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2017年10月6日金曜日

超不思議な短詩234[福田若之]/柳本々々


  春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之

ときどき、俳句のなかのアクセス不能、というものについて考えている。いや、というよりも、この福田さんの句をはじめてみたときに、俳句にはアクセス不能というテーマがあるように知ったのかもしれない。

当たり前のことだけれど、俳句とは、季語を通して・季節にアクセスする文芸である。季語や『歳時記』というメディアを通して季節にアクセスする。そのためのパスワードは季語そのものである。

ところがこの句では「春」を感触しながらも、アクセスするための「パスワードが違う」ために、「すぐそこ」の「春」にアクセスできない。感触しながら、触知できない。

たとえばこんな句と比較して考えてみよう。

  おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

「おおかみ」(冬の季語)と「螢」(夏の季語)がアクセスしてしまう神話的な時間がここにはある。超アクセスの句である(アクセス過剰の力といったらいいか)。

でも福田さんの句は「春」というすごくシンプルな季節にたどりつけない。金子さんの句が季語を使えばそれがパスワードそのものになったようにはできていない。季語はいつかパスワードとしては失効しはじめ、〈別のパスワード〉が必要になっている。春も、季語も、アクセスも、この句では遅延している。

  ながれぼしそれをながびかせることば  福田若之

アクセス不能とは「ながびかせる」遅延として言い換えることもできるかもしれない。「春」はやがてはアクセスできるかもしれない。「すぐそこ」まで来ていることは感触できているんだから。でも、触知はできない。「それをながびかせることば」にわたしたちは「まかれて」包囲されているので。

  なんという霧にまかれていて思う  福田若之

もちろん、アクセスできたとしてもこんどはアクセスそのものも疑う必要がある。

  騙されながら風船に手を伸ばす  福田若之

さきほども言ったようにアクセス自体も遅延しつづけるからだ。

季語は世界にアクセスするためのパスワードだったはずなのに、俳句の現在においてはそのパスワードが失効しはじめている。という事態が、俳句そのもので、失効し、遅延しながら、それそのものが俳句化しながら、かんがえられている。「どこか」にたしかな「ねじ」が落ちていることは、わかる。

  夜景どこかにつめたいねじが落ちている  福田若之

わかるのだけれど、でもそれはどうすれば到達できるのだろう。「どこか」は、どこまでも、「どこか」でしかない。おおきな、とても、おおきな不可能性が、ある。

  真っ白な息して君は今日も耳栓が抜けないと言う  福田若之


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年9月14日木曜日

超不思議な短詩218[鶴見和子]/柳本々々


  俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ  鶴見和子

鶴見和子さんと金子兜太さんの対談本『米寿快談』のなかで鶴見さんが、俳句がとつぜん自分の身近に迫ってきた風景としてこんなふうに話している。

  私は俳句を作る人…は世界が違うんだ、人種が違うんだってずっと思っていたんです。というのは、俳句を読んでも何のことかわからない。自分で作るなんてことはもちろん考えもしないけれど、どうも分からない。ああいうものはできない、そう考えていたんです。……
  とくに私は子供の俳句のなかで〈雪解けを待つ植物のように少年は〉、あれが私はすごく印象的だったの。というのは、俳句というものはすっかり自分の忘れ果てていたような原体験をぱっと思い起こさせてくれる、触発するのよ。……
  俳句というものは、すごい力、触発力をもってる。つまり原体験の触発力なの。すっかり忘れているでしょう、それをパッとじつに鮮烈に教えてくれるの。その日なんです。これが俳句なのか、それなら私にだってわからないことはないな。むしろ俳句を読むことによって、私も歌がつくれるようになる、そういうものじゃないかなとはじめて思った。……
  つまり、これまで私は俳句に親近感は全くなかったんです。芭蕉だとか蕪村だとか、そういう世界だけが俳句だったら私にはわからない。ああいうさびとかわびとか、その上になんだかむずかしい季語を入れなきゃいけないのは。それでこれから俳句を勉強しなくちゃいけないと。つまり感性の活性化、それを俳句から私がいただくことができる。それが一つの驚き。
  (鶴見和子『米寿快談』)

