-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月11日月曜日
超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
穂村弘さんの解説がある。
「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
(穂村弘『近現代詩歌』)
穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。
前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく 斉藤斎藤
この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。
宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。
宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。
崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく
こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。
スローモーションの魔術。どんなジャンルでもあえて低速にすると、高尚なものより尊重されやすいような気がする。
(千葉雅也『別のしかたで』)
こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。
(岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)
微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。
限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。
動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。
チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
(長谷正人『映画というテクノロジー経験』)
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年8月20日日曜日
続フシギな短詩167[楳図かずお]/柳本々々
へび少女へをしたとたん美少女に 楳図かずお
NHKの対談番組『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』において、漫画家・楳図かずおと怪談家・稲川淳二がこんなふうに話している。
楳図 笑いが先なのか、恐怖が先なのかわからない。
稲川 たまに怪談ってすごく笑えることがある。笑いのなかにふっと狂気があったり。
楳図 恐怖と笑いは一緒。
この話の流れになって、楳図かずおが川柳をつくってきたから稲川に見せたいと川柳をだしてくる。
「かい蟲(ちゅう)を釣るんだ!」と釣り針のみ込んだ 楳図かずお
「お前のはくさすぎる!」とトイレの中から声がした 〃
髪の毛ののびる人形にパーマあて 〃
少し前に取り上げたマンガ『川柳少女』もそうなのだが、どうして楳図かずおが〈川柳〉という枠組みを《わざわざ》使ったのかが興味深いところだ。番組では川柳を紹介しただけで、どうして楳図かずおが川柳にしてわざわざもってきたのかは語られなかった。だから考えてみよう。
楳図かずおが持ってきた川柳は、恐怖と笑いは紙一重という話題が出されたときに、稲川にみせられたものだった。だからひとつは楳図にとって川柳という形式は、《恐怖と笑いを複合させる》のに適した表現形式だったということができる。
恐怖と笑いは相反するベクトルをもっていそうだが、エネルギー量は似たものをもっている。たとえば恐怖の表情と笑顔の表情の顔のひきつれに生じるエネルギー量はおなじようなものかもしれない。快(笑い)・不快(恐怖)としては反対方向のエネルギーベクトルをもっているのだが、それがあるリミットを越えた瞬間、おなじようなエネルギーベクトルになるのである。たとえばあまりにも残酷な風景をみたときに感情が振り切れて思わず笑ってしまうような。カート・ヴォネガット。
わたしは連合軍によるドレスデンの大空襲をこの目で見た。空襲前の街を見て、地下室に入り、地下室から出て、空襲後の街を見たわけだ。声をあげて笑う以外なかった。心が何かから解放されたくて、笑いを求めたのだと思う。
ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う。
笑いが恐怖によって生じることはかなり多い。
(カート・ヴォネガット『国のない男』)
楳図かずおは恐怖と笑いを複合するのに川柳という表現形式を選んだが、川柳というのはそうした反作用する感情を複合(パッケージング)し、そのままリミットを超え出ようとするのに向いているんじゃないかと思うのだ。
たとえば樋口由紀子さんの現代川柳をみてみよう。
義母養母実母の順ににじりよる 樋口由紀子
三十六色のクレヨンで描く棺の中 〃
布団から父の頭が出てこない 〃
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 〃
非常口セロハンテープで止め直す 〃
(『容顔』)
これらは現実でやろうとすればできないこともない現代川柳である。「義母養母実母の順ににじりよ」られることも人生にはあるかもしれないし、「三十六色のクレヨン」で棺の中を描くことだってできる(怒られると思うが)。布団から父の頭が出てこない休日もあるだろうし、明るいうちにジビエを隠しておく猟師もいるかもしれない。非常口を応急処置としてセロハンテープでつけることもやれないことはない。
