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2017年8月27日日曜日

続フシギな短詩177[?]/柳本々々


  松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり  ?

ある女優の方の句に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」という句があるらしいのだが、いまいち情報源が定かではない(Wikipediaに載ってはいるけれど、やはり定かではない)。だから松茸句という誰のものでもない〈句〉としてみてみようと思う(後半、きのこときおくとききかえしをめぐる話をしたいということもある)。

この句がいいなと思うのは、「また」を介して「くわえて」と「しゃぶり」の行為の間に差異を見出していることだ。くわえる、と、しゃぶる、は違う。

「また」という反復を介して、「くわえる」よりももっと対象に比重を置く「しゃぶる」という圧の大きい動詞がたたみかけられる。行為の圧として、なめる→くわえる→しゃぶる、とだんだん圧が強く・大きく・奥深くなってくる。

またこの「松茸は」の「は」という助詞の使い方もおもしろい。ふつうは「を」にする。「松茸を」ではなく、「松茸は」となることによって「松茸」が不穏な位置取りをする。もしこの句に不穏さがあるとするのなら、この「松茸は」の「は」にあるのではないかと思う。どうして「松茸は」と「松茸」だけ主題化されたのか。それ以外のきのこ、たとえばエノキについては語り手はどう思うかなど。ただ情報源が定かではないので、集団的心性句というか、投影句としてみてもいいかもしれない。

一見、プレーンな句にみえるかもしれないが、助詞や行為をめぐって細かくみていくといろいろ解釈が枝分かれしていく面白い句だと思う。

きのこの句と言えば、

  自閉症ぎみのきのこをほほばりぬ  小津夜景

という句がある。わたしは眼がわるいせいか最初、「自閉症きみのきのこをほほばりぬ」と読んでいたのだが、よく見ると「ぎみ」だった。しかしその「ぎみ」がこの句集にとっては大切なのではないかと考えるようになった(でも、もしかするとちょっと錯覚するようにつくられているのかもしれない。時々そういう句があって、さっか句と呼びたいような気もするけれど、呼ばない)。

「自閉症きみのきのこ」ならわかるとしても、「自閉症ぎみのきのこ」と「気味(ぎみ)」で続けることによって、症状的な言説が、セクシャルな解釈をするのを微妙に妨げている。セクシャルな解釈はしようと思えばできるのだが、しかし「自閉症ぎみのきのこ」とはなにかということが微妙にじゃまをしてくる。

症状的な言説と言ったのだが、小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』ではたえず〈書き込まれ(なかっ)た記憶〉が喚起される。つまり、書き込まれた記憶と、書き込まれなかった記憶が、同時に、喚起される。

  おそらく〈非-記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。
  (小津夜景「あとがき」『フラワーズ・カンフー』)

これはすごく乱暴に簡単に言ってみると、記憶されていないものと記憶されているものを同時に考えてみよう、ということだと思う。

しかし記憶されなかったもの、たぶんそれは記憶できなかったもの、抑圧されたもの、しかし身体の奥底にねむっているものだと思うのだが、そのようなものとどのようにして出会えばいいのだろう。フロイトは、そういった抑圧したものと出会う経験を、言い間違いや失語としてとらえていた。たとえば、「えっ」という聞きかえしてそれは身体に〈症状的〉にあらわれる。

  聞きかえしの頻出。たえざる聞きかえしは、ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいることを物語っている。
  (長井和博『劇を隠す 岩松了論』

長井和博さんが岩松了演劇における〈聞きかえし〉の多さに着目し、「聞きかえし」とは「ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいること」のあらわれと指摘しているが、〈小さい不明〉は身体症状としてあらわれる。しかしこの〈小さい不明〉こそが抑圧され、たえず気にかけられていた何かなのではないかと思う。それは、素通りできなかったなにか、だ。わたしにあった、ないもの、だ。「ぎみ」の。

「小さい不明」としての〈書き込まれなかった記憶〉は、症候的に身体にそれとなく浮上してくる。「自閉症ぎみ」という症状〈的〉な記憶として。それは、症状ではない。「ぎみ」という判断も自覚も診断も決め手もつかないものである。「ぎみ」なので、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そう、とは言えないのだが、しかし、そうらしい、としかいうしかないもの。

松茸句の「松茸」とは、たぶん「きみのきのこをほほばりぬ」なのだ。冒頭に述べたように、「は」という助詞の問題はあるけれど、この句は「ぎみ」ではなくどちらかといえば「きみ」のことを方向としてはかんがえた句である。「松茸」という対象に対する行為が前=全面化し、「松茸」への行為が連ねられるとともに細分化し展開されていく句で、ここには〈小さい不明〉はない(でも「松茸は」の「は」の助詞からさまざまな解釈が枝分かれする面白い句だとも思う。この「は」は不穏である。「松茸」をただの対象におかない。〈大きい不明〉といってもいいかもしれない)。

いっぽう、小津夜景句の「自閉症ぎみのきのこ」は、「ぎみ」にウェイトがかかってくる。「君(きみ)」というはっきり分割できる対象ではなく、不明ぎみの「気味(ぎみ)」という非分割、記憶しがたい非記憶対象がこの句集の色調における「きのこ」なのではないか。「ぎみ」となることにより、「きのこ」は対象化できない。

この「記憶ぎみなきのこ」は、「出来事ぎみな出来事」をまさぐる岩松了演劇の質感に、ちかいのかもしれない。それは出来事が出来事であることを確認することによって出来事から逸れていってしまう出来事ぎみのなにかなのである。出来事でないけれど、出来事ぎみのもの。記憶ではないけれど、記憶ぎみのもの。なんだか今回わたしもいろいろ抑圧し、迂回するような記事ぎみの記事を書いた気もする。だから今回の記事は非記事として欠番になるかもしれない。記録されなかった記事として。

