2017年8月31日木曜日

DAZZLEHAIKU8[山口昭男]渡邉美保



  先生の言葉少なき茂かな  山口昭男


 夏の頃の樹木の盛んに茂っているさまはすさまじい。ことに夏山の茂りは日も差さず、枝葉にすっぽりとおおい隠されて、中がうかがい知れないような繁茂のしかたである。新緑の頃のような明るさもない。
 茂りの中を一緒に歩いている先生が言葉少なくなり、だんだん無口になる。先生は作者が敬愛し、師事する大切な先生なのだろう。「言葉少なき」先生とそれを諾う作者。師弟間の信頼の深さや、先生への傾倒ぶりがうかがえる。
 先生の言葉が少ないことで周囲の静けさは増し、茂りの質量もふえていく。鬱々と茂る草木の量感と熱気に圧倒されそうである。
 茂りの中に、先生の語られない言葉が満ちてくる。そして、それを享受する作者。そこには、言葉のいらない充足感のようなものが感じられる。微かなエロスの香りもまた。


〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉

続フシギな短詩190[奥村晃作]/柳本々々


  中年のハゲの男が立ち上がり大太鼓打つ体力で打つ  奥村晃作

穂村弘さんがこんな解説をしている。

  奥村晃作には、普通の大人が当然身につけている筈の意識のフレームがない。生存に優位な情報を重く見て、そうではない情報を軽く見るという判断が解体されている。……「中年の」においても「ハゲ」に対する偏見がゼロである。
  (穂村弘『近現代詩歌』河出書房新社、2016年)

実はこの歌をわたしはずっとある別の歌人のひとが詠んだ歌として記憶していた。でも、その〈まちがい〉に意味があるような気がして、すこし考えてみたのだが、ここにはこの語り手の独特のフレームがないために、実は、〈だれ〉が詠んでも、〈だれ〉がこの風景を観ていても、かまわないということなのではないかと思うのだ。零度の風景。だから、実はこの歌は、だれが署名しても、いい。でもそのだれが署名してもいい歌というのを歌としてつくりあげてしまったところにこの歌の署名性がある。

ところでこの歌には形容詞がひとつもないことに注意したい。形容しないからこそ、ここには語り手の意識がないように感じられるのだ。情報処理感覚がないというか。まるでボルヘスが創造した架空の国「トレーン」の逆バージョンのようなかんじなのだ。

  トレーンでは誰も見ていなければ月は存在せず、そもそも「月」を表す名詞すら無くて「暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろの」というような形容詞の連なりがあるだけだそうです。瞬間聖者や瞬間動物たちの世界とも言えるでしょう。なにしろ、今日から明日までずっと存在する月、もしくはあなたや私、という「もの」は存在しないし、だからといって、今が特別重要なわけでもありません。今が特別だと思うのは、私達のような、今以外の存在も暗黙に認めている俗人です。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

形容詞しかない国「トレーン」に比べて、事態はまったく逆である。奥村国は、形容詞のない国だ。トレーンでは形容詞しかなく名詞(カテゴリー)がないために瞬間的な意識しかないのだが、奥村国には形容詞がないことによって、ずーーーーっと続く純粋なカテゴリーが逆に感じられる。無限持続カテゴリーといったらいいか。ただしそれは意識ではなく、無限に続くカテゴリーの1コマに過ぎない(アゴタ・クリストフの『悪童日記』やトゥーサンの『浴室』みたいな)。

だからここでの「中年のハゲ」は、純粋に持続するカテゴリーでしかなく、語り手はカテゴリーになんの感情ももっていない。それは、ずーっとなんにも変わることなく持続していく「中年」カテゴリー、「ハゲ」カテゴリーの群れでしかなく、それは〈意識〉されなかったものであり、「中年」「ハゲ」「男」「立ち上がる」「大太鼓」「打つ」「体力」「打つ」と名詞と動詞が並べられただけである。

ここには瞬間的な感覚がない。瞬間的な〈感覚する〉がないので、このカテゴリーを使って語り手は明日も明後日も明明後日も十年後も百年後もまったくおなじ風景をみることが、再現=表象することができる(まるでボルヘスの「不死の人」みたいだ)。ここにはカテゴリーしかないので、百年後、やはり、中年のハゲの男が立ち上がる、立ち上がり大太鼓打つ。年齢も頭髪も体力もまったく変わらずに。語り手はそのときもカテゴリーにであうだけで、かなしいとかやさしいとかはげしいとかせつないとかすきとかきらいとかは、おもわない。それはカテゴリーにはならない。瞬間意識になっちゃうから。 

そう言えば、西川さんはこうも言っていた。

  (トレーンには)死の恐怖はありません。「死ぬ者」がいないからです。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

しかし、ずーっと持続してゆだけのカテゴリーも、逆に痛みや死を消してゆくのではないだろうか。カテゴリーに、〈痛い〉という形容詞はないから。

  転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる  奥村晃作

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

続フシギな短詩189[与謝野鉄幹]/柳本々々


  われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  与謝野鉄幹

この歌に関して、穂村弘さんが面白い解説を書かれている。

  鉄幹の「われ」は、その弟子世代の「われ」と較べても、あまりにもダイナミックかつ多面的、しかも引き裂かれていて把握が難しい。
  『紫』の巻頭に置かれた「われ男の子」は、その見本のような作である。一首の中に七つの「われ」が犇(ひし)めいている。それは混乱して「もだえの子」になるよなあ、と思う。
  (穂村弘『近現代詩歌」河出書房新社、2016年)

この七つの「われ」ってロマンシングサガ2の七英雄みたいでちょっと面白いが(『ONE PIECE』の七武海でもいいけど)、たぶんこの七つの「われ」をまとめあげているのが「あゝ」である。

どんなに分裂し「もだえ」ていても、〈ああ!〉と感嘆できる人間はひとりしかいない。この「あゝ」のなかに「男」も「意気」も「名」も「つるぎ」も「詩」も「恋」も「もだえ」も入っているのではないかと思う。

つまり、この「あゝ」がとっても近代的であり、縫い目を綴じ合わせる近代独特の〈ボタン〉のような働きをしているのではないかと思う。または、こんなふうに考えてみてもいい。どうして詩から「ああ!」は消えてしまったのだろう。どうして今「ああ!」を使うと古くさく感じられることがあるのだろうと。

すごく雑な言い方だが、近代はどれだけ〈わたし〉がカオスにおちいっても、「あゝ」でまとめあげようと思えばひとりの〈わたし〉にがっつりまとめあげられてしまう。

じゃあ、現代の〈わたし〉は、どうだろう(という言い方も雑でどうかと思うけれど)。

  ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります  斉藤斎藤
  (『渡辺のわたし 新装版』港の人、二〇一六年)

「わたくしにわたしをよりそわせ」る〈添い寝〉の距離感のような「わたし」。あなたに添い寝する〈あなた〉と〈わたし〉がいくら抱きしめても〈同一〉の人間にはなれないように、ここには微妙でソフトな距離感がある。しかしそれは、そんなに遠いわけでもない。抱擁しようと思えばできるくらいの距離には、あなたから離れたわたしはいる。「あゝ」ほど暴力的でもない。絶妙に、ソフトに、離れて、「ちょっとどうかと思うけれども」、でも、そこにいる、わたしのわたし。

斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』では、〈わざわざ限定して〉「渡辺のわたし」と歌集が名乗っているくらいに、きづくと〈わたし〉が少し離れた場所に遊離してしまう。でもそれはカオスでもなく、そんなに遠く離れて、でもない。それは、すぐそばにいる。すぐそばにはいるのだが、同一でもない。だから今は「渡辺のわたし」かもしれないが、次のしゅんかん、「わたし」は、「Xのわたし」になるかもしれない。そういう偶有的〈わたし〉にこの歌集はみちている。

  ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる  斉藤斎藤

ずっと疑問だったのだが、なぜ「ぼくはただあなたと一緒になりたいだけなのに」じゃなくて、「あなたになりたい」なのだろう。いったい、《なって・どうする》のだ。

こう、考えてみたい。「ぼく」は、「あなた」の視点が所持できないことが、「あなた」の視点で世界を考えられないことがいやなのだと。いやなんだけれど、けれど、仕方がない。「わたくし」に「わたし」をよりそわせることはできるが、「あなた」とは絶対的な途方もない、しかし並んでそんなに離れてもいない、絶対的な距離感がある。わたしのわたしとあなたのあなた。

「わたし」は語法によっては操作できる。わたしがわたしに添い寝できる。しかし、「あなた」を《語法で操作したくない》。あなたの位置から・わたしは・映画を観たくない。というか、なれない。絶対不可能ということを死守する。でも、「なりたい」という気持ちは隠さない。でも、ならない。なりたいけど。

それが、この歌ではないだろうか。いや、今、わたしも気づいたんだけれど。

  あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる  斉藤斎藤

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩188[神野紗希]/柳本々々


  コンビニのおでんが好きで星きれい  神野紗希

川柳と「好き」「逢う」「密会」の話が出たので、この句をとりあげてみたい。私は神野さんのこの句をはじめてみたときから、なんだかこの句に俳句のあたらしい秘密があるような気がして、ことあるごとに思い出しては、考えてきた。というか、俳句なのに「好き」という言葉があったのが、とても衝撃的だったんだとおもう。もちろん俳句に「好き」という言葉はでてくる。かつてとりあげた池田澄子さんの句、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

ここにも「好き」があるのだが、「夫は他人」と言う認識によって、また「屠蘇散」という薬の季語によって、「好き」の位相はズラされている。ここには、ベタッとしたままの「好き」はない。夫は他者であり、季語も他者である。

神野さんの句の面白いところは、句のなかの「好き」が〈ほんとう〉に「好き」なんじゃないかと思うところだ。この語り手は「コンビニのおでん」がほんとうに「好き」なんじゃないかと。しかもここにはなんの他者もいないんじゃないかと。そう思われるのが、「コンビニのおでんが好きで」の後に続く「星きれい」だ。この語り手は、「コンビニのおでん」がためらいなく好きなひとで、かつ、「星」がためらいなく「きれい」だとおもうひとだ。

この助詞の「で」をどうとるかは実は難しいのだが、ひとつ言えることは、「コンビニのおでんが好き」という感情=内面と「星きれい」という風景が助詞「で」によってためらいなく等価につながってしまうということである。つまりここにはその「で」という連絡=接続を阻止する他者はいないのだ。

