-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月11日月曜日
超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
穂村弘さんの解説がある。
「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
(穂村弘『近現代詩歌』)
穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。
前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく 斉藤斎藤
この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。
宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。
宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。
崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく
こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。
スローモーションの魔術。どんなジャンルでもあえて低速にすると、高尚なものより尊重されやすいような気がする。
(千葉雅也『別のしかたで』)
こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。
(岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)
微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。
限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。
動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。
チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
(長谷正人『映画というテクノロジー経験』)
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年9月2日土曜日
続フシギな短詩194[佐佐木幸綱]/柳本々々
のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ 佐佐木幸綱
佐佐木幸綱さんの短歌がなしたことに、〈垂直〉の〈縦の身体性〉を、〈立つ〉ということを、しっかり短歌として定着させるということがあったのではないかと思う。この〈立つ〉身体性があらわれている歌をひいてみよう。
サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん 佐佐木幸綱
一生は待つものならずさあれ夕日の海驢(あしか)が天を呼ぶ反り姿 〃
噴水が輝きながら立ちあがる見よ天を指す光の束(たば)を 〃
噴き出ずる花の林に炎えて立つ一本の幹、お前を抱(いだ)く 〃
垂直に立つ「サンド・バッグ」にすべてのエネルギーをたたきつけ眠る語り手、天を呼ぶ反り姿の屹立したアシカ、天を指す光の束としての立ち上がる噴水、一本の幹のようにもえ立つ抱かれるお前。
ここにあるのは、あらん限りの〈立つ〉ことへの関心だと思う。この〈立つ〉ことの身体性を短歌に定着させることが佐佐木さんの短歌のひとつの力強さだったのではないかと思う。
それがなにが大事なのかというと、そうやって強く定着した〈立つ〉ことの運動性があってこそ、〈横〉の運動性が、またそれに反響してつながってくるからだ。たとえばここで取り上げたものでいうと、
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
決して〈立ち上がる〉ことのない「横」の運動性しかもたない(あるいは螺旋)「象のうんこ」に話しかける、もう倒れそうな語り手の〈横〉性。
たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航
「横」向けになったペットボトルを補充しつづける親の収入を超せない「横ばい」どころか「下降」してゆく「僕たち」。冒頭の掲出歌とこの歌を比較してみてほしい。ここには「まっすぐ」も「どんどんのぼれ」もない。それは永遠の横への補充であり、その永遠のゲームに生き残れても生き残れなくても、どちらにしても、どんどんあとは下降してゆくだけだ。
