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2017年3月7日火曜日

フシギな短詩90[堂園昌彦]/柳本々々


  君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した  堂園昌彦


堂園さんの短歌で少し考えてみたいのが、語りの速度のスローな感覚である。どうして堂園さんの短歌を読むと語りの速度がゆるやかに、遅くなっていくのを感じるんだろう。

別のことばでこんなふうに言ってみてもいい。どうして語り手は一首のなかで〈意図的〉にここまで情報量をぎっしり詰め込もうとするのだろう。

掲出歌だけでなく次のような例もあげてみよう。

  君がきれいな唾を吐き出し炎天の下に左の手首が痛む  堂園昌彦

  きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く  〃

  誰か何かを言い出す前の沈黙の広場の深い深い微笑み  〃

声に出して読んでみてほしい。どこかつかえるようなゆっくりな感じにならならいだろうか。

なぜそんなことが起こるのか。

わたしが思ったのは助詞の多さである。たとえば掲出歌は「も」「も」「を」「て」「を」「て」「に」「を」と助詞がたたみかけられて構成されている。ちょっと考えてみよう。〈助動詞〉ではなく〈助詞〉が多いというのはどういうことなのかを。それは、動詞・形容詞よりも名詞が必然的に多くなるということだ。だから、情報量の多さを感じるのはそのためである。名詞が多いのだ。

しかしこれは先ほども述べたように〈意図的〉に思える。つまりそういった語り口を採用することで、独自の〈時間〉を生み出しているようにわたしは思うのだ。それはこの歌集のタイトルが『やがて秋茄子へと到る』という「やがて」という〈時間のプロセス〉を喚起させていることからもわかる。

たとえばこれらの歌の〈時間〉が大量の助詞と情報によりスローになっていくときに、わたしたちに起こる意味作用はなんだろう。それは一首のなかに〈滞在〉する時間が長くなるということだ。だから掲出歌の結語の「胸に」「宿した」はその長い時間のぶん、強く〈胸に宿す〉ことになるし、「左の手首が痛む」感覚や「ほこりまみれのバスを見に行く」道程も「深い深い微笑み」の深さも強度のあるものになっていく。強度とは、共有された時間によってつくられるものでもあるから。

歌集タイトルにならっていえば、「秋茄子」への重みが出るのは「やがて秋茄子へと到る」という「やがて」「到る」時間のプロセスがあるからである。その時間の重みを引き受けて「秋茄子」の重量が出てくる。

助辞(助詞の使い方)そのものが、時間の創生につながっていくこと。そして生み出された時間そのものが言葉の強度そのものになっていく。そのことをわたしは堂園さんの歌集を読んで〈実感〉したように思う。

わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。〈ゆっくり〉とは、創造されるものなのだ。

  ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌  堂園昌彦

          (「季節と歌たち」『やがて秋茄子へと到る』港の人・2013年 所収)

2016年12月16日金曜日

フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々



  これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博


助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている」と述べている。

だからたとえば掲句を、


  これから兎を食べて生きてゆく

としては、ダメなのだ。「は」という助詞によってもっと〈これからの生〉に関わっていく川柳的主体性をみせること。それが「これからは」という助辞の意志であり、「生きていく」意志につながっているのである。

だからこう言ってもいい。この兎は《川柳の意志》のなかにある兎なのだと。この「兎」はすでに川柳的な助詞「は」によって食べられている「兎」なのだ。

もちろんこの小池さんの句集のタイトル『転校生は蟻まみれ』の「蟻」も川柳の意志のなかにある〈蟻〉である。そこには第一句集『水牛の余波』の〈の〉で中性的に言語放牧されているような水牛はいない。

蟻も、兎も、〈わたし〉が積極的にまみれたり、食したりすることで積極的に関わっていくものなのだ。

蟻にかじられ、兎にかじられること。その〈かじる行為〉を促すのが、たった一音の助詞「は」なのである。川柳の祝祭的で不穏なカーニヴァルはたぶんこの一音に存在している。たった一音の川柳の呪文。すなわち、「」。

だからあえてこんなふうに大胆な解釈を切り出してみたい。「これからは兎を食べて生きてゆ」こうとしている語り手が食べようとしていたのは「兎」ではない。語り手が食べようとしていたのは「これからは兎」というセンテンスそのものなのだと。「これからは兎」を食べて生きてゆく。

語り手は、助詞「は」が含まれたセンテンスそのものを喰らい、その身につけようとしていたのである。

そう、これは助詞のカニバリズムをめぐる句なのだ。そしてそのときはじめてわたしたちはなぜこの句集のタイトルが『転校生《は》蟻まみれ』だったのかに、気づくはずなのだ。

転校生を喰らおうとしていたのは「蟻」ではなく、隣接した係助詞「は」そのものだったのだから。「転校生」はいま助詞から食いつぶされているのである。助詞に埋め尽くされた助詞まみれの転校生。いや、そうじゃない。転校生は助詞まみれ、なのだ。というのは、小池さん、どうでしょうか。


  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博


          (「公家式」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア・2016年 所収)