輝やくも雁の糞もて鎌研げば 安井浩司この前の句集「空なる芭蕉」においては「雁の空落ちくるものを身籠らん」という、聖的高鳴りの句が見られたが、世の現実に落ち来るのは糞なのである、とは作者の絶望であろう。それでも詩と云う鎌は研げるのである。なぜなら、遙か高みを目指してこれまで来たから。だが、こんなものではない、その無念が「輝やくも」の「も」の一字に籠められている。
<「宇宙開」92頁。>
-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
輝やくも雁の糞もて鎌研げば 安井浩司この前の句集「空なる芭蕉」においては「雁の空落ちくるものを身籠らん」という、聖的高鳴りの句が見られたが、世の現実に落ち来るのは糞なのである、とは作者の絶望であろう。それでも詩と云う鎌は研げるのである。なぜなら、遙か高みを目指してこれまで来たから。だが、こんなものではない、その無念が「輝やくも」の「も」の一字に籠められている。
まくなぎの柱を抱けば高むのみ 安井浩司まくなぎは明らかな実体がありながら、堅牢なる触感がなく、集合体でありながら単体に見える。これを人類の集合的意識の暗喩と見る事も可能であろうが、それよりもむしろ生物か否かも、綺麗なのか否かも判然としない奇妙な筒と見たい。まくなぎの揺れ動く柱を抱こうとするのは、風狂の果である。「高むのみ」と、まくなぎにも置いて行かれる地上の自分を嘆いているのである。掲句は「山毛欅林と創造」中の一句(90頁)。
老農は鎌で泉を飲みにけり 安井浩司老農には「年老いた農夫」の他に「熟練した農夫」の意もある。鎌で泉を飲むのも、その熟練の一端であるが、水を飲むのさえ本来は刃物を銜えるが如き危険を伴うのであると思わせる。生を保持するとは危険な事なのだ。鎌が何を暗喩させるかといえば、これは俳句において語られているのだから、俳人は当然、熟練の農夫であり、鎌とは言葉、もっと言えば俳句形式である。使いこなした研がれた鎌で鮮烈な泉を飲むが如く、句とは作られるべきであるか。
さまざまな蛇持ち寄るや雲の下 安井浩司