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2015年12月20日日曜日

ノートは横書きのままで。3[武藤紀子] /  宮﨑莉々香



 
魚はみな素顔で泳ぐチェホフ忌  武藤紀子

 チェホフ忌といえば、中村草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」を思う。『俳句入門』(1971年角川学芸出版)で秋元不死男はこの句に対し、季感について考察している。「作者がこれらの句では季感表出を意図しようとしたのではなく、寓意と象徴をそれぞれ表出しようとしたからである。」

 掲句。アントン・チェーホフは有名なロシア文学の作家の一人であるが、文豪としての顔を持つ一方で複数の女性と関係を持つなどし、紳士的でない人間臭い一面も見られたとされている。人間らしく自分に素直に生きた、チェーホフの一面に、魚に対するしみじみとした発見を重ねあわせている。

<「圓座」2015年10月号所収>

2015年12月13日日曜日

ノートは横書きのままで。2  [藺草慶子] /  宮﨑莉々香




夏めくや何でも映すにはたづみ  藺草慶子


 この冬に、藺草慶子氏の第四句集がふらんす堂から刊行された。「いづこへもいのちつらなる冬泉」の一句が本の帯に大きく印刷してある。季節は「冬」だが、夏の俳句をひとつ。

 「にはたづみ」は雨が降って、にわかに地上にあふれ流れる水のことであり、枕詞でもある。要するに水溜りのことであるが、にはたづみに対する「何でも映す」が実に清々しい。最近気になっていることは、別誌文章にも書いた通り、副詞の使い方である。「何でも」は「映す」という動詞に対してプラスの方向性に掛かっている。夏のはじまりの晴れ晴れとした景色に「何でも」が呼応していくのである。

<『櫻翳』2015年ふらんす堂所収>

2015年12月6日日曜日

ノートは横書きのままで。1 [石田郷子] /  宮﨑莉々香



 かへりみて冷たき空のありにけり  石田郷子


 「空」を詠んだ俳句はたくさんある。青空、大空、季節の空。なんども同じことを詠んで、そのなかで一番いいものが生み出せたらそれでいいよう思って、今日も空がわたしの前にあるなあ、と思って、俳句ノートをひらく。

 わたしたちは「冬空」として空を認識することはなく、おそらく「空」として空自体を見る。 振り返り一瞬で冬空を感じることはない。ただゆっくりと、奥まで澄みきった「空」を認識し、それから「冬空」としての「空」をたしかめていく。「冷たき」は「空」を修飾しているので、もちろん空が寒々としていると見ることができる。一方で、作品の主体自身も「つめたさ」をからだに感じていて、身体的な寒さを追うようにして空がひらける。自身の感覚を通して「空」を「冬空」と捉えているようにも考えられる。

 振り返る行為はあらためるニュアンスを含む。いつも目にしている空だが、あらためて見ると違って見えた。それはただの「空」でなく「冷たい空」だったのだ。


<『草の王』2015年ふらんす堂所収>