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2025年8月30日土曜日

DAZZLEHAIKU83[しなだしん]  渡邉美保

    熱出してゐるやうなかほ羽抜鶏     しなだしん


 鳥類の羽は六月から晩夏にかけて冬羽から夏羽へと抜け替わる。この頃の羽の整わない鳥を羽抜鳥というそうだ。鶏などは晩夏のころが多いようであるが古い羽が抜けて、新しい羽の生えそろうまではみすぼらしい姿となるという。その羽抜鶏の貌が「熱出してゐるやうなかほ」とは・・・。羽が抜けているだけでも十分気の毒なのにと、同情する。

 子供の頃、郷里では鶏を飼っている家は多く、生活の身近なところに鶏がいた。庭先などでよく貝殻などをつついていた。最近は鶏を見る機会ないなぁと思っていた矢先、テレビのニュースで、鶏舎の様子が大写しになった。連日の酷暑に、鶏が夏バテして、食欲もなく、卵を産む量が減っているという。ケージから首を伸ばしている鶏の貌を見た。熱に火照ったような、疲れ果てた貌である。まさに、「熱出してゐるやうなかほ」そのもの。

 ところで鶏の体温は何度なのだろうか。鶏の体温は平均で約41℃(一般的に多くの哺乳類よりも数度高い。)外気温の影響を受けやすく、高温では熱を放散するために、口を開けて呼吸したり、開翼したりすることで体温を調節するという。気温27.5℃以上に上昇してくると体温が上がり「暑熱ストレス」を受け始めるというから、今夏の気温は受難である。

鶏舎の羽抜鶏は見るからに哀れで切ない。鶏にも人間にも早くこの酷暑が去り新涼の風が吹き抜けんことをと願うばかりである。


〈句集『魚の栖む森』(2023年/角川書店所収)〉


2025年6月9日月曜日

DAZZLEHAIKU82[ふけとしこ]  渡邉美保

   夕顔別当薄闇に翅使ふ     ふけとしこ

 

 「夕顔別当」という美しい名前にふと立ち止まった。夕顔別当とはどういう役職?どういう人物?源氏物語の「夕顔」と関係あるの?などと素朴な疑問。その夕顔別当が薄闇に翅を使うというのは一体・・・。

 広辞苑によると「夕顔別当」は蝦殻天蛾(エビガラスズメ)の異称とある。夏の季語で、歳時記ではエビガラスズメのほかに背条天蛾(セスジスズメ)のこともいうとある。茶褐色や灰色、不気味な模様をもつ大きな蛾(翅の開帳9~10センチ)で、夜行性なので、夜咲く夕顔に蜜を求めて飛んでくる蛾とのこと。人に疎まれることの多い蛾であるが、優雅な命名である。

 夏の夕暮れ、薄闇に白く浮かぶ夕顔の花、そこへどこからともなく飛んできて花の蜜を吸う夕顔別当。長い口吻を持ち、翅を素早く羽ばたかせることで空中に静止することができる。花には止まらず空中に漂いながら夕顔の蜜を吸う姿はまさしく「翅使ふ」、高速の翅使いであろう。

 掲句には描かれていないが、薄闇にひっそりと咲く夕顔の花があり、夕顔別当がいる。その情景にある陰翳と寂寥。どこか幽玄の世界を思わせる。夕顔別当は、薄倖な夕顔の前に現れる貴人の化身かも知れない。

〈『香天』79号(2025年/香天の会所収)〉  


2025年3月3日月曜日

DAZZLEHAIKU81[中村堯子]  渡邉美保

 海苔炙る裏返したき雲もあり   中村堯子


 「海苔」は新海苔の収穫期が春先ということで、春の季語になっている。「海苔炙る」という情景はとてもなつかしい。ガス火ではどうも炙りにくく、

 我が家では、電熱器(電気コンロ)を使っていた。電熱器に近づけすぎると焦げるので、少し遠火で炙るのだが、片面に火が通ったら海苔を裏返して反対側もさっと炙る。炙る過程で黒紫の海苔の表面は、やや緑がかり、磯の香があたりを包む。ぱりぱりの海苔と温かいご飯。もうそれだけで至福のひとときである。

 とはいえ、掲句、「海苔炙る」のおいしそうな情景は、突如「雲」へと飛躍する。大胆な展開は読み手の意表を突く。なんで雲? あの雲も、この海苔のように軽やかに裏返せたらどんなにいいか・・・。裏返したき雲とは、心に覆いかぶさる重苦しい雲なのか、あるいは、春の空に薄く広がる、淡い白色のベールのような巻層雲かもしれない。後者の方が楽しそう。