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
玉川上水にながれつづけるからだ。やはりこれも横の身体性であり、かつこの身体には「人のからだをかってにつかって」と身体の主体性も剥奪されている。
こうした〈横の身体性〉がとても効果的に感じられるのは、定着された〈縦の身体性〉と響きあってこそではないかと思うのだ。こうした縦から横への身体の系譜があって、その系譜ごと、これらの短歌を〈感じている〉部分があるのではないかと思うのだ。
あなたがたとえ絶望しつっぷしているときも、あなたはもしかしたら身体の系譜学のなかで、歴史的身体性のなかで、つっぷしているかもしれないということ。
満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ 佐佐木幸綱
(『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)
2017年8月28日月曜日
続フシギな短詩181[野沢省悟]/柳本々々
ハンカチを999回たたむ春の唇 野沢省悟
鶴彬を取り上げたときにも少し話したが現代川柳は身体のパーツに比重を置く。なんでかは、わからない。川柳というジャンルが、近代化をなしとげられず、立派な主体を手に入れられなかったことの反動として、部位に着目するようになったのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、近代化できず、去勢された精神分析的な主体が、身体の部位に着目しだすのは、そんなに無関係な話でもないような気がする。
1989年に野沢省悟さんによって復刊された中村冨二句集『童話』(1960年)がある。現代川柳を作者から切り離して作品だけで読めるのを実践したのが戦後の中村冨二だった。作品だけで読めるようにはどうすればいいかというと、作者の実人生とつかず離れずの距離をとりながらも、言語構築の面を前面化させることだった(と私は思う)。たとえば、
影が私をさがして居る教会です 中村冨二
嫌だナァ──私の影がお辞儀したよ 〃
私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ 〃
肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ 〃
(『童話』かもしか川柳社、1989年)
ここでは「影」と「私」が転倒している。だんだん「影」の方が主体性を発揮しはじめ(「さがして居る」)、行動的になり(「お辞儀したよ」)、生命力を増し(「鰯を喰ふ」)、ついには「私」を滅ぼす(「私の消滅だぞ」)。
「私」と「影」の位置性をひっくりかえすことで、意味作用がまったくちがう風景になること。わたしがきえてゆくこと。こうした言説展開がここにはとられているように思う。言葉の構築のしかたによって、わたしは消えるのだ。
このように言葉によって部位に率先して主体性を与えるのが言葉を構築するということでもある。川柳はそれを前面におしだしてきた。野沢省悟さんの句が入った句集タイトルは『瞼は雪』なのだが、ここにも部位そのものが「雪」として、世界として、前面に展開していくようすがうかがえる。「瞼」が「雪」という季と同等であることは、掲句の「春の唇」というふうに、「春」と「唇」が接続されているところにも見出される。部位は、季と同等なほどの、存在感をもっている。冨二の「影」が力強かったように「ハンカチを999回たたむ」ちからをもっているのが「唇」である。さきほどの冨二の「影」は野沢さんの句のこんなところに流れ込んでいるかもしれない。
下半身の僕は人を踏みつける 野沢省悟
上半身の僕は人に踏みつけられる 〃
冨二の私から分離した「影」によって私の位置性が変わっていったように、どのように「僕」が分離していくかで、僕の主体性も変わってゆく。僕は分離の仕方によっては「踏みつけ」、分離の仕方によっては「踏みつけられる」。こうした〈半身の主体〉というものを川柳はかんがえてきた。
川柳にとって〈パーツの哲学〉はとても大きい。わたしたちの身体の部位はあまりに広大・深遠で、わたしたちはじぶんの手や足や唇や瞼や影や膝に、まだたどりついてさえいないのかもしれない。
膝までの地獄極楽 河渡る 野沢省悟
(「春の唇」『瞼は雪』かもしか川柳社・1985年 所収)
続フシギな短詩179[鶴彬]/柳本々々
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬
「大東亜戦争の入口で、一人の川柳作家が特高の手で追いやられた。二十九歳の鶴彬(ツルアキラ)である」(秋山清『日本の名随筆別巻53 川柳』)と語られる鶴彬だが、鶴のよく「反戦的作品」として紹介される句にうえの掲句がある。ほかにも鶴には、
万歳とあげていった手を大陸において来た 鶴彬
というこれもよく引用される句もある。
どちらも〈戦争〉を通過した身体がばらばらになったメッセージ性の強い句になっている。
現代川柳では今でもよく身体のパーツがばらばらになるという不思議な現象がみられるのだが(それが現代川柳が不気味さや幻想に傾く理由なのだが)、鶴彬の句では身体のパーツが分離することが〈反戦〉というメッセージ性になっている。それは江戸川乱歩「芋虫」のような、「手と足をも」がれて戦地から帰ってくる人間たちである。
夫が負傷して内地に送り帰されるという報知を受け取った時には、まず戦死でなくてよかったと思った。
いかめしい医員であったが、さすがに気の毒そうな顔をして「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、包帯のために丸くなった胴体ばかりが無気味に横たわっていた。それはまるで生命のない石膏細工の胸像をベッドに横たえた感じであった。
(江戸川乱歩「芋虫」)
身体のパーツは海のむこうの「大陸」におかれたまま、こちらに帰ってくる。戦争とは実はわたしたちの身体地図の更新にもなっている。戦地にわたしの身体は分離されたまま置き去りにされ、非主体的主体の「芋虫」のような〈わたし〉は〈こちら〉に帰ってくる。でもほんとうのわたしの身体の位相はどこにあるのか。戦地なのか、銃後なのか。身体地図と地政学的な地図が戦争によって重ねられ、個人個人の負傷した身体によって書き換えられていく。
銃後といふ不思議な町を丘で見た 渡辺白泉
私が興味深いなと思うのは、たとえば渡辺白泉の次のようなやはり〈戦争〉をめぐる俳句を思い出したときである。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
憲兵の前で滑つて転んぢやつた 〃
川柳では身体のパーツが分離(セパレート)してしまうのだが、俳句では「立つてゐた」「滑つて転んぢやつた」と身体を駆使して戦争を描いている。戦争自身に「立つ」ための身体を与え、憲兵の前では身体をぞんぶんに使ってダイナミックに転ぶ。この違いは、なんだろう。「戦争」の「手と足」とは、なんなのか。
別にこんなことは俳句と川柳の違いじゃなくて、白泉と鶴の位置性の違いなのかもしれない。でも、それでも、そこには、なにかしらの俳句と川柳の違いがあるのかもしれない(鶴彬は俳句と川柳の違いに敏感であり、それは階層の違いと述べていた)。もしかしたら川柳というジャンル自体が去勢され続け、近代化も逃し、いまだに自立したジャンルとなっていないということとも川柳の去勢された分離する身体は関係があるのかもしれない。
戦後桑原武夫が俳句を「芸」と断じて、俳壇に爆弾を落し、俳句界を震撼させたが、俳句を「第二芸術」ときめつけた桑原も川柳に対しては無関心であったというより全然その存在を認めていなかったようである
(河野春三『日本の名随筆 川柳』)わからない。わからないけれど、でも、現在も、俳句は足を駆使し、川柳は、身体を分離しつづけている。
今走つてゐること夕立来さうなこと 上田信治
夜の入口ではぐれたくるぶし 八上桐子
(「鶴彬」『日本の名随筆別巻53 川柳』作品社・1995年 所収)
2017年3月3日金曜日
フシギな短詩89[竹井紫乙]/柳本々々
階段で待っているから落ちて来て 竹井紫乙
竹井紫乙さんの川柳のなかでは、誰かと、誰でもいいのだけれど、誰かとつながることは〈身体感覚〉そのものではないかと思うことがある。
たとえば掲句。「待っているから落ちて来て」という。「待って」くれてはいる。しかし「落ち」なければあなたに会えない。「階段」だから「落ち」たら痛いだろう。
つまり、あなたに会うためにはわたしは傷つかなければならない。落ちなければならないし、身体に傷をつけないといけない。傷つくと、会える。
だからこんなふうに言い換えてみるのも面白いかもしれない。紫乙さんの川柳のなかでは、いつでも〈会う〉ためには〈身体が人質になる〉必要があるのだと。
再会は味付け海苔の味がした 竹井紫乙
「再会」はうれしいのでもかなしいでもない。「味」なのである。身体感覚だ。ここでも「身体」が人質として提供された。味覚として。舌を刺激し、かすかな傷から、「味付け海苔の味」が生まれる。
だとしたら逆にこの句集で身体が人質にならない句はどうなっているのだろう。つまり、身体がぶらぶらしているような句は。
悪い事する両腕は手ぶらです 竹井紫乙
