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2017年9月29日金曜日

超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々


  身も世もなく恋をした果ての結婚も
  なんとなくなりゆきで
  気がついたらしていた結婚も結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに  江國香織「世界じゅうに結婚が」

江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。

  あの路地にもこのビルにも
  結婚したひとたちが住んでいて
  あの電車にもこのバスにも
  結婚したひとたちが乗っていて
  あの花屋でもこの八百屋でも
  結婚したひとたちが働いている

  続いていくそれも
  破綻するそれも
  みずみずしいそれも
  かさかさのそれも
  饒舌なそれも
  寡黙なそれも
  結婚は結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに
  (江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)

この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。

ただ、それを、びっくりしている。

〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。

「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。

「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。

江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。

こんな詩をみてみよう。

  よく知らない男の人と
  寝るときには緊張します
  と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
  最初のときには
  誰だってよくは知らない男の人です
  すこしずつなじみ
  いとしんだりいとしまれたり
  あふれたりあふれさせたり
  して
  やがて
  よく知っている男の人と
  安心して寝られるようになります
  (江國香織「よく知らない男のひと」同上)

ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。

  けれど
  でも
  よく知っている男の人とのあれこれはみんな
  おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
  記憶のなかでしたたかに微笑み
  私を誘(いざ)ない
  焦がれさせるのは
  もうどこにもいない
  よく知らない男の人
  だったりします
  (江國香織、同上)

「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。

語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。

  けさ
  めがさめて
  さいしょに
  たこを一匹
  まるごと茹でて
  たべたいと
  おもった
  (江國香織「一月の朝」同上)

「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。

だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。

  そして私は
  二月の音楽にとじこめられる
  ミートソースの具体的な匂いまで

  私はなぜまだここにいるのだろう
  ひとりで この世に
  この部屋のなかに
  (江國香織「二月の音楽」同上)


          (「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)

2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩186[萩原朔太郎]/柳本々々


  まつくろけの猫が二疋(にひき)、
  なやましいよるの家根のうへで、
  ぴんとたてた尻尾のさきから、
  糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
  『おわあ、こんばんは』
  『おわあ、こんばんは』
  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
  『おわああ、ここの家の主人は病気です』
          萩原朔太郎「猫」

この詩で気になっているのが、語り手はいったい《どこ》にいるのかということだ。朔太郎の書いたものには、この《どこ》がつきまとっているのではないか。たとえば、萩原朔太郎に「猫町」という猫の町に迷い込んでしまう散文がある。しかしこの語り手が、また、怪しい。

  久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。
  (萩原朔太郎「猫町」)

猫の大集団がうようよと歩いてい」て、「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れてい」る猫町に迷い込んだ語り手は、冒頭、「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」語り手なのだとみずからの位置性を語っている。この「猫町」はそういう人間が迷い込んだ猫町なのである。これは、主観と客観の合間の物語だともいえる。だから、きょうあなたがコンビニにゆきがてら、猫町行こっかな、というふうには行けないのだ。主観と客観のさかい目がなくなるくらい、クレイジーにならなければいけない(クスリを使うと簡単にいけるのだが、実際この語り手もクスリを使っている。でも、クスリ、ダメ、ゼッタイ)。

冒頭の詩は、「猫」という詩である。「猫が二疋、/なやましい夜の家根のうへで」と「猫」を観察している描写があり、また、「夜」をなやましいと叙述しているので、これは、「夜」をなやましく思う語り手が「猫」を観察しながら語っている詩だということができる。「なやましい夜」を過ごす人間が、この詩を語っている。視覚化してしみよう。

 ●(悩ましい詩を語ることのできる人間)→★★(黒猫二匹)

さらにその語り手は、猫をこえて、「糸のやうなみかづき」をみている。かすんではいるが。奥に三日月がある。

 ●→★★→△(かすんでいる三日月)

