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2017年9月23日土曜日

超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々


  ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび  ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」

現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。

  『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。

  バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
  (同上)

意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。

こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。

『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。

90年代後半の歌になるが

  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける  荻原裕幸
  (『デジタル・ビスケット』)

「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。

あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。

92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、

  だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ  荻原裕幸

などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。

こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。

ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。

だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。

日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。

  春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒  荻原裕幸


          (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)

2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩175[荻原裕幸]/柳本々々


  コミックのZの羅列のあるやうな眠りをぬけてどこかへ行かう  荻原裕幸

荻原裕幸さんの歌/句はいつも〈書字的意識〉に非常に鋭敏だと思う。書字的意識というと難しいのだが、やっぱりこういうしかなくて、これは〈書く〉ということと〈字〉ということを同時に意識している意識ということになる。書くとはなんなのか、そして書き付けられた文字とはなんなのか、それが書字的意識である。

たとえば荻原さんの『あるまじろん』の章扉にこんな文章がある。

  何かを記述しようとするといつもうまくいかなかつた。たとへば犀の卵を書いたつもりでも、それが猫の卵になつたりするんだから始末が悪い。
  (荻原裕幸「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』)

まず「何かを記述しよう」という意識がある。ところがその記述行為が記述行為として機能しない。「犀の卵」と記述しても、「猫の卵」になってしまうのだ。まず〈書く行為〉が機能不全に陥っている。そして同時に、書かれた文字「犀」に裏切られるという〈字の裏切り〉がある。こんなことになってしまっては、書字意識をもたざるをえない。書くとはなんなのか、字とはなんなのかについて考えざるをえない。

掲出歌。漫画ではよく眠っているキャラクターの頭上にZZZZZZZという記号をつけて〈眠り〉を視覚的にあらわすことがある。ところが、語り手はそれを「ぬけて」とマテリアルなものとして意識してしまう。Zが記号にならず、物質的な林や森のようなものとしてあらわれ、そこに〈ぬけだせない〉とらわれた身体と意識を感じてしまうのだ。「どこかへ行かう」とは記述されているが、「どこかへ」と明確なゆくべき場所ももたない。〈Z〉という文字を超えてゆくべき場所は、語り手にはわからない。

『川柳ねじまき』の最後に荻原さんの川柳連作がのっている。タイトルは「るるるると逝く」でやはり書字が意識されている。〈るるるると軽快に逝くんだ〉という川柳独特の悪意と軽快さに満ちたコミカルな感じもあるが、同時にここには、〈おびただしい文字と共にどこにもゆけずに死ぬしかない〉という荻原的世界観にとっては重いテーマもあるようにおもう。

この荻原さんの連作は、意図的に「る」止めで終わる句が多いのだが、以前、小池正博さんが「現代川柳の文体はともすれば『る』で終わるか体言止め(名詞終わり)になってしまう」と述べられていて興味深いなと思ったことがある。たしかにそうで、川柳は切れや切れ字がないため、動詞でなにかをして終わるか、名詞で切れに似たような効果をつくりながら終わることが多い(小池さんの句集のバラエティー豊かな構文をみると、小池さんはある意味、その川柳の根強い無意識の文体共同意識と戦っているようにも思う)。

で、荻原さんはたぶんそのことに気づかれていて、意図的に「るるるる」という共通の書字意識をひっぱりだしているように思う。荻原さんがたえず気にかけているのはおそらく共同的な書字意識だからだ。

  「るるるると逝く」は、私が川柳の潔さにあこがれてまとめた作品だ。しかし、どこか定跡めいたものを呼びこんでしまった気もする。よし、まとまった、と思う端から、一からやりなおしだ、という気分にもなっている。
  (荻原裕幸「るるるると逝く」『川柳ねじまき』2014年7月)

この「定跡めいたもの」「まとまった」という感覚を、〈共同書字意識〉と呼んでみたいような気もする。荻原さんはその〈共同書字意識〉に気づいてしまう。だから、「一からやりなおしだ、という気分にもなって」しまう。

でも一方でそれを転用し、えぐり、引っ張りだしながら「るるるると逝く」という〈書字意識への意識〉をめぐるタイトルをつける。「逝く」と文字ととともに共倒れしながらも、かろうじてそれでも「逝く=ゆく」ことのできる場所への意識、「ぬけてどこかへ行かう」を喚起する。

  祈るのか折れるか未だ決まらない  荻原裕幸

  海と梅との間でなにか音がする  〃

  誤植したみたいに犬が殖えている  〃
   (「るるるると逝く」同上)

