2017年1月31日火曜日

フシギな短詩80[R15指定]/柳本々々


  水晶の 玉をよろこびもてあそぶ
  わがこの心
  何の心ぞ     石川啄木


*今回は本文もR15指定です。

城定秀夫監督の『悲しき玩具 信子先生の気まぐれ』という映画がある。婚約者がいながらも夜な夜なテレフォンセックスをし、学校では生徒のひとりをおもちゃとして関係をもつ高校の国語教師・伸子を古川いおりさんが演じるのだが、あらすじの通りR15指定の映画で際どい絡みのシーンがたくさん出てくる。

ここで短詩側からこの映画に着目したい理由は映画の合間合間、とくに濡れ場のシーンで必ず石川啄木の短歌がテロップで引用される点だ。声に出されるわけでもなく、静かに表示される。

たとえばふだんおもちゃにされている生徒が焦らされる性的関係にがまんができなくなり、伸子のなかに挿入しようとするやいなや、掲出歌が引用される。

この映画で大事なのは、伸子が生徒と性的関係をもちながらもかならず挿入以前でとまっており、決してセックスに持ち込まないという点だ。生徒が一線を越えようとすると伸子はいう。「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」(もしかしたらこの言葉は石川啄木「ローマ字日記」のフィストファックとしての暴力的な挿入の言説に対置されているのかもしれない。Yo wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita.  Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. ...Tui ni Te wa Tekubi made haitta.

掲出歌はそんな伸子の〈内面〉を表していると言える。この歌の表示はなぜか「玉」の前に不思議な半角アキがあったが、この「玉」は伸子が愛撫し性器を挿入せずにすり合わせる即物的な生徒の睾丸そのものになっている。性的コードで啄木歌は〈解釈〉されているのだ。

しかしここで注意したいのは、そうした性的コードで積極的な〈誤読〉をほどこすことによって、伸子と生徒だけの親密な〈誤読の共同体〉が形作られるということだ。誤読は、親密な共同体をつくる(これは横溝正史の『獄門島』にもみられた構造だ)。

もちろん、この誤読の共同体にさけめはある。伸子は即物的に生徒の「玉」をもてあそびながらも、「水晶の 玉」としての生徒の〈内面〉も「遊び」としてもてあそんでいる。当然、ここには伸子と生徒の非対称的な〈内面〉の懸隔がある。伸子と生徒は身体的に結ばれないが、結ばれないのはむしろ〈内面〉なのだ。

手もつながず、デートもせず、キスもせず、セックスもしない、〈未満〉の、〈おもちゃ〉のような性的関係。

ここにはもしかしたらラカンが言った「男女の間に性関係は存在しない」というテーゼが露骨にあらわれているかもしれない。お互いの幻想のなかでしか、男女は性的に関係しあえない。症候のなかでしか、男女は出会えない。

    あはれかの
  眼鏡の縁をさびしげに
  光らせてゐし
  女教師よ  石川啄木

また、伸子は国語教師の設定なので啄木の歌を生徒との関係の最中に思い浮かべているのは伸子かもしれず、したがってそのつど引用される歌は伸子の〈内面〉そのものかもしれないということもできる。

生徒と性的関係をもつたびに、伸子の内面に啄木歌が引用されるのだとしたら、実は伸子が挿入を拒絶する以前に、〈啄木〉の短歌そのものが生徒との直接的な関係を妨げているとも言える。彼女は啄木の歌なしでは他者と性的コミュニケーションが結べない人間なのだ。しかしその〈結べなさ〉を掩蔽するように補償するのもまた啄木歌である。彼女は、国語教師なのだから。

短歌はその短さによって解釈の複数性を許すために、ときにみずからの内面を補償してくれるものになる。

映画は最終的に「餞別」としての生徒との最後の一線をこえたセックスに向かっていくが、なぜ生徒と最後にセックスをしたときに啄木歌が引用されなかったかがこの映画のポイントになるように思う。それは伸子がもう引用する必要がなくなったからだ。〈いいわけ〉が必要じゃなくなったのだ。挿入したしゅんかん、伸子先生は言う。「先生、かなしい。かなしいよ

関係にいいわけがなくなったときに、伸子は生徒とお別れしなければならない。それ以上いくと、関係がおもちゃ以上に昇格してしまうからだ。伸子は啄木のうたをとおしてではなく、はじめて「かなしい」という素の内面を吐露している。それは、きもちいい、ではなく、かなしい、だった。