ここで語り手が猫の「ぴんとたてた尻尾のさき」をみた瞬間、「みかづき」に視線が即座に《移ろって》しまっていることに注意したい。この語り手は、じっとなにかを静止してみつめているタイプではない。視線がさっと瞬間的にうつろってしまうタイプの語り手なのである。なやましい夜を過ごしていて、きょろきょろしてしまうそういう語り手がこの詩には設定されている。

猫たちの会話の次の言葉でこの詩はおわる。

  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

この〈病気の主人〉は、なやましい夜を過ごしながらきょろきょろしてしまう語り手に対応してしまう。語り手は「ここの家の主人」なのか。違うかもしれないし、違ってもいい。もし語り手がここの家の病気の主人でないならば、ここらあたりは〈病人〉でいっぱいだということである。

気になるのが猫たちの会話は、「こんばんは」「こんばんは」「ここの家の主人は病気です」とコミュニケーションが成立しているのに、『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』だけ、不可解な言葉になっているところだ。でもその不可解な言葉に《ちゃんと猫は答えている》。つまり、猫は『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』をちゃんと意味として、問いかけとして、受け取っているのだ。

だとしたら、なぜ、語り手にとってはそれは意味として、翻訳できるものとして、聞こえなかったのだろうか?

ひとつこんな推測をしてみたい。それは、語り手にとって、《聞いてはいけない言葉》だったんじゃないかと。たとえば、ここの猫のことばが実は、『おぎゃあ、ここの家の主人は病気なんですか?』という問いかけだったとしよう。しかしその問いかけを語り手はスルーしてしまった。というよりも、この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』という苦悶のうめきのようなものが、《そのまま》なやましい語り手の声そのものになってしまった。だから、ここを、あえて。人間の意味に訳す必要はなかった。この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』は語り手が〈翻訳〉する必要なんてなかった語り手の苦悶のうめき声である。そしてそれは、語り手にとって、問いにならない言葉だ。その言葉をもう生きてしまっているので。

でも、わからない。推測だから、それは推測でしょう、と言われれば、推測ですね、というしかないのだが、ただ冒頭で記したとおり、朔太郎は、「猫町」に迷い込む際に、主観と客観の境界に入り込むことを大切にしていた。じぶんが「見た」っていえば、それは「見た」ことになるんだと。「聞いた」といえば「聞いた」ことになるんだと。現象の絶対化。厄介である。

  だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理屈や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。
  (萩原朔太郎、同上)

この「猫町」には冒頭に、《蠅そのもの》ではなくて《蠅の現象》を潰すショーペンハウエルのエピグラフがあるのだが、感覚世界や現象世界があらわれたとき、その感覚や現象は当事者にとっては〈絶対〉のものとなる。というより、わたしたちは、実は「蠅そのもの」(カントは物自体と呼んだ)には、一生涯かかっても、ふれられていない可能性もある。現象をみて、現象にふれ、現象にまんぞくし、現象的にしんでいく。そういう可能性だって、ある。一生、《物(モノ)》にふれられずに。

でも、現象には、穴がある。物そのものがときどきコポコポと音をたててあらわれてきてしまうのだ。それがこの詩では『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』の箇所なのではないかとおもう。それは、意味や現象にならないなにかである。語り手が、〈物そのもの〉に出あってしまうシーン。現象の裂け目を、裂け目のままに、おぎゃあおぎゃあおぎゃあ、と無意味のままに、うめきのままに、おいたセンテンス。

だから心配しなくても、死のまえに、は、やってくる。はやってきて、あなたにふれる。

  夢──壁には唯物の穴ポコポコあき  中村冨二

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月29日火曜日

続フシギな短詩184[茨木のり子]/柳本々々


  わたしが一番きれいだったとき
  街々はがらがら崩れていって
  とんでもないところから
  青空なんかが見えたりした

   (……)

  だから決めた できれば長生きすることに
  年とってから凄く美しい絵を描いた
  フランスのルオー爺さんのように
                ね
      茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」