 地上から見上げてばかりの空の雲を裏返したいという希求、その豪放さに惹かれる。


〈句集『布目から雫』(2024年/ふらんす堂所収)〉


2025年1月28日火曜日

DAZZLEHAIKU80[嵯峨根鈴子]  渡邉美保

ひろびろとつかふ夜空や六の花   嵯峨根鈴子


 「六の花」は雪の異称。六角状に結晶する形から六の花(むつのはな)、六花(りっか)などと呼ばれる。

 さえぎるもの何ひとつない、広くて深い夜空から雪が降る。雪はゆったりと間隔を大きくとりながら、地上へと降りてゆく。そして雪の結晶は、徐々に大きく、六角形の花となっていくのだろう。

 夜空と雪だけの静謐な世界なのだが、「ひろびろとつかふ夜空」の表現から、雪が意志を持って、夜空をひろびろと使っているように感じられ、六の花のひとつひとつが生き生きと弾んでいるかのようだ。雪の結晶の精緻な美しさが目に浮かぶ。

 作者もまた、六の花のひとつとなって浮遊し、冬の夜空を堪能しているところではないだろうか。そんな場面を想像する。

 

『ちはやぶるう』より冬の句を。

 風花や青空映す水たまり      嵯峨根鈴子

 寒晴や仇の如くガム嚙んで

 大寒のかあんと消火器が倒れ

 汚れてはならぬ兎よてのひらよ

 狐火にぴつたりの尾を選びけり

〈句集『ちはやぶるう』(2024年/青磁社所収)〉


2024年10月23日水曜日

DAZZLEHAIKU79[桑原三郎] 渡邉美保

 草虱妹の手の邪険なる   桑原三郎    


 「草虱」は、夏に白い小さな花をつけ、秋になると棘上の堅い毛が密生した実を結ぶ。この実が道行く人の衣服や動物につき、くっつくと取りにくいので藪虱あるいは草虱と呼ばれるという。

 草虱を衣服にいっぱいつけて帰ってきた兄と、出迎えた妹とのやり取りが目にみえるようで、なんだか可笑しい。

 「まあ、こんなにいっぱい草虱つけて…いったいどこを歩いて来たの?」などと言いながら、上着やズボンについた草虱をせっせと抓んでゆく妹。その手さばきは少々荒っぽい。その荒っぽさに困惑気味の兄は「妹の手の邪険なる」と嘯く。けれど内心は有難く思っているに違いない。邪悪なのは妹の手なのだ。

 草虱をとってくれる人が恋人や妻だったら、「邪険」とは言わないだろう。兄と妹のサバサバした関係が目に浮かぶ。ほのぼのとした味わいの一句だと思う。


 猫は人を猫と思ひぬ十三夜

 指組んで指先余る秋の風

 柿喰うて般若心経棒読みす

 秋風や木馬の芯に強き発条

 草の実やどこにも人が居て食べて

 ゆく秋のもの喰つて口残りたる

 晩年に先がありさう猿酒

 弟よ寒夕焼がまだ消えぬ

〈句集『だんだん』(2023年/ふらんす堂)所収〉


2024年9月2日月曜日

DAZZLEHAIKU78[広渡敬雄] 渡邉美保

 かさぶたのいつしか剥がれ夜の秋   広渡敬雄    


 「かさぶた」についての情報はなにも語られていないのだけれど、かさぶたが出来、それが乾ききって剥がれるまでの鬱陶しさはよくわかる。かさぶたは周囲から徐々に乾いていくと、つい、乾いた部分をはがしたくなる。かさぶたを少しずつ剥がしていくのは、スリル感を伴う快感でもある。「いつしか剥がれ」てしまったら、ちょっと惜しいような気がしないでもない。などと埒もないことを思う。

 仕事が一段落し、ほっと一息つく夏の夜。涼風が肌に心地よい。

 そういえば気になっていたかさぶたは、と見るといつしか剥がれている。かさぶたが剥がれ、傷が癒えたことは喜ばしいことだと思われるが、吹く風に秋の気配が漂う「夜の秋」。なんとなく淋しさが感じられる一句である。