もしかしたら「玉」を愛撫していたときに引用された「わがこの心/何の心ぞ」はそれを胸中で引用する伸子じしんにずっと問い返されていたのかもしれない。

だとしたら、短歌にはわたしじしんを補償する以外にもうひとつの大切な役割がある。

それは、短歌は、このわたしに、〈問い返してくる〉ということだ。

短歌を思うおまえは、なにを思っているのか。

と言ってみたいところだが、もしかしたらそんなのは男性的なロマンチシズムかもしれない。

映画のいちばん最後に伸子先生が〈ひとり〉で、たったひとりきりで、引用した歌。

  百年(ももとせ)の 長き眠りの覚めしごと
  あくびしてまし
  思ふことなしに        石川啄木

映画タイトルに「伸子先生の気まぐれ」と書かれていたように、「思ふこと」なんてないのだ。

だから、「わがこの心/何の心ぞ」に対する伸子先生の答えはこうだ。「あくび」のように「思ふことなし」。

伸子先生は伸子先生としてそれまでの関係を「あくび」のように一蹴し、また変わらない日常を生きていくだろう。そしてそれが、たぶん、伸子先生の強さだ。

   *伸子先生は最終的に〈一人〉になってしまったわけですが、次回はそこからいろんなものを捨てた後の〈一人〉の話をしてみようと思います。


          (城定秀夫『悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ』クロックワークス・2015年 所収)




※映像とともに音声が出ます。

2017年1月27日金曜日

フシギな短詩79[望月裕二郎]/柳本々々


   さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく  望月裕二郎

前回、望月さんの歌とからだの話で終わったのでそのまま続けよう。

私は前回、望月さんの「からだ」は「嘘」をつくことがあると書いたけれど、「嘘」をつくというのは別の言い方をすれば、「からだ」がマジックボックスのような不思議な装置と化することなのだと言うこともできる。

たとえば掲出歌の「さかみちを全速力でかけおりる」から、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』を思い出してみてもいいかもしれない。「さかみちを全速力でかけおり」る爆発的なエネルギーが身体のリミッターを解除し、その解放された身体性が時空を超越させる。

『時をかける少女』にあったのは身体のたががはずれるとともに時空のたががはずれる身体性であり、だからこそひとは「時をかける」ためには「かけ」なければならないのだが、しかしそうして「かけおり」たひとには「幕府をひらく」ことさえできてしまうというマジカルな身体がここにはあらわれている。

前回の望月さんの「玉川上水」の歌もそうだし「べらんめえ」の歌もそうだが、身体(からだ)は戦後に、江戸に、鎌倉時代にいっきに、かけおりていく。

前回も《身体の答え合わせ》として引いた歌だが、

  そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ  望月裕二郎

この歌をみてわかるとおり、身体の幸福な一致という答え合わせができてしまっていたのは、「むかし」であり、しかもその「むかし」とは「どのむかし」かもわからない浮遊する「むかし」であり、〈いま〉のわたしたちの「からだ」とは関係のないことなのである。それはそんなこと言われれば、「どのむかしだよ」といらつくくらいには望月さんの歌のなかでは非常識な問いかけとみてもいい。身体は答え合わせできないくらい、ズレている。時空とともに。

逆にいえば、時空の改変とともに、たえざる身体のハイブリッドな改造がなされているのが、望月さんの歌における「からだ」である。だから前回の

  玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって  望月裕二郎

これは〈身体改造〉の歌とみてもいいのかもしれない。「からだをかってにつか」うとは、身体の改変のことであり、玉川上水水流循環動力生成装置として身体改造された「人」の歌とみてもいいのかもしれない。もちろんここにも「いつまで」という時間への意識がねりこまれている。必ず身体は時間とともにあり、時間とともにある身体は改造されていく。

しかし、玉川上水水流循環動力生成装置と化した身体はどうなってしまうのだろう。それは人造人間というよりは、もはや、〈人造都市〉ではないか。しかし、望月さんの歌ではちゃんと人造都市の歌も用意されている。だから、心配はないのであった。

  だらしなく舌をたれてる(牛だろう)(庭だろう)なにが東京都だよ  望月裕二郎

                        次回は、R15指定。引き続き、「玉」の話です。


          (「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架』左右社・2015年 所収)