ただもっと面白いのが、そうした他者を埋め込まない句によって、句そのものが〈他者〉を呼び込んでくるところである。たとえば、「コンビニ」と表記するか「コンビニエンスストア」と表記するか(俳句の書記意識をめぐる問題)、ほんとうに「コンビニのおでん」をおいしいと思うかどうかもっとちゃんとしたところで食べたい(俳句をめぐる階層的問題)など、この句そのものが「コンビニのおでんが好きじゃなくて星もきれいじゃない」と思うような〈他者〉を呼び込んでくる(俳句の《そもそも》をみんなが考えはじめてしまう)。

とすると、私がこの句にみた俳句のあたらしい秘密は、この句が、たまたまそういう俳句の臨界のようなところに、ふっと身をおいてしまったことにあるのではないかとおもうのだ。でもそういった臨界の俳句は、他ジャンルの他者に呼びかけてもいく。えっこんな俳句があるの、と。なんでだろう、と。そもそも俳句ってなんだったのか、と。自分が知らないうちにずいぶん古池蛙から遠くなってる、と。

  この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれてあなたは幸せになる。絶対に。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない。
  (岡田利規『現在地」)

ただ私は同時に現代の〈かえるの飛び込む水の音〉はこんなところにあるような気もしている。なにも考えずに、あえて意図的に意識をもたずに、無意識のなかで、じぶんの生活意識を〈録音〉した場合、ふっとこのような意識を録音できてしまうのではないだろうか。ああなんかほんとこれおいしいのかよと思って買ったけどコンビニのおでん意外にめっちゃおいしいしなんかふっと帰り道空みあげたらなんかなんていうかめっちゃつきぬけたように星きれいだったしなんかいいこともわるいこともなんにもないけど明日もまたコンビニのおでん帰り道買おうかなソーセージなんかもあれ入ってたよなおでんなのにソーセージってなんなんあれになんかいろんなものを吸わせてるのそのなんかおでんの養分みたいなうまくいえんけどなんかきづくとあれめっちゃ星、と。それが現代の意識の水の音のような気もしている。直感だけど

でも、意識に、実は、他者はいらない。他者は意識を阻害するので。他者は、その句の、外にいて、外からやってきて、たえずその句にふれればいいのだ。だから、気になって、なんどもこの句に帰ってくる。わたしもよく思い出す。毎日、コンビニにいくので。あのひと毎日コンビニにくるよなあとおもわれてるしそれはそれでぜんぜんいいって中腰でお餅の入ったグラタンとか手にしながらおもうし、それにコンビニはぜんぜん滅びるようすはないし、おでんも毎年絶対にわすれないアニバーサリーのようにやってくる。なんかわたしが気にかけなくてもおでんはむこうからわたしの意識のなかにやってくるし意識いじくるし、なんか、あの、わたしたちの意識は、コンビニやおでんや帰りになにげなくみあげた星にあるような気もしているし、なんかいまや、古池の意識作用は、コンビニにあるのではないだろうかと思うし、なんかめっちゃ思うし、なんか。

  ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題からも救った、くわえて、どこでバイトしたらいいんだ問題、僕のわたしのバイトできるとこありません問題からも救った、ようするに、人類のすべての問題を、コンビニは解決したってことだ!
  (岡田利規「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」『悲劇喜劇』2015年1月)

          (『光まみれの蜂』角川書店・2012年 所収)

続フシギな短詩187[北野岸柳]/柳本々々


  歳時記の中で密会してみよう  北野岸柳

飯島章友さんがたしかそう書かれていたのだと思うのだが、川柳でも季語は使われることはあるのだけれど、川柳においては季語は〈私的(プライベート)〉に活用されるのだという。だから俳句にとって季語は公的でありオフィシャルなものなのだが、川柳においては季語はアンオフィシャルなものなのだ。この指摘をきいたとき、わたしは、なるほどなあ、と思った。俳句と川柳では、季語にたいする態度がちがうということ。

変な話なのだが、もし川柳に私性というものがあるのだとするならば、それは〈私的活用〉という意味での〈私性〉なのではないか。

私が今すぐ思いつく季語の入った川柳にこんな句がある。いちど取り上げているけれど。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

「バナナ」が夏の季語である。わけあって「季語」を持ち歩いている語り手。この句が、川柳の季語に対する態度をとてもよくあらわしているのではないかと思う。「わけあって」と「季語」を所持している理由はプライヴェート(私秘的)に隠されている。おまえには関係がない、と。こうして季語は、《私的活用》されている。

長い前置きになってしまったが、岸柳さんの掲句をみてみよう。「歳時記の中で密会してみよう」。これはまさしく〈季語が展開する場〉を「密会」の場として〈私的活用〉する句と言えないだろうか。俳句で、密会ということばを使うのは危うい。たぶん、俳句で「密会」ということばを使うと、季語の「歳時記性」のような公共性が保てないのではないかとおもう。ところが川柳ではよく「好き」や「逢う」を使う。こうした偏りのある〈私的(プライヴェート)」な動詞を使っていいのが川柳である。だから、「密会」も使う。

  川柳は詩になりそうもないどんな言葉でも使い、季語に束縛されない。この自由があるかぎり、どんな不可能な、不気味な、奇妙な、あいまいな場所にも踏み込んでいくことができる
  (樋口由紀子『MANO』4号)

だからそうした公共的な場所である「歳時記」も密会の場所として私的活用してしまう。もしかしたら川柳の眼目というのは、このあらゆるものの〈私的活用〉にあるのかもしれない。以前、取り上げたこんな句を思い出してみる。

  非常口セロハンテープで止め直す  樋口由紀子

  非常口の緑の人と森へゆく  なかはられいこ

「非常口」は公共性のあるものだが、つまり決して私的活用されてはならないものだが(私的活用されては非常口にならない。それでは、〈勝手口〉である)、これら句では〈私的活用〉されている。セロハンテープで止め直すのも私的活用だし(そんな非力な耐久性では公共性は守れない)、非常口の緑の人と森へいってしまうのも〈私的活用〉である(緑の人に逃げられては非常口を指示する記号がなくなるので公共的に困る)。

「歳時記の中で密会してみよう」という〈公共性〉と〈私秘性〉の出会いそのものをあらわしたような句は、まさにこの俳句と川柳のジャンルの違いそのものをあらわしているようにも、おもう。

ただ問題がある。川柳は私的活用が非常にうまいのだが、だんだん〈私尽くし〉のようになってきて、〈私地獄〉の世界になってゆくのだ。私がゲシュタルト崩壊してゆくというか。だから、こんな、句がある。

  何処までが私で何処までが鬼で  北野岸柳

          (『動詞別 川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)

続フシギな短詩186[萩原朔太郎]/柳本々々


  まつくろけの猫が二疋(にひき)、
  なやましいよるの家根のうへで、
  ぴんとたてた尻尾のさきから、
  糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
  『おわあ、こんばんは』
  『おわあ、こんばんは』
  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
  『おわああ、ここの家の主人は病気です』
          萩原朔太郎「猫」

この詩で気になっているのが、語り手はいったい《どこ》にいるのかということだ。朔太郎の書いたものには、この《どこ》がつきまとっているのではないか。たとえば、萩原朔太郎に「猫町」という猫の町に迷い込んでしまう散文がある。しかしこの語り手が、また、怪しい。

  久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。
  (萩原朔太郎「猫町」)

猫の大集団がうようよと歩いてい」て、「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れてい」る猫町に迷い込んだ語り手は、冒頭、「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」語り手なのだとみずからの位置性を語っている。この「猫町」はそういう人間が迷い込んだ猫町なのである。これは、主観と客観の合間の物語だともいえる。だから、きょうあなたがコンビニにゆきがてら、猫町行こっかな、というふうには行けないのだ。主観と客観のさかい目がなくなるくらい、クレイジーにならなければいけない(クスリを使うと簡単にいけるのだが、実際この語り手もクスリを使っている。でも、クスリ、ダメ、ゼッタイ)。

冒頭の詩は、「猫」という詩である。「猫が二疋、/なやましい夜の家根のうへで」と「猫」を観察している描写があり、また、「夜」をなやましいと叙述しているので、これは、「夜」をなやましく思う語り手が「猫」を観察しながら語っている詩だということができる。「なやましい夜」を過ごす人間が、この詩を語っている。視覚化してしみよう。

 ●(悩ましい詩を語ることのできる人間)→★★(黒猫二匹)

さらにその語り手は、猫をこえて、「糸のやうなみかづき」をみている。かすんではいるが。奥に三日月がある。

 ●→★★→△(かすんでいる三日月)

ここで語り手が猫の「ぴんとたてた尻尾のさき」をみた瞬間、「みかづき」に視線が即座に《移ろって》しまっていることに注意したい。この語り手は、じっとなにかを静止してみつめているタイプではない。視線がさっと瞬間的にうつろってしまうタイプの語り手なのである。なやましい夜を過ごしていて、きょろきょろしてしまうそういう語り手がこの詩には設定されている。

猫たちの会話の次の言葉でこの詩はおわる。

  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

この〈病気の主人〉は、なやましい夜を過ごしながらきょろきょろしてしまう語り手に対応してしまう。語り手は「ここの家の主人」なのか。違うかもしれないし、違ってもいい。もし語り手がここの家の病気の主人でないならば、ここらあたりは〈病人〉でいっぱいだということである。

気になるのが猫たちの会話は、「こんばんは」「こんばんは」「ここの家の主人は病気です」とコミュニケーションが成立しているのに、『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』だけ、不可解な言葉になっているところだ。でもその不可解な言葉に《ちゃんと猫は答えている》。つまり、猫は『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』をちゃんと意味として、問いかけとして、受け取っているのだ。

だとしたら、なぜ、語り手にとってはそれは意味として、翻訳できるものとして、聞こえなかったのだろうか?