「わたしが一番きれいだったとき」なはずなのにその「わたしが一番きれいだったとき」がとうとつに不可避の外部の力によって崩壊させられたとき、「わたし」はどんな言葉に出あうのだろう。

昔からこの詩を読むたびにとても不思議だったのが、最後の行のとっても長い空き(アキ)の空間だった。どうして、

  フランスのルオー爺さんのようにね

ではなくて、

  フランスのルオー爺さんのように
                ね

と、「ように」と「ね」の間にこんなにもアキをつくらなければならないのだろうか。

この詩を、〈空き〉に注目してみると、詩はそのはじめから〈空き〉に満ち満ちている。「わたしが一番きれいだったとき」というわたしが一番充実していたはずのときに、「街」が「がらがら崩れていって/とんでもないところから」大きな〈空き〉があらわれる。その〈空き〉には「青空なんかが見えたり」するのだが、しかし、《そこ》に青空が見えることはもちろん《まちがっている》。みえるべきでない場所にあらわれた青空。「青空」=「わたしが一番きれいだったとき」は、まちがった場所に・時間に、転送されている。

語り手の街はぽっかり大きな穴が空き(戦争だろうか)、「まわりの人達が沢山死」んでそれまで誰かいたはずの空間が空き(戦争だろうか)、「だれもやさしい贈物を捧げてはくれ」ずわたしのありえた関係もなくなり(戦争だろうか)、「わたしが一番きれいだったとき/わたしの頭はからっぽ」だったと綴られる(戦争とはなんだろうか)。

しかし、どれだけ、語り手が〈からっぽ〉でも、その〈からっぽ〉であったことを、詩として、ことばとして、語らねばならない。そうでなくては、〈からっぽ〉自体が〈からっぽ〉になり、〈からっぽ〉自体が消えてしまう。

でも、だからといって、〈からっぽ〉を言葉で語り〈切って〉しまっては、やはり、〈からっぽ〉でなくなってしまう。言葉で語れるからっぽなんてからっぽではないのだから。

そのからっぽの板挟みのなかであらわれたのが、詩のラストにあらわれた〈長大な空き〉なのではないだろうか。「フランスのルオー爺さんのように          ね」と、この「ように」と「ね」が接続されるためには、とっても長い〈空き〉が要請される。それは言葉では埋められないものだ。「ね」という確認や同意の終助詞はこの〈空き〉を経て、やっと、たどりつけるものだった。

詩は、ときにからっぽを、用意する。からっぽだったころのわたしをからっぽにさせないために。

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの国は戦争で負けた
  そんな馬鹿なことってあるものか
  ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
    (茨木のり子、同上)


          (『近現代詩歌 日本文学全集29』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月27日日曜日

続フシギな短詩178[大岡信]/柳本々々


  名前にさわる。
  名前ともののばからしい隙間にさわる。
  さわることの不安にさわる。
  さわることの不安からくる興奮にさわる。
  興奮がけっして知覚のたしかさを
  保証しない不安にさわる。  大岡信「さわる」

大岡信さんの有名な詩で、戦後詩のアンソロジーなどでも掲載されていたりする。詩のタイトルは「さわる」だが、詩の一行目も「さわる。」から始まり、さいごまでその「さわる」をめぐって詩がつづられていく。

この詩では、「さわる」行為が、どんどん抽象化していく。「さわ」ろうとすると「さわ」れなくなっていって、むしろ「さわる」とはなんなのかがせり出してくる。

記事冒頭に引用した詩の箇所、「名前にさわ」っている。これだけでも抽象的なのだが、「名前にさわ」ったときにそこには「名前ともののばからしい隙間」ができる。だから今度はそこに「さわる」。さわるは具体にふれられないどころか、さわる対象は増幅される。「さわることの不安」として。

だから今度はその「さわることの不安にさわる」。すると「さわることの不安」という抽象を通して増幅され、「さわることの不安からくる興奮」がうまれる。そしてさらにその「さわることの不安からくる興奮にさわる」。さわることが、さわるものを、呼び込んでくる。