2017年1月24日火曜日

フシギな短詩78[伊藤左千夫]/柳本々々


  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる  伊藤左千夫


太宰治が死の直前に友人に色紙に書いて送ったことで非常に有名になった歌。

太宰治は齋藤茂吉・土屋文明編『左千夫歌集合評』を愛読していたという。その本のなかに掲出歌は収められている。

放送大学「和歌文学の世界」において担当教授である島内景二さんはこの左千夫の歌をこんなふうに解釈している。池の水は濁っていて、その真上で咲いている藤の花の影もうつらない。歌の意味としてはそうなのだけれど、しかし、左千夫のこの歌には今は見えないけれどもたしかに存在している「藤」をまなざしている視線があるのだと。一見してみえない「真実の世界」をみようとしている「眼力」の歌なんだと。だから太宰治もその一見みえない「真実の世界」をじぶんの混乱した生活の外に見いだそうとしたのではないかと。

私が島内さんの解釈をきいて興味深かったのがその構造である。たしかにこの歌は、〈見えない〉ものを〈見えない〉ものとして〈わざわざ〉語ることによって〈見える〉ものにした、〈見えない〉ものをとおした〈見える〉世界の歌なのだ。「藤波の影」はふだんは映っている。晴れの日の水面には。ところが雨が降りしきり濁った水面にはそれはもはや〈映っていない〉。ところがその〈映っていない〉ことを通して〈映るはずべき〉ものを語っているのだ。

それを太宰治が死の直前に友人に書いて送ったというのは、もしかしたら彼はその〈構造〉をそのまま手渡したのではないかと思う。自分の死=心中に関してはしょせん誰にも〈ほんとうのこと〉はわからないでしょう。なにもうつるはずのものでもないのですから。ただ「うつらず」とも多くの人間がわたしの死後、わたしの〈死〉を、「藤波の影」を語るでしょう。

別に太宰治の死だけではない。この「藤波の影もうつらず」しかしそれを語ろうとすることは社会のニュースやゴシップを見渡せばすぐに発見できる事柄である。ひとはほんとうのことは知らなくても、〈うつるはずべきもの〉がそこにあれば何かを語りたがる。これは物語の基本的な機制そのものではないか。〈うつる〉から語るのではない。〈うつらない〉から〈うつるべき〉ものを語るのだ。どんなに水面が濁っていても。

ここで少し視点を変えたい。太宰治の〈心中〉を詠んだであろう現代短歌にこんな一首がある。

  玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって  望月裕二郎
   (「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架宣言』左右社、2015年)

不思議な歌だ。「玉川上水」や「ながれている」「からだ」「つかって」など、太宰治の玉川上水における〈心中〉要素はちりばめられているが、実は望月さんのこの歌自体には「太宰治」をめぐる歌だという決め手は、ない。

また語りの視座も不思議な位置をとっている。語り手は「人のからだをかってにつかって/いつまでながれているんだよ」といらついているが、だとしたら語り手は「からだ」を奪われた状態にいるということになる。「玉川上水」の〈水中〉に語り手の「からだ」は「ながれ」たまま存在するのだが、しかし、語り手はそこにはいない。語り手を「人」と呼称するような距離感の誰かが「かってに」語り手の「からだ」を「つかって」いるのだ。

私はこの歌は、三千夫の、そしてそれを死の直前に引いた太宰の文脈に沿って読めば、〈意味〉の歌なのではなく、〈構造〉の歌なのではないかと思う。

ほんとうは「玉川上水」に「ながれ」る〈当事者〉であったはずの語り手は「からだ」を奪われ、当事者性を剥奪されている。だから、「いつまで~いるんだよ」といらついている。語りの位置が安定しないからだ。だとしたら〈ほんとうの位置性〉のようなものは〈誰〉が測位できるのか。

左千夫の歌も〈ない〉ものを通して〈ある〉ものを語っていた。〈ほんとうの位置性〉がどこにも定まらない形の〈まま〉で定型として形式化されたのが左千夫の歌だ。ここには「濁りににご」った水面しかほんとうはないはずなのに、しかし、〈ない〉ものであるはずの「藤波」はそこに〈ある〉。定型のなかでなにかがズレて、わきだしている。

太宰治の〈情死〉もそうだろう。実はそれは〈心中〉なのか〈他殺〉なのかもわからない。わたしたちがわかるのは、ひとりの男とひとりの女の「からだ(ボディ)」が玉川上水に沈んでいたこと、そして玉川上水が急流だったためになかなかそれが見つからなかったことだが、〈ほんとう〉のことはわからない。

伊藤左千夫の藤の歌-太宰治の情死-望月裕二郎の玉川上水の歌。

この三つの点をラインとしてつなぐのは、〈ズレ〉を〈ズレ〉のまま抱える位置性かもしれない。だれも〈答え合わせ〉はできないのだ。望月さんの歌の語り手はすでに「からだ」を奪われており、「いつまで」もみずからの「からだ」の〈答え合わせ〉ができない。