ひとつこんな推測をしてみたい。それは、語り手にとって、《聞いてはいけない言葉》だったんじゃないかと。たとえば、ここの猫のことばが実は、『おぎゃあ、ここの家の主人は病気なんですか?』という問いかけだったとしよう。しかしその問いかけを語り手はスルーしてしまった。というよりも、この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』という苦悶のうめきのようなものが、《そのまま》なやましい語り手の声そのものになってしまった。だから、ここを、あえて。人間の意味に訳す必要はなかった。この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』は語り手が〈翻訳〉する必要なんてなかった語り手の苦悶のうめき声である。そしてそれは、語り手にとって、問いにならない言葉だ。その言葉をもう生きてしまっているので。

でも、わからない。推測だから、それは推測でしょう、と言われれば、推測ですね、というしかないのだが、ただ冒頭で記したとおり、朔太郎は、「猫町」に迷い込む際に、主観と客観の境界に入り込むことを大切にしていた。じぶんが「見た」っていえば、それは「見た」ことになるんだと。「聞いた」といえば「聞いた」ことになるんだと。現象の絶対化。厄介である。

  だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理屈や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。
  (萩原朔太郎、同上)

この「猫町」には冒頭に、《蠅そのもの》ではなくて《蠅の現象》を潰すショーペンハウエルのエピグラフがあるのだが、感覚世界や現象世界があらわれたとき、その感覚や現象は当事者にとっては〈絶対〉のものとなる。というより、わたしたちは、実は「蠅そのもの」(カントは物自体と呼んだ)には、一生涯かかっても、ふれられていない可能性もある。現象をみて、現象にふれ、現象にまんぞくし、現象的にしんでいく。そういう可能性だって、ある。一生、《物(モノ)》にふれられずに。

でも、現象には、穴がある。物そのものがときどきコポコポと音をたててあらわれてきてしまうのだ。それがこの詩では『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』の箇所なのではないかとおもう。それは、意味や現象にならないなにかである。語り手が、〈物そのもの〉に出あってしまうシーン。現象の裂け目を、裂け目のままに、おぎゃあおぎゃあおぎゃあ、と無意味のままに、うめきのままに、おいたセンテンス。

だから心配しなくても、死のまえに、は、やってくる。はやってきて、あなたにふれる。

  夢──壁には唯物の穴ポコポコあき  中村冨二

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月29日火曜日

続フシギな短詩185[小久保佳世子]/柳本々々


  一人称単数として滝の前  小久保佳世子

小久保佳世子さんの句集『アングル』にとって〈一〉というのはとても大事な数字だ。〈一〉がさまざまな「アングル」を語り手にもたらすからである。

掲句も、「一人称単数として滝」をみている〈わたし〉という「一」のアングルが、わたしに新しい滝を発見させている。滝をみる一人称単数、一人称複数、二人称単数、三人称複数。滝は、〈だれ〉がみているのかではなく、〈どの人称〉がみているのか、で微分されていく。アングルは、実は、〈眼〉ではなく、〈主語〉にある。

「一」をめぐる句をみてみよう。とっても多いんだ。

  丹頂の一声徹る子宮まで  小久保佳世子

  変はるため一本の裸木になる  〃

  引算の途中や十一月の森  〃

  一歩ずつ海に近付く懐炉かな  〃

  一囲ひづつの冬日を獣らに  〃

  秋草の一種サナトリウムの香  〃

  海にある一線憲法記念の日  〃

  太陽の一色強し河骨に  〃

  鶴の足一本二本さみだるる  〃

  台形の滝の一辺人歩く  〃

  水温む穴一対は河馬の鼻  〃

  一億の蟻潰しゆく装甲車  〃

  一万歩来てぼろぼろのチューリップ  〃

まるで「一」をめぐる俳句アンソロジーができるくらいにたくさんある。偶然だろうか。偶然だとは、おもわない。「一」は「アングル」という句集タイトルが示すとおり、同時に、視覚(アングル)をあらわすイメージにもなっているからだ。

「一」という棒線によって、「子宮」まで届く声が示される。変わるための、あるいは憲法の、境界線が示される。「一歩づつ」「一万歩来て」と道程そのものがあらわされる。一人称単数でみていた滝は、こんどは図形としてあわらされ、「台形の滝の一辺」になる。

この句集では「一」が意味のアングルをもたらすと同時に、視覚のアングルをももたらしている。一は意味であると同時に、図形でもあるのだ。

これは、偶然ではない。

小久保さんは「あとがき」にこんなふうに書かれている。

  句集『アングル』の作品にほんの少しでも飾りや作り物ではない私自身の見た「もう一つのほんとう」が描かれていたら本望です。
  (小久保佳世子「あとがき」『アングル』)

ここにも「一」があらわれている。「一」とは「もう一つのほんとう」なのであり、いや、「一」そのものが、アングルであった。

  除夜の鐘一音一音に行方  小久保佳世子

          (「綿虫空間」『アングル』金雀枝舎・2010年 所収)

続フシギな短詩184[茨木のり子]/柳本々々


  わたしが一番きれいだったとき
  街々はがらがら崩れていって
  とんでもないところから
  青空なんかが見えたりした

   (……)

  だから決めた できれば長生きすることに
  年とってから凄く美しい絵を描いた
  フランスのルオー爺さんのように
                ね
      茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」

「わたしが一番きれいだったとき」なはずなのにその「わたしが一番きれいだったとき」がとうとつに不可避の外部の力によって崩壊させられたとき、「わたし」はどんな言葉に出あうのだろう。

昔からこの詩を読むたびにとても不思議だったのが、最後の行のとっても長い空き(アキ)の空間だった。どうして、

  フランスのルオー爺さんのようにね

ではなくて、

  フランスのルオー爺さんのように
                ね

と、「ように」と「ね」の間にこんなにもアキをつくらなければならないのだろうか。

この詩を、〈空き〉に注目してみると、詩はそのはじめから〈空き〉に満ち満ちている。「わたしが一番きれいだったとき」というわたしが一番充実していたはずのときに、「街」が「がらがら崩れていって/とんでもないところから」大きな〈空き〉があらわれる。その〈空き〉には「青空なんかが見えたり」するのだが、しかし、《そこ》に青空が見えることはもちろん《まちがっている》。みえるべきでない場所にあらわれた青空。「青空」=「わたしが一番きれいだったとき」は、まちがった場所に・時間に、転送されている。

語り手の街はぽっかり大きな穴が空き(戦争だろうか)、「まわりの人達が沢山死」んでそれまで誰かいたはずの空間が空き(戦争だろうか)、「だれもやさしい贈物を捧げてはくれ」ずわたしのありえた関係もなくなり(戦争だろうか)、「わたしが一番きれいだったとき/わたしの頭はからっぽ」だったと綴られる(戦争とはなんだろうか)。

しかし、どれだけ、語り手が〈からっぽ〉でも、その〈からっぽ〉であったことを、詩として、ことばとして、語らねばならない。そうでなくては、〈からっぽ〉自体が〈からっぽ〉になり、〈からっぽ〉自体が消えてしまう。

でも、だからといって、〈からっぽ〉を言葉で語り〈切って〉しまっては、やはり、〈からっぽ〉でなくなってしまう。言葉で語れるからっぽなんてからっぽではないのだから。

そのからっぽの板挟みのなかであらわれたのが、詩のラストにあらわれた〈長大な空き〉なのではないだろうか。「フランスのルオー爺さんのように          ね」と、この「ように」と「ね」が接続されるためには、とっても長い〈空き〉が要請される。それは言葉では埋められないものだ。「ね」という確認や同意の終助詞はこの〈空き〉を経て、やっと、たどりつけるものだった。

詩は、ときにからっぽを、用意する。からっぽだったころのわたしをからっぽにさせないために。

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの国は戦争で負けた
  そんな馬鹿なことってあるものか
  ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
    (茨木のり子、同上)


          (『近現代詩歌 日本文学全集29』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩183[河野裕子]/柳本々々


  手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  河野裕子

河野裕子さんで有名な歌に、

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子

という歌があるのだが、すごく「君」への求心力が強い歌だ。〈例え〉として話し始めたことではあったが、その〈例え〉は「ガサッと落葉すくふやうに」と非常に具体的かつ強力で、さらにそこに例えだけではなく、「私をさらつて行つてはくれぬか」という率直な行為の記述が入る。それは落ち葉をすくうようにというたとえではもはやすまされていない。たとえ話をしながらも、そのたとえを超克し、「私をさらえ」と言っているのだ。

だから「たとへば君」のこの「たとへば」は「たとへば」なんかでは、ぜんぜん、ない。「たとへて」はいないのだから。「たとへ」るというよりは、「君」と名指しされた「君」がためされる歌だ。たとえば、ですますのか、たとえば、ですまさないのか。どっちなのか、と。

そうかんがえると、この一字アキもとても効果的だとおもう。なぜなら、「君」に少し考える時間を与えてあげているから。この一字アキは残酷である。試される時間だからだ。この歌のいちばんの強度は「君」の横にある永遠ともいえそうなこの一字アキになるような気もする。夏目漱石『それから』で主人公の代助が答えることのできなかったおそろしい問いかけである。

掲出歌は、河野さんの最後の作と言われている。この歌で私がとてもインパクトを受けたのが、「あなたとあなた」という「あなた」の反復だった。「手をのべて/触れたき」というとき、ふつうは慣性として「君」というひとりの人間に語られるのではないだろうか。あなたにも・あなたにも触れたい、という発想ではなくて。

ところがこの歌では「あなたとあなた」と〈あなた〉が複数形になっている。まるで河野さんはみずからの代表歌の「君」を〈ズラす〉ように「あなた」の横に「あなた」を添えている。そしてその複数の「あなた」に対応するように下の句には複数の「息」がでてくる。

落葉の歌は、「君」と「私」という単数の歌である。でも河野さんが最後にたどりついた歌は、「あなたとあなた」、「息」と「この世の息」という複数に語りかける複数的な場所をめぐる歌だった。

大澤真幸さんが愛をめぐる関係を次のように述べている。

  愛の関係においては、指示の究極的な帰属点は、私(自己)であると同時にあなた(他者)でもある。一方においては、私こそがあなたを愛しているのであり、あなたを愛する対象として指示する営みの帰属点が私であるという構成は解消されはしない。が他方、私の任意の指示が、ただあなたの宇宙の中の要素としてのみ意味を有するのであれば、私の指示をさらに指示している他者の方に最終的な帰属点が委譲されてもいることになる。だから、ここには、眩暈を誘うような、指示の帰属点の終わりなき反転がある。
  (大澤真幸『恋愛の不可能性について』)

愛の関係は、究極的に「私」か「あなた」に回収される。「私」「あなた」「私」「あなた」とお互いがお互いをガサッとさらい続けるような眩暈のような関係が愛の関係でもある。