 はかなく消えた「かさぶた」のかすかな喪失感と、去りゆく季節への愛惜とが、「夜の秋」のひんやりとした空気に重なる。

〈句集『風紋』(2024年/角川文化振興財団所収)〉


2024年7月31日水曜日

DAZZLEHAIKU77[和田悟朗] 渡邉美保

みみず地に乾きゆくとき水の記憶   和田悟朗    


 真夏の灼けたコンクリートの上で干乾びたみみずを見かけることがある。完全に乾ききって黒ずんでしまったみみずもいれば、半身は干乾びつつも残りの半身はまだ生々しい皮膚のままのみみずもいる。そんな時は、水分をたっぷり含んだ柔らかい土に戻してあげたいと思うことがある。

 掲句の「水の記憶」が印象的だ。みみずが「地に乾きゆく」つまり死に直面するその一瞬。みみずは時空を超えて、太古へと遡る。海から陸へという生物の進化の過程の、もっとも根源の懐かしい「水の記憶」が甦る瞬間ではなかろうかと思えてくる。そしてそれは、みみずの記憶であると同時に、作者の記憶であり、私たちの記憶でもあるではなかろうか。


 『和田悟朗の百句』より夏の句を。


かぐわしく少年醒めて蟬の仲間

夏至ゆうべ地軸の軋む音少し

蛇の眼に草の惑星昏れはじむ

遠泳やついに陸地を捨ててゆく

森を出る過ぎゆく夏のふくらみに

〈森澤程『和田悟朗の百句』(2023年/ふらんす堂所収)〉



2024年4月10日水曜日

DAZZLEHAIKU76[土井探花]  渡邉美保

花の陰ぼくはゆつくり退化する   土井探花    


 桜は美しく咲き満ちているのだけれど、樹下はうっすらと影を帯び、蒼ざめていたり、灰色だったりする。花の間から透かし見る空もまた薄青い。人影のまばらな静かな花の陰に坐る、あるいは横たわる。目を瞑る。桜の持つ神秘的な力を浴びながら、ぼくはゆつくり退化する。

 掲句の「退化する」という言葉は、そこはかとない寂寥感や切なさを含みながらも、不思議な心地よさを感じさせてくれる。過剰に進化し、尖鋭化したシナプス、視覚、聴覚、痛覚、その他諸々の感覚が、ゆっくり退化することで、鋭敏な器官たちから解放され、ぼくは再生する。ここでは「退化」が再生の道へ通じているようだ。


春月の呼吸聞こえるほどのやまひ   土井探花

鳥だった記憶が蝶を食ひさうで

間腦に蝶ゐて動かない痛さ

薔薇は実に少年は空を痛がり


長安に男児あり

二十にして心已に朽ちたり      (李賀「陳商に贈る」)


 唐突に、中国唐代の詩人李賀の詩の一節が浮かぶ。早熟で繊細、研ぎ澄まされた感覚を持つ特異の詩人の、深い絶望に覆われた生き方を思うと、李賀を「花の陰」に誘いたいと思う。

〈句集『地球酔』(2023年/現代俳句協会)所収〉

2024年2月27日火曜日

DAZZLEHAIKU75[柴田多鶴子]  渡邉美保

 春を待つ赤肌さらすバクチの木   柴田多鶴子    


 「これ、バクチの木よ」と教えてもらい驚いたことがある。目の前の高木は、誰かが無理やり樹皮を剥がしたかのように、赤黄色の木肌がむき出しになっている。灰褐色の樹皮は、たえず自然にはがれ落ちるのだという。樹皮あっての幹ではないかと思うと、なんだか痛々しいが、それで「バクチの木?」と、思わず笑ってしまった。

 博打に負けて身ぐるみ剥がれ、裸になるのに例えての名だとのこと。昔の命名者にしばし感心。博打で、身ぐるみはがされ裸になる人が多かったのか、「博打に手を出したらこうなるぞ」との戒めの意味だったのか…。

 別名、毘蘭樹。葉から薬用のバクチ水をとり鎮咳薬とする。材は硬く、器具・家具用とある。有用な木なのだろう。


 春が近づいてきて暖かい日が多くなると、春を待つ心がひときわ強まる。「赤肌をさらすバクチの木」であればなおさらだろう。

 春早くこよと願うのは、バクチの木であり、バクチの木を見ている作者なのだと思う。

〈『俳壇』3月号(2024年/本阿弥書店)所収〉

2024年1月23日火曜日

DAZZLEHAIKU74[久保田万太郎]  渡邉美保

  冬の虹湖の底へと退りけり    久保田万太郎


 冬の雨のあがった後の空に、思いがけずにかかる虹にはっとすることがある。冬の淡い日ざしにうっすらとかかる虹は、やさしく儚げで、いつまでも心に残る美しさがある。

 掲句、前書きに[昭和35年12月1日、その地にくはしき山田抄太郎君にしたがひ、名所をたづね琵琶湖畔をめぐる]とある。

   琵琶湖にかかる冬の虹なのだ。遮るもののない広い空と広い湖面が目に浮かぶ。冬の琵琶湖のはりつめた自然の中で、とりわけ美しく見えたであろうと想像する。虹の片脚は湖面に浸っていたのだろうか。