「手ぶら」の「両腕」は「悪い事」をするためにある。「悪い事」の解釈はいろいろできると思うが、〈再会〉や〈出会い〉におもむかず、自由な身体が「悪」に回収されていってしまったのはたしかなことだ。身体が人質にならない場合、「悪い事」が待っている。この世界ではフリーで〈からっぽ〉な身体はひとに結びつかず、エゴに結ばれていく。たとえば、
夜遊ぶ底なし沼にいるみたい 竹井紫乙
癖になる空っぽになる遊び方 〃
透明な扉 あなたは罪深い 〃
紫乙さんの川柳のなかにおいては〈身体の傷〉こそが〈出会いの場〉となる。それは別の言い方をすれば、〈傷〉は他者と結びついてはじめて〈傷〉そのものになるということだ。それが〈身体の人質〉ということでもある。
音も無く転ぶ祭りの真ん中で 竹井紫乙
だからあなたは〈傷〉つく瞬間はきちんと〈傷〉つかなければならない。転ぶしゅんかんは、ちゃんと声を上げて音を立てて転ばないといけない。そうじゃないと、だれも、あなたを気づいてくれなしい、待ってもくれないから。
痛い、は、つながること。
体から色んな枝が出て痛い 竹井紫乙
(「高天」『白百合亭日常』あざみエージェント・2015年 所収)
2017年1月27日金曜日
フシギな短詩79[望月裕二郎]/柳本々々
さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく 望月裕二郎
前回、望月さんの歌とからだの話で終わったのでそのまま続けよう。
私は前回、望月さんの「からだ」は「嘘」をつくことがあると書いたけれど、「嘘」をつくというのは別の言い方をすれば、「からだ」がマジックボックスのような不思議な装置と化することなのだと言うこともできる。
たとえば掲出歌の「さかみちを全速力でかけおりる」から、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』を思い出してみてもいいかもしれない。「さかみちを全速力でかけおり」る爆発的なエネルギーが身体のリミッターを解除し、その解放された身体性が時空を超越させる。
『時をかける少女』にあったのは身体のたががはずれるとともに時空のたががはずれる身体性であり、だからこそひとは「時をかける」ためには「かけ」なければならないのだが、しかしそうして「かけおり」たひとには「幕府をひらく」ことさえできてしまうというマジカルな身体がここにはあらわれている。
前回の望月さんの「玉川上水」の歌もそうだし「べらんめえ」の歌もそうだが、身体(からだ)は戦後に、江戸に、鎌倉時代にいっきに、かけおりていく。
前回も《身体の答え合わせ》として引いた歌だが、
そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ 望月裕二郎
この歌をみてわかるとおり、身体の幸福な一致という答え合わせができてしまっていたのは、「むかし」であり、しかもその「むかし」とは「どのむかし」かもわからない浮遊する「むかし」であり、〈いま〉のわたしたちの「からだ」とは関係のないことなのである。それはそんなこと言われれば、「どのむかしだよ」といらつくくらいには望月さんの歌のなかでは非常識な問いかけとみてもいい。身体は答え合わせできないくらい、ズレている。時空とともに。
逆にいえば、時空の改変とともに、たえざる身体のハイブリッドな改造がなされているのが、望月さんの歌における「からだ」である。だから前回の
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
これは〈身体改造〉の歌とみてもいいのかもしれない。「からだをかってにつか」うとは、身体の改変のことであり、玉川上水水流循環動力生成装置として身体改造された「人」の歌とみてもいいのかもしれない。もちろんここにも「いつまで」という時間への意識がねりこまれている。必ず身体は時間とともにあり、時間とともにある身体は改造されていく。
しかし、玉川上水水流循環動力生成装置と化した身体はどうなってしまうのだろう。それは人造人間というよりは、もはや、〈人造都市〉ではないか。しかし、望月さんの歌ではちゃんと人造都市の歌も用意されている。だから、心配はないのであった。
だらしなく舌をたれてる(牛だろう)(庭だろう)なにが東京都だよ 望月裕二郎
次回は、R15指定。引き続き、「玉」の話です。
(「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架』左右社・2015年 所収)
2017年1月24日火曜日
フシギな短詩78[伊藤左千夫]/柳本々々
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる 伊藤左千夫