そして、問いが、提出される。

  さわることはさわることの確かさをたしかめることか。
  (大岡信、同上)

「さわる」ことが「見る」ことにも「知る」ことにも「たしかめる」ことにもたどりつかない。

さわる、ということは、逆にわたしたちをどこにもたどりつかないものにさせる。

  さわることをおぼえたとき
  いのちにめざめたことを知った
  めざめなんて自然にすぎぬと知ったとき
  自然から落っこちたのだ。
   (同上)

「さわること」で「いのちにめざめ」るのだが、しかし「さわること」で「自然から落っこち」る。わたしたちは「さわ」ったことで、なにか決定的な欠落をもってしまう。それは、なんだろう。さわれないなにか、か。こんな歌を思い出した。

  生命を恥じるとりわけ火に触れた指を即座に引っ込めるとき  工藤吉生

「火に触れ」て「指を即座に引っ込める」。そのときにじぶんが生きているということ、「生命」であるということを「恥じる」。

倒置法で語られているように、ここにあるのは条件反射的な「恥」だ。まずとっさに「生命を恥じる」。そのあとでその「恥」の理由がくる。

この歌がおもしろいのは、「指を即座に引っ込める」という条件反射が、いちばん後ろに置かれ、「生命を恥じる」と突然切り出された「恥」が〈むしろ〉条件反射のようになっているところだ。条件反射的感情が、条件反射的形式をうんでいる歌なのではないかとおもう。

さわって、恥ずかしいと思った仕組みがわかる歌だ。でも仕組みがわかっても、たぶん、またさわったら同じことをするだろう。それもまた「恥」をなす理由になっている。「さわる」ことは理屈がわかっても、おわらないのである。火に触れたとき、また即座にひっこめるだろう。さわるには、果てはない。でもなにかそこには感情や意味や理由がうまれる。でもその感情や意味や理由は「さわる」にたどりつかず、またおなじ根本の「さわる」がうまれる。

  さわる。
  時のなかで現象はすべて虚構。
  そのときさわる。すべてにさわる。
  そのときさわることだけに確かさをさぐり
  そのときさわるものは虚構。
  さわることはさらに虚構。
   (大岡信「さわる」)

「さわる」なかで「さわるもの」も「さわること」も「虚構」になっていく。でも「さわる」行為そのものは「虚構」になりきれない。わたしたちは何度でもまた「さわる」にかえっていく。工藤さんの短歌も、言説として理解はできる。だけれども、たとえ意味として理解としたとしても、また「火に触れた指」は「即座に引っ込め」られる。また「さわる」がやってくる。理屈ではない。もしかしたらその人間の代え難い〈底〉のような部分に気付いてしまうことが、〈恥ずかしい〉ということなのではないか。

  さわることの不安にさわる。
  不安が震えるとがった爪で
  心臓をつかむ。
  だがさわる。さわることからやり直す。
  飛躍はない。
   (大岡信、同上)

さわることに、「飛躍はない」のだ。さわってもさわっても、飛ぼうとしても飛ぼうとしても、なんどでも、また「さわる」にもどっていってしまう。飛躍は、ない。


          (「さわる」『ユリイカ臨時増刊 大岡信の世界』2017年7月 所収)

2017年8月23日水曜日

続フシギな短詩172[川口晴美]/柳本々々


  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくらい壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
        川口晴美「春とシ」

川口晴美さんに『シン・ゴジラ』をモチーフにした「春とシ」という詩がある。ただ『シン・ゴジラ』をモチーフにしているとは言っても、「シン・ゴジラ」を知らなくても、単独で読んでいろいろなことを考えられる詩になっている。

なぜか。

ひとつは語り手が、「シン・ゴジラ」のたえず《生まれ・死にゆく》部分に着目し、「シン」を「新」とは安易にとらえず、「シンでいったものたち」と〈動詞〉でとらえたからだ。「シン」を動詞ととらえることで、そこにはその「死んだ」と二項対立をつくる「生まれた」も同時に内包することになった。