だけれども。
なんか、おかしい。と、おもうはずだ。できるけれど、なんか、おかしい、と。そして、こわい、と。
「義母養母実母」とシステムに操られたようににじりよる人間、カラフルな祝祭と死の同居、「布団」が生の「世界」と等価になってしまうときの不在の父、野生の本能にあらがえなくなった人間から離れてゆく人間、この世の出口かもしれない大切なものがぞんざいに機能しはじめた世界。
おかしいけれど、こわい。
現代川柳はそういう混在し反作用する感情を複合させ、なんの答えも与えずに点として指し示すことができる。それがいったいなんなんですか、と言われればそれまでなのだが、しかし〈いったいなんなんですかこれは〉というインパクトもある。そのインパクトは文学になるかもしれない。
楳図さんがそれに気づいていたかどうかはわからないが、楳図さんは川柳を知らなくても、マンガを描いていくなかで、相反する感情の同居という〈川柳性〉のようなものに本人も気づかないかたちで気づいていたのではないか。
別に川柳を知らなくたって、川柳にアクセスしてしまっていることがあるのだ。
半袖に着替えて待っている最初 樋口由紀子
(NHK『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』2017年7月23日 放送)
2017年8月18日金曜日
続フシギな短詩162[川柳少女]/柳本々々
そういえば私玉ネギだめだった 川柳少女
『川柳少女』という四コマ漫画があるのだが、柄井高等学校に通う雪白七々子という女子高生が主人公になっている。
特徴的なのは五七五系女子である彼女が川柳を介してしか他人とコミュニケーションがとれないことである。彼女はひとことも声を発しない。だから常に句箋を持ち歩いており、川柳によって他者とコミュニケーションしている。別にだからといって悲しいことが起こるわけではなくて、むしろコメディタッチで物語はすすんでゆく(ほっこり文化系ショート漫画)。
ひとつ面白いなと思うのが、俳句少女ではなくて、川柳少女だったことである。たとえば主人公の発話を奪い取り575のみのコミュニケーションにした場合、俳句少女だったらどうしても季語がコミュニケーション・ノイズとして入ってきてしまう。俳句とは〈挨拶〉=始まりの文芸であるため、コミュニケーションのキャッチボールのなかでの〈やりとり〉のなかでの発話には向いていない(俳句は、「発」句である)。
ところが川柳はこう言ってしまうとあれなのだが、〈なんでもあり〉の文芸である。たとえばそもそもこの主人公が通ってる高校の名前、柄井高等学校は、柄井川柳という川柳のジャンル勃興に関わっている人間の名前からとられているはずだが、しかし柄井川柳という人名が川柳ではそのままジャンル名になっているのである。これは、奇妙なことではないか。俳「句」や短「歌」というジャンル名を思い出してみてほしい。川柳は、人名がジャンル名になっているのだ。結果、句でも歌でもないものになったのだ。なんでもありの。
浜田義一郎は川柳という名称について次のように述べている。
川柳という名称はジャンル名を兼ねているのでまことに都合が悪い。文学史上の用語として明治中にこの名称に定着したが、一般には狂句の名称が行われ、むしろこの称が適切なのにと思われる。実は初代川柳在世中から適当な名称がないため、他文芸にあらわれている用例を見ると、「川柳が前句」「川柳点」「川柳が選」「川柳が句」「柳樽風の発句」「かの川柳が所謂」など種々雑多である。正確にいえば初期は「川柳点の前句附」であるが、長すぎて実用的でないので色々に表現され、まして初代川柳死後は川柳の前句・点・選・句ではなくなって一層困ったため、三一篇からは文日堂が川柳風という新語を作った。芭蕉の蕉風に対する川柳の川柳風の意である。「川柳風」の語は一般化しなかった。流派(スクール)名の感じでジャンル名としてふさわしくなかったのであろう。
(浜田義一郎『岩波講座日本文学史9』)
川柳はどういうわけか「狂句」という名称が定着しなかった。ほんとはそういう未来もあったはずなのだが。私も不思議なのだが、だからこそ、句でも歌でもない現在の〈なんでもあり〉の川柳が成立し、枝分かれし、不思議なことになっているようにも思われる(カオス、アナーキーな状態に)。柄井川柳の亡霊がそのまま生き続けているような。
もちろん、〈なんでもあり〉というと怒り出す川柳人はいると思う。いるだろうけど、この四コマ漫画にかんしていえば、〈なんでもあり〉だからこそ、七々子は日々、川柳で他者とコミュニケーションをかわし、たくましく生きているのである。
七々子をみていると、川柳は、かなしいでもたのしいでもない。それは、五七五で他者と結びつく〈なにか〉なのだとおもってしまう。もしかしたら、川柳は、意味論ではなく、意味行為論的なパフォーマティヴなものかもしれない。あなたとふっとつながるための。
じゃあここで私も一緒に食べていい? 七々子
(五十嵐正邦「五七五系女子」『川柳少女』講談社コミックス・2017年 所収)
2017年6月24日土曜日
続フシギな短詩132[曾根毅]/柳本々々
立ち上がるときの悲しき巨人かな 曾根毅
ちょっと月波与生さんの川柳で、川柳と悲しみについて考えてみたので、俳句と悲しみについても考えてみよう。
月波さんの川柳は〈わたし〉が悲しがっていたが、まるで川柳と俳句の違いを示唆するかのように今回の俳句では巨人を〈みるひと〉が悲しがっている。巨人が「立ち上がる」その瞬間が、悲しい、と。月波さんの句は〈わからなさ〉が軸にある悲しみだったが、曾根さんの句は〈わかってしまう〉ことが軸にある悲しみである。この「みているひと」は巨人のことを、なんとなく、知っているのだ。巨人に、精通している。
しかし、巨人についてわたしたちが知っていることとはなんだろうか。
巨人俳句と言えば、
ひんがしに霧の巨人がよこたわる 夏石番矢