太宰治が死の直前に友人に色紙に書いて送ったことで非常に有名になった歌。
太宰治は齋藤茂吉・土屋文明編『左千夫歌集合評』を愛読していたという。その本のなかに掲出歌は収められている。
放送大学「和歌文学の世界」において担当教授である島内景二さんはこの左千夫の歌をこんなふうに解釈している。池の水は濁っていて、その真上で咲いている藤の花の影もうつらない。歌の意味としてはそうなのだけれど、しかし、左千夫のこの歌には今は見えないけれどもたしかに存在している「藤」をまなざしている視線があるのだと。一見してみえない「真実の世界」をみようとしている「眼力」の歌なんだと。だから太宰治もその一見みえない「真実の世界」をじぶんの混乱した生活の外に見いだそうとしたのではないかと。
私が島内さんの解釈をきいて興味深かったのがその構造である。たしかにこの歌は、〈見えない〉ものを〈見えない〉ものとして〈わざわざ〉語ることによって〈見える〉ものにした、〈見えない〉ものをとおした〈見える〉世界の歌なのだ。「藤波の影」はふだんは映っている。晴れの日の水面には。ところが雨が降りしきり濁った水面にはそれはもはや〈映っていない〉。ところがその〈映っていない〉ことを通して〈映るはずべき〉ものを語っているのだ。
それを太宰治が死の直前に友人に書いて送ったというのは、もしかしたら彼はその〈構造〉をそのまま手渡したのではないかと思う。自分の死=心中に関してはしょせん誰にも〈ほんとうのこと〉はわからないでしょう。なにもうつるはずのものでもないのですから。ただ「うつらず」とも多くの人間がわたしの死後、わたしの〈死〉を、「藤波の影」を語るでしょう。
別に太宰治の死だけではない。この「藤波の影もうつらず」しかしそれを語ろうとすることは社会のニュースやゴシップを見渡せばすぐに発見できる事柄である。ひとはほんとうのことは知らなくても、〈うつるはずべきもの〉がそこにあれば何かを語りたがる。これは物語の基本的な機制そのものではないか。〈うつる〉から語るのではない。〈うつらない〉から〈うつるべき〉ものを語るのだ。どんなに水面が濁っていても。
ここで少し視点を変えたい。太宰治の〈心中〉を詠んだであろう現代短歌にこんな一首がある。
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって 望月裕二郎
(「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架宣言』左右社、2015年)
不思議な歌だ。「玉川上水」や「ながれている」「からだ」「つかって」など、太宰治の玉川上水における〈心中〉要素はちりばめられているが、実は望月さんのこの歌自体には「太宰治」をめぐる歌だという決め手は、ない。
また語りの視座も不思議な位置をとっている。語り手は「人のからだをかってにつかって/いつまでながれているんだよ」といらついているが、だとしたら語り手は「からだ」を奪われた状態にいるということになる。「玉川上水」の〈水中〉に語り手の「からだ」は「ながれ」たまま存在するのだが、しかし、語り手はそこにはいない。語り手を「人」と呼称するような距離感の誰かが「かってに」語り手の「からだ」を「つかって」いるのだ。
私はこの歌は、三千夫の、そしてそれを死の直前に引いた太宰の文脈に沿って読めば、〈意味〉の歌なのではなく、〈構造〉の歌なのではないかと思う。
ほんとうは「玉川上水」に「ながれ」る〈当事者〉であったはずの語り手は「からだ」を奪われ、当事者性を剥奪されている。だから、「いつまで~いるんだよ」といらついている。語りの位置が安定しないからだ。だとしたら〈ほんとうの位置性〉のようなものは〈誰〉が測位できるのか。
左千夫の歌も〈ない〉ものを通して〈ある〉ものを語っていた。〈ほんとうの位置性〉がどこにも定まらない形の〈まま〉で定型として形式化されたのが左千夫の歌だ。ここには「濁りににご」った水面しかほんとうはないはずなのに、しかし、〈ない〉ものであるはずの「藤波」はそこに〈ある〉。定型のなかでなにかがズレて、わきだしている。
太宰治の〈情死〉もそうだろう。実はそれは〈心中〉なのか〈他殺〉なのかもわからない。わたしたちがわかるのは、ひとりの男とひとりの女の「からだ(ボディ)」が玉川上水に沈んでいたこと、そして玉川上水が急流だったためになかなかそれが見つからなかったことだが、〈ほんとう〉のことはわからない。
伊藤左千夫の藤の歌-太宰治の情死-望月裕二郎の玉川上水の歌。
この三つの点をラインとしてつなぐのは、〈ズレ〉を〈ズレ〉のまま抱える位置性かもしれない。だれも〈答え合わせ〉はできないのだ。望月さんの歌の語り手はすでに「からだ」を奪われており、「いつまで」もみずからの「からだ」の〈答え合わせ〉ができない。