  なぜここにこうしてわたしが生きているのかわかりません
  生き残っているのがどうしてこのわたしなのか
  わかりません
  たくさんのシンでいったものたち
   (川口晴美、同上)

「シン・ゴジラ」という生命体はわたしたちの〈外部〉にあるものだが、「シンだ/(ウマれた)」という行為はわたしたち《そのもの》である。

  それはわたしのなかにあるものでした
  それはわたしのなかにもあるものだとわかりました
    (同上)

わたしのなかにある生まれて・死んでゆくもの。そうしたたえずどちらにも・同時にひきさかれてゆくもの。おそろしくて・すばらしいもの。

  地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で
  おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました
   (同上)

ここには『シン・ゴジラ』の怪獣学ではないひとつモチーフが引き出されているように思う。それは『シン・ゴジラ』とは、〈死生学(タナトロジー)〉だったのではないかということだ。それは、生き・死にをかんがえることであり、わたしの生き・死にをかんがえることであり、あなたの生き・死にをかんがえることでもある。

どうしてわたしが死んで・あなたが生きているのか。どうしてわたしが生きて・あなたが死んでしまったのか。どうしてわたしたちは死んでしまったのか。どうしてわたしたちは生き残ってしまったのか。生き残ったあとの生をどう生きてゆけばいいのか。死者をどうわすれ・記憶すればいいのか。

『シン・ゴジラ』はおそろしく・すばらしく、あかりの失われた場所でそれをかんがえさせる、そうこの詩はひきだした。

  すぐ隣で誰かが
  友だちかもしれない恋人かもしれないわたしの
  母親かもしれない誰かが手をあわせて拝んでいました
   (……)
  シンでいく
  わたしに似た誰か
  わたしではない誰か
  なぜそれがわたしではなかったのか
  わからなくてわたしは手をあわせることができません
  この手は届かないそういうふうにはできていないわたしのシ
   (同上)

「手をあわせ」るだけではやりすごせない「手をあわせること」の不可能性、「手は届かない」という非到達性をもたらす「シ」。この詩で展開されていく死生学的死とはそういうものである。生き・死にについて考えながら、届くことのなかった「シ」についてかんがえる。そして、おもう。わかりません、と。

  あれは
  カミサマなの? とわたしの生まなかった子どもが指さしても
  答えられない名づけることはできない
  わかりません
   (同上)

だから「祈る」ことで行為を停止しないで、その行為の先まで「ゆ」こうとしてみること。ゴジラが意味も目的もなくあるきつづけるように。

  ピクニックのように出かけてゆきましょうね
  祈るかわりに
  わたし
  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくら壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
   (同上)

この詩を読んではじめて気づいたのだが、《ほんとうに祈ることができなかったひと》、それは「ゴジラ」だったのではないだろうか。

ゴジラは多くの生と死を生産しながら、手を合わせることのできない身体構造をもっている。「この手は届かないそういうふうに」できているゴジラのからだ。

ゴジラは、からだの構造上、手をあわせ祈ることはできないのだ。どれだけ殺戮しても。だから、「あそこまでゆきましょう」しかゴジラには許されていない。ゴジラにとって祈りは不可能性と非到達性である。

ゴジラの祈る行為の不可能性を、「シにゆく」という動詞=行為をとおして、詩は描いた。

詩は、たえず、をかんがえている。死をかんがえる詩は、どうじにたえず、祈りのことをかんがえている。祈りのことをかんがえている詩は、祈りの不可能性もかんがえている。祈りの不可能性をかんがえている詩は、祈れなかったものたちのことについて、かんがえている。

          (「春とシ」『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』2016年12月 所収)

