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2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩179[鶴彬]/柳本々々


  手と足をもいだ丸太にしてかへし  鶴彬

「大東亜戦争の入口で、一人の川柳作家が特高の手で追いやられた。二十九歳の鶴彬(ツルアキラ)である」(秋山清『日本の名随筆別巻53 川柳』)と語られる鶴彬だが、鶴のよく「反戦的作品」として紹介される句にうえの掲句がある。ほかにも鶴には、

  万歳とあげていった手を大陸において来た  鶴彬

というこれもよく引用される句もある。

どちらも〈戦争〉を通過した身体がばらばらになったメッセージ性の強い句になっている。

現代川柳では今でもよく身体のパーツがばらばらになるという不思議な現象がみられるのだが(それが現代川柳が不気味さや幻想に傾く理由なのだが)、鶴彬の句では身体のパーツが分離することが〈反戦〉というメッセージ性になっている。それは江戸川乱歩「芋虫」のような、「手と足をも」がれて戦地から帰ってくる人間たちである。

  夫が負傷して内地に送り帰されるという報知を受け取った時には、まず戦死でなくてよかったと思った。
  いかめしい医員であったが、さすがに気の毒そうな顔をして「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、包帯のために丸くなった胴体ばかりが無気味に横たわっていた。それはまるで生命のない石膏細工の胸像をベッドに横たえた感じであった。
  (江戸川乱歩「芋虫」)

身体のパーツは海のむこうの「大陸」におかれたまま、こちらに帰ってくる。戦争とは実はわたしたちの身体地図の更新にもなっている。戦地にわたしの身体は分離されたまま置き去りにされ、非主体的主体の「芋虫」のような〈わたし〉は〈こちら〉に帰ってくる。でもほんとうのわたしの身体の位相はどこにあるのか。戦地なのか、銃後なのか。身体地図と地政学的な地図が戦争によって重ねられ、個人個人の負傷した身体によって書き換えられていく。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

私が興味深いなと思うのは、たとえば渡辺白泉の次のようなやはり〈戦争〉をめぐる俳句を思い出したときである。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺白泉

  憲兵の前で滑つて転んぢやつた  〃

川柳では身体のパーツが分離(セパレート)してしまうのだが、俳句では「立つてゐた」「滑つて転んぢやつた」と身体を駆使して戦争を描いている。戦争自身に「立つ」ための身体を与え、憲兵の前では身体をぞんぶんに使ってダイナミックに転ぶ。この違いは、なんだろう。「戦争」の「手と足」とは、なんなのか。

別にこんなことは俳句と川柳の違いじゃなくて、白泉と鶴の位置性の違いなのかもしれない。でも、それでも、そこには、なにかしらの俳句と川柳の違いがあるのかもしれない(鶴彬は俳句と川柳の違いに敏感であり、それは階層の違いと述べていた)。もしかしたら川柳というジャンル自体が去勢され続け、近代化も逃し、いまだに自立したジャンルとなっていないということとも川柳の去勢された分離する身体は関係があるのかもしれない。

  戦後桑原武夫が俳句を「芸」と断じて、俳壇に爆弾を落し、俳句界を震撼させたが、俳句を「第二芸術」ときめつけた桑原も川柳に対しては無関心であったというより全然その存在を認めていなかったようである
  (河野春三『日本の名随筆 川柳』)

わからない。わからないけれど、でも、現在も、俳句は足を駆使し、川柳は、身体を分離しつづけている。

  今走つてゐること夕立来さうなこと  上田信治

  夜の入口ではぐれたくるぶし  八上桐子
  
          (「鶴彬」『日本の名随筆別巻53 川柳』作品社・1995年 所収)

2017年1月17日火曜日

フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々


  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。

八上さんは新子さんの

  花びらを噛んでとてつもなく遠い  時実新子

という句をあげた上で、自身の句として

  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

という句を詠んだ。

ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。

新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。

「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。

新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。

八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。

ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。

まとめよう。

なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。

その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。

私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。

受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。

ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。

そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。

「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。

大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。

味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。

  シマウマの縞滲むまですれ違う  八上桐子
    (「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)


          (八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)