身体(からだ)の答え合わせ。

  そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ  望月裕二郎

もしかしたら「からだ」というのは〈答え合わせ〉の場所なのかもしれない。ところが「玉川上水」というトポス(場所性)はその〈答え合わせ〉を狂わせる場所として機能している。そしてその「玉川上水」性はそれとなくわたしたちの「からだ」にも胚胎しているのかもしれない。

だとしたら、望月さんの歌は〈太宰治〉のための歌ではなく、わたしたちの、わたしたちの「からだ」のための歌なのではないか。身体を手にいれられなくて、いらついていたのは、実はわたしたちの方なのだ。「からだ」も「嘘」をつくから。「からだ」は違う〈時間〉を胚胎し、ズレてゆくから。

  ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ  望月裕二郎

せっかくこんなとこまできたので、もっとズレて、次回に続く!

          (「和歌文学の世界第14回「近代短歌の世界」」放送大学・2017年1月13日 放送)


2017年1月20日金曜日

フシギな短詩77[宝川踊]/柳本々々


 帰らない言葉があるよ相撲にも  宝川踊

こんなことを言ったら怒られるのかもしれないけれど、さいきん考え始めているのが、川柳は〈人間を描く〉とよく言われるのだが、実は〈人間を描かない〉んじゃないか、〈人間を描くことをやめた〉ところからまた始まるのも川柳なんじゃないかということだ。

じゃあ、人間を描かないでなにを描くのかというと、概念を描く。概念がくみかわるしゅんかんを描く。

こういうことを言うと怒られるかもしれないけれど、それでもこういう立ち位置に立ってみると、なぜ現代川柳が動物や食べ物や擬音が好きで、しかもそれらを〈そのまま〉に描かずに内実を組み替えたかたちで描こうとするかがわかるように思う。

もちろん、川柳は〈人間も描く〉。ただ、現代川柳の実質は、〈人間を描かない〉ところにも起点をもつような気がする。しかしこれは直観なので、もう少し、長く考えてみたいと思っている。直観は、直感とちがって、時間の長さがもとになっている認識だそうだから。

でもここで少し具体的になにをいいたいのかを書いてみようと思う。宝川さんの句をみてほしい。

宝川さんの句では、「相撲」という身体競技が身体的に描かれない。ここで描かれているのは、「言葉」の側面からとらえられた「相撲」である。だからある意味で、まず「相撲」は一般的なイメージからすれば〈機能不全〉に陥っている。ここで一般的なイメージに逆らわずに、相撲的に相撲を語れば〈人間を描く〉ことに近づくが、この語り手は、それをさけた。

さらに語り手が関心をもつのは、「相撲」の「言葉」は「言葉」でも「帰らない言葉」の方だ。「言葉」だけでも「相撲」にとってはマイノリティなのに、さらにそのマイノリティのマイノリティにつっこんでゆくように「帰らない言葉」に眼を向ける。

ここではほとんど〈人間は問われていない〉。強いて言うなら、〈人間は問われていない〉かたちで〈人間〉が問われている。ただこれを言うことは意味がないような気もする。問われているのは、「言葉」だからだ。そしてそのことによって「相撲」の〈概念〉が組み換わる。

宝川さんは2015年から川柳を始めたとプロフィールに書かれているが、川柳を始めた宝川さんが、〈まず〉こういう川柳を〈現代川柳〉の枠組みとして措定して、句作されていることが私にはとても興味深く、おもう。いつも、始点に、ジャンルのひみつが隠されているようにもおもうからだ。

わたしは現代川柳のひみつの棲み処がこの宝川さんの川柳に隠されているんじゃないかと思った。

起源を探すことに意味はないような気もするが、しかし移ろい続けるはじまりでもおわりでもない「紙吹雪」のなかでとつぜん「原点」をみつけてしまうこともあるのではないだろうか。原点は星のように散らばっている。

  まぶされた紙吹雪に探す原点  宝川踊

          (「 LUNCH BOX」『川柳スープレックス』2017年1月1月 所収)

2017年1月17日火曜日

フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々


  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。

八上さんは新子さんの

  花びらを噛んでとてつもなく遠い  時実新子

という句をあげた上で、自身の句として

  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

という句を詠んだ。

ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。

新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。

「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。

新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。

八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。

ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。

まとめよう。

なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。

その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。

私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。

受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。

ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。

そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。

「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。

大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。

味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。

  シマウマの縞滲むまですれ違う  八上桐子
    (「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)