2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩169[飯島耕一]/柳本々々


  きみがあれほど見たのだから
  プールの四角な青空も
  見知らぬ女の背中の水滴も
  唇の 佐久間良子のポスターも
  すべてきみのものだ
  きみはあれほど見られたのだから
  きみは四時半とは
  何時のことですかと
  水着の小学生にきかれたのだから
  殺すぞと泥酔した帽子の朝鮮人に
  言われたのだから
  紀伊国屋書店の地下街で
  raison とはどういう意味ですか
  とペーパーバックの表紙を指さす
  二人の若い男にきかれたのだから
  きみはすでにきみの私有ではない
    飯島耕一「私有制にかんするエキス」

飯島耕一の詩ではある同じ質感をもった言葉がなんどもなんども少し違った感じをともなって繰り返されることで、その言葉そのものがどんどん解析されていく。

  きみのものがある
  きみのものはない

  (……)

  この水が誰のものなのか
  きみは言うことができない
  あるいは言うことができる

 (……)

  きみはきみより
  はるかに大きな空間のなかにいる
  あるいはいない
  その空間は
  きみの所有物だ
  なぜならその空間は
  きみがいなければ存在しないから
  (飯島耕一、同上)

「きみ」「もの」「言う」「いる」「空間」「ある」「ない」がなんどもおなじふうな・ちがったかたちで繰り返されることで、「ある」と「ない」の微妙なひだにわけいっていく。

この詩にはなんにもないし、すべてがある。

  きみが一切の自由を獲得するには
  一切の私有を否定する
  以外にない
  あるいは一切を 私有する
  以外にない
  セックスも
  戦死者も
  そして詩もだ。
  (同上)

ここには「セックス」も「戦死者」も「詩」も、すべてをじぶんのものにしようとおもえばできるが、しかしそのすべてはじぶんのものにしないことを選択するしかないことが同時にあらわれている。

なんにもないし、すべてがあるのだが、しかし、大事なことは「きみ」と二人称的語りかけがこの詩の全編をとおして行われていることだ。

たとえ言葉が微分されていっても、「きみ」のなかでどんどん微分されるたびに・積分されていくものがある(ちなみにこないだ取り上げた河野聡子さんの詩も二人称的語りだった)。

  二人称にとっての無限。無限は、結局あらゆるものを含んでしまう。今はこれを外部から読んでいる「あなた」が、実は既に、ここで論じられている対象内部に含まれているというような事態が起きうる。つまり、外側に立つ視点を確保できない。これが二人称的な様相だ。
  (西川アサキ『魂のレイヤー』)

この詩を読んでいる「きみ」である読者の「あなた」という〈わたし〉は「外側に立つ視点を確保できない」。言葉が分解されていくなかで、「きみ」は内側に巻き込まれながら、なにかを託されている。詩がおわるころには。

この「私有制にかんするエスキス」は、半世紀前の詩なのだが、以前取り上げた最果タヒさんも少しこの詩の質感に似ているところがある。

  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」

たえず「きみ」を通した二人称的語りかけが行われていくなかで、「きみに会わなくても/それでいい」「会わなくても、どこかで、/息をしている」「きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない」と、「きみ」を通して〈動詞〉が「ない」へと否定されていく。「きみ」への〈行為〉がなしくずしにされていくのだが、しかし、そのなくなっていく行為のなかで、「きみ」は積み上げられていく。詩がおわるころには。

詩とは、なんにもない場所で、詩がおわるころには、なにかが積み上げられていくものなのかもしれない。ひたすら、微分し、分解しても、それでも「きみ」のなかに、なにかが残ってしまう。それを、、と呼べないだろうか。

  来るべき古代には
  きみは水をくぐるように
  生きることができる
  来るべき古代には
  きみは言語によって苦しまない
  来るべき古代には
  きみはきみとは
  別のものである。
   (飯島耕一「私有制にかんするエスキス」)

  

          (「私有制にかんするエスキス」『現代詩文庫10 飯島耕一詩集』思潮社・1968年 所収)