でもここに「あなたとあなた」ともうひとりの「あなた」を介入させたら、このめまぐるしい愛の関係はどうなるのだろう。もうひとりの「あなた」は彼でも彼女でもない。それは第三者ではない。「あなた」である。「あなた」にもうひとり「あなた」が加わったのだ。それは、さらい・さらわれる関係でもない。河野裕子の短歌はこうした新しい愛の関係を短歌で発見したのではないかとおもう。「あなたと彼を愛したい」ではなく、「あなたとあなたを愛したい」。その愛の関係は、なんなのか。

とてもずっと考えたいと、おもう。

  まみ深くあなたは私に何を言ふとてもずつと長い夜のまへに  河野裕子

          (『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

続フシギな短詩182[芦田愛菜]/柳本々々


  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……なんだったかな下の句  芦田愛菜

『徹子の部屋』のゲスト芦田愛菜さんの回をみていたら、いま中学校で百人一首が流行っているという。黒柳徹子さんから、好きな歌あります? と聞かれ、芦田さんがすらすら暗唱したのが、

  いにしへの 奈良の都の 八重ざくら 今日九重に 匂ひぬるかな  伊勢大輔

「八重」と「九重」の掛けが好きだという。たしかに視覚的にわかりやすいし面白い。芦田さんはすらすらと朗唱する。ほかに、

  瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ  崇徳院

この歌はストーリーが好きだという。やはり芦田さんはそらですらすら朗唱する。川の水が割れてもまた合流する感じを、ひとが別れてもまたいつか出逢うことにたとえた歌はたしかに話として面白い。

でも学校では「ちはやぶる」の歌がいちばん人気なのだというと、黒柳さんが「やって」という。「やって」と。「なんだっけ」という芦田さん。でも、やってみる。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……

まで行ったものの、「なんだったかな下の句」と止まる芦田さん。黒柳さんも、わからない。ふたり、だまる。とつぜん、「どなたかご存じ?」と観客席に話しかける黒柳さん。観客席への下の句のヘルプ。観客席に百人一首にくわしいひとがいるのか。すると、観客席から反応が。黒柳さんが「ん?」と聞き返すと、(すいません、知りません)というただの負の反応で、「あ、ご存じじゃないの」と黒柳さん。会場は穏やかな笑いにつつまれた。終わり。

いや終わりじゃなくて、私が興味深いなと思ったのが、芦田さんが上の句まではすらすら暗唱したにもかかわらず、下の句を忘れてしまったように、上の句と下の句の間にある微妙な〈裂け目〉である。575と77のあいだにある微妙な記憶の境界。これは、歌の記憶の整理のされ方が、〈575〉というパッケージングと〈77〉というパッケージングに別れていることをあらわしていないだろうか。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは  在原業平朝臣

《すごい神々の時代にも聞いたことがないような龍田川だ。紅葉で水がまっかに染め上げられている》というような意味なのだが、「八重/九重」「割れた川/別れた人」という上の句と下の句の対照がないので下の句を忘れてしまうと思い出しにくい。また第3句が「龍田川」と名詞で終わることによって、体言止めの〈終わった感〉が出てくるのもいっそう忘れやすくなっている。下の句で、川がすごい! と思った理由が示されるが、すぐわかるような覚えやすい上の句と下の句の対照がないのだ。

575(上の句)と77(下の句)の間には、こんなふうに各歌にしたがって、接合やアクセスの仕方が異なり、その差異が読み手の心象や記憶にそのつど違ったバイアスを与えているといえないだろうか。図示してみると「八重/九重」の歌は、

  575⇄77

「割れた川/別れた人」の歌は、

  575=77

「ちはやぶる」の歌は、

  575←77

こうした接続方法の差異により、57577のトータルイメージとしての心象が変わってくるように思うのだ。あるいは、記憶のありかたが(ちょっと漱石『文学論』のF+fみたいだが)。

上の句と下の句の接合点(ジャンクション)のようなものについていつも思考をめぐらしているジャンルがある。連句だ。浅沼璞さんは、1句、2句、3句、4句と続いていくときの連句の接合イメージをこんなふうに視覚化している。

  ┃(発句=立句)
  \(脇句)
  ─(第三句)
  ─(平句)
  (浅沼璞『俳句・連句REMIX』)

詳しくは浅沼さんの本で確認してほしいのだが、私が乱暴な言い方で解説すると、連句のいちばん最初の発句は、縦にすっと落ちてゆく線になる(俳句が、そう)。縦に落ちてゆくので、もう後はいらないよ、というイメージである。だから、縦棒。自立できている、一人前の大人のような句だ。

ところが連句は、そこから続いていく(連句の大事なところは、前進あるのみ、なので)。二番目の「脇句」は、いちばんめの発句を気にかけながら、三番目にくる句も気にかけなければいけない。脇にそうコーディネーターみたいなところがある。だからここではどっちも気にかける視覚イメージの「\」が用いられている。大人にも子どもにもなれない、どちらへも揺らいでいる青年のイメージといってもいいかもしれない。

三番目、四番目は、平句といって、べたーっとした句がつづいてゆく。これは、つながっていく句で、ひとりだちしない、こう言ってよければ、自立できない、こどものような依存する句である(ちなみにこの平句が川柳である。だから川柳には「切れ」がない。べたーっとしているが、そのべたーっが散文的な詩情を呼び込んでくる)。でもそのかわり、どんどん横に続いていくこともできる。この横に移動していく運動は、実は、短歌にも川柳にも俳句にも確認できる。「連作」と呼ばれるものだ。「連作」は合間合間につまらない、ひらたい、意味もないような、つなげるだけの歌や句を入れなければならない、というのはここにある(と思う)。

こういうふうに連句は、接合ポイント、アクセスポイントをたえず気にかけている。というか、私は連句とは実は〈そこ〉を気にかける文芸であり、そして〈そこ〉を気にかけたときはじめて「座」の意識がでるのではないかとも、おもう。

芦田さんに戻るが、芦田さんの「なんだったかな下の句」はこうした接合ポイントはなんでしょう、という問いかけを行っているようにも、思う。もちろん、おまえが思ってるだけだよ、と言われればそれまでだし、それまでだが、今回は、それまでを書いてみたかった。

  寺山修司は「現代の連歌」について、「日本文学の縦の線を横の線におきかえる意図にはじまっている」とエッセイのなかでのべています。
  (浅沼璞『「超」連句入門』)

          (「芦田愛菜」『徹子の部屋』テレビ朝日・2017年8月28日 放送)

続フシギな短詩181[野沢省悟]/柳本々々


  ハンカチを999回たたむ春の唇  野沢省悟

鶴彬を取り上げたときにも少し話したが現代川柳は身体のパーツに比重を置く。なんでかは、わからない。川柳というジャンルが、近代化をなしとげられず、立派な主体を手に入れられなかったことの反動として、部位に着目するようになったのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、近代化できず、去勢された精神分析的な主体が、身体の部位に着目しだすのは、そんなに無関係な話でもないような気がする。

1989年に野沢省悟さんによって復刊された中村冨二句集『童話』(1960年)がある。現代川柳を作者から切り離して作品だけで読めるのを実践したのが戦後の中村冨二だった。作品だけで読めるようにはどうすればいいかというと、作者の実人生とつかず離れずの距離をとりながらも、言語構築の面を前面化させることだった(と私は思う)。たとえば、

  影が私をさがして居る教会です  中村冨二

  嫌だナァ──私の影がお辞儀したよ  〃

  私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ  〃

  肖像は私を見て居ないぞ 私の消滅だぞ  〃
   (『童話』かもしか川柳社、1989年)

ここでは「影」と「私」が転倒している。だんだん「影」の方が主体性を発揮しはじめ(「さがして居る」)、行動的になり(「お辞儀したよ」)、生命力を増し(「鰯を喰ふ」)、ついには「私」を滅ぼす(「私の消滅だぞ」)。

「私」と「影」の位置性をひっくりかえすことで、意味作用がまったくちがう風景になること。わたしがきえてゆくこと。こうした言説展開がここにはとられているように思う。言葉の構築のしかたによって、わたしは消えるのだ。

このように言葉によって部位に率先して主体性を与えるのが言葉を構築するということでもある。川柳はそれを前面におしだしてきた。野沢省悟さんの句が入った句集タイトルは『瞼は雪』なのだが、ここにも部位そのものが「雪」として、世界として、前面に展開していくようすがうかがえる。「瞼」が「雪」という季と同等であることは、掲句の「春の唇」というふうに、「春」と「唇」が接続されているところにも見出される。部位は、季と同等なほどの、存在感をもっている。冨二の「影」が力強かったように「ハンカチを999回たたむ」ちからをもっているのが「唇」である。さきほどの冨二の「影」は野沢さんの句のこんなところに流れ込んでいるかもしれない。

  下半身の僕は人を踏みつける  野沢省悟

  上半身の僕は人に踏みつけられる  〃

冨二の私から分離した「影」によって私の位置性が変わっていったように、どのように「僕」が分離していくかで、僕の主体性も変わってゆく。僕は分離の仕方によっては「踏みつけ」、分離の仕方によっては「踏みつけられる」。こうした〈半身の主体〉というものを川柳はかんがえてきた。

川柳にとって〈パーツの哲学〉はとても大きい。わたしたちの身体の部位はあまりに広大・深遠で、わたしたちはじぶんの手や足や唇や瞼や影や膝に、まだたどりついてさえいないのかもしれない。

  膝までの地獄極楽 河渡る  野沢省悟


          (「春の唇」『瞼は雪』かもしか川柳社・1985年 所収)

続フシギな短詩180[塚本邦雄]/柳本々々


  春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状  塚本邦雄

戦争と川柳・俳句について前回少し話をしたがそのときずっとこの短歌について考えていた。よくかんがえる。

  電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから  穂村弘

鶴彬の川柳の戦争を通過した身体は手足がもがれることで当事者性が出ていたが、渡辺白泉の俳句の身体は「銃後という不思議な町」というそれよりも後景で、しかしアクロバティックな身体を展開していた。

穂村さんの歌になると戦争はもっと後景になり、戦争をめぐる身体性も「きみたち」に委託される。ここでは手足をもがれる過激さは、公共圏としての「電車の中」で「セックス」をする過激さとなり、倫理の手足がもがれることになる。ただ、前回も話した江戸川乱歩の「芋虫」が、戦争身体と性的身体のオーヴァーラップの物語だったことを考えると、この歌の戦争とセックスの重なりは興味深い。