          (八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)

2017年1月13日金曜日

フシギな短詩75[昔昔亭桃太郎]/柳本々々


  「『働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手をみる』、これをつくったのは誰だ?」「簡単だよ。石川豚木(ぶたぼく)」  昔昔亭桃太郎

落語家の昔昔亭桃太郎の落語「春雨宿」に、宿をさがしながら二人で知能テストをするやりとりがある。そこで出てくるのが上記の問答。男は石川啄木を石川「豚」木と勘違いして答える。たしかに啄木は、豚木にみえることがある。

ここでちょっと考えてみたいのが、誤字/誤記についてだ。よく誤記される短歌に次の歌がある。

  ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり  穂村弘
   (『世界中が夕焼け』新潮社、2012年)

山田航さんとの共著『世界中が夕焼け』において、穂村さんはこの歌の「どらえもん」についてこんなコメントをしている。

  「どらえもん」も、あのドラえもんとはちょっとやっぱり違ってしまっていて、だから、ひらがな表記なんです。春の夜に溶けかけているような「どらえもん」というのかな。……僕の体感では「春の夜」と「嘘」はわりと近しいものなんですね。
   (穂村弘『世界中が夕焼け』同上)

つまり、「どらえもん」には平仮名表記としての〈ちゃんと〉した意味があるということなのだが、それでもたびたび〈ドラえもん〉と誤記されるのもこの歌が背負っている「春の夜」の「なんでもあり」なマジカルな感じとも言える。

この歌は誰かがどこかに書き写すたびに「ドラえもん」と誤記される可能性をずっと背負いつづけているのだが、しかしそれでも正確な表記は「どらえもん」である以上、「どらえもん」と「ドラえもん」の両極に揺れながら往還しつづけることになる。

私はこの歌の〈ふわふわ〉した「春の夜」の感じは、こうしたオーディエンスさえ、煙に巻き込んでいくところにあると思う。誤記という受容のされ方も含めて、オーディエンスをふわふわした「春の夜」の〈ほうけた共同体〉として立ち上げていくのだ。

誤記を介して、あなたは、惚ける/呆ける/ほうける。

つまり、誤記というのは〈ただされる〉ものであるとともに、ひとつの〈意味表現〉をなしてしまうということなのだ。この「嘘つき」をうたう歌は、オーディエンスを〈嘘つき〉にさせてしまう。しかし、それこそが「春の夜」のこの歌の〈本分〉なのではないか。

「ドラえもん」といえば、こんな有名な川柳がある。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

私は川柳において何か悩んだり行き詰まったりすることがあるたびに樋口由紀子さんの『川柳×薔薇』をひらくのだが(私は川柳の読み方をこの本で学んだ)、この『川柳×薔薇』ではじめて柊馬さんのこのドラえもん句にふれた。樋口さんの本にはこういう表記で載っていた。

  ドラエもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

だからこの「ドラエもん」表記でずっと覚えていたのだが、後に柊馬さんの句集で確認したら、「ドラえもん」になっていたので、「ドラえもん」が正しいのかもしれない。しかし、川柳にはひとつの句に対して幾つものバージョンがある場合があるので、もしかしたら最初は「ドラエもん」だったのかもしれない。本当のことは私にはわからないが、ここで言いたいことは、「ドラえもん」という表記は、わたしたちを「春の夜」のように惚けさせる/呆けさせる力があるということだ。誤記によって。

正確な表記を考えているうちに、いったいなにが正解なのかわからなくなってゆく。しかし、それこそ、「春の夜」性であり、「ドラえもん」性ではないか。ほんとうの「正解」なんてないのかもしれない。「ハーブティー」に「ハーブ」が煮えて同語反復していくように。

そして、だからこその「探しにゆきませんか」なのだ。「ドラえもんの青」なんて見つからないかもしれない。わたしたちは誤記の手前でドラえもんに出会いそこね続けるのだから。

でも、同時に、「ドラえもん」は「どらえもん」として「ドラエモン」として殖えつづけていく。わたしたちは、間違いを犯しながら、誤りながら、おびただしい〈ドラえもん〉たちに出会いつづけていく。

誤記とは、なんなのか。

そう言えば、哲学者の西川アサキさんによれば「誤字」について哲学的に考えたのはキルケゴールだと言う。ちゃんと西川さんの本を読んだけれど私の記憶に誤りがあるかもしれないので(私の頭もときどきふわふわしている)、説明はしないで引用文だけ置いておこうと思う。メモ帳には「文句を言う誤字」と書かれている。おもしろそうだ。

