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2017年8月23日水曜日

続フシギな短詩172[川口晴美]/柳本々々


  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくらい壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
        川口晴美「春とシ」

川口晴美さんに『シン・ゴジラ』をモチーフにした「春とシ」という詩がある。ただ『シン・ゴジラ』をモチーフにしているとは言っても、「シン・ゴジラ」を知らなくても、単独で読んでいろいろなことを考えられる詩になっている。

なぜか。

ひとつは語り手が、「シン・ゴジラ」のたえず《生まれ・死にゆく》部分に着目し、「シン」を「新」とは安易にとらえず、「シンでいったものたち」と〈動詞〉でとらえたからだ。「シン」を動詞ととらえることで、そこにはその「死んだ」と二項対立をつくる「生まれた」も同時に内包することになった。

  なぜここにこうしてわたしが生きているのかわかりません
  生き残っているのがどうしてこのわたしなのか
  わかりません
  たくさんのシンでいったものたち
   (川口晴美、同上)

「シン・ゴジラ」という生命体はわたしたちの〈外部〉にあるものだが、「シンだ/(ウマれた)」という行為はわたしたち《そのもの》である。

  それはわたしのなかにあるものでした
  それはわたしのなかにもあるものだとわかりました
    (同上)

わたしのなかにある生まれて・死んでゆくもの。そうしたたえずどちらにも・同時にひきさかれてゆくもの。おそろしくて・すばらしいもの。

  地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で
  おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました
   (同上)

ここには『シン・ゴジラ』の怪獣学ではないひとつモチーフが引き出されているように思う。それは『シン・ゴジラ』とは、〈死生学(タナトロジー)〉だったのではないかということだ。それは、生き・死にをかんがえることであり、わたしの生き・死にをかんがえることであり、あなたの生き・死にをかんがえることでもある。

どうしてわたしが死んで・あなたが生きているのか。どうしてわたしが生きて・あなたが死んでしまったのか。どうしてわたしたちは死んでしまったのか。どうしてわたしたちは生き残ってしまったのか。生き残ったあとの生をどう生きてゆけばいいのか。死者をどうわすれ・記憶すればいいのか。

『シン・ゴジラ』はおそろしく・すばらしく、あかりの失われた場所でそれをかんがえさせる、そうこの詩はひきだした。

  すぐ隣で誰かが
  友だちかもしれない恋人かもしれないわたしの
  母親かもしれない誰かが手をあわせて拝んでいました
   (……)
  シンでいく
  わたしに似た誰か
  わたしではない誰か
  なぜそれがわたしではなかったのか
  わからなくてわたしは手をあわせることができません
  この手は届かないそういうふうにはできていないわたしのシ
   (同上)

「手をあわせ」るだけではやりすごせない「手をあわせること」の不可能性、「手は届かない」という非到達性をもたらす「シ」。この詩で展開されていく死生学的死とはそういうものである。生き・死にについて考えながら、届くことのなかった「シ」についてかんがえる。そして、おもう。わかりません、と。

  あれは
  カミサマなの? とわたしの生まなかった子どもが指さしても
  答えられない名づけることはできない
  わかりません
   (同上)

だから「祈る」ことで行為を停止しないで、その行為の先まで「ゆ」こうとしてみること。ゴジラが意味も目的もなくあるきつづけるように。

  ピクニックのように出かけてゆきましょうね
  祈るかわりに
  わたし
  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくら壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
   (同上)

この詩を読んではじめて気づいたのだが、《ほんとうに祈ることができなかったひと》、それは「ゴジラ」だったのではないだろうか。

ゴジラは多くの生と死を生産しながら、手を合わせることのできない身体構造をもっている。「この手は届かないそういうふうに」できているゴジラのからだ。

ゴジラは、からだの構造上、手をあわせ祈ることはできないのだ。どれだけ殺戮しても。だから、「あそこまでゆきましょう」しかゴジラには許されていない。ゴジラにとって祈りは不可能性と非到達性である。

ゴジラの祈る行為の不可能性を、「シにゆく」という動詞=行為をとおして、詩は描いた。

詩は、たえず、をかんがえている。死をかんがえる詩は、どうじにたえず、祈りのことをかんがえている。祈りのことをかんがえている詩は、祈りの不可能性もかんがえている。祈りの不可能性をかんがえている詩は、祈れなかったものたちのことについて、かんがえている。

          (「春とシ」『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』2016年12月 所収)

2016年7月12日火曜日

フシギな短詩25[木下龍也]/柳本々々



幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう  木下龍也

木下さんが描く幽霊はいつも〈いきいき〉している。たとえば、

  ザ・ファースト・クリボー無限回の死を忘れて無限回の出撃  木下龍也

  リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる  〃

任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に出てくる敵キャラクターのクリボーはゲームのシステム上じぶんじしんの〈死〉を忘れて何度も〈いきいき〉と出撃してくるし、「リクルートスーツ」を着込んだ〈生まれたて〉の幽霊たちは生前よりも〈いきいき〉とするかのように「はきはき」と「死亡理由」をしゃべる。

これはいったいどういうことなのか。

私が思ったのは、ここで起こっている事態とは〈死の/への忘却〉ではないかということだ。

ひとはその生の過程においていろんなことを忘れていくが、ひとは〈死〉の過程において〈死〉さえも忘れる。それが木下さんの歌におけるひとつの〈死生観〉なのではないか。

だから「幽霊になりたて」の自分は〈死んでいる身体〉を忘れ、〈生きていた身体〉を自動的に想起し、反射的に「おめめ」を「閉じ」てしまう。〈わたし〉の意思にかかわらず、身体のシステム、思い出のシステム、忘却のシステムが〈そう〉させてしまうからだ。

「クリボー」もそうだ。じぶんの〈死〉をわすれて、ゲームのプログラムのシステムによって何度でもマリオにつっこんでくる。「リクルートスーツ」もまた〈就活〉というプログラム化されたものである以上、〈死〉を忘れさせる装置になる。

このとき大事なことは、〈忘却〉である。この〈忘却〉にこそ、木下さんが描く幽霊の〈いきいき〉がある。そしてそこから逆照射されたわたしたちの生も。

なぜ、死の忘却にわたしたちの生があるのか。

それは、忘れることが、生者の特権だからだ。

ひとがなにかを忘れるということ。ついうっかり忘れてしまうということ。それが〈生きている〉ということであり〈生の複雑さ〉なのだ。

いっけんわたしたちの生はシステムによっているようでいて、それでもそのシステムのプログラムを忘れ、ノイズを引き起こしてしまう。それが生きていることのやっかいさであり同時に愛おしさでもある。生きるとは、この生のノイズを増幅させることであり、たとえ幽霊になったとしても〈その死〉に対し〈このわたし〉が〈生きるおっちょこちょい〉であることにほかならないのだ。

だから木下さんの「おめめ」は〈幽霊〉化したはずの死のプログラムに生のエラーを引き起こす。〈彼〉はまだ〈生きている〉のだ。誰のシステムでもない、じぶんじしんの生として。

どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。

          (「雲の待合室」『現代歌人シリーズ12 きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房・2016年 所収)