ラベル 安井浩司 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 安井浩司 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年2月25日水曜日

今日の安井浩司 5  / 竹岡一郎


輝やくも雁の糞もて鎌研げば         安井浩司
この前の句集「空なる芭蕉」においては「雁の空落ちくるものを身籠らん」という、聖的高鳴りの句が見られたが、世の現実に落ち来るのは糞なのである、とは作者の絶望であろう。それでも詩と云う鎌は研げるのである。なぜなら、遙か高みを目指してこれまで来たから。だが、こんなものではない、その無念が「輝やくも」の「も」の一字に籠められている。

<「宇宙開」92頁。>




2015年2月19日木曜日

今日の安井浩司 4  / 竹岡一郎


まくなぎの柱を抱けば高むのみ        安井浩司
まくなぎは明らかな実体がありながら、堅牢なる触感がなく、集合体でありながら単体に見える。これを人類の集合的意識の暗喩と見る事も可能であろうが、それよりもむしろ生物か否かも、綺麗なのか否かも判然としない奇妙な筒と見たい。まくなぎの揺れ動く柱を抱こうとするのは、風狂の果である。「高むのみ」と、まくなぎにも置いて行かれる地上の自分を嘆いているのである。掲句は「山毛欅林と創造」中の一句(90頁)。

「天心へ立つまくなぎの無為のまま」という句も同集(187頁)にある。「天心へ」(天心に、でないのは、天心への航行は限りがないからだ)立つまくなぎは、「無為のまま」立つのである。「立つ」は本来「発つ」の意も含むから、まくなぎは天心へ移動しつつ、既に天心へ存在し、同時に更なる天心へ向かっているのである。即ち、同時に無限に存在し、到達し得る事があっても極める事が出来ない「天心」なる地点が存在する。ならば、天心は真理の暗喩であろう。「無為ゆえに」立つのだろうか。そうではあるまい。「ゆえに」など理屈であろう。まくなぎはまくなぎ、自分は自分であり、あのまくなぎは偶々無為のまま立っただけである。


2015年2月13日金曜日

今日の安井浩司 3  / 竹岡一郎


老農は鎌で泉を飲みにけり          安井浩司
老農には「年老いた農夫」の他に「熟練した農夫」の意もある。鎌で泉を飲むのも、その熟練の一端であるが、水を飲むのさえ本来は刃物を銜えるが如き危険を伴うのであると思わせる。生を保持するとは危険な事なのだ。鎌が何を暗喩させるかといえば、これは俳句において語られているのだから、俳人は当然、熟練の農夫であり、鎌とは言葉、もっと言えば俳句形式である。使いこなした研がれた鎌で鮮烈な泉を飲むが如く、句とは作られるべきであるか。

<「汝と我」(増補安井浩司全句集493頁)>

2015年2月7日土曜日

今日の安井浩司 2  / 竹岡一郎


さまざまな蛇持ち寄るや雲の下        安井浩司

 蛇は魔であり、時に毒であり、智慧であろう。要するに、神秘なるものである。時に神に最も刃向かうものでもある。持ち寄るのは同志であろうが、蛇はその同志たちの魔であり毒であり智慧であり神秘であり反逆であろう。雲は大いなる迷妄を思わせるが、蛇を持ち寄るのだから、季は夏であり、迷妄といえども明るく高く照り輝いているのだ。

「汝と我」(増補安井浩司全句集435頁)