   「湖の底へと退りけり」の措辞がユニークである。虹は空の彼方に消えるのではなかったのだ。今まで見えていた「冬の虹」が湖底へ退いてしまった(退いていく)という感慨。琵琶湖の深い湖底に沈みゆく虹は、水と混じり合いながら消えていくのだろうか。「冬の虹」の儚さはどこか神秘的である。

   もう消えてよくなからうかと冬の虹    宗田安正

   あはれこの瓦礫の都冬の虹        富沢赤黄男


〈句集『久保田万太郎俳句集』(2021年/岩波書店)所収〉

2023年10月28日土曜日

DAZZLEHAIKU73[杉山久子]  渡邉美保

こつとんと月見の舟のすれちがふ   杉山久子


「こつとん」のかそけき音のみが聞こえる。そのあとおとずれる何とも言えぬ静寂な空気。ここは一体どこなのか。

すれ違う月見の舟には誰が乗っているのだろうか。


「月見の舟」という言葉から、中秋の名月か、あるいはその前後。都塵を離れた静かな湖か川を思い浮かべる。

月が天高く煌々と輝いているだろう。

月から押し寄せる金波、銀波。月光の波の揺らぎに合わせるように舟はかすかに揺れているだろう。


月光の藻をくぐりきし櫂ひらり   杉山久子


水中まで差し込む月光は藻を照らし、水をくぐりきた櫂はひらりと月の雫をこぼす。ここにあるのも静寂のみ。寂寥という言葉が浮かぶ。

舟に揺られ、月の波を浴びている、何か不思議な世界を思わずにはいられない。この世とあの世の間にある世界。作者は地上より少し浮いた場所にいるのではないだろうか。

「こつとん」は現実の隙間から異世界への入口が開く合図だったのかもしれないと思う。


〈句集『栞』(2023年/朔出版)所収〉


2023年8月26日土曜日

DAZZLEHAIKU72[鈴木六林男]  渡邉美保

海底に未還の者ら八月は   鈴木六林男


 「お尋ね申します。トラック島はこっちの方角でしょうか」

 小説『姉の島』(村田喜代子著)の一節に、軍服を着た若き幽霊が、海底でアワビ採りをしている海女に、話しかけてきたという場面がある。

「・・・トラック島は日本海軍の基地じゃった。戦後、お詣りにいったら軍艦が10隻に商船も30隻以上は沈んどるという。それに零戦の飛行機の残骸も、百機以上あるようじゃと言うていた。(『姉の島』より)

 これは小説の中の出来事なのだけれど、海底を彷徨う若き兵士の幽霊が、祖国への道ではなく、おそらく任地と思われるトラック島への道を尋ねたことが殊に生々しく、また切ない。

 この幽霊こそが「未還の者」なのだと思う。

 掲句が書かれた1998年、そして、太平洋戦争終結から78年経った現在も、彼らは未還であり、永遠に未還なのだ。「八月は」に、その無念さが滲む。我々日本人にとって八月は鎮魂と祈りの季節であり、八月の持つ背景は深く重い。

〈句集『一九九九年九月』(1999年/東京四季出版)所収〉


2023年7月26日水曜日

DAZZLEHAIKU71[三好つや子]  渡邉美保

 私を旅する水よ合歓の花    三好つや子


 私たちの体のおよそ70%は水でできているそうだ。そして、その水は動いている。絶え間なく流れている。この流れこそが命を支えているという。その水が、まさしく「私を旅する水」なのだろう。

 暑い中を帰り来て、よく冷えた一杯の水を飲む。水は私を旅しながら何処へいくのだろうか。絶え間なく流れる水は、私の体内を潤し、心を潤し、私の存在そのものを旅しているのかもしれない。絶え間なく流れる水は、内部から、外部へも移動するだろう。いつしか水は私になり、私は水になっている…そんな旅だと思う。

 夏の夕暮れに咲く、淡い紅色の合歓の花。やわらかな風にゆれる合歓の花しべが、辺りの空気をゆらす。どこか濡れた感じの合歓の花にもまた、合歓の木を旅する水が流れているのだ。水は私と合歓の花を行き来する。