  しかし、両立しない可能世界を認める世界観、誤字の世界観とはどのようなものなのか? そもそも「誤字」とはいったい何なのだろうか? 神ではなく、人が著者である時の誤字というのは、要するに意図=計画したのとは違う文字が、なんらかのはずみで残ってしまったというようなものだろう。ここで重要なのが「なんらかのはずみ」だ。……キルケゴールが生んだ「文句を言う誤字」。
  (西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』講談社選書メチエ、2011年)


          (「落語「春雨宿」」『日本の話芸』NHK・2016年11月13日 放送)

2017年1月10日火曜日

フシギな短詩74[渥美清]/柳本々々


  いま暗殺されて鍋だけくつくつ  渥美清

2016年12月29日、NHKBSプレミアムで「寅さん、何考えていたの?~渥美清・心の旅路~」が放送された。

そのなかで俳号が風天だった渥美清の俳句がいろいろ紹介されたのだが、俳人の金子兜太さんが選んだ渥美清の句が掲句。

  ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん  阿部完市

のようなちょっとフシギな句だ。

兜太さんは渥美清の俳句をこんなふうに評している。

  俺が思っていた渥美というのはもっと正直なひとだと思っていたけれど、こりゃ相当な化け物だぞという思いが出てきましたね。

この番組をみていて思ったのが渥美清の俳句における定型のフシギさだった。

掲句の575も、

  いまあんさ/つされてなべだ/けくつくつ

と定型の不穏さが「暗殺」「くつくつ」と響き合ってふしぎなふあんを醸成する句になっているが、ほかの句も定型が独特なのだ。

  着ぶくれた乞食じっと見ているプール  渥美清
    *作者の表現を尊重し原文のまま表記しています  

  マスクのガーゼずれた女(ひと)や酉の市  〃

  ポトリと言ったような気する毛虫かな  〃


  いみもなくふきげんな顔してみる三が日  〃


  ほうかごピアノ五月の風  〃


どの句も定型が不安定な句だが、その不安定さが不安な内容と〈負の調和〉を生み出している。たとえば2句目の「マスク」の句は「ずれたおんなや」と「おんな」にすれば7音になるところを〈わざわざ〉「ひと」とルビをふって6音にしている。でもそのせいで「ガーゼ」の「ずれ」た感じが形式としてもよく出てくる。

定型。

そういえば渥美清という俳優は『男はつらいよ』において車寅次郎という〈定型(パターン)〉を生きた人間だった。

私は最初『男はつらいよ』なんてただのパターン主義の映画じゃないかとぜんぜん真面目にみていなかった時期もあったが、たまたま最初期の『男はつらいよ』をみたときに渥美清の芸の細かさに驚いて、そこから一気に全話みた。みながら、ひとつひとつの渥美清の芸の豊かさに、すごくびっくりした(ちなみに強いてあげるならおすすめは「寅次郎忘れな草」)。

そしてその後、渥美清主演の連続テレビドラマ「泣いてたまるか」をみてまたびっくりした。一話完結で毎回職業が変わる主人公。そこにはばらばらなズレとしての豊かな差異を生きる渥美清がいた。そこでの渥美清は教師であり、労働者であり、サラリーマンであり、警察官であり、飼育員だった。渥美清にとって、差異は豊かさだったのだ。

しかし『男はつらいよ』のステレオイメージは、渥美清の差異の豊かさをある意味で、一元化し、抹殺してしまった。渥美清という俳優は定型としての物語に〈暗殺〉されたのだ。

でもその差異の豊かさは、俳句にあらわれていた。

『男はつらいよ』を48作〈継続〉して演じ切った渥美清。哲学者のドゥルーズは、「持続」についてこんなふうに言っていた。「持続とは、自己に対して差異化していくものである」と。渥美清の俳句から、わたしたちはドゥルーズの実践者としての渥美清を見いだすこともできるのではないか。

渥美清というひとは定型である寅さん=車寅次郎のステレオイメージに屈しないひとだった。いちいちひとつひとつの寅次郎の挙措に視線や間などの細かい演技を練り込むことで、小さなズレを生み出していった。気晴らしで映画を観る者にだけでなく、観察者としてのオーディエンスにも、注視に耐える演技をまるで〈物語〉を〈暗殺〉し返すように行っていた。

