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2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩213[永井祐]/柳本々々


  あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐さんの短歌の特徴に試行されたコミュニケーションの厳しい断絶というものがあるんじゃないかと思っている。

例えば掲出歌。「あの青い電車」に語り手は「ぶつか」ることを試行するのだが、それは「はね飛ばさ」るのではないかと思考している。「あの青い電車」という電車をやわらかく言い換えてみても、電車とコミュニケーションをとることは不可能だ。

  日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮ら」し、日本とまるで十全で充実したコミュニケーションがとれているかのような語り手。ところがその語り手は次の瞬間、局所的な「道ばた」の「ぐちゃぐちゃの雪」という〈ぜんぜんたのしくなさそうな〉ところに「手をさし入れる」というやはり〈たのしくなさそうな〉ことをする。コミュニケーションはとつぜん断絶される。dumb、というかんじに。

  月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね  永井祐

「月を見つけて月いいよね」と「ぼく」に言ってくれる「君」。ところが不穏な二字空きのあと、「ぼく」はそれにはまったく返答せず、「ぼくはこっちだからじゃあまたね」と言う。コミュニケーションは試行されたのだが、断絶されてしまった。ここでも先ほどの「日本」から局所の「ぐちゃぐちゃの雪」のように、「月」から「こっち」という局所性=偏狭性が志向される。

この試行されたコミュニケーションの断絶をこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。それは、感染への遮断なのだと。言葉は感染しやすい。言葉はすぐに返答(レス)がつき、感染され、伝播してゆく。言葉は、感染しやすい。その感染のしやすさを、断絶によって、浮き彫りにする。

  本当に最悪なのは何だろう 君がわたしをあだ名で呼んだ  永井祐

「本当に最悪なのは」「君がわたしをあだ名で呼」ぶといういつの間にか言語感染=言語共有されていることかもしれないこと。

  わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ  斉藤斎藤

「口癖」がうつったら「次へゆかねばならぬ」。この言語感染への恐怖はなんなのだろう。もちろん、言語感染そのものは悪いことではない。それは共同体をはぐくむし、対話の基盤にもなる。でも、ゼロ年代の短歌にはどこかにその感染恐怖がある。感染への意識が。

  偏見は物語を通して感染する。言葉はウィルスなのだから。
  (西山智則『恐怖の君臨』

あんまり簡単に言えないのだけれど、ゼロ年代の短歌は、〈偏差〉というものをとても強く意識するようになったということは言えないだろうか(『日本の中でたのしく暮らす』の「日本の中で」、『渡辺のわたし』の「渡辺の」)。わたしとあなたには偏差がある。わたしとあなたは実はおなじ基盤を共有していない。だからその偏差を意識しつづける。いっけん、言語感染し、言語共有していると、その偏差が隠れ、わすれがちになるが、しかし、偏差はあるのだと。それをゼロ年代短歌は意識しはじめたんじゃないかと。そしてそれはテン年代の〈向かうことのできない向こう側〉を意識する短歌に変わるだろう(続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


あなたとわたしは違うということ。でも、あなたはときどき「壁」を越えてやってくるということ。ゼロ年代をこえてそんな漫画がヒットする。漫画の名前は、『進撃の巨人』。

  あなたはぼくの寝てる間に玄関のチャイムを鳴らし帰っていった  永井祐


          (「1」『日本の中でたのしく暮らす』ブックパーク・2012年 所収)

2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


  名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる  吉田恭大

最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。

高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。

  喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
  [向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
  言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
  見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
  (高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)

「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。

  ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也

「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?

短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。

金網は、どこにあるのか。

ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。

外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?

  外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車  吉田恭大


          (「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)