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2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩174[米山明日歌]/柳本々々


  鏡から帰って米を研いでいる  米山明日歌

『川柳ねじまき』からもう少し続けてみようと思う。

前回、川柳の主体は〈想像界〉からやってくると述べて終わったけれどまさにこの明日歌さんの句がそれをあらわしている。

「鏡」というイメージの想像的写し合わせの世界から「帰って」きて、まったくなんの違和感もなく、助詞「て」でつながれて、日常的に「米を研いでいる」。「鏡」のなかにいたことは、まったく、違和感がない。そこはもといた場所であり、いつでも帰ることのできる場所なのである。

そうした想像的イメージは、「影」として、やはり日常的に・違和感なく、分離させることもできる。

  募集中私の影を担ぐ人  米山明日歌

「募集中」という俗な言葉遣いから、「私の影を担ぐ」という想像的な詩的イメージに接続される。ここでもやはりその連絡には違和感がない。想像的な世界と、日常的で卑近な世界は地続きである。

この想像的イメージとしての〈わたし〉は分離し、あちこちに散種される。飛散ではない。種として飛び、ねづき、わたしそのものになる。

  地図で言う四国あたりが私です  米山明日歌

「あたりが」という言葉遣いに注意しよう。それは〈わたし〉にもよくはわかっていない。アバウトなものだ。たぶん「四国あたり」なのだ。ここは秩序で厳密に分離された〈象徴的〉世界なのではない。鏡のような、影のような、イメージのゆるやかな〈想像的〉世界なのだ。わたしはどんどん飛散し、散種される。もっと、させてみよう。

  葉がおちてしまってからの私です  米山明日歌

  わたしを拾うあなたを拾う秋の道  〃

  吊り橋をゆらしてるのは私です  〃

  わたくしの中であなたは跳ねている  〃

どんどんわたしが分離されていくとともに、そのなかであなたもまた分離され生産されていく。川柳において、わたしは無限増殖する。だから、〈ひとり〉になったときには、ちゃんと、音がする。こんなふうに。ちゃんと、だ。

  ひとりにはひとりになった音がする  米山明日歌


          (「四国あたりが」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々


  まだすこし木じゃないとこが残ってる  瀧村小奈生

小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。

  息止めて止めて止めて止めて 欅  瀧村小奈生

〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけることで「欅」になれてしまう体。体は容易に逸脱する。やり方さえわかれば。だから、「木のとこ」と「木じゃないとこ」をいちいち確認する作業は大切になってくる。

容易に変化・変態してしまうからだをめぐって、こまかく、すこしずつ気づいていく認識。

  小春日を起毛してゆく声がある  瀧村小奈生

  心外なところで声は折れ曲がる  〃

  三日月にさわった指を出しなさい  〃

  あやふやな湾岸線をもつからだ  〃

起毛する、折れ曲がる声。三日月にさわった指。あやふやな湾岸線をもつからだ。からだは〈わたし〉を超えて変化する。

川柳において、からだは、形態変化する。その形態変化を《事後的》に記述するのが川柳だともいえる。だから、川柳の主体は、ときに、〈人外〉が、事後的に・語ったような語り口ともいえる。非主体化していく主体がそれでもかろうじて「まだすこし木じゃないとこ」を語ったように語るのが川柳ともいえるのである。

たとえば次のような短歌と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡  東直子

短歌においては、主体変化は起こらない。たとえばこの歌なら、主体と「楡」の一致は起こらない。主体は「楡」を見いだすが、それは主体変化としてではなく、主体観察として、みいだす。「妹のすっとんきょうな寝姿」はまるで「楡」だと。

  夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ  河野裕子

夜の「わたし」は、胴がぬーとぬくくて、沼のようで、「鯉」のようだという。これも夜のわたしの主体観察だといっていい。もちろん「鯉」なのではない。鯉の「やう」なのである。

短歌においては、私→A、という働きかけになる。そういう主体観察になる。

一方、川柳においては、私=A、という主体のありようが語られる。主体変化が記述される。

どうしてそうなのかは私もちょっとわからない。ひとついえるのは、よくもわるくも、川柳においては〈わたし〉が育たなかった、ということが言えるかもしれない。育たなかった〈わたし〉は容易に変化してしまう
ピノキオのような主体である。息をとめただけで、木になってしまう。比喩じゃなく。そう、なってしまう。

精神分析学者のラカンの言葉を使えば、短歌は、言葉によって主体が確立されている〈象徴界〉的な文芸、川柳は、イメージによって主体が変化する〈想像界〉的な文芸、と言うこともできるかもしれない。