〈『現代俳句』7月号(2023年/現代俳句協会)所収〉


2023年6月27日火曜日

DAZZLEHAIKU70[山西雅子]  渡邉美保

 水筒の中にゆふやけ子は育つ    山西雅子

 夕焼けをたっぷり浴びて帰ってきた子が目に浮かぶ。真っ黒に日焼けした野球少年かもしれない。帰宅した子に手渡される空っぽの水筒。少年のお供の水筒もまた、夕焼けをたっぷり浴びてきたのだ。水筒の中にはまだ夕焼けが詰まっている気配。子供たちの話し声や歓声も残っていそうである。


 母に手を引かれて夕焼けを見ていた幼年期、夕焼けの前に家に帰っていた小学生低学年の頃。友達と夕焼けの中をいつまでも歩いた思春期。掲句の「子は育つ」の措辞から、子の成長と夕焼けの関係をたどるのは懐かしい。夕焼けと共に子は育つのである。


 夏の夕暮、西の空が真っ赤になり金色を帯びてゆく雄大な景色の中の小さな存在である子どもと水筒。その水筒の中も夕焼けだという詩情ゆたかな世界に惹かれる。

 西の空が、茜色に染まるのは翌日の晴天の予兆。子の育つ未来の晴れやかさを象徴しているようでもある。

〈句集『雨滴』(2023年/角川書店)所収〉


2023年4月21日金曜日

DAZZLEHAIKU69[森賀まり]  渡邉美保

空豆を人買ひをれば我も買ふ    森賀まり


 スーパーの店先に数人が頭を寄せ合っているのが目に入った。大箱の中に空豆がどっさり入っていて、空豆の「詰め放題」だという。どれだけ多く入れようと一袋の値段は変わらないのだ。皆嬉しそうに袋に空豆を詰めている。私も即参加。所定の袋をもらい、空豆を袋に詰め始めた。厚みのある空豆の大きな莢は、意外とかさばり、思うほど沢山は入らない。周りを見ると、莢の向きを揃え、ぎっしりと見事に詰めている名人がいた。早速真似る。袋にぱんぱんに詰め、大よろこびで帰ったことを思い出す。

 掲句、「人買ひをれば・我も買ふ」のおおらかさ、買ったものが「そらまめ」というのがとても楽しい。新緑のころのさわやかな風と、空豆のきれいな色彩が浮かぶ。莢を剥くと豆は、一個づつふかふかの白い綿に守られ、さみどり色に光っている。その豆の形、豆の味。その予定外の買い物は、幸福感に満たされている気がする。

〈句集『しみづあたたかをふくむ』(2022年/ふらんす堂)所収〉


2023年2月23日木曜日

DAZZLEHAIKU68[小林成子]  渡邉美保

羽ばたくも潜るも一羽風光る     小林成子


  いつも通る散歩コースに小さな川がある。きれいに整備された川ではないので、岸辺には破けたビニール袋やごみ類が溜まっていたりする。川底も決してきれいとは言えない状態なのだけれど、川には、青鷺や白鷺がときおり飛んできて漁をする。いつも見るのは、つがいのカルガモで、仲良く水脈を引いている。

 秋ごろからは、二羽の鷭を見かけるようになった。潜ったり、岸辺の草を啄んだりしながら、小さな川を行き来している。いつも二羽は一緒にいた。ところが最近一羽が姿を見せなくなり、鷭は一羽だけで行動。水輪の中で、首をひょくひょく動かしながら川を進む様子はどことなく寂しそう。何故一羽になったのか気にかかっている。

 掲句、何の鳥とも書かれていないが、仲間の鴨が北国へ帰った後に取り残された「残る鴨」かもしれない。早春の風はまだ冷たいが、光はたっぷり降りそそぎ、辺りの風景を明るくしている。水面が輝きを増すさまはまさしく「風光る」である。その明るさの中で羽ばたき、潜り、光をまき散らす一羽の姿。「一羽」が静寂と、寂寥を際立たせている。

               〈句集『わだち』(2022年/ふらんす堂)所収〉

2023年1月16日月曜日

DAZZLEHAIKU67[加藤楸邨]  渡邉美保

 その冬木誰も(みつ)めては去りぬ     加藤楸邨


 「その冬木」のことは一切描写されていないのだけれど、読者には読者なりの「その冬木」が目に浮かぶ。

 寒空の下、木はすっかり葉を落とし冬らしい姿になっている。木の瘤も顕わになったその冬木は、平然と空に向かって立っている。漠然とだが、その木には逞しい生命力が宿っているように感じられる。昔からずっとそこに、意志を持って立っているかのような佇まいの、「その冬木」なのだ。