渥美清は、〈俳人〉としても、〈俳優〉としても、どちらの〈俳〉においても、定型におさまらないひとだった。

だから、「寅さん、何考えていたの?」という問いに、私なら、こう答えてみたいような気もする。

ずれ、を。

  山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きるたのしさ  渥美清


          (「寅さん、何考えていたの?~渥美清・心の旅路~」NHKBSプレミアム・2016年12月29日 放送)

2017年1月6日金曜日

フシギな短詩73[TVのCM]/柳本々々



 ダメもとで/真夜中、誘って/まさかの集合  TVのCM



前回はキノコの食べ過ぎでこんらんしてしまい、72回のところを誤って73回と記したが、今回がほんとうの73回である。今は、落ち着いている。


せっかく逸脱したので、ぎゃくに、もう少し逸脱を押し進めてみよう。

本における川柳を飛び出して、テレビにおける川柳を考えてみよう。

さいきんあるTVのCMで上記の〈あるある川柳〉が流れた。

以前、テレビにおける川柳の8音について書いたけれど、今回の句も「まよなかさそって」と8音になっている。

それはいいのだけれど、下5が「まさかのしゅうごう」となんと8音になっている。

つまりテレビでひんぱんに流されているCMの川柳の形式は、588になっている。いったい、575とはなんだったのか、とあらためて考えてしまう。

しかし、ここで言いたいのは、575を守ろう、ということではない。そうではなくて、川柳というのは、もしかしたら〈なんでもない〉ものかもしれないということだ。

なにをいっているのか。

さいきん、津久井理一さんの以下の記述を読んで私はけっこう驚いた。引用してみよう。

  俳諧という呼称はそれなりに辿っていけば、中国の六書にまで遡及することができそうだが、川柳という呼称は、柄井川柳という、実在した前句付点者の名が、そのままジャンルの呼称になったという事実があり、それをそのまま肯定すると、川柳というジャンルを規制するものとしてはいかにも弱い。弱いばかりでなく川柳というジャンルの性格を、この言葉はいささかも語っていない。それでは文学上のジャンルという思想の集合性を欠いてしまう。これはどういうことなのであろうか。
  (津久井理一「句をめぐる史的断想」)

短歌には「歌」が入っており、俳句には「句」が入っている。だから、なんとなく呼称がジャンルそのものを規定している。形態規定といってもいいかもしれない。短歌は「歌」でなければならず、俳句は「句」でなければならない。短歌が「句」であったり、俳句が「歌」であったりしては、ダメなのだ。

ところが「川柳」というジャンルは人名である。柄井川柳というひとの名前がジャンル名になったのが川柳である。つまり、言ってみれば、これは〈なにもあらわしていない〉。もしかしたら、それはジミーだったかもしれないし、ナポレオンだったかもしれない。つまりそれは太郎が〈たまたま〉太郎と名付けられたように、〈たまたま〉としての恣意性をあらわしているのだ。

ちまたにあふれている川柳はもはや575であることをほとんど意識していない。どこかで意識しているが、それは容易に逸脱される。だけれども、そのとき、川柳とはこうあるべき、と言えるのかどうか。そもそも、川柳は、〈なんでもない〉ものなのかもしれない。

私は、怒られるだろうか。でも、川柳をいったん0にして、柄井川柳という人名の恣意性にまで還元して、もう一度、川柳とはなんだったのかを考え直してもいいような気もするのだ。

こうあるべき、というときに、そもそもその〈べき〉がどこからきているのか。どこで生まれてしまったのか。胸に手をおいて考えてみるということ。

やっぱり、怒られるだろうか。でも、落ち着いている。

          (コロプラ「白猫協力バトルあるある川柳」・2017年1月3日放送 所収)

2017年1月3日火曜日

フシギな短詩72[宮沢賢治]/柳本々々




  とりて帰りし白ききのこを見てあれば涙流れぬ寄宿の夕  宮沢賢治

きのこを見て泣いている人間。いったい、どうしたのか

『きのこ文学大全』でも著名な飯沢耕太郎さんによれば、宮沢賢治と泉鏡花にはきのこが重要な役割を果たすそれぞれ4作の「きのこ小説」がある。その意味ではふたりはきのこ文学者ということになる。

「まかふしぎなきのこ」を城戸みゆきさんの絵とともに紹介している『珍菌』というキノコ図鑑には「宮沢賢治とふしぎなきのこ」というきのこライター堀博美さんによるコラムがある。