そして、定型の〈外〉には、〈象徴〉しても〈想像〉してもふれられない〈現実〉がある。そのふれられない〈現実〉をめぐって詩が機能してしいることにおいては、どちらも共通しているようにも、おもう。

たとえば、〈なに〉が「そうですか」なのかは、ふれられない〈現実〉。「中央にあるべきもの」とは〈なん〉だったのかは、ふれられない〈現実〉。無意識のとぐろのように、まっくらな穴のように、ひろがる〈現実界〉の深淵へ。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

  中央にあるべきものがない空だ  瀧村小奈生

          (「木じゃないとこ」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

2016年10月28日金曜日

フシギな短詩53[岩田多佳子]/柳本々々


  逃亡をはかる親指のいっぽん  岩田多佳子
精神分析家の向井雅明さんが思想家のジャック・ラカンを解説したこんなことを言っている。

  心理学では……脳の発達段階に到達し、内的に成立した自我が、自分のイメージを外部の他者の間に混じって存在しているものとして鏡像を認める…。
  それに対して精神分析的解釈では、そもそも人間には内的な自我に相当するものはなく、その代わりにあるのは自らの身体の寸断されたイメージでしかない。
 

  (向井雅明「鏡と時間」『ラカン入門』ちくま学芸文庫、2016年)
興味深いのは、「心理学」では「自我」という自らの十全なイメージがあるのに対し、「精神分析的解釈」では「自らの身体の寸断されたイメージ」しかないということだ。精神分析的に言えば、わたしたちの身体はばらばらのものとしてある。

わたしは現代川柳というのは人間の心を描くという「心理学的」なのではなくて、寸断された身体を描くという「精神分析的」なのじゃないか、とときどき思っていた。たとえば掲句では「親指のいっぽん」が「逃亡をはかる」。これはばらばらな身体のイメージだ。心理学的自我の十全な自己イメージがあるならば、「親指」が「いっぽん」だけ「逃亡」する必要はない。

集中には他にこんな身体句もある。

  両腕を一年干したままの窓  岩田多佳子
「両腕」を「一年干」すというのは身体がばらばらのまま時間が過ぎる風景そのものでもある。
先ほど引用した向井さんは続けてこんなことを言っていた。

  外部の鏡のなかのイメージは自分の身体を全体的な統一したものとして見せてくれ、子どもはそれを自分の自我の起源として取り入れるのだ。… 
  …ラカンによれば外部のイメージが自我として私をとらえる。すなわち、自我は人間の外部のイメージを基盤にしているのだ。ラカンはこれを疎外と呼んでいる。なぜなら人間はそれによって外部のイメージに取り込まれ、そのイメージを自分自身と思いこむからである。
   

(向井雅明、前掲)
身体がばらばらな人間が自我を得るにはどうしたらいいかというと、鏡のなかの自分をみてそこから身体がばらばらでない自分を見いだせばいい。ところがそれが自分が鏡という外側にしかないことなので、〈疎外〉なのだとラカンは言っている。わたしたちの自我は鏡という外側にあるのだ。
わたしたちの内部は外部にあるのかもしれないということ。それもまた現代川柳が得意とすることであるように思う。たとえば岩田さんのこんな句。

  仏壇の前髪一センチ切りに  岩田多佳子 
  仁淀川のわき腹ふかくシップ薬  〃 
川柳の世界においては、わたしたちの身体がばらばらになり逃走を繰り返す一方で、むしろ世界の方に実質的な身体があるようなのだ。「仏壇の前髪」や「仁淀川のわき腹」。前髪を一センチ切ったり、シップ薬を貼ったりするのはそれら〈身体〉がこれからも継続することをあらわしている。すなわち、〈生活〉しているわけだ。

こんなふうに川柳の世界では、人間はばらばらにこわれていく一方で、外側の世界はいきいきしているという非心理学的精神分析的風景が垣間見える。わたしはそれを、すごく、フシギに思う。「フシギな短詩」を連載していて久々にフシギと言ったような気がするが、ほんとうに不思議に思う。
川柳の世界ではどうしてこんなに世界のほうがいきいきするんだろう。

かつてフランツ・カフカはこんなことを言っていた。

  お前と世界のたたかいでは、世界に味方せよーー。
はじめてこの言葉を眼にしたとき、わたしは、いったいなにを言っているんだと思った。それじゃあ、〈鳥かごが鳥を探しにいくようなもんじゃないか〉と。

でも、今なら、わかる。現代川柳は、わたしと世界のたたかいを描くとき、世界に味方する。わたしをばらばらにし、世界をいきいきとさせるのだ。だから、今なら、わかる。そしてその意味において、いまだ、わたしは、まったくわからないのだ。にもかかわらず、