  そこには、キリキリと廻る、生きたコマのような肉塊があった。そして、肥え太って、脂ぎった三十女のぶざまなからだがあった。それがまるで地獄絵みたいに、もつれ合っているのだ。なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほかの対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしびれさせる力をもっていようとは、30年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところである。
  (江戸川乱歩「芋虫」)

妻は、戦地から帰ってきて「芋虫」のようになってしまった夫の身体にみずからのセクシュアリティの新たな位相を〈発見〉する。戦争身体を発見するということは性的な身体がなんなのかを考えることにも通じている。

  タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう  鶴彬

「産めよ殖やせよ」の戦時のスローガンのとおり、戦争はセクシュアリティを管轄しようとするからだ(たぶんここにはこうの史代さんの『この世界の片隅に』の戦争身体と性的身体をめぐる問題も関わってくる気がする。あのキスはどの位相でなされたのか)。

ちょっと遠回りをしたが、掲出歌。塚本邦雄にとっての戦争の位相はどこなのだろう。岡井隆さんがこんな発言をしている。

  ぼくは十七歳で戦争が終わったからそういうことはひっかかってこなかったけど、みんな何を考えていたかというと、兵隊に行かないようにするにはどうしたらいいかってことなんですよ。黙っているけどみんな考えているのはそれなんです。だから理系に行ったほうがいいとか、文系はやばいとか。そういうことをみんな考えていて、でも口に出すと非国民になるから言わない。一方で、友人が死んだりするし、日本が滅びたりしていいと思っているわけではないから、吉本隆明さんがお書きになるような愛国少年的な面も片方にはある。その複雑さがあるんだよね。
  (岡井隆『塚本邦雄の宇宙』)

戦争はいやだし行きたくはないのだが、でも、それを口には出せないので、黙っている。黙ってはいるが、思ってはいる。思ってはいるのだが、でも、愛国心もある。この国を滅ぼしたくないという気持ちもある。手足を失うわけでもないが、「きみたち」に託すほど後景にいるわけでもない。戦争のまっただなかにいるわけではないが、戦争が終わった場所にいるわけでもない。

このとき、「召集令状」に対する戦争への召集への、応答としてのその発話は、「あっ」しかないようにも思うのだ。よかった、でも、わるかった、でもない。「あっ」と叫ぶしかない。意味でも非意味でもない。意志でも感情でもない。言葉でもないし、内面でもない。叫びでもない。が、メッセージでもない。独語でも語りでも話でもない。「あっ

この歌に関して島内景二さんがこんな解説をしている。

  歴史的仮名遣いでは、促音の「っ」(小さな「っ」)も「つ」と大きく表記するのが原則。だから、「あっあかねさす」という例外的な表記には、「あっ」と叫ばずにはいられない。破格・破調の大波乱の歌である。
  (島内景二『塚本邦雄の宇宙』)

歴史的仮名遣いで「つ」と表記すべきところを、《わざわざ》「っ」と叫ぶように表記されたという。「あっ」。

この「あっ」の位相は、どこにあるんだろう。というよりも、「あっ」を位置づけられることができるのだろうか。しかし、歴史には、たぶん、おおくの位置づけられなかった「あっ」がある。そして、その「あっ」は「あっ」でしかないのに、ひとの生き死ににおおきく関わっているし、いく。

「あっ」って、なんだろう。戦争、も。

  戦争が廊下の奥に立つてゐたころのわすれがたみなに殺す  塚本邦雄


          (「序数歌集解題」『塚本邦雄の宇宙』思潮社・2005年 所収)

続フシギな短詩179[鶴彬]/柳本々々


  手と足をもいだ丸太にしてかへし  鶴彬

「大東亜戦争の入口で、一人の川柳作家が特高の手で追いやられた。二十九歳の鶴彬(ツルアキラ)である」(秋山清『日本の名随筆別巻53 川柳』)と語られる鶴彬だが、鶴のよく「反戦的作品」として紹介される句にうえの掲句がある。ほかにも鶴には、

  万歳とあげていった手を大陸において来た  鶴彬

というこれもよく引用される句もある。

どちらも〈戦争〉を通過した身体がばらばらになったメッセージ性の強い句になっている。

現代川柳では今でもよく身体のパーツがばらばらになるという不思議な現象がみられるのだが(それが現代川柳が不気味さや幻想に傾く理由なのだが)、鶴彬の句では身体のパーツが分離することが〈反戦〉というメッセージ性になっている。それは江戸川乱歩「芋虫」のような、「手と足をも」がれて戦地から帰ってくる人間たちである。

  夫が負傷して内地に送り帰されるという報知を受け取った時には、まず戦死でなくてよかったと思った。
  いかめしい医員であったが、さすがに気の毒そうな顔をして「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、包帯のために丸くなった胴体ばかりが無気味に横たわっていた。それはまるで生命のない石膏細工の胸像をベッドに横たえた感じであった。
  (江戸川乱歩「芋虫」)

身体のパーツは海のむこうの「大陸」におかれたまま、こちらに帰ってくる。戦争とは実はわたしたちの身体地図の更新にもなっている。戦地にわたしの身体は分離されたまま置き去りにされ、非主体的主体の「芋虫」のような〈わたし〉は〈こちら〉に帰ってくる。でもほんとうのわたしの身体の位相はどこにあるのか。戦地なのか、銃後なのか。身体地図と地政学的な地図が戦争によって重ねられ、個人個人の負傷した身体によって書き換えられていく。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

私が興味深いなと思うのは、たとえば渡辺白泉の次のようなやはり〈戦争〉をめぐる俳句を思い出したときである。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺白泉

  憲兵の前で滑つて転んぢやつた  〃

川柳では身体のパーツが分離(セパレート)してしまうのだが、俳句では「立つてゐた」「滑つて転んぢやつた」と身体を駆使して戦争を描いている。戦争自身に「立つ」ための身体を与え、憲兵の前では身体をぞんぶんに使ってダイナミックに転ぶ。この違いは、なんだろう。「戦争」の「手と足」とは、なんなのか。

別にこんなことは俳句と川柳の違いじゃなくて、白泉と鶴の位置性の違いなのかもしれない。でも、それでも、そこには、なにかしらの俳句と川柳の違いがあるのかもしれない(鶴彬は俳句と川柳の違いに敏感であり、それは階層の違いと述べていた)。もしかしたら川柳というジャンル自体が去勢され続け、近代化も逃し、いまだに自立したジャンルとなっていないということとも川柳の去勢された分離する身体は関係があるのかもしれない。

  戦後桑原武夫が俳句を「芸」と断じて、俳壇に爆弾を落し、俳句界を震撼させたが、俳句を「第二芸術」ときめつけた桑原も川柳に対しては無関心であったというより全然その存在を認めていなかったようである
  (河野春三『日本の名随筆 川柳』)

わからない。わからないけれど、でも、現在も、俳句は足を駆使し、川柳は、身体を分離しつづけている。

  今走つてゐること夕立来さうなこと  上田信治

  夜の入口ではぐれたくるぶし  八上桐子
  
          (「鶴彬」『日本の名随筆別巻53 川柳』作品社・1995年 所収)

2017年8月27日日曜日

続フシギな短詩178[大岡信]/柳本々々


  名前にさわる。
  名前ともののばからしい隙間にさわる。
  さわることの不安にさわる。
  さわることの不安からくる興奮にさわる。
  興奮がけっして知覚のたしかさを
  保証しない不安にさわる。  大岡信「さわる」

大岡信さんの有名な詩で、戦後詩のアンソロジーなどでも掲載されていたりする。詩のタイトルは「さわる」だが、詩の一行目も「さわる。」から始まり、さいごまでその「さわる」をめぐって詩がつづられていく。

この詩では、「さわる」行為が、どんどん抽象化していく。「さわ」ろうとすると「さわ」れなくなっていって、むしろ「さわる」とはなんなのかがせり出してくる。

記事冒頭に引用した詩の箇所、「名前にさわ」っている。これだけでも抽象的なのだが、「名前にさわ」ったときにそこには「名前ともののばからしい隙間」ができる。だから今度はそこに「さわる」。さわるは具体にふれられないどころか、さわる対象は増幅される。「さわることの不安」として。

だから今度はその「さわることの不安にさわる」。すると「さわることの不安」という抽象を通して増幅され、「さわることの不安からくる興奮」がうまれる。そしてさらにその「さわることの不安からくる興奮にさわる」。さわることが、さわるものを、呼び込んでくる。

そして、問いが、提出される。

  さわることはさわることの確かさをたしかめることか。
  (大岡信、同上)

「さわる」ことが「見る」ことにも「知る」ことにも「たしかめる」ことにもたどりつかない。

さわる、ということは、逆にわたしたちをどこにもたどりつかないものにさせる。

  さわることをおぼえたとき
  いのちにめざめたことを知った
  めざめなんて自然にすぎぬと知ったとき
  自然から落っこちたのだ。
   (同上)

「さわること」で「いのちにめざめ」るのだが、しかし「さわること」で「自然から落っこち」る。わたしたちは「さわ」ったことで、なにか決定的な欠落をもってしまう。それは、なんだろう。さわれないなにか、か。こんな歌を思い出した。

  生命を恥じるとりわけ火に触れた指を即座に引っ込めるとき  工藤吉生

「火に触れ」て「指を即座に引っ込める」。そのときにじぶんが生きているということ、「生命」であるということを「恥じる」。

倒置法で語られているように、ここにあるのは条件反射的な「恥」だ。まずとっさに「生命を恥じる」。そのあとでその「恥」の理由がくる。

この歌がおもしろいのは、「指を即座に引っ込める」という条件反射が、いちばん後ろに置かれ、「生命を恥じる」と突然切り出された「恥」が〈むしろ〉条件反射のようになっているところだ。条件反射的感情が、条件反射的形式をうんでいる歌なのではないかとおもう。

さわって、恥ずかしいと思った仕組みがわかる歌だ。でも仕組みがわかっても、たぶん、またさわったら同じことをするだろう。それもまた「恥」をなす理由になっている。「さわる」ことは理屈がわかっても、おわらないのである。火に触れたとき、また即座にひっこめるだろう。さわるには、果てはない。でもなにかそこには感情や意味や理由がうまれる。でもその感情や意味や理由は「さわる」にたどりつかず、またおなじ根本の「さわる」がうまれる。

  さわる。
  時のなかで現象はすべて虚構。
  そのときさわる。すべてにさわる。
  そのときさわることだけに確かさをさぐり
  そのときさわるものは虚構。
  さわることはさらに虚構。
   (大岡信「さわる」)

「さわる」なかで「さわるもの」も「さわること」も「虚構」になっていく。でも「さわる」行為そのものは「虚構」になりきれない。わたしたちは何度でもまた「さわる」にかえっていく。工藤さんの短歌も、言説として理解はできる。だけれども、たとえ意味として理解としたとしても、また「火に触れた指」は「即座に引っ込め」られる。また「さわる」がやってくる。理屈ではない。もしかしたらその人間の代え難い〈底〉のような部分に気付いてしまうことが、〈恥ずかしい〉ということなのではないか。

  さわることの不安にさわる。
  不安が震えるとがった爪で
  心臓をつかむ。
  だがさわる。さわることからやり直す。
  飛躍はない。
   (大岡信、同上)

さわることに、「飛躍はない」のだ。さわってもさわっても、飛ぼうとしても飛ぼうとしても、なんどでも、また「さわる」にもどっていってしまう。飛躍は、ない。


          (「さわる」『ユリイカ臨時増刊 大岡信の世界』2017年7月 所収)

続フシギな短詩177[?]/柳本々々


  松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり  ?

