入らせつつも、同時に、相手に特権的に「頭」「突き」を渡さない。

  冬銀河陸橋の君の背に頭突き  柴田千晶

セックスはどうしても非対称的になりがちだが、そこに相互作用する運動性をみいだしていく俳句が柴田さんのダイナミズムなのではないだろうか。もちろんそれはわたしがわたしをみる(ラブホテルの装置を介した)視線にもなってくる。性をするわたしは、性をするわたしにまなざしかえされる。

  天井に我を見る我春の闇  柴田千晶

柴田さんは句集『赤き毛皮』の「花嫁の性-あとがきにかえて」でこんなふうに書いている。

  女性の性表現はなかなか自己愛から一歩を踏み出せなかった。
  (柴田千晶「花嫁の性-あとがきにかえて」『赤き毛皮』)

性表現は、相互に照らし返すようなまなざしがいる。自己が自己になるようなまなざしではなく、他己が自己になり、自己が他己になるような、錯綜したまなざしが。

その性のまなざしのダイナミズムが柴田さんの俳句では模索されているのではないかと思う。そしてそれは、いつでも非対称的にしか性的な存在になれない〈わたし〉につねに問いかけられた《性的》問題なのではなかったか。

  全人類罵倒し赤き毛皮行く  柴田千晶

 
          (「 軀(からだ)」『赤き毛皮』金雀枝舎・2009年 所収)

2017年1月31日火曜日

フシギな短詩80[R15指定]/柳本々々


  水晶の 玉をよろこびもてあそぶ
  わがこの心
  何の心ぞ     石川啄木


*今回は本文もR15指定です。

城定秀夫監督の『悲しき玩具 信子先生の気まぐれ』という映画がある。婚約者がいながらも夜な夜なテレフォンセックスをし、学校では生徒のひとりをおもちゃとして関係をもつ高校の国語教師・伸子を古川いおりさんが演じるのだが、あらすじの通りR15指定の映画で際どい絡みのシーンがたくさん出てくる。

ここで短詩側からこの映画に着目したい理由は映画の合間合間、とくに濡れ場のシーンで必ず石川啄木の短歌がテロップで引用される点だ。声に出されるわけでもなく、静かに表示される。

たとえばふだんおもちゃにされている生徒が焦らされる性的関係にがまんができなくなり、伸子のなかに挿入しようとするやいなや、掲出歌が引用される。

この映画で大事なのは、伸子が生徒と性的関係をもちながらもかならず挿入以前でとまっており、決してセックスに持ち込まないという点だ。生徒が一線を越えようとすると伸子はいう。「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」(もしかしたらこの言葉は石川啄木「ローマ字日記」のフィストファックとしての暴力的な挿入の言説に対置されているのかもしれない。Yo wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita.  Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. ...Tui ni Te wa Tekubi made haitta.

掲出歌はそんな伸子の〈内面〉を表していると言える。この歌の表示はなぜか「玉」の前に不思議な半角アキがあったが、この「玉」は伸子が愛撫し性器を挿入せずにすり合わせる即物的な生徒の睾丸そのものになっている。性的コードで啄木歌は〈解釈〉されているのだ。

しかしここで注意したいのは、そうした性的コードで積極的な〈誤読〉をほどこすことによって、伸子と生徒だけの親密な〈誤読の共同体〉が形作られるということだ。誤読は、親密な共同体をつくる(これは横溝正史の『獄門島』にもみられた構造だ)。

もちろん、この誤読の共同体にさけめはある。伸子は即物的に生徒の「玉」をもてあそびながらも、「水晶の 玉」としての生徒の〈内面〉も「遊び」としてもてあそんでいる。当然、ここには伸子と生徒の非対称的な〈内面〉の懸隔がある。伸子と生徒は身体的に結ばれないが、結ばれないのはむしろ〈内面〉なのだ。

手もつながず、デートもせず、キスもせず、セックスもしない、〈未満〉の、〈おもちゃ〉のような性的関係。

ここにはもしかしたらラカンが言った「男女の間に性関係は存在しない」というテーゼが露骨にあらわれているかもしれない。お互いの幻想のなかでしか、男女は性的に関係しあえない。症候のなかでしか、男女は出会えない。

    あはれかの
  眼鏡の縁をさびしげに
  光らせてゐし
  女教師よ  石川啄木

また、伸子は国語教師の設定なので啄木の歌を生徒との関係の最中に思い浮かべているのは伸子かもしれず、したがってそのつど引用される歌は伸子の〈内面〉そのものかもしれないということもできる。

生徒と性的関係をもつたびに、伸子の内面に啄木歌が引用されるのだとしたら、実は伸子が挿入を拒絶する以前に、〈啄木〉の短歌そのものが生徒との直接的な関係を妨げているとも言える。彼女は啄木の歌なしでは他者と性的コミュニケーションが結べない人間なのだ。しかしその〈結べなさ〉を掩蔽するように補償するのもまた啄木歌である。彼女は、国語教師なのだから。

短歌はその短さによって解釈の複数性を許すために、ときにみずからの内面を補償してくれるものになる。

映画は最終的に「餞別」としての生徒との最後の一線をこえたセックスに向かっていくが、なぜ生徒と最後にセックスをしたときに啄木歌が引用されなかったかがこの映画のポイントになるように思う。それは伸子がもう引用する必要がなくなったからだ。〈いいわけ〉が必要じゃなくなったのだ。挿入したしゅんかん、伸子先生は言う。「先生、かなしい。かなしいよ

関係にいいわけがなくなったときに、伸子は生徒とお別れしなければならない。それ以上いくと、関係がおもちゃ以上に昇格してしまうからだ。伸子は啄木のうたをとおしてではなく、はじめて「かなしい」という素の内面を吐露している。それは、きもちいい、ではなく、かなしい、だった。

もしかしたら「玉」を愛撫していたときに引用された「わがこの心/何の心ぞ」はそれを胸中で引用する伸子じしんにずっと問い返されていたのかもしれない。

だとしたら、短歌にはわたしじしんを補償する以外にもうひとつの大切な役割がある。

それは、短歌は、このわたしに、〈問い返してくる〉ということだ。

短歌を思うおまえは、なにを思っているのか。

と言ってみたいところだが、もしかしたらそんなのは男性的なロマンチシズムかもしれない。

映画のいちばん最後に伸子先生が〈ひとり〉で、たったひとりきりで、引用した歌。

  百年(ももとせ)の 長き眠りの覚めしごと
  あくびしてまし
  思ふことなしに        石川啄木

映画タイトルに「伸子先生の気まぐれ」と書かれていたように、「思ふこと」なんてないのだ。

だから、「わがこの心/何の心ぞ」に対する伸子先生の答えはこうだ。「あくび」のように「思ふことなし」。

伸子先生は伸子先生としてそれまでの関係を「あくび」のように一蹴し、また変わらない日常を生きていくだろう。そしてそれが、たぶん、伸子先生の強さだ。

   *伸子先生は最終的に〈一人〉になってしまったわけですが、次回はそこからいろんなものを捨てた後の〈一人〉の話をしてみようと思います。


          (城定秀夫『悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ』クロックワークス・2015年 所収)




※映像とともに音声が出ます。