2017年6月21日水曜日

続フシギな短詩127[疋田龍乃介]/柳本々々


  700枚の閉ざされたあなたが
  書いた長編スピーチ文の中の湯船にすら
  簡単におぼれてしまっている自分が
  いることへの僕は毎日可愛がって
  可愛がってしていた犬と
  ゆく末をサイコロの目と睨みあい
  決断している朝
  唱えるように
  いぬがひ、げのがん、  疋田龍乃介「犬がひげのがん」

この疋田さんの詩が収められた詩集『歯車 vs 丙午』の栞文のなかで渡辺玄英さんがこんなふうに書かれている。

  言葉は言葉であるかぎり、完全に意味から逃れることは出来ない。しかし、詩は、言葉が逃れられないはずの意味から自由になれる瞬間を可能にする。
  (渡辺玄英「迂回して虹を」)

詩は、意味から自由になれる瞬間がある。たしかに詩を読んでいるとそう感じるときがある。しかし、《なぜ》そう感じることができるのだろう。

例えば疋田さんの上の詩をみてほしい。

この詩においては「が」が意味をたちあげようとすることを非常に〈邪魔〉してくることに注意したい。たとえば詩の一行目の「あなたが」がこれからの一節の主語なのかと思いきや、三行目に再び「自分が」と出てくる。じゃあこれが主語なのかと安心しようと思ったせつな、その「自分が」は「いることへの僕は」と「僕は」に回収されてしまう。

どうも、この詩においては、〈が〉の磁力のありかたが、おかしい。〈が〉が出てくるとまるで砂鉄を集めるように、言葉の磁場が変容する。

とりあえず「僕は」が主語でよさそうなのだが、すぐさま、「可愛がって/可愛がってしていた犬と」と再び〈が〉の近辺の磁場がゆらいでいる。わたしたちがふだんのシンタックス(文の立ち上げ方)では〈しないやり方〉で文がたちあげられている。

なんでこんなことになったんだろう。

だんだん、詩を読んでいると理由がわかってくる。

引用の最後の一行に、「いぬがひ、げのがん、」と語られている。ここからまだまだ詩は続くのだが、この「いぬがひ、げのがん、」に注意したい。この詩のタイトルは、「犬がひげのがん」だが、語り手は「犬がひげのがん」とまとまった言葉の意味として把捉しようとはせず、「いぬがひ、げのがん、」とすでに意味のまとまりを手放している。ということは、この語り手は、意味単位で文章を構成していくというよりは、「が」単位で語りを構成していくかもしれないということを表している。

このあとこの詩は「げのがん、げのがん、」という言葉や「犬ヶ髭」という言葉を見出していく。やはり、〈が〉から発想されていく造語である。

つまりこの詩は〈意味〉でわかろうとすると、返り討ちにあうかもしれなくて、語り手が〈が〉の磁力によって、文章という磁場を変容させようとしているんだ、と読もうとすることによって読める詩かもしれないのだ。

私は以前、詩とは語っていくうちに、みずから形式を発見していくものだと述べたけれど、詩とはもうひとつ大事な役割がある。語りながら、言葉の磁力や磁場をそのつどそのつど変容させていく役割だ。詩力(しりょく)とは、磁力(じりょく)でもある。

  いつも客席から彩るような
  かるがもがな可能なら
  かもとかもとか
  たとえばさような
  さようならのような
  叩き割っても結び合わされる
  これが世界なのかも、虹の裏かもしれないな
   (疋田龍乃介「直結の虹」)

ことばは実は大事にしなくていい。たたきわったって、いい。

言葉を叩き割ると、おどろくことに、結び合わされるものがある。言葉はタフだから、叩き割っても叩き割っても、言葉はこわれない。こわれないので、私たちは「これが世界なのかも、虹の裏かも」という言葉の裏側にまわりこむことができる。ただそれをふつうの感覚でやってしまうと、わたしたちはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなる〉かもしれないので、わたしたちはその行為に名前をつけた。

詩、と。

          (「犬がひげのがん」『歯車 vs 丙午』思潮社・2012年 所収)