ある女優の方の句に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」という句があるらしいのだが、いまいち情報源が定かではない(Wikipediaに載ってはいるけれど、やはり定かではない)。だから松茸句という誰のものでもない〈句〉としてみてみようと思う(後半、きのこときおくとききかえしをめぐる話をしたいということもある)。

この句がいいなと思うのは、「また」を介して「くわえて」と「しゃぶり」の行為の間に差異を見出していることだ。くわえる、と、しゃぶる、は違う。

「また」という反復を介して、「くわえる」よりももっと対象に比重を置く「しゃぶる」という圧の大きい動詞がたたみかけられる。行為の圧として、なめる→くわえる→しゃぶる、とだんだん圧が強く・大きく・奥深くなってくる。

またこの「松茸は」の「は」という助詞の使い方もおもしろい。ふつうは「を」にする。「松茸を」ではなく、「松茸は」となることによって「松茸」が不穏な位置取りをする。もしこの句に不穏さがあるとするのなら、この「松茸は」の「は」にあるのではないかと思う。どうして「松茸は」と「松茸」だけ主題化されたのか。それ以外のきのこ、たとえばエノキについては語り手はどう思うかなど。ただ情報源が定かではないので、集団的心性句というか、投影句としてみてもいいかもしれない。

一見、プレーンな句にみえるかもしれないが、助詞や行為をめぐって細かくみていくといろいろ解釈が枝分かれしていく面白い句だと思う。

きのこの句と言えば、

  自閉症ぎみのきのこをほほばりぬ  小津夜景

という句がある。わたしは眼がわるいせいか最初、「自閉症きみのきのこをほほばりぬ」と読んでいたのだが、よく見ると「ぎみ」だった。しかしその「ぎみ」がこの句集にとっては大切なのではないかと考えるようになった(でも、もしかするとちょっと錯覚するようにつくられているのかもしれない。時々そういう句があって、さっか句と呼びたいような気もするけれど、呼ばない)。

「自閉症きみのきのこ」ならわかるとしても、「自閉症ぎみのきのこ」と「気味(ぎみ)」で続けることによって、症状的な言説が、セクシャルな解釈をするのを微妙に妨げている。セクシャルな解釈はしようと思えばできるのだが、しかし「自閉症ぎみのきのこ」とはなにかということが微妙にじゃまをしてくる。

症状的な言説と言ったのだが、小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』ではたえず〈書き込まれ(なかっ)た記憶〉が喚起される。つまり、書き込まれた記憶と、書き込まれなかった記憶が、同時に、喚起される。

  おそらく〈非-記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。
  (小津夜景「あとがき」『フラワーズ・カンフー』)

これはすごく乱暴に簡単に言ってみると、記憶されていないものと記憶されているものを同時に考えてみよう、ということだと思う。

しかし記憶されなかったもの、たぶんそれは記憶できなかったもの、抑圧されたもの、しかし身体の奥底にねむっているものだと思うのだが、そのようなものとどのようにして出会えばいいのだろう。フロイトは、そういった抑圧したものと出会う経験を、言い間違いや失語としてとらえていた。たとえば、「えっ」という聞きかえしてそれは身体に〈症状的〉にあらわれる。

  聞きかえしの頻出。たえざる聞きかえしは、ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいることを物語っている。
  (長井和博『劇を隠す 岩松了論』

長井和博さんが岩松了演劇における〈聞きかえし〉の多さに着目し、「聞きかえし」とは「ありふれた日常にさまざまな小さい不明がひそんでいること」のあらわれと指摘しているが、〈小さい不明〉は身体症状としてあらわれる。しかしこの〈小さい不明〉こそが抑圧され、たえず気にかけられていた何かなのではないかと思う。それは、素通りできなかったなにか、だ。わたしにあった、ないもの、だ。「ぎみ」の。

「小さい不明」としての〈書き込まれなかった記憶〉は、症候的に身体にそれとなく浮上してくる。「自閉症ぎみ」という症状〈的〉な記憶として。それは、症状ではない。「ぎみ」という判断も自覚も診断も決め手もつかないものである。「ぎみ」なので、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そう、とは言えないのだが、しかし、そうらしい、としかいうしかないもの。

松茸句の「松茸」とは、たぶん「きみのきのこをほほばりぬ」なのだ。冒頭に述べたように、「は」という助詞の問題はあるけれど、この句は「ぎみ」ではなくどちらかといえば「きみ」のことを方向としてはかんがえた句である。「松茸」という対象に対する行為が前=全面化し、「松茸」への行為が連ねられるとともに細分化し展開されていく句で、ここには〈小さい不明〉はない(でも「松茸は」の「は」の助詞からさまざまな解釈が枝分かれする面白い句だとも思う。この「は」は不穏である。「松茸」をただの対象におかない。〈大きい不明〉といってもいいかもしれない)。

いっぽう、小津夜景句の「自閉症ぎみのきのこ」は、「ぎみ」にウェイトがかかってくる。「君(きみ)」というはっきり分割できる対象ではなく、不明ぎみの「気味(ぎみ)」という非分割、記憶しがたい非記憶対象がこの句集の色調における「きのこ」なのではないか。「ぎみ」となることにより、「きのこ」は対象化できない。

この「記憶ぎみなきのこ」は、「出来事ぎみな出来事」をまさぐる岩松了演劇の質感に、ちかいのかもしれない。それは出来事が出来事であることを確認することによって出来事から逸れていってしまう出来事ぎみのなにかなのである。出来事でないけれど、出来事ぎみのもの。記憶ではないけれど、記憶ぎみのもの。なんだか今回わたしもいろいろ抑圧し、迂回するような記事ぎみの記事を書いた気もする。だから今回の記事は非記事として欠番になるかもしれない。記録されなかった記事として。

それっぽい記事。それっぽい記憶。それっぽい出来事。

  つまり、ボクらは知ってるわけです。たとえばここに三の出来事がある……この家の中に三の出来事がある、それは確かに三の出来事のはずなのに、玄関を出るとき四になり、通りに出て五になり、ボクらの知らないところで六七八九となり、そこの、わが家の玄関に戻ったときには、しっかり十に出来事十になっていることをですね……なぜそうなのか……ボクらは三人で確認するしかないわけですよ。な、三だよな、この出来事は、三のはずだよなって……
  (岩松了『市ヶ尾の坂』)


          (出典

2017年8月26日土曜日

続フシギな短詩176[岡部桂一郎]/柳本々々


  父母(ちちはは)よ杖つき歩む夕方のこの桂一郎をご存じですか  岡部桂一郎

文字と意識をめぐる話を前回したのだが、岡部さんの歌にも、文字とわたしをめぐる微妙な意識があらわれているように思うことがある。

掲出歌では、「この桂一郎」となっている。「この桂一郎」は、この歌に署名した「岡部桂一郎」のことである。だから「この」と言っている。語り手にとっては、「この桂一郎」は、いま・ここ・「この」桂一郎しかいないからだ。

ところがこの歌が不思議なのは、〈このわたくし〉としないで「この桂一郎」としたところだ。「桂一郎」という〈わたし〉を固有名としての「文字」として媒介したことで、「桂一郎」は分岐する。「父母」にとっての「この桂一郎」と、「岡部桂一郎」のいま・ここの「この桂一郎」に。そして第三者的な、「父母」も、「岡部桂一郎」も、知ることのない、第三者がみている「この桂一郎」に。

「桂一郎」は「桂一郎」を媒介する。「父母」は普遍的な名詞で語られたために、分岐はしない。そこに収束してゆくのだが、「桂一郎」は、「この桂一郎」と語られた瞬間、分岐してゆく。〈どの桂一郎〉なのか、と。それは「桂一郎」が「桂一郎」しかあらわさないからであり、すでに「桂一郎」には〈この性〉が含まれているはずなのに「この」と名指ししてしまったからだ。

わたしも混乱しているのかもしれない。こんな歌もみてみよう。

  生き死にのことにふるるなかたわらに岡部桂一郎全歌集ある  岡部桂一郎

「かたわらに岡部桂一郎全歌集」があるとどうして「生き死に」のことにふれてはいけないのか。たとえばこの歌を「岡部桂一郎」さんのかたわらに「岡部桂一郎全歌集」がある歌としてみる。そうすると、文字上は、岡部桂一郎は〈分岐〉することになる。岡部桂一郎の生は岡部桂一郎にあるが、岡部桂一郎がそれまでの生で書き継いできた歌は「岡部桂一郎全歌集」にある。そして「岡部桂一郎全歌集」はすでに出版されてあり、岡部桂一郎の予想外のところにも、予想外の人間の「かたわら」にもある。わたしのてもとにも歌集がある。

だとしたら「生き死に」をうんぬんする〈岡部桂一郎〉はどのように測位すればいいのだろう。なにかを書き付けたとき、そしてそのテクストがもう放たれたとき、ひとの〈生き死に〉というものは、だれが・どこで・どのように測位するものなのだろう。

わたしは、わからなくなる。でも「ふるるな」というので、わからなくなって、正しいような気もしている。

ときどきは、いや、しばしば、よくわかんないことのほうが、正しい。

  3に5を足せば桂一郎9になるなあ?そんなむずかしいこと聞かれても  岡部桂一郎

          (「施設夕ぐれ」『坂』青磁社・2014年 所収)