身体(からだ)の答え合わせ。
そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ 望月裕二郎
もしかしたら「からだ」というのは〈答え合わせ〉の場所なのかもしれない。ところが「玉川上水」というトポス(場所性)はその〈答え合わせ〉を狂わせる場所として機能している。そしてその「玉川上水」性はそれとなくわたしたちの「からだ」にも胚胎しているのかもしれない。
だとしたら、望月さんの歌は〈太宰治〉のための歌ではなく、わたしたちの、わたしたちの「からだ」のための歌なのではないか。身体を手にいれられなくて、いらついていたのは、実はわたしたちの方なのだ。「からだ」も「嘘」をつくから。「からだ」は違う〈時間〉を胚胎し、ズレてゆくから。
ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ 望月裕二郎
せっかくこんなとこまできたので、もっとズレて、次回に続く!
(「和歌文学の世界第14回「近代短歌の世界」」放送大学・2017年1月13日 放送)
2017年1月17日火曜日
フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々
はなびらを噛んでまぶたのすきとおる 八上桐子
神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。
八上さんは新子さんの
花びらを噛んでとてつもなく遠い 時実新子
という句をあげた上で、自身の句として
はなびらを噛んでまぶたのすきとおる 八上桐子
という句を詠んだ。
ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。
新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。
「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。
新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。
八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。
ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。
まとめよう。
なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。
その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。
私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。
受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。
ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。
そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。
「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。
「まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。
大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。
味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。
シマウマの縞滲むまですれ違う 八上桐子
(「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)
(八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)
2016年4月1日金曜日
フシギな短詩10[小倉喜郎]/柳本々々
掻き分けて掻き分けている春の指 小倉喜郎
句集のタイトルは『急がねば』。おもしろいタイトルだ。語り手は、いま、急いでいる。あるいは、急ごうと思っている。急がなければならない状況に身をおいている。なんらかの〈多忙のプロセス〉に語り手はいるのだ。
掲句はまさにその〈プロセス〉にある。「掻き分けて」いる。「掻き分けて」いる。大事なことなので二回掻き分けている。たぶん、二回掻き分けたのだから、三回目もあるだろう。四回目も。五回目も。
