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2023年10月28日土曜日

DAZZLEHAIKU73[杉山久子]  渡邉美保

こつとんと月見の舟のすれちがふ   杉山久子


「こつとん」のかそけき音のみが聞こえる。そのあとおとずれる何とも言えぬ静寂な空気。ここは一体どこなのか。

すれ違う月見の舟には誰が乗っているのだろうか。


「月見の舟」という言葉から、中秋の名月か、あるいはその前後。都塵を離れた静かな湖か川を思い浮かべる。

月が天高く煌々と輝いているだろう。

月から押し寄せる金波、銀波。月光の波の揺らぎに合わせるように舟はかすかに揺れているだろう。


月光の藻をくぐりきし櫂ひらり   杉山久子


水中まで差し込む月光は藻を照らし、水をくぐりきた櫂はひらりと月の雫をこぼす。ここにあるのも静寂のみ。寂寥という言葉が浮かぶ。

舟に揺られ、月の波を浴びている、何か不思議な世界を思わずにはいられない。この世とあの世の間にある世界。作者は地上より少し浮いた場所にいるのではないだろうか。

「こつとん」は現実の隙間から異世界への入口が開く合図だったのかもしれないと思う。


〈句集『栞』(2023年/朔出版)所収〉


2017年10月22日日曜日

DAZZLEHAIKU13[杉山久子]渡邉美保



  縞縞の徹頭徹尾秋の蛇   杉山久子


琵琶湖周辺の里山を歩いているとき「蛇がいる」という声を聞いた。近寄ってみると、縦縞の蛇が草の中に横たわっていた。人の足音や人声にも動く気配がない。ぱっちりと開いた目の周りには、蠅が集っている。その蛇は死んでいた。

掲句、「徹頭徹尾」が意表をついていて、とてもおかしい。頭から尾っぽまで一貫して縞が通っているということだろうか。秋になり動きが鈍くなった蛇が、ゆっくりと縞模様を見せてくれたのかもしれない。

この句の中にあって「徹頭徹尾」は、熟語本来の意味を離れて脱力。縞縞の蛇のためにある言葉のように思われてくるから不思議だ。しかも、この蛇のために使われると、字画の多い四文字の漢字がするするとほどけて、一匹の蛇になってしまいそう。
「徹頭徹尾」が軽やかに弄ばれているようだ。


〈句集『泉』ふらんす堂/2015年所収〉


2015年10月9日金曜日

黄金をたたく23 [杉山久子]  / 北川美美



秋天やポテトチップス涙味  杉山久子

ポテトチップスは身近な乾き物(といってよいのか)である、口淋しいときにポテトチップスが小腹を満たしてくれる。こだわりのある作者であれば、ポテトチップスの新作味は相当試されているのではないかとすら想像できる。男梅味、夏塩風味、BBQ、コンソメパンチ、のりしお…etc. 最近は地域限定やら、季節限定やらで、日本のポテトチップス浸透も相当なもので国民的乾き物の地位を獲得している。

因みに筆者は、英国好みゆえに、ソルト&ビネガー(カルビーでは、フレンチサラダとなっているが酢が効いている味。あるいは“スッパムーチョ”でも代替えが効く。)が無性に恋しくなる。形状では、高級志向の厚切りポテトチップスはどうも好かない。パッケージデザインで買ってしまうポテチもある。フラ印のポテトチップスである。こんな感じです。(http://matome.naver.jp/odai/2139312140924061501


作者も筆者同様、きっとどんなときにもポテトチップス、通称ポテチが欠かせない存在で、コンビニに行って買う気もないのに手に取って買ってしまうのではないか、その境遇に共感するのである。ポテトチップスは、この国ならではの通称:ポテチに成長したのだ。

さて作者はこれを、秋天にポテトチップスを口にして、それを涙味としている。どんな時も小腹が減るのである。喜びに似た飲食という行為が一転して涙の味を感じるというのが人間の心理の複雑性を孕んでいるかのうようである。失恋かもしれない涙、もしかしたら昔の恋を思い出している涙なのかとも想像できるのだが、それをポテトチップスの味に仕立てているのが爽やかである。


<「泉」ふらんす堂2015所収>

2015年9月27日日曜日

今日のクロイワ 30 [杉山久子]  / 黒岩徳将



手が伸びて昼寝の子らをうらがへす  杉山久子

日焼童子洗ふやうらがへしうらがへし 橋本多佳子 を思い出した。


手が伸びて という措辞からは、あたかも自分の意志ではない動作だということを思い出させる。多佳子句と比べて、複数の子を「うらがえす」という書き方が異なっていることが興味深い。久子は「ら」と「うらがえす」で、上五の非人為的表現と相俟って淡々としており、「隣の家のお母さんがママ友と旅行に行く間、小さい子どもを預かる」などといった状況を想像させるが、多佳子の「うらがへし」をリフレインさせて主観性を打ち出した姿は、明らかに「カーチャン」である。

もちろん、久子の「うらがへす」は横転であり、多佳子の「うらがへしうらがへし」は回転である。