とても長く引用したがここにはひとりの俳句とは無縁だと感じられていた人間がとうとつに俳句に出会い、驚き、俳句との距離感がとつぜん変化してゆくさまが語られている。それは「一つの驚き」であり「パッ」であり「鮮烈」であり、「原体験の触発力」である。

どうして鶴見さんがこの俳句の「原体験の触発力」に出会えたかというと、それは、俳句がもつ〈認識の基盤〉〈認識の原風景〉にであったから、ではないかと思う。鶴見さんは「さび」「わび」「むずかしい季語」は「わからない」と述べている。でもそういう〈趣向〉や〈風情〉ではなく「感性」として俳句にであった。そのとき、俳句が鶴見さんのなかに流れ込んできた。

こうした〈認識の基盤〉としての俳句を考えたときにわたしが思い出すのが、俳誌『オルガン』の俳句である。たとえば『オルガン』のメンバーにはこんな俳句がある。

  くちびるが顔にありけり扇風機  宮本佳世乃
   (『句集 鳥飛ぶ仕組み』)

扇風機にあたっているうちに「くちびる」が「顔」にあることに気づいてしまう。顔の本来的な存在に気づいてしまう。存在論的俳句。

  なにもない雪のみなみへつれてゆく  田島健一
   (『句集 ただならぬぽ』)

「なにもない」と語られることによって「なにもない/なにかある」という二項対立が形作られる。しかしここで語り手は「なにもない」という虚無的な次元を《あえて》選ぶ。しかも「つれてゆく」とその虚無的な次元への意志は強い。この句は、なにかがあるということと、なんにもないということの、存在論的次元を喚起する。でも、「ある」とか「ない」って実は認識の話だ。佳世乃さんの句のように、《そのひとが・世界をいま・これから・どう・みようとしているか・みているか》の話だ。

  ゐた人の残してゆきし咳のこゑ  鴇田智哉

この句においても存在論的次元が喚起される。「ゐた人」が「咳のこゑ」を残してゆくのだが、だからとうぜん今は〈いない人〉ということになる。この「咳のこゑ」も咳の〈遅延〉という咳の存在論的次元物のようなものだ。ところが語り手はその〈存在の遅れ〉のような次元にいる。「ゐた/残して/ゆきし/咳のこゑ」というひとにとってはすべて過去に葬った次元に語り手は、いま、たっている。語り手は、いったい、どの次元にいるのか。いったい、いるとかいないって、じゃあ、なんなのか。

  居ることに泉のふつと落ちてくる  宮崎莉々香
   (「かつてのまなざしでどうしても見」『オルガン』10号、2017年8月)

これら俳句には、認識の仕方を、魔術的に〈ぶり返し〉ていくような切なさがある。「かつてのまなざしでどうしても見」ようとするわたしに働きかけてくる。魔術的切なさとして。なんで切ないのかというと、世界の臨界に達しそうになるからだ。あるとかない、いるとかいない、に抵触することは、だんだんと、世界がある、世界がない、に関わっていく。もしかしたらわたしたちにとって、もう、世界は終わったものとしてあるのかもしれない、という世界の認識論にかかわってゆくのだ。

こんなことが俳句で起こってしまっているのは、驚きだと思う。でも、いま、こんなことが俳句で起こってしまている。

こうした俳句が俳句として成立してしまったとき、わたしは、そもそもの〈こちら側〉の認識を点検しなおさなくてはならないような気もするのだ。鶴見さんが「驚き」をもって俳句をうけとめたように。

俳句は、わたしに、認識の点検を要請する。きのう・きょう・あしたのわたしの認識のしかたをたしかめてごらんよと、手を、眼を、からだを、眼を、手を、とってくる。わたしたちは、いつも、俳句に「遅れ着」く。

  多く見て感じて夜が来て蛾来て  福田若之
   (「遅れ着いたもののしるしに」
    

          (「俳句の触発力」『米寿快談』藤原書店・2006年 所収)