それでも、文字の森は、とまらない。文字の森は、『マクベス』のバーナムの森のように、動きつづける。

「祈/折」、「海/梅」、「誤植」。文字たちは荻原さんを「決まらない」と戸惑わせ、「なにか音がする」と気を引き、「殖えている」とおののかせる。そして誰もが〈それ〉をできないであろうハードな不可能性のなかで〈文字〉を「読みまちがえ」させ、あたりまえのように「辞任」させもするのだ。

  鼕や鷂を読みまちがえて辞任する  荻原裕幸

文字って、なんだ。なんなのだ。だって、

  どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
  この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。

  ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。
  (中島敦「文字禍」)

          (「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』沖積舎・1992年 所収)

2017年4月6日木曜日

フシギな短詩99[明恵上人]/柳本々々


あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明恵上人


定型詩は定型がある以上、定型を満たすまでしゃべり続けなければならない。以前このフシギな短詩で富野由悠季さんの富野ゼリフをめぐりながらそんなことを書いた。

丸の内の出光美術館で江戸時代の禅僧・仙崖(せんがい)による禅画を展示した「大仙崖展」をみたことがある。仙崖というひとは〈ゆるかわいい禅画〉として再発見されていった面があるが、展示には筆で大きく○を描いた円相の軸もかけられていた。いろんな○があったのだが、それをみていてちょっと思ったのが、《他にもたくさん描けるものがあったはずなのに○しか描かなかったのはどういうわけなんだろう》ってことだ。

円相っていうのは○として完全な悟りをあらわす。だから余計なものをそこに描いてはだめなのだが、むしろ大事なのは○なのではなくて、そこにほかにも描けたはずなのに・描かないということなのかなと思ったのだ。

絵と短歌というのは実は形式においてよく似ている。それは絵がかならず額や枠やコマを必要とする点が、短歌の定型と形式的に類似するからだ。絵や言葉の意味を決めているのは、実は絵や言葉そのものでなくて、《枠=定型》という形式そのものかもしれないということ。

鎌倉時代前期の僧である明恵上人の掲出歌。定型で29音使えたはずのところをほぼ「あかあかや」で使い切ってしまっている。それ以外も語れたはずなのに、語らなかったこと。もしかして定型において円相を描くのだとしたら《これ》なのかなと思った。「月」という形の○も際だっている。

歌人の橋本喜典さんが『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』という著書のなかでこの歌を引いてこんなふうに解説している。

  この「あかあか」は「明明」で明るく澄みきった月を詠んでいます。戯歌(ざれうた)のように言われますが、無限・夢幻の感のただよう宗教性が私には感じられるのです。
  (橋本喜典「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法角川書店2016年)

橋本さんがどうしてこの歌に「宗教性」を感じたのか。それはこの歌が「あかあかや」を繰り返すことによって言葉=意味の領域を離脱し、無限に円環する○の領域に入ったからではないか。それは言葉=意味=分節の支配しない主客のない領域だ。ただ○だけが茫漠と月のように浮かぶ領域。もちろんその○に意味などない。あってもなくてもどうでもいい○だ。そもそもそれを認識する〈わたし〉などそこらじゅうに溶け込んでいないのだから。

明恵上人の質感に似た現代短歌を引用してみよう。

  んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸
  (『あるまじろん』沖積舎、1992年)

なぜ語り手は「んんんんん」で埋め尽くさなかったのだろう。「何もかもんんんんんんん」なら「何もかも」さえ語らずに「んんんんん」で埋め尽くせばいいではないか。ところが語り手はそれをしなかった。「何もかも」が「何もかも」と繰り返されている。ここがこの歌の《ポイント》なのでないか。「んんんんん」ではなくて。

「んんんんん」と「ん」を繰り返していくうちに、「何もかも」という有意味的=構造化できる最小限の統語意識さえも《繰り返し》の渦のなかに巻き込まれ「何もかも何もかも何もかも何もかも何もかも」と新たな渦の生成に巻き込まれてゆく。「何もかも」というかすかな意味性さえも「ん」の螺旋のなかで意味をうしなっていく。この短歌はそうした《巻き込まれ》を実況中継的に描いたものなのではないか。

円相という完全な悟りには実は《あと》がある。悟りが悟りとして《終わった》と思ったら、それは《悟り》になりえない。《悟り》と勘違いしているにすぎない。《悟り》には終わりが、ない。だから、悟りのプロセスを描いた十牛図には、円相のあとにさらに絵が続いてゆく。○で終わりではないのだ。終わらないことをうけいれられることこそが、悟りだから。