そこには賢治が17歳のときに作った、現存する賢治作品の中では最初のきのこ作品と思われる次の短歌が紹介されている。

  白きひかりを射けん石ころのごとくちらばる丘のつちぐり  宮沢賢治

「つちぐり」は別名まめだんごやぶんぶくちゃがまと呼ばれている丸く茶色い小石のような形のキノコだ。多くの場合地中にいるのだが、地上に顔を出すと皮が裂けて中から球が出てくる。この球の中には茶色の胞子が詰まっていて、この胞子を球のてっぺんの穴から放出する。それが、つちぐり。

堀さんはこの賢治のキノコ短歌をこんなふうに解説している。

  傘に柄のあるいわゆる普通のきのこ形をしたきのこではなく、ツチグリの幼菌だとは、またマニアックです。
   (堀博美「宮沢賢治とふしぎなきのこ」『珍菌』光文社、2016年)

きのこマニアの堀さんが「マニアック」と言うのだから相当マニアックなきのこ短歌だということになるだろう。

掲出歌もこのコラムで紹介されている賢治のキノコ短歌なのだが堀さんはこのキノコ短歌で語り手が「きのこを見て」泣いているのは賢治の童話や詩によく出てくるホウキタケを見て亡くなった親友のことを思い出して泣いているのだという。

ここで賢治のキノコ短歌二首をキノコを介しながらキノコの外で意味づけてみよう。これらキノコ短歌からなにが読みとれるだろう。

興味深いのはどちらのキノコ短歌も「白」という色とあわせられていることだ。この「白」と「きのこ」の取り合わせは賢治のきのこ小説にもうかがうことができる。

  一郎が〔また〕すこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どつてこどつてこどつてこと、変な楽隊をやつてゐました。
  (宮沢賢治「どんぐりと山猫」)

  「あつあれなんだらう。あんなとこにまつ白な家ができた」
  「家ぢやない山だ」
  「昨日はなか〔つ〕たぞ」
  あのまつ白な建物は、柱が折れてすつかりひつくり返つてゐます。
  「あれはきのこといふものだつて。何でもないつて。あんなもの地図に入れたり消したりしてゐたら、陸地測量部など百あつても足りないつて」
  (宮沢賢治「朝に就ての童話的構図(ありときのこ)」)

ここで小説の描写も考えながら「白」と「きのこ」についてだんだん気づきはじめることは、「きのこ」がどんな意味にもあらかじめ書き込まれていない〈意味の白さ〉だということである。

「どんぐりと山猫」の「あつあれなんだらう」「まつ白な家ができた」というきのこに対する意味づけられなさを見てほしい。また「朝に就ての童話的構図」の「あんなもの地図に入れたり消したりしてゐたら、陸地測量部など百あつても足りない」の地図=意味をたえず解消し、更新し続けるきのこたちの意味の繁生するありかたをみてほしい。キノコは、「あれ」としか呼べないものであり、「まつ白な家」と錯誤してしまうものであり、「陸地測量部」の数字=地政学的支配からも逃れゆくものである。

ここではキノコは人間たちが決めようとする意味にあらがう非意味として世界にどってこどってわきだしているのだ。

そこからきのこ短歌にもどろう。「白きひかりを射けん石ころ」のような「つちぐり」は意味としてふちどることのできない〈白いひかり〉という意味に還元されない超越性と合わせられている。

だから、掲出歌の「白ききのこを見てあれば涙流れぬ」ときのこを見て泣いているひとの歌もきのこ的にはやばい歌だが、しかしそのきのこ的非意味のありかたを考えればなんの不思議もない。意味に回収されないアクションをしているのだ。この「」は意味からこぼれおちていく涙である。きのこを見て泣く行為。それは世界のありとある行為を測量しようとする意味の〈測量部〉の数字に還元していく働きを阻害=疎外するものだ。

こんなふうに考えると、賢治にとって世界のイレギュラーな働き、変則性をもたらすものが「きのこ」だったと言えるのではないか。

そうか、キノコよって規則的な世界は抜け出せたのだそういう意味では、すべてのキノコは世界から抜け出すための〈マジックマッシュルーム〉なのだ。世界から抜け出すためには、キノコだ。キノコを、見よ

しかし、にもかかわらず、きのこ、とはなんなのか。最後に『新明解国語辞典』のきのこの項目を引用して終わりにしよう。泣かないで

  きのこ【茸・菌・蕈】[木の子の意]湿った所や木の皮などに生える胞子植物。柄とかさが有り、胞子で増える。例、マツタケ・シイタケ。「ーー狩り・ーー雲」《かぞえ方》 一株


          (堀博美「宮沢賢治とふしぎなきのこ」『珍菌』光文社・2016年 所収)