2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩175[荻原裕幸]/柳本々々


  コミックのZの羅列のあるやうな眠りをぬけてどこかへ行かう  荻原裕幸

荻原裕幸さんの歌/句はいつも〈書字的意識〉に非常に鋭敏だと思う。書字的意識というと難しいのだが、やっぱりこういうしかなくて、これは〈書く〉ということと〈字〉ということを同時に意識している意識ということになる。書くとはなんなのか、そして書き付けられた文字とはなんなのか、それが書字的意識である。

たとえば荻原さんの『あるまじろん』の章扉にこんな文章がある。

  何かを記述しようとするといつもうまくいかなかつた。たとへば犀の卵を書いたつもりでも、それが猫の卵になつたりするんだから始末が悪い。
  (荻原裕幸「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』)

まず「何かを記述しよう」という意識がある。ところがその記述行為が記述行為として機能しない。「犀の卵」と記述しても、「猫の卵」になってしまうのだ。まず〈書く行為〉が機能不全に陥っている。そして同時に、書かれた文字「犀」に裏切られるという〈字の裏切り〉がある。こんなことになってしまっては、書字意識をもたざるをえない。書くとはなんなのか、字とはなんなのかについて考えざるをえない。

掲出歌。漫画ではよく眠っているキャラクターの頭上にZZZZZZZという記号をつけて〈眠り〉を視覚的にあらわすことがある。ところが、語り手はそれを「ぬけて」とマテリアルなものとして意識してしまう。Zが記号にならず、物質的な林や森のようなものとしてあらわれ、そこに〈ぬけだせない〉とらわれた身体と意識を感じてしまうのだ。「どこかへ行かう」とは記述されているが、「どこかへ」と明確なゆくべき場所ももたない。〈Z〉という文字を超えてゆくべき場所は、語り手にはわからない。

『川柳ねじまき』の最後に荻原さんの川柳連作がのっている。タイトルは「るるるると逝く」でやはり書字が意識されている。〈るるるると軽快に逝くんだ〉という川柳独特の悪意と軽快さに満ちたコミカルな感じもあるが、同時にここには、〈おびただしい文字と共にどこにもゆけずに死ぬしかない〉という荻原的世界観にとっては重いテーマもあるようにおもう。

この荻原さんの連作は、意図的に「る」止めで終わる句が多いのだが、以前、小池正博さんが「現代川柳の文体はともすれば『る』で終わるか体言止め(名詞終わり)になってしまう」と述べられていて興味深いなと思ったことがある。たしかにそうで、川柳は切れや切れ字がないため、動詞でなにかをして終わるか、名詞で切れに似たような効果をつくりながら終わることが多い(小池さんの句集のバラエティー豊かな構文をみると、小池さんはある意味、その川柳の根強い無意識の文体共同意識と戦っているようにも思う)。

で、荻原さんはたぶんそのことに気づかれていて、意図的に「るるるる」という共通の書字意識をひっぱりだしているように思う。荻原さんがたえず気にかけているのはおそらく共同的な書字意識だからだ。

  「るるるると逝く」は、私が川柳の潔さにあこがれてまとめた作品だ。しかし、どこか定跡めいたものを呼びこんでしまった気もする。よし、まとまった、と思う端から、一からやりなおしだ、という気分にもなっている。
  (荻原裕幸「るるるると逝く」『川柳ねじまき』2014年7月)

この「定跡めいたもの」「まとまった」という感覚を、〈共同書字意識〉と呼んでみたいような気もする。荻原さんはその〈共同書字意識〉に気づいてしまう。だから、「一からやりなおしだ、という気分にもなって」しまう。

でも一方でそれを転用し、えぐり、引っ張りだしながら「るるるると逝く」という〈書字意識への意識〉をめぐるタイトルをつける。「逝く」と文字ととともに共倒れしながらも、かろうじてそれでも「逝く=ゆく」ことのできる場所への意識、「ぬけてどこかへ行かう」を喚起する。

  祈るのか折れるか未だ決まらない  荻原裕幸

  海と梅との間でなにか音がする  〃

  誤植したみたいに犬が殖えている  〃
   (「るるるると逝く」同上)

それでも、文字の森は、とまらない。文字の森は、『マクベス』のバーナムの森のように、動きつづける。

「祈/折」、「海/梅」、「誤植」。文字たちは荻原さんを「決まらない」と戸惑わせ、「なにか音がする」と気を引き、「殖えている」とおののかせる。そして誰もが〈それ〉をできないであろうハードな不可能性のなかで〈文字〉を「読みまちがえ」させ、あたりまえのように「辞任」させもするのだ。

  鼕や鷂を読みまちがえて辞任する  荻原裕幸

文字って、なんだ。なんなのだ。だって、

  どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
  この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。

  ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。
  (中島敦「文字禍」)

          (「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』沖積舎・1992年 所収)

続フシギな短詩174[米山明日歌]/柳本々々


  鏡から帰って米を研いでいる  米山明日歌

『川柳ねじまき』からもう少し続けてみようと思う。

前回、川柳の主体は〈想像界〉からやってくると述べて終わったけれどまさにこの明日歌さんの句がそれをあらわしている。

「鏡」というイメージの想像的写し合わせの世界から「帰って」きて、まったくなんの違和感もなく、助詞「て」でつながれて、日常的に「米を研いでいる」。「鏡」のなかにいたことは、まったく、違和感がない。そこはもといた場所であり、いつでも帰ることのできる場所なのである。

そうした想像的イメージは、「影」として、やはり日常的に・違和感なく、分離させることもできる。

  募集中私の影を担ぐ人  米山明日歌

「募集中」という俗な言葉遣いから、「私の影を担ぐ」という想像的な詩的イメージに接続される。ここでもやはりその連絡には違和感がない。想像的な世界と、日常的で卑近な世界は地続きである。

この想像的イメージとしての〈わたし〉は分離し、あちこちに散種される。飛散ではない。種として飛び、ねづき、わたしそのものになる。

  地図で言う四国あたりが私です  米山明日歌

「あたりが」という言葉遣いに注意しよう。それは〈わたし〉にもよくはわかっていない。アバウトなものだ。たぶん「四国あたり」なのだ。ここは秩序で厳密に分離された〈象徴的〉世界なのではない。鏡のような、影のような、イメージのゆるやかな〈想像的〉世界なのだ。わたしはどんどん飛散し、散種される。もっと、させてみよう。

  葉がおちてしまってからの私です  米山明日歌

  わたしを拾うあなたを拾う秋の道  〃

  吊り橋をゆらしてるのは私です  〃

  わたくしの中であなたは跳ねている  〃

どんどんわたしが分離されていくとともに、そのなかであなたもまた分離され生産されていく。川柳において、わたしは無限増殖する。だから、〈ひとり〉になったときには、ちゃんと、音がする。こんなふうに。ちゃんと、だ。

  ひとりにはひとりになった音がする  米山明日歌


          (「四国あたりが」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々


  まだすこし木じゃないとこが残ってる  瀧村小奈生

小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。

  息止めて止めて止めて止めて 欅  瀧村小奈生

〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけることで「欅」になれてしまう体。体は容易に逸脱する。やり方さえわかれば。だから、「木のとこ」と「木じゃないとこ」をいちいち確認する作業は大切になってくる。

容易に変化・変態してしまうからだをめぐって、こまかく、すこしずつ気づいていく認識。

  小春日を起毛してゆく声がある  瀧村小奈生

  心外なところで声は折れ曲がる  〃

  三日月にさわった指を出しなさい  〃

  あやふやな湾岸線をもつからだ  〃

起毛する、折れ曲がる声。三日月にさわった指。あやふやな湾岸線をもつからだ。からだは〈わたし〉を超えて変化する。

川柳において、からだは、形態変化する。その形態変化を《事後的》に記述するのが川柳だともいえる。だから、川柳の主体は、ときに、〈人外〉が、事後的に・語ったような語り口ともいえる。非主体化していく主体がそれでもかろうじて「まだすこし木じゃないとこ」を語ったように語るのが川柳ともいえるのである。

たとえば次のような短歌と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡  東直子

短歌においては、主体変化は起こらない。たとえばこの歌なら、主体と「楡」の一致は起こらない。主体は「楡」を見いだすが、それは主体変化としてではなく、主体観察として、みいだす。「妹のすっとんきょうな寝姿」はまるで「楡」だと。

  夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ  河野裕子

夜の「わたし」は、胴がぬーとぬくくて、沼のようで、「鯉」のようだという。これも夜のわたしの主体観察だといっていい。もちろん「鯉」なのではない。鯉の「やう」なのである。

短歌においては、私→A、という働きかけになる。そういう主体観察になる。

一方、川柳においては、私=A、という主体のありようが語られる。主体変化が記述される。

どうしてそうなのかは私もちょっとわからない。ひとついえるのは、よくもわるくも、川柳においては〈わたし〉が育たなかった、ということが言えるかもしれない。育たなかった〈わたし〉は容易に変化してしまう
ピノキオのような主体である。息をとめただけで、木になってしまう。比喩じゃなく。そう、なってしまう。

精神分析学者のラカンの言葉を使えば、短歌は、言葉によって主体が確立されている〈象徴界〉的な文芸、川柳は、イメージによって主体が変化する〈想像界〉的な文芸、と言うこともできるかもしれない。

そして、定型の〈外〉には、〈象徴〉しても〈想像〉してもふれられない〈現実〉がある。そのふれられない〈現実〉をめぐって詩が機能してしいることにおいては、どちらも共通しているようにも、おもう。

たとえば、〈なに〉が「そうですか」なのかは、ふれられない〈現実〉。「中央にあるべきもの」とは〈なん〉だったのかは、ふれられない〈現実〉。無意識のとぐろのように、まっくらな穴のように、ひろがる〈現実界〉の深淵へ。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

  中央にあるべきものがない空だ  瀧村小奈生

          (「木じゃないとこ」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

2017年8月23日水曜日

続フシギな短詩172[川口晴美]/柳本々々


  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくらい壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
        川口晴美「春とシ」

川口晴美さんに『シン・ゴジラ』をモチーフにした「春とシ」という詩がある。ただ『シン・ゴジラ』をモチーフにしているとは言っても、「シン・ゴジラ」を知らなくても、単独で読んでいろいろなことを考えられる詩になっている。