しかも、指だ。語り手が注目しているのは「指」という身体のパーツである。「春の指」で「掻き分けている」対象そのものに注目するのではなく、今「掻き分けている」みずからの「指」そのものに意識を注いでいるのだ。
つまりこう言い換えることもできる。語り手の意識のなかで「掻き分け」られているのは、〈今まさに掻き分けている〉「指」そのものなのだと。
「掻き分け」て「掻き分け」て「掻き分け」ているなんまんぼんもの「指」が語り手の意識のなかでひしめいている。「掻き分け」る対象はひとつでも、「掻き分け」る「指」の〈行為〉に着目してしまった語り手にとって行為は〈えいえん〉に続くだろう。
「春の指」は、〈意識の繁殖〉のなかにある「指」でもある。意識のなかでぞろぞろと生えていくゆび。それはもう自分のゆびではなく、なかばモノとしてのゆびだ。うっそうと生えているゆびだから〈意識のなかで〉掻き分ける指そのものを掻き分ける。意識のひだをめくってもめくっても意識がやってくる。それだから、やっぱり、
掻き分けるのだろう。
ゆびきりの指が落ちてる春の空 坪内稔典
この「指」とおなじ位相にある「指」のようにも思う。それはすでに意味的統合から乖離してしまった指だ。だれのものでもない。あえていうならばそれは「春」が所持している「指」。
ただ、この句の語り手と小倉さんの句の語り手が違うのは、語り手がなんだか〈急いでいた〉ことだ。語り手は〈多忙さ〉のなかで「掻き分け」ることをやめない。
永遠に続く自販機桃の花 小倉喜郎
「自販機」のような自動的なアクションの装置が「永遠に続く」風景。その「永遠」のなかで語り手は「急」いでいる。なにかが、欠けている。なにかが、うしなわれている。統合しえない〈部分の風景〉。
立春の箱から耳を取り出して 小倉喜郎
緑陰に脳がいくつも落ちていたよ 〃
語り手にとって〈身体〉はわたしを完成させる部位としてあるよりも、〈そこらへん〉に落ちている未完のモノだ。この句集のなかで身体は〈バラバラ〉であり〈未完成〉なのである。
だからこんなふうにも思う。語り手は身体を完成させるために「急」いでいるのかもしれないと。それならば私にもわかる。私もきっとこう言うはずだ。
「急がねば」。
でも、語り手は、人間の身体のパーツではなく、象のパーツを買いに行ってしまう。
待春や象のパーツを買いに行く 小倉喜郎
だから私は再度いうだろう。「いや、ちがうんだ。別の仕方で《急がねば》」。
(『急がねば』ふらんす堂・2004年 所収)
2016年3月18日金曜日
フシギな短詩8[宮本佳世乃]/柳本々々
桜餅ひとりにひとつづつ心臓 宮本佳世乃
前回は中山奈々さんと〈心臓〉をめぐる話で終わった。奈々さんにとって〈心臓〉は〈どっかにある〉ものだった。
佳世乃さんにとっては、どうか。
それは、「ひとりにひとつづつ」あるものだ。
どうしてこんな〈当たり前〉なことに語り手は気がついたのか。
それは季語「桜餅」を通しての発見だった。私はそう思う。
桜餅は、餡がピンクのもち米によって包まれ、さらにそれが、塩漬けされた桜の葉によって包まれている食べ物だ。ある意味で、構造化された食べ物であり、きちんと〈定型(作り方)〉が決まっている〈定型的な食べ物〉だ。
〈心臓〉も、そうだ。わたしたちが〈どう〉あがいても、奈々さんが〈どっかにある〉と措定しても、〈心臓〉は〈ひとりにひとつづつ〉しかない。それが〈心臓〉の〈定型〉だ。ひとつにひとつずつ餡が律儀に詰まった「桜餅」みたいに。
そしてその〈当たり前〉の〈心臓〉の〈事態〉を語り手は〈律儀に・きちんと〉定型におさめた。定型的な心臓を定型でもういちど組織化した。それが語り手にとっての〈心臓観〉になるんじゃないかと思う。定型できちんと〈心臓〉をおさめられたこと。そうで《しか》ないあり方で〈心臓〉を詠むこと。生の律儀さを、みくびらないこと。
ひとつづつ細胞の核春の山 宮本佳世乃
語り手は〈これしかない〉身体に気がついている。ひとりにひとつずつの心臓、ひとりにひとつずつの手、ひとりにひとつずつの足、ひとりにひとつずつの内臓、ひとりにひとつずつの細胞の核、ひとりにひとつずつの身体の《仕組み》。わたしたちの身体は、桜餅のように、驚くほど律儀だ。
死に行くときも焼きいもをさはつた手 宮本佳世乃
そのひとりにひとつずつ与えられた身体の仕組みを背負って死んでいくことも、語り手は、ちゃんと知っている。ひとりにひとつずつ与えられた「手」をもって、わたしたちは、死んでいくのだ。
それは、公務員のような神様が、律儀にもわたしたちにひとりにひとつずつ与えた、生だ。
(「星に塗る」『鳥飛ぶ仕組み』現代俳句協会・2012年 所収)
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