それっぽい記事。それっぽい記憶。それっぽい出来事。

  つまり、ボクらは知ってるわけです。たとえばここに三の出来事がある……この家の中に三の出来事がある、それは確かに三の出来事のはずなのに、玄関を出るとき四になり、通りに出て五になり、ボクらの知らないところで六七八九となり、そこの、わが家の玄関に戻ったときには、しっかり十に出来事十になっていることをですね……なぜそうなのか……ボクらは三人で確認するしかないわけですよ。な、三だよな、この出来事は、三のはずだよなって……
  (岩松了『市ヶ尾の坂』)


          (出典

2017年5月15日月曜日

続フシギな短詩110[三谷幸喜]/柳本々々


  鼻がかゆいのです なぜか
  鼻がかゆいのです なぜか
  気になって
  気になって
  演奏どころじゃない  三谷幸喜

三谷幸喜のミュージカル『オケピ!』からピアニストが歌っている部分を抜き出してみた。

ピアノの演奏中は鼻がかゆくてもかけない。しかし鼻がかゆい。どうすればいいのか。そのピアニストの悲しみや切なさを歌い上げている。

この『オケピ!』で興味深いのは、歌っているときは自分自身の心情を素直に打ち明けられることだ。つまり、歌っているときの言葉というのはすべてひとりの〈内面〉の言葉であり、他人には聞くことのできないモノローグだということになる。

ひとと話すときはふつうの言葉でしゃべり、ひとに話せないことは歌になっていく。こうした言葉の位相が、『オケピ!』には見られる。

ところがこの『オケピ!』が面白いのは、最終的にこうしたモノローグとしての歌だったはずの言葉の位相が劇が進行するにつれて〈全員〉の歌=言葉になっていくところだ。歌っているうちにひとりひとりの内面が混じり合っていくのだ。

『オケピ!』は最終的に、

  たとえばどんな出来のよくないミュージカルにも
  きっとあるさ みんなの好きなうた
  そこにいることのしあわせ
  歌のよろこび

と全員(みんな)の合唱で終わるのだが、この言葉の位相はもはやひとりの内面の位相なのか、みんなの内面の位相なのかわからない。舞台が進行するにつれて、登場人物たちの内面の位相が、〈ひとり〉から〈みんな〉に変わってゆく。それが「歌のよろこび」であり『オケピ!』なのである。

だから『オケピ!』のギミックとは、ひとが歌うときにチャンネルを変える意識のモードを仕掛けとして使っていることだ。ひとは歌をうたっているとき、意識のモードが違う。しかしその異なる意識のモードが、〈みんなの意識〉のモードになることがある。これが『オケピ!』なのだ。

歌うときにひとは意識のモードを変えること。

しかし考えてみればこれは短歌や俳句や川柳もそうではないだろうか。短歌や俳句や川柳はふだんの意識のチャンネルと〈ちがう〉ふうにしてうたわれているはずだ。

それはたとえば電話口でとつぜん短歌や俳句や川柳をそれとなくしゃべってみるとよい。「あれどうしたの?」となるはずだ。「どうした?」と。ふだんの意識のモードと違うはずだから。

うたうことと、〈なんかあった?〉には、関わりがある。

藤井貞和さんが『事典 哲学の木』の「うた」の項目で、「うた」うことによるモード・チェンジをこんなふうにえぐりだしている。

  うたっているひとのしぐさを見ると、大口をあけ、紅潮した顔を人前にさらし、律動に身をゆだねて、もしうたっている動作だと知られない場合には、まったくどうかしている、と他人はあきれざるをえない。うたう行為だから、うわずる声も、異常な低音も、だいたい許可され、一般にははずかしいはずの絶叫や、からだをゆすってうっとりすることも、まあまあはずかしがらずにやれる。…うたう身体はそのような「われをわすれる」状態にある。
  (藤井貞和「うた」『事典 哲学の木』講談社、2002年)

うたう、という行為はなんらかの、意識の、ことばの、モードを変化=変成させる(ここから古代の〈歌う合コン〉である歌垣文化を考えてみてもいい。参考「音で訪ねるニッポン時空旅「古代の合コン!?歌垣」NHKラジオ第2)。そしてそのモードの変成を探求するのに、ミュージカルはもってこいとも言える。いつ・うたいだすのか、なにを・うたいだすのか、だれに・うたいだすのか、なんのために・うたいだすのか、うたっているときに・なにが変わっているのか、うたったあとに・どう変わったのか、けっきょくそのひとにとって・うたとはなんだったのか。これらのモードの変成を教えてくれるのがミュージカルである。

そしてわたしは短歌や川柳や俳句は、その意味で、実は、ミュージカル的だと思うのだ。だって道を一緒に歩いているひとがとつぜん短歌を詠(うた)いだしたら、ど、どうしちゃったの、と言いますよね。ただその〈ミュージカル性〉を〈隠して〉成り立っているのも、また、短詩型文芸なのではないかと思うのだ。

なぜ、ひとは、うたうんだろう。そしてうたったあと、なぜ、真顔でまた暮らしをつづけるのだろう。

ずーっと、考えている。ずっとね。

ところで電話越しにうたってもバレない短歌・俳句・川柳というものが存在するだろうか? うたったあとに、うんそうだね、と相手がいってくれるような。いっしゅんたりともあなたが気づきさえもしなかったような。

  もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ
  (三谷幸喜『オケピ!』白水社、2001年)


          (『オケピ!』白水社・2001年 所収)