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2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩197[福島泰樹]/柳本々々


  一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦(そよ)ぎてやまぬ  福島泰樹

こんな穂村弘さんの解説がある。

  第一歌集『バリケード・一九六六年二月』は、そのタイトルかあも明らかなように背景に六〇年代の学園闘争がある。…校舎の上に立てば、眼下には「構内」を埋め尽くした同志たちの「三〇〇〇の髪」が戦(そよ)いでいる。
 (穂村弘『近現代詩歌』)

「一九六六年」という「六〇年代の学園闘争」という時間の括りのなかにあってはじめて「一隊」や「三〇〇〇の髪」「戦(そよ)ぎ」が意味をもってくる。タイトルが『バリケード・一九六六年二月』とあるように、〈一九六六年二月〉という時間のバリケードのなかにあえてこれらの言葉は閉じこめられた。

60年代を背景にした100パーセント恋愛小説というベストセラーを書いた作家がいる。村上春樹だ。村上春樹さんは柴田元幸さんとの対談において自作『ノルウェイの森』についてこんなふうに述べている。

  僕が書いている小説世界というのは、だいたいいつもふたつの世界を内包しているんですね。こっちの世界とあっちの世界ですね。……でも『ノルウェイの森』ではそういう時間性の重層性というのはあまりかかわってこないような気がするんです。だから僕はこれはリアリズムの小説だと感じるんです。実感としてね。『ノルウェイの森』というのは、びしっとあの時代に限定しなくてはならなかったんです。もっと極端に言えば、そこから広がってほしくなかったんです。あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし、読者にも考えてほしくなかったんです。変な言い方かもしれないけれどね。だから僕にとってあの小説は他の小説とはぜんぜん違うものですね。
  (村上春樹「山羊さん郵便みたいに迷路化した世界の中で」『ユリイカ臨時増刊 村上春樹の世界』1989年6月)

ここで興味深いのが、村上さんが「リアリズム」とは「時間の単層性」だと述べている点である。それは「時間の重層性」を感じさせてはだめなのだ。リアリズムとは、時間の檻(おり)に閉じこめてはじめて効力を発揮する。だから福島さんの歌のこの「一隊」や「夜の構内」や「三〇〇〇の髪」や「戦(そよ)ぎてやまぬ」は《ここ》、《この時・ここ》だけのものだ。それは、その後の後日譚のようなものもないし、この歌を補足し補完するような解説も書かれえない。そこで始まって・そこで終わる歌。

  だから僕が言いたいのは、とにかくあの時代に時間を限定された小説を書きたかったということですね。それはそこで始まって、そこで終わる話なんです。だから僕は『ノルウェイの森』の続編は書かないし、それを補完する短編も書かないのです。
  (村上春樹、同上)

福島さんの歌の「一」と「三〇〇〇」の数の対比が象徴的なのではないかと思う。「一」のあとに「三〇〇〇」も「四〇〇〇」も「五〇〇〇」もこの歌を読む読者があらわれるかもしれないが、しかしこの歌はその圧倒的な数に、ある時代のなかに閉じこめられた「一」としてずっと対峙しつづける。その「一」に、〈今〉生きる立場から、負けて、この歌をはじめて読むことができるような気がするのだ。つまり、もう、補完しえない者として。

なんども書くのだが、感想を書くということは、いつも、どこかで、負け戦なんだと、おもう。

そこにいられなかった者が、そこにいようと試み、でも試みた結果、そこにいられ《え》なかったことに気づき、はじめからじぶんは負けていたことに気づくのだ。感想とは、そのようなものではないかと、おもう。

  二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ  福島泰樹


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年3月7日火曜日

フシギな短詩90[堂園昌彦]/柳本々々


  君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した  堂園昌彦


堂園さんの短歌で少し考えてみたいのが、語りの速度のスローな感覚である。どうして堂園さんの短歌を読むと語りの速度がゆるやかに、遅くなっていくのを感じるんだろう。

別のことばでこんなふうに言ってみてもいい。どうして語り手は一首のなかで〈意図的〉にここまで情報量をぎっしり詰め込もうとするのだろう。

掲出歌だけでなく次のような例もあげてみよう。

  君がきれいな唾を吐き出し炎天の下に左の手首が痛む  堂園昌彦

  きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く  〃

  誰か何かを言い出す前の沈黙の広場の深い深い微笑み  〃

声に出して読んでみてほしい。どこかつかえるようなゆっくりな感じにならならいだろうか。

なぜそんなことが起こるのか。

わたしが思ったのは助詞の多さである。たとえば掲出歌は「も」「も」「を」「て」「を」「て」「に」「を」と助詞がたたみかけられて構成されている。ちょっと考えてみよう。〈助動詞〉ではなく〈助詞〉が多いというのはどういうことなのかを。それは、動詞・形容詞よりも名詞が必然的に多くなるということだ。だから、情報量の多さを感じるのはそのためである。名詞が多いのだ。

しかしこれは先ほども述べたように〈意図的〉に思える。つまりそういった語り口を採用することで、独自の〈時間〉を生み出しているようにわたしは思うのだ。それはこの歌集のタイトルが『やがて秋茄子へと到る』という「やがて」という〈時間のプロセス〉を喚起させていることからもわかる。

たとえばこれらの歌の〈時間〉が大量の助詞と情報によりスローになっていくときに、わたしたちに起こる意味作用はなんだろう。それは一首のなかに〈滞在〉する時間が長くなるということだ。だから掲出歌の結語の「胸に」「宿した」はその長い時間のぶん、強く〈胸に宿す〉ことになるし、「左の手首が痛む」感覚や「ほこりまみれのバスを見に行く」道程も「深い深い微笑み」の深さも強度のあるものになっていく。強度とは、共有された時間によってつくられるものでもあるから。

歌集タイトルにならっていえば、「秋茄子」への重みが出るのは「やがて秋茄子へと到る」という「やがて」「到る」時間のプロセスがあるからである。その時間の重みを引き受けて「秋茄子」の重量が出てくる。

助辞(助詞の使い方)そのものが、時間の創生につながっていくこと。そして生み出された時間そのものが言葉の強度そのものになっていく。そのことをわたしは堂園さんの歌集を読んで〈実感〉したように思う。

わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。〈ゆっくり〉とは、創造されるものなのだ。

  ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌  堂園昌彦

          (「季節と歌たち」『やがて秋茄子へと到る』港の人・2013年 所収)