という句がある。『ガリヴァー旅行記』のガリヴァーがそうだったように巨人は横たわるものだ。巨人でありながら横たわるからこそ巨人より遙かに低いわたしたちともコミュニケーションができるのだから(たとえば『シン・ゴジラ』でも〈巨人〉であるゴジラを無人在来線爆弾によって〈横たわらせ〉なければ血液凝固剤を注入(コミュニケーション)することができなかったことを思いだそう。あのときはじめて私達はゴジラとコミュニケーションがとれたのである)。
童話「ジャックと豆の木」や漫画『進撃の巨人』、ゲーム『ワンダと巨像』が示唆するように、巨人が「立ち上がるとき」はわたしたちと〈対立〉するときだ。すなわち、ディスコミュニケーションの瞬間なのだ。
だから巨人をみているひとは、わかった。巨人が立ち上がる時それは、かなしい、と。
曾根さんの句には、実はこんなふうに〈動きの結果〉をとらえた句が多い。
滝おちてこの世のものとなりにけり 曾根毅
まるでやっぱりまたもや血液凝固剤によって凍結され「この世のもの」となった『シン・ゴジラ』のゴジラをなんだか思い出してしまうが、「滝」が「おちて」「滝」でなくなり、「この世のものとな」る。裏返せば「この世のもの」となるまで「滝」はまだ「滝」であり「この世のもの」ではなかった。わたしたちと微分的に関わる「この世の」カテゴリーにあてはまらないものが「滝」だった。「滝」はまだ巨人やゴジラのような〈結果〉にならない〈結果未満〉のものなのだ。
だから曾根俳句のなかで「滝」の対義語は「立ち上がった巨人」である。
結果。
「この世のもの」となってしまう結果。
動いた結果、「この世のもの」となってしまうものたち。
鶴二百三百五百戦争へ 曾根毅
この国や鬱のかたちの耳飾り 〃
燃え残るプルトニウムと傘の骨 〃
「この世のもの」となってしまった「戦争」「鬱」「プルトニウムと傘の骨」。
どの巨人も「立ち上がって」しまったのだ。
巨人とは、わたしたちの閾値をあらわすものなのではないだろうか。巨人がたちがあるとき、それはわたしたちの閾値をこえる。滝は落ちて、わたしたちの閾値をこえる。戦争、鬱、原発事故。どれもわたしたちのふだんの閾値をこえていくものばかりだ。
もしかしたら、「悲しい」の正体とは、〈閾値をこえること〉なのではないだろうか。だとしたら、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」だって、おなじだったのだ。閾値をこえて「わからな」くなっていたのだ。
曾根さんの俳句をみていて思う。俳句とは閾値をめぐる冒険なのかもしれないと。だから、俳句とは別に感情を無視した詩なのではなく、ときに、おおいに、「悲しみ」といった感情にも関わるんだろうということも。
にんげんにとって、どこまでが「この世のもの」の閾値で、どこからが「あの世のもの」の閾値なんだろう。
仏になれたら、その閾値から、解放されるんだろうか。
もちろん、わたしたちにはそんなことはわからない。でもたぶん、いや間違いなくそうなのだが、俳句は〈それ〉を知っている。
何処まで釈迦の声する百日紅 曾根毅
(「『俳句』創刊65周年記念付録「現代俳人名鑑Ⅱ」『角川俳句』2017年6月号 所収)
2016年9月30日金曜日
フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。
五・七・五になっているセリフ 荒木飛呂彦
最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。
・ドキッとするセリフ
・しっとり落ち着くセリフ
・癒されるセリフ
(……)
・五・七・五になっているセリフ
・ラップのように韻を踏んでいるセリフ
(荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)
興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。
実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。
俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。
提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。
定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。
それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。
荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。
「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」
しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。
荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。
ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。
ジョジョ立ちの正中線や秋の天 堀本裕樹
運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY! 柴崎友香
「あなたも河馬になりなさい」だが断る 千野帽子
(「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)
落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)
(「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)
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