ラベル 米川千嘉子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 米川千嘉子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩205[斎藤史]/柳本々々


  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

短歌のアンソロジーを読むとたいてい載っているとても有名な歌だ。

ちょっとデリダのこんな言葉を引いてみたい。

  明日、君に手紙を書く、でもおそらく、またしても、手紙より私のほうが先に着くだろう
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

デリダは、こう言ってよければ、手紙に挫折したひとである(〈郵便的誤配〉とは、手紙に対する挫折だったのではないか)。

手紙は、届かない。というよりも、届くんだが、届くまえに、わたしが先に着いてしまう。だから、手紙は届かない。まだ来ていないからだ。

ここには、手紙の身体性があらわれている。斎藤史さんの歌をテクストとして読んでみよう。デリダと事態は逆である。

すでに手紙は届いている。けれども、語り手は、「待たう」というのだ。手紙は、もう、着いているのに。

おそらく、その手紙に、誰かがくることが書かれている。それは語り手の父親かもしれないし、デリダかもしれない。わからないけれど、でも、身体は遅れてやってくる。手紙をめぐる身体は、《先に着いたり、遅れてやって来たり》する。

つまり、手紙は身体の時間差をうむ。その身体の時間差が、手紙の誤配をうんでいく。いくら言葉を読みとっても、もう身体はさきに着いているのだし、まだ着いていないのだし、が、言葉を先走らせたり遅延させたりする。意味は、ずれていく。

では、手紙と身体が、《同時に》やってきた場合は、どうなるのだろう。こんな歌がある。ほんとうに同時にやってくる歌だ。

  お手紙ごつこ流行りて毎日お手紙を持ち帰り来る おまへが手紙なのに  米川千嘉子

お手紙をもって母親のもとにやってくる子ども。ちゃんと手紙と身体が同時にやってきた。ところが、やはり、《遅延》が起きる。語り手は、「おまへが手紙なのに」と思うのだ。ここには、手紙と手紙のズレがある。やはり、手紙は誤配され、届かなかったのだ。なぜなら、「おまへが手紙なのに」おまえはそれに気づいていないから。だから、手紙は、届かない。身体は、そこにあるのに。

  私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

手紙は、身体を、分割する。そしてその身体の分割の破局を、立ち直らせない。

そういえば、穂村さんに、こんな手紙の歌があった。

  窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった  穂村弘

なんで「窓のひとつにまたが」ったのか? それは自ら積極的に身体を分割し、手紙身体になったからだ。窓枠にまたがり、みずからを、ソクラテス/プラトンに分割(スプリット)する。破局させる。そのとき、積極的にわたしが手紙を追いかけたことで、手紙の遅れをとりもどし、わたしに《だけ》わたしの手紙が、とどく。すべてをゆるす手紙に「なる」。わたしにとってだけれど。

もちろん、すべてをゆるす手紙は、また、誤配を重ねる。でも、あいても、窓枠にまたがって読むかもしれない。そうしたら、相手に、手紙は届くかもしれない。届くんだったら、

  時差は私のうちにある、それは私だ。時差は私を阻止し、禁じ、分離し、停止させる──しかしまた、私から楔を取り去り、私を飛翔させる、君も知っているように、私は自分に何も禁止しない、というか、私を禁止しない、そして私はまさに君のほうへ、君へと飛翔する。
ただただ君のほうへと。一瞬のうちに。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

          (『斎藤史全歌集』大和書房・1997年 所収)

2017年9月6日水曜日

超不思議な短詩201[与謝野晶子]/柳本々々


  大いなるツアラツストラの蔑すみし女の中にわれもあるかな  与謝野晶子

この歌に関してこんな解説がある。

  夫との愛の相剋の悩みを歌い続けていた三十四歳のころ、ニイチェの書をよみ愕然とします。女の盲目的従属性を突く「ツアラツストラ」の言葉を肯定しつつも自恃を砕かれた反発ともよみとれます。
  (川口美根子「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編』)

短歌を読んでいてときどき気になるのが、書物=テクストが歌のなかに出てくる場合だ。テクストは歌のなかで、どんなふうに機能するのか。たとえばこんな歌がある。

  愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉描写するどし  五島美代子

愛を優先する人間、なによりも愛のために自分よりもひとのために行動してしまう人間の方がまず死んでしまうという『方丈記』の飢饉描写がするどい、と言っている。

こんな歌もある。

  十三歳(じふさん)で読みし『舞姫』不愉快なり四十歳(しじふ)で読めどかなしからず不愉快  米川千嘉子
  (歌集『一葉の井戸』)

森鴎外『舞姫』はいつ読んでも不愉快だと言っている。この米川さんの歌は、与謝野晶子の掲出歌の系譜を引き継いだ歌といってもいい。『舞姫』は主人公の太田豊太郎の視点をあわせると〈近代自我形成の物語(わたしはどう生きていくべきか、人生とはなんなのか)〉になるのだが、エリスという女性に視点をあわせると、エリスが妊娠させられ、捨てられてしまう〈だけ〉の物語となる。また、エリスが豊太郎に決断をせまる大事なシーンで、豊太郎は気絶してしまい、その決断を友人にまかせてしまう。

  実は『舞姫』の豊太郎は、作中で何一つ自分では決断できていない。一番決断しなければならなかったとき、彼は人事不省に陥っており、やっかいな事後処理をしてくれたのはすべて友人の相沢謙吉なのだった。ヒーローとヒロインの間にはついに何の対話もないまま、一切は友の手によってひそかに片づけられてしまっていたのである。
  (安藤宏『「私」をつくる』)

