-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月7日木曜日
超不思議な短詩203[竹山広]/柳本々々
二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな 竹山広
穂村弘さんの解説がある。
「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存する世界に我々は生きている。
(穂村弘『近現代詩歌』)
先日放送されたNHKの「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 山本直樹×柄本佑」を観ていたら漫画家の山本直樹さんが連合赤軍事件を描いたマンガ『レッド』で、凄惨な事件のなかでもつい笑ってしまうような楽しいことがある、それも描きたかったと話していた。これもひとつのレベルの違うものの共存である。でも、たしかにヴォネガットの小説を読めばわかるようにどんなに凄惨な状況でもわらってしまうことはあるかもしれない。
たとえばそうした違うレベルの共存をずっと描いたのが、松尾スズキだとも、おもう。松尾スズキさんがかつて「トップランナー」というインタビュー番組で、葬式に向かう途中で週刊誌の袋とじヌードを破ってしまうことがあったとする、すごくかなしいことはかなしいのだけれど、その一方で、そういう状況のなかでもヌードをみたいきもちが共存してしまうときがある。その状況とはなんなのか、みたいなことを話されていた(『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』には障害者と笑いの共存というテーマが模索されている)。そういうものを忘れないでいたい、と。これもレベルの違うものの共存の話である。
レベルの落差の共存を描いたアニメに富野由悠季の『 ∀ガンダム(ターンエーガンダム)』がある。このアニメは、世界名作劇場+ガンダムと言われるような、ほのぼの日常労働社会と戦争リアルロボットアニメが融合していく特異というかとってもヘンなアニメなのだが(その意味で〈それまで〉のガンダムサーガを裏返している)、竹山さんの歌のうおな「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存・折衝していく状況が描かれている。
物語の主人公ロランは偶然核弾頭を見つけてしまうのだが、そのとき核弾頭は、キャラクターたちの内面を、核の恐ろしさを知る味方、核の恐ろしさをまったく知らない味方、核の恐ろしさを知る敵、核の恐ろしさを知らない敵と微妙な層をわけながら、描き出していく。
核の恐ろしさをもとに協同しようとする敵味方、核のおそろしさを知らずそれが何かとても〈いいもの〉だと思い横取りしようとする味方。
結局、核は暴発してしまうのだが、そのとき、その回のタイトルにもなっているのだが、あまりの明るさで真っ暗闇のなか「夜中の夜明け」がきてしまう。核のおそろしさを人間はこの〈夜中の夜明け〉のひかり(まるで「ゆふかがやき」のような)に恐ろしさを感じるし、知らない人間は、美しいと感じる。
たぶん、核を考えるということは、このような核と一見無縁の〈風景〉=「夜中の夜明け」「ゆふかがやきの中のかなかな」と核を含んだ風景が、等価であるような状況を考えるということになるんじゃないかと思う。
ほのぼのした風景のなかに、核がある。
キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のロデオのようにまたがることのできる核、タイムボカンシリーズの三悪の爆発するしゃれこうべ型の煙の核、核の風景は凄絶さよりもいつも〈コミカル〉や〈ほのぼの〉とも同居していたのではないか。
その凄絶さとほのぼのがコンタクトをとるその地点に、たぶん、ずっと立っている。わたしたちは凄絶な状況で、おかしなことがあれば思わずわらうし、ほのぼのとした日常のなかで凄絶な死をとげたりする。だれかがそれを正しいといったり、まちがっているといったりする。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。
おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき 竹山広
人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
(ヴォネガット『スローターハウス5』)
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年8月20日日曜日
続フシギな短詩167[楳図かずお]/柳本々々
へび少女へをしたとたん美少女に 楳図かずお