わたしはその「○で終わりではない」をこの「んんんんん」の歌に見いだしたいと思う。《巻き込まれ》ながら、《巻き込み返し》ながら、「んんんんん」の大海のなかで悟りかけながら・悟りきらずに生きてゆくこと。そこにひとつの「難題をすり抜けていく」希望を見いだしたいと思う。

  難題をすり抜けていくんんんんん  吉田吹喜


          (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年 所収)





2016年11月22日火曜日

フシギな短詩60[平岡直子]/柳本々々




  三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった  平岡直子

短歌には有名な「三越のライオン」が歌がある。そこから入ってみよう。

  三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ  荻原裕幸
  (「未完歌集『永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


この荻原さんの歌には実は「栄にて。四首」という詞書がついている。だからこの「三越」は「名古屋三越 栄店」ということになる。今も「三越栄店」に行けば、この「ひとりふたりさんにん」の列にあなたも加わることができるというわけだ。そして注意したいのが「四首」と続きものになっていることだ。その四首のなかには、

  噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる  荻原裕幸

  細ながき空地のふかく空きをれば誰かが植ゑてあぢさゐの列  〃
  (前掲)

といった歌がある。これらも合わせてライオンの歌を考えてみるとどうなるのか。

まずわかるのは、語り手が興味関心を多分に示しているのが〈不可解な力〉だということだ。「何の力だ」という驚きとおののきに端的に現れているように語り手にはそれが「何の力」なのかはわかっていない。しかしそれが「力」であることはわかっている。その「力」の分類ができないのが語り手の立ち位置である。分類ができない力だから驚いている。

他の二首もみてほしい。「何が見させる」とやはり語り手は自分が「噴水」を見てしまうその力を理解できていない。また「あぢさゐの列」に対して「誰かが植ゑて」とここでもその「あぢさゐの列」を生成する力学の〈もともと〉の所在を語り手は「誰か」としか把持できない。

名古屋の「栄」において語り手は〈不可解な力〉に遭遇していた。

では、平岡さんの歌はどうだろう。平岡さんの歌では〈不可解な力〉への遭遇が回避されている。荻原さんの語り手は、所在はつかめなかったものの「力」には出会うことができた。「力」が機能している現場に居合わせることができた。ところが平岡さんの現場は徹底して〈無・力〉なのだ。

それは「三越のライオンに」という対象を特定する助詞「に」が取り払われて、「三越のライオン見つけられなくて」と〈片言(かたこと)〉になっていることからもわかるだろう。「見つけられ」なかったのは「ライオン」だけではない。助詞も、である。

しかも、〈見つからない〉というのを《あえて》「見つけられなくて」という長い迂遠の語りを採用している。語り手はこのことばの長さのとおりにそれだけ〈さがす力量〉を持ち合わせていた、にもかかわらずその力量に応えてくれる「ライオン」がいなかったということなのだ。無・力。

もちろん、この歌では文法もまた無力である。〈悲しかった〉という心情に見合ったなめらかな言葉は採用されず、「悲しいだった 悲しいだった」と無骨なぎこちない凸凹の文法が二度も採用されている。文法でさえも、無力なのである。

だとしたら、この平岡さんの歌は、荻原さんの「力」の歌を、〈脱力〉させ、解体する積極的無力の歌とも言えるのではないか。

荻原さんの歌では、「ライオンに手を触れる」人間たちについては「ひとりふたりさんにん」とひとりずつていねいに語っているが、「ライオンが見つけられ」なかった人間については語っていない。そこでは「力」に触れられなかった者はある意味、〈スルー〉されたのだと言ってもいい(ただし、語り手は〈遠目〉からその光景をみていた。「何の力だ」と。だからこの歌はある意味で、「何の力だ」から語り手自身が排除(スルー)される歌にもなっている。その意味ではこの歌は構造的に〈スルー〉を〈スルー〉していない)。

しかし、その「ライオン」さえも「見つけられ」なかった、「力」にふれることさえできない者たちがいること。しかもそれを他者に伝達することばの力さえも持たない者がいること。そういう視点を平岡さんはこの歌に導入しているように思うのだ。

それは「力」に触れ得なかった者たちが「ひとり/ふたり/さんにん」と無力でありながら生きていくための「生き延び方」についての話だ。

    海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した  平岡直子
         

 (「生き延び方について話した」『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)