だから米川さんのおそらく女性主体の語り手はこの『舞姫』を〈女性主体〉=エリスの立場から読んで「不愉快」だと言っている。

与謝野晶子のニーチェ、五島美代子の方丈記、米川千嘉子さんの舞姫。

これら歌にでてきたテクストは、読者の〈期待の地平〉を裏切っていくものであり、歌のなかで逆なでされている。ニーチェのたくましい強さの哲学は女性主体の立場から〈切り捨てられたもの〉が渦を巻き、『方丈記』は「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」という〈無常〉よりも〈飢饉〉という現実(リアル)な問題が渦を巻く。米川さんの『舞姫』ではエリスの声が女性主体の身体に宿り渦を巻いている。

テクストは逆なでされながら、歌に顔をあらわしはじめる。それが、歌のなかの、テクスト=書物ではないだろうか。

それは、感動ではない。感動ではなくて、逆なでされた、感・動なのだ。感じて・動いてしまった〈なにか〉。

米川千嘉子さんの歌集タイトルは『一葉の井戸』だが、タイトルに樋口一葉の名前があらわれているように、米川さんはテクストをとりこんだ歌が多い。

  賢治はやさしくせつなく少し変な人花巻花時計に来てまた思ふ  米川千嘉子

  「銃後といふ不思議な町」を産んできたをんなのやうで帽子を被る  〃

宮沢賢治が「やさしくせつなく少し変な人」とやわらかく、しかしとらえがたいアマルガムなイメージで〈現代〉に召喚される。「銃後といふ不思議な町」はかつて取り上げた渡辺白泉さんの句テクストだけれど、「銃後という不思議な町」を「産んできた/帽子を被る」と女性身体から読み直している。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

白泉は「見た」と見る主体なのだが、米川さんの歌ではそれを「産んできた」と女性身体から〈翻訳〉し直している。そのことによって、「見た」という「不思議な町」との距離が抹消し、その町を銃後を支えていたのは誰だったのかに想像力が向けられる。しかし語り手は「帽子を被る」。なぜだろう。それはこの語り手が男性/女性という分節だけでなく、当事者/非当事者も意識しているからではないか。

テクストは、多くの人間を取り込むとともに、多くの人間(マイノリティ)を疎外し、忘れたものとしてそれを含みこんで語る。〈忘れたもの〉としてそれは語られる(まるでヒッチコックの映画の地下鉄のシーンに〈黒人〉がいないように)。

けれども、だからといって、テクストの当事者に〈なろう〉というのも、ちがうのだ。それはただの転倒としての反復にしかならない。そうではなくて、テクストを裏返しながら、語らずに、「帽子を被る」こと。それが、テクストを、小説を、本を、〈読み直す〉ということではないだろうか。

テクストを、みつめる、のではなくて、テクストから、みつめかえされること。ここからはじめたい。

  絵はがきにフォービスムの緑のをんなゐてわれを見ながらポストに落ちる  米川千嘉子


          (「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編1月明の巻』六法出版社・1986年 所収)

2016年5月31日火曜日

フシギな短詩19[米川千嘉子]/柳本々々



  人生の主人公ときに替はる気せり 白湯(さゆ)に浮かびし顔ふつと飲む  米川千嘉子


太宰治『晩年』の最初に収められている「葉」のいちばん最後にこんな断片がある。




  生活。

  よい仕事をしたあとで
  一杯のお茶をすする
  お茶のあぶくに
  きれいな私の顔が
  いくつもいくつも
  うつっているのさ

  どうにか、なる。
    (太宰治「葉」『晩年』)

米川さんの歌の語り手も、太宰のこの語り手も、どちらも〈これから自分が飲もうとするもの〉にみずからの「顔」を投影しているのは共通している。大事なことは顔をうつしているのは〈鏡〉ではなく、「白湯」や「お茶」だということ。つまり、〈はかない〉のだ。それは〈鏡〉のようにいつまでも飽くことなくみつめつづけられるものではない。たゆたい、うつろい、波間に、或いは、あぶくが割れ、きえゆくものだ。〈内面〉が生まれるまえに、〈きえる〉のだ。顔、が。

でも、それが、大事なのではないか。

〈鏡〉はわたしたちの「顔」をうつし、そこでなにかを考えるにはあまりに強度をもっているのではないかと思うのだ。むしろ、鏡にわたしたちの顔は吸着されてしまっているのではないかと。偽の内面をつくらされているのではないか。

でも、白湯やお茶という〈液体〉をとおしてなら違う。そこには「人生の主人公ときに替はる気せり」という相対性がある。「いくつもいくつもうつっている」〈わたし〉という相対性。

だからこそ、「どうにか、なる」と思うこともできる。思い詰めないことによって、だ。

わたしたちは「白湯」や「お茶」にうつったわたしの顔をみることによって、〈顔の複数性〉を手に入れることができるのではないかとおもうのだ。それが、「どうにか、なる」ことなのではないか。

顔をうつし、そのうつした顔に魅了されるまえに、もういちどわたしの顔に顔を取り戻すこと。そういう顔の往還運動のなかに、わたしの生の相対性がうまれること。

わたしの顔に、絶対性を与えないこと。

どんなに「死のうと思って」も、たえず、歌を、言語を、顔をとおして〈わたし〉に複数性を与えること。もうひとつの生を。どんなに生が行き詰まっても、わたしたちはわたしとわたしの往還をつづける限り、

どうにか、なる。

  死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
  (太宰治「葉」『晩年』)


          (「月光すわる」『一葉の井戸』雁書館・2001年 所収)