NHKの対談番組『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』において、漫画家・楳図かずおと怪談家・稲川淳二がこんなふうに話している。
楳図 笑いが先なのか、恐怖が先なのかわからない。
稲川 たまに怪談ってすごく笑えることがある。笑いのなかにふっと狂気があったり。
楳図 恐怖と笑いは一緒。
この話の流れになって、楳図かずおが川柳をつくってきたから稲川に見せたいと川柳をだしてくる。
「かい蟲(ちゅう)を釣るんだ!」と釣り針のみ込んだ 楳図かずお
「お前のはくさすぎる!」とトイレの中から声がした 〃
髪の毛ののびる人形にパーマあて 〃
少し前に取り上げたマンガ『川柳少女』もそうなのだが、どうして楳図かずおが〈川柳〉という枠組みを《わざわざ》使ったのかが興味深いところだ。番組では川柳を紹介しただけで、どうして楳図かずおが川柳にしてわざわざもってきたのかは語られなかった。だから考えてみよう。
楳図かずおが持ってきた川柳は、恐怖と笑いは紙一重という話題が出されたときに、稲川にみせられたものだった。だからひとつは楳図にとって川柳という形式は、《恐怖と笑いを複合させる》のに適した表現形式だったということができる。
恐怖と笑いは相反するベクトルをもっていそうだが、エネルギー量は似たものをもっている。たとえば恐怖の表情と笑顔の表情の顔のひきつれに生じるエネルギー量はおなじようなものかもしれない。快(笑い)・不快(恐怖)としては反対方向のエネルギーベクトルをもっているのだが、それがあるリミットを越えた瞬間、おなじようなエネルギーベクトルになるのである。たとえばあまりにも残酷な風景をみたときに感情が振り切れて思わず笑ってしまうような。カート・ヴォネガット。
わたしは連合軍によるドレスデンの大空襲をこの目で見た。空襲前の街を見て、地下室に入り、地下室から出て、空襲後の街を見たわけだ。声をあげて笑う以外なかった。心が何かから解放されたくて、笑いを求めたのだと思う。
ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う。
笑いが恐怖によって生じることはかなり多い。
(カート・ヴォネガット『国のない男』)
楳図かずおは恐怖と笑いを複合するのに川柳という表現形式を選んだが、川柳というのはそうした反作用する感情を複合(パッケージング)し、そのままリミットを超え出ようとするのに向いているんじゃないかと思うのだ。
たとえば樋口由紀子さんの現代川柳をみてみよう。
義母養母実母の順ににじりよる 樋口由紀子
三十六色のクレヨンで描く棺の中 〃
布団から父の頭が出てこない 〃
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 〃
非常口セロハンテープで止め直す 〃
(『容顔』)
これらは現実でやろうとすればできないこともない現代川柳である。「義母養母実母の順ににじりよ」られることも人生にはあるかもしれないし、「三十六色のクレヨン」で棺の中を描くことだってできる(怒られると思うが)。布団から父の頭が出てこない休日もあるだろうし、明るいうちにジビエを隠しておく猟師もいるかもしれない。非常口を応急処置としてセロハンテープでつけることもやれないことはない。
だけれども。
なんか、おかしい。と、おもうはずだ。できるけれど、なんか、おかしい、と。そして、こわい、と。
「義母養母実母」とシステムに操られたようににじりよる人間、カラフルな祝祭と死の同居、「布団」が生の「世界」と等価になってしまうときの不在の父、野生の本能にあらがえなくなった人間から離れてゆく人間、この世の出口かもしれない大切なものがぞんざいに機能しはじめた世界。
おかしいけれど、こわい。
現代川柳はそういう混在し反作用する感情を複合させ、なんの答えも与えずに点として指し示すことができる。それがいったいなんなんですか、と言われればそれまでなのだが、しかし〈いったいなんなんですかこれは〉というインパクトもある。そのインパクトは文学になるかもしれない。
楳図さんがそれに気づいていたかどうかはわからないが、楳図さんは川柳を知らなくても、マンガを描いていくなかで、相反する感情の同居という〈川柳性〉のようなものに本人も気づかないかたちで気づいていたのではないか。
別に川柳を知らなくたって、川柳にアクセスしてしまっていることがあるのだ。
半袖に着替えて待っている最初 樋口由紀子
(NHK『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』2017年7月23日 放送)
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