 その冬木の立つ道を、多くの人が通り過ぎてゆく。その冬木を見つめるが、その木に触れることも、木を抱くこともなく、寒い道を足早に立ち去っていく。

 掲句、「誰も嘳めては去る」というシンプルな表現で、冬木の存在感と、冬ざれの寒々とした光景が描かれている。

 作者は「その冬木」をじっと見つめ、「瞶めては去る」人々と、その冬木との間の、一瞬のかすかな交流を感じているのだと思う。

〈岩波文庫『加藤楸邨句集』(2012年/岩波書店)所収〉

2022年11月18日金曜日

DAZZLEHAIKU66[松王かをり]  渡邉美保

 秋の浜海は巻かれて貝の中   松王かをり


 夏の間、海水浴などで賑わった浜辺も、秋風が吹くころになると、人影も少なくなり、寂しい浜辺になる。目の前に広がる砂浜の少し遠くに、澄んで爽やかな海が光っている。引き潮の刻である。満ち潮の刻の水量豊かな海は、「巻かれて貝の中」という把握が愉快だ。

 野球場で雨が降った時にグランドにかぶせる大きな銀色のシートのことが、ふと浮かんだ。雨が上がり、ゲーム再開という時、銀色のシートは端から大急ぎで巻かれていく。シートは、銀色に波打ち、表面についた雨の雫を飛ばしながらくるくると巻かれていく。あの光景を思い出す。

 巻かれた海は、なんと貝の中に入っているという。貝に吸い込まれる海と、海を吸い込む貝。時空を超えた魔法のような展開。貝の中に入った海は、貝の中で徐々に膨らみ、広がっていくだろう。貝の中にもう一つの世界が生まれ、新たな海となる。そして世界は反転する。

〈『現代俳句』11月号(2022年/現代俳句協会)所収〉

          


2022年9月12日月曜日

DAZZLEHAIKU65[花谷 清]  渡邉美保

九月が好き崩れる雲が速いから   花谷 清


  九月に入っても、まだ暑い日が続くなか、見上げる空は、青空半分、雲半分の空模様。青を背景に白くモコモコした雲が浮かんでいる。一方で、うすい雲が、真綿を引くように徐々に広がっていく。

 暑気、涼気の行き合う空には、夏の雲と秋の雲が混在していて面白い。

 こんな雲の様子を見ることが出来るのは、季節の変わり目の短い間で、まさしく九月なのだと思う。九月になると、空を見上げ、雲の流れを眺めることが増えるような気がする。


 掲句、「崩れる雲が速い」からは、台風の影響で変化する雲の動きも思われる。風の速い流れに従い、形を変えながら移動し、途切れ散り散りになってしまう雲。壮大な天体の、不穏な空気を孕みつつも、次々に崩れてゆく雲の動きに魅了されそうだ。


   〈見つつ消ゆ雲あり秋の雲の中  皆吉爽雨 〉

   〈すさまじき雲の走りや秋の空  政岡子規 〉

   〈颱風の雲しんしんと月をつつむ 大野林火 〉

   〈鰯雲しづかにほろぶ刻の影   石原八束 〉


〈句集『球殻』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2022年7月25日月曜日

DAZZLEHAIKU64[白石正人] 渡邉美保

空蟬の覗きをりたる淵瀬かな   白石正人


  空蟬は蟬のぬけがら。また、魂が抜けた虚脱状態の身という意味もある。からっぽの蟬の抜け殻には、ちゃんと目の跡が残っている。淵瀬は淀みと流れ。世の無常をたとえる語でもある。

 コンクリートの壁に蟬の抜け殻がしがみついている光景はよく見るのだが、今朝の抜け殻は少し様子が違う。真っ黒で不透明な殻なのだ。よく見ると、蟬は殻から出ることが出来ず中で死んでいる。

 羽化せんとして、背中のファスナーが開かなかったのか。その黒い塊は、小さいながら不発弾めいていた。

 幼虫期間の約七年を地中で過ごし、地上に出てはみたが、成虫として地上生活を始めることができなかったこの蟬。正確には空蟬とは言えないのだろうが、どんな淵瀬を覗いていたのだろう。

〈句集『泉番』(2022年/皓星社)所収〉