  不意にきて肩を叩いていく四隅  岩田多佳子
          
(「林の章」『ステンレスの木』あざみエージェント・2016年 所収)


2016年9月30日金曜日

フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々


  五・七・五になっているセリフ  荒木飛呂彦
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。

  最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。

   ・ドキッとするセリフ
   ・しっとり落ち着くセリフ
   ・癒されるセリフ
     (……)
   ・五・七・五になっているセリフ
   ・ラップのように韻を踏んでいるセリフ

    (荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)

興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。

実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。

  俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
    
(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。

提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。

定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。

それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。

荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。

「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」

しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。

荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。

ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

  ジョジョ立ちの正中線や秋の天  堀本裕樹 
  運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY!  柴崎友香 
  「あなたも河馬になりなさい」だが断る  千野帽子
    (「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)

今回は5や7の〈数〉をめぐる話だったので、最後は『ジョジョの奇妙な冒険』からやはり〈数〉のセリフで終わりにしてみよう。数と勇気をめぐるプッチ神父のことば。そう、数はわたしたちに勇気を与えてくれる。

  落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる 
  (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)


          (「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)

2016年5月3日火曜日

フシギな短詩15[なかはられいこ]/柳本々々



  いとこでも甘納豆でもなく桜  なかはられいこ


「AでもBでもなく桜」と二度の〈否定〉を通してはじめて「桜」にたどりつくのが掲句だ。「いとこ」や「甘納豆」という具体名はあがるもののそれらがスルーされ、ながいながい遠回りをして語り手はやっと「桜」にたどりつく。

だからこの句をこんなふうに指摘してみたい。これは〈回避〉の句なんだと。語り手は〈回避〉することによってはじめて「桜」にたどりついたのだ。

しかし、なんのために〈回避〉するのだろう。はじめからひとは「桜」にたどり着くことができないのだろうか。

補助線を引くためになかはらさんのこんな〈回避〉の句もあげてみよう。

  行かないと思う中国も天国も  なかはられいこ
     (「黄身つぶす派」『川柳ねじまき』第1号・ねじまき句会・2014年 所収)

語り手はやはり二度の〈否定〉を通してある〈地点〉を指し示そうとしている。それがどこなのかはわからない。が、「中国」でも「天国」でもないことは確かだ。それは「中国」と「天国」を否定した先にみえてくる〈どこか〉なのだ。

でも考えてみてほしい。ひとはなんのために〈否定〉するのかを。しかも、二度も。

わたしはこんなふうに思う。語り手にとって「いとこ」や「甘納豆」や「中国」や「天国」は非常に磁力の強いものだった。〈否定〉しなければ、「いとこ」や「甘納豆」が「桜」の代替になり、「中国」や「天国」が語り手が〈行くべき場所〉になってしまうくらいに強度のあるものだった。だからこそ、〈否定〉しなければならなかったんじゃないかと。

でも〈否定〉することによって逆に浮き彫りになってきたのはむしろ「いとこ」であり「甘納豆」であり「中国」であり「天国」だった。〈否定〉という行為によって逆に語り手がいつも〈なに〉に意識を向けているかが逆照射されたのだ。

鶴見俊輔はかつて「書かないことが、書くことの中心にあり、話さないことが話の中心にある」と述べた。語らないことの方にむしろ語ろうとすることはある。

だから語り手にとって〈ほんとうの桜〉は、「桜」ではないのかもしれない。「いとこ」や「甘納豆」を《AでもBでもなくX》構文のXに代入できたときに初めて「桜」に出会えるものなのではないかとも思うのだ。つまり、語り手がもう〈回避〉する必要性を感じなくなったときにこそ、語り手は「桜」と正対できるんじゃないかと。

それまでは語り手にとっての「桜」は否定しても否定しても逆に否定することによって強度をもって浮かび上がってくる「いとこ」や「甘納豆」とともにあり続けるだろう。

でも「桜」にたどりつくことよりも、〈なかなかたどりつけなかった〉ことそのものにこそ私は意味を見いだしたい。〈回避〉しても〈回避〉してもやってくる〈なにか〉を思考しつづけることが実は語り手の生そのものになっているのでもないか。〈回避〉を生き直すこと。

思想家のラカンも言っていたはずだ。「あるひとつの経験を考察しようとするときに重要なのは、何を理解しているかよりも、何を理解していないかです」と(『フロイトの技法論』)。

そう、わたしたちは、わたしたちがいつも語ろうとしない〈回避〉のなかに《こそ》、棲みつづけているのだ。

          (「くちびるにウエハース」『川柳ねじまき』第2号・ねじまき句会・2015年 所収)