なぜか。

ひとつは語り手が、「シン・ゴジラ」のたえず《生まれ・死にゆく》部分に着目し、「シン」を「新」とは安易にとらえず、「シンでいったものたち」と〈動詞〉でとらえたからだ。「シン」を動詞ととらえることで、そこにはその「死んだ」と二項対立をつくる「生まれた」も同時に内包することになった。

  なぜここにこうしてわたしが生きているのかわかりません
  生き残っているのがどうしてこのわたしなのか
  わかりません
  たくさんのシンでいったものたち
   (川口晴美、同上)

「シン・ゴジラ」という生命体はわたしたちの〈外部〉にあるものだが、「シンだ/(ウマれた)」という行為はわたしたち《そのもの》である。

  それはわたしのなかにあるものでした
  それはわたしのなかにもあるものだとわかりました
    (同上)

わたしのなかにある生まれて・死んでゆくもの。そうしたたえずどちらにも・同時にひきさかれてゆくもの。おそろしくて・すばらしいもの。

  地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で
  おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました
   (同上)

ここには『シン・ゴジラ』の怪獣学ではないひとつモチーフが引き出されているように思う。それは『シン・ゴジラ』とは、〈死生学(タナトロジー)〉だったのではないかということだ。それは、生き・死にをかんがえることであり、わたしの生き・死にをかんがえることであり、あなたの生き・死にをかんがえることでもある。

どうしてわたしが死んで・あなたが生きているのか。どうしてわたしが生きて・あなたが死んでしまったのか。どうしてわたしたちは死んでしまったのか。どうしてわたしたちは生き残ってしまったのか。生き残ったあとの生をどう生きてゆけばいいのか。死者をどうわすれ・記憶すればいいのか。

『シン・ゴジラ』はおそろしく・すばらしく、あかりの失われた場所でそれをかんがえさせる、そうこの詩はひきだした。

  すぐ隣で誰かが
  友だちかもしれない恋人かもしれないわたしの
  母親かもしれない誰かが手をあわせて拝んでいました
   (……)
  シンでいく
  わたしに似た誰か
  わたしではない誰か
  なぜそれがわたしではなかったのか
  わからなくてわたしは手をあわせることができません
  この手は届かないそういうふうにはできていないわたしのシ
   (同上)

「手をあわせ」るだけではやりすごせない「手をあわせること」の不可能性、「手は届かない」という非到達性をもたらす「シ」。この詩で展開されていく死生学的死とはそういうものである。生き・死にについて考えながら、届くことのなかった「シ」についてかんがえる。そして、おもう。わかりません、と。

  あれは
  カミサマなの? とわたしの生まなかった子どもが指さしても
  答えられない名づけることはできない
  わかりません
   (同上)

だから「祈る」ことで行為を停止しないで、その行為の先まで「ゆ」こうとしてみること。ゴジラが意味も目的もなくあるきつづけるように。

  ピクニックのように出かけてゆきましょうね
  祈るかわりに
  わたし
  わたしたち
  お墓参りみたいに
  動物園に行くみたいに
  おにぎりやサンドイッチを持って
  それが何だったかわからないくら壊れてしまった欠片を踏んで
  生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
  あそこまでゆきましょう
   (同上)

この詩を読んではじめて気づいたのだが、《ほんとうに祈ることができなかったひと》、それは「ゴジラ」だったのではないだろうか。

ゴジラは多くの生と死を生産しながら、手を合わせることのできない身体構造をもっている。「この手は届かないそういうふうに」できているゴジラのからだ。

ゴジラは、からだの構造上、手をあわせ祈ることはできないのだ。どれだけ殺戮しても。だから、「あそこまでゆきましょう」しかゴジラには許されていない。ゴジラにとって祈りは不可能性と非到達性である。

ゴジラの祈る行為の不可能性を、「シにゆく」という動詞=行為をとおして、詩は描いた。

詩は、たえず、をかんがえている。死をかんがえる詩は、どうじにたえず、祈りのことをかんがえている。祈りのことをかんがえている詩は、祈りの不可能性もかんがえている。祈りの不可能性をかんがえている詩は、祈れなかったものたちのことについて、かんがえている。

          (「春とシ」『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』2016年12月 所収)

2017年8月22日火曜日

続フシギな短詩171[佐藤弓生]/柳本々々


  土くれがにおう廊下の暗闇にドアノブことごとくかたつむり  佐藤弓生

佐藤弓生さんは歌集『モーヴ色のあめふる』の「あとがき」でこんなふうに述べられている。

  幻想は“ほんとうのこと”の種なしには生まれません。

「ほんとうのこと」が種になってそこから幻想がうまれるという。つまり、幻想の根っこには現実があり、その現実から生まれてきたしまったものが幻想ということになる。だから、幻想は幻想ではない。現実に対する〈特殊な認知〉を通して生まれてきてしまったものが幻想なのである。

ツヴェタン・トドロフが、かつて、幻想文学をこんなふうに定義していた。それは、《日常と非日常のためらい》だと。これは日常かもしれないとおもう。でも、一方で、これは非日常かもしれない、ともおもう。わたしはどちらにも行けず、ためらっている。ためらったまま、わたしはそのあわいのなかで生き続ける。それが、幻想である。

この定義をすると、幻想とファンタジーはまったく違うんだということがわかってくる。たとえば、『ハリー・ポッター』は、非日常に対するためらいはない。ホグワーツが日常なのか非日常なのかハリーはためらいをみせない。だからファンタジーだ。ファンタジーは、非日常にあっても、疑わないこころだ。

でも、幻想は、ちがう。幻想は、語り手が日常と非日常の接続部にいる。これは日常かもしれないしこれは非日常かもしれないというずっとその〈ためらい〉のなかにいる。

弓生さんの掲出歌。

「廊下」という日常に「土くれ」のにおいがしている。「廊下」と「土」のあわいに語り手は置かれる。だから、「ドアノブ」がすべて「かたつむり」になるような〈接続部〉に同時に語り手は身を置くことになる。「ドアノブ」は〈土〉の認知を通して「かたつむり」に変わる。でも、それは、語り手だけの認知をとおした〈幻想〉かもしれない。実際は、わからない。ドアノブはドアノブかもしれない。しれないけれど、現実が種となり幻想を起動する。ドアノブかもしれないし、かたつむりかもしれない。

幻想とは、現実に幻想駆動装置を仕掛ける〈認知〉の問題かもしれない。たとえばこんな歌。

  泣き方を忘れた夜のこどもたち蛙みたいに裏がえされて  佐藤弓生

  手で包むこどものあたまあたたかい種がいっぱいつまってそうな  〃

「夜のこどもたち」と「蛙」の往還、「こどものあたま」と「種がいっぱいつまって」るものとの往還、これら往還運動のなかにそれらを往還させる〈認知〉がある。

「こども」が「裏がえされた」ときに「こども」たちは「蛙」になり、「こどものあたま」を「手で包む」ときに「こどものあたま」にいっぱいの「あたたかい種」を感じとる。土の認知をとおしてドアノブがかたつむりとなったように、そのときどきのふとした行為のなかで変換の認知がたちあげられる。こどもは蛙にならないし、あたまにあたたかい種がぎっしり詰まってはいないが、日常と地続きの認知を通して、それらは連絡され、非日常的質感がたちあがる。

  おはじきがお金に変わり、ながいながいあそびのはての生のはじまり  佐藤弓生

そのような語り手にとって「生」とは、「おはじき」が「お金」に変わる認知そのものによって「生」が支えられていることに気づいてしまうことだ。「おはじき」と「お金」は分かれているわけではない。わたしたちは「おはじき」から「お金」へ〈認知〉のしかたを変えるのである。だからそれはつながっている。「変わ」っただけだ。でもそれに気づくひとは少ない。それは別の物だとおもっていきている。でもきづいてしまうひともいる。きづいてしまったひとは、幻想的に、あわいを、生きる。

  なお若い葉のかがやきのくるしみに見知らぬ人をおとうとと呼ぶ  佐藤弓生

そうした〈認知〉をとおした「生」は、「見知らぬ人」を「おとうと」と「呼ぶ」生でもある。「かがやき」も「くるしみ」も「なお」ひきうけて〈認知〉は接続しそうもない箇所を〈接続〉する。

弓生さんは「あとがき」で、

  人がすぐ死ぬこの世をうたいながら、ただよってゆきたいと思います。

と述べている。「人がすぐ死ぬこの世」という認知は、「人」が、わたしがふだん認知している状況からぬけた場所=あの世に「すぐ」いってしまうことの〈認識〉をあらわしている。

この世は、あらゆるものが幻想的にいったりきたりしているし、現実的にいったきりもどってこないものもある。そういう認知と認識がこの歌集をとおしてあるように思うし、それを別のかたちであらわすのだとしたら、〈幻想〉とわたしは呼びたい。

  水か空かわからなくなる 風立ちて ただうろこなすいちめんとなる  佐藤弓生

          (「百年の間こうして」『モーヴ色のあめふる』書肆侃侃房・2015年 所収)

続フシギな短詩170[田中槐]/柳本々々


  横にいてこうして座っているだけで輪唱をするあまた素粒子  田中槐

NHKラジオ「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」を聞いていたら、藤田貢崇さんがこんな話をしていた。

  ニュートリノは他の粒子と相互作用しにくく、わたしたちのからだを毎秒毎秒ニュートリノは10超個以上もつきぬけてゆく。ニュートリノは空からぱちぱち降ってきてわたしたちのからだを通り抜けてゆく。
 (藤田貢崇「科学と人間 ミクロの窓から宇宙をさぐる」NHKラジオ)

わたしたちは、なんにもしてないないときに・なんにもしていない。それはあたりまえのことだ。わたしたちはわたしたちの日常のチャンネルの、認知のレベルで、そう、判断している。

けれど、いったん物理学のチャンネルを通せば、わたしたちがたとえなんにもしていなくても、元気がなくてうつぶせになっていても、失恋してつっぷしていても、失業して海老のようにまるまっていても、そのからだに10超個以上のニュートリノがふりそそぎ、あなたのからだをつきぬけてゆく。誰かに「好きだよ」と言ったときも、その言ってるときに、10超個以上のニュートリノがあなたのからだをつきぬけている。「好きだよ」と言われてうれしくてわあわあ泣いているあなたのからだにも。

物理学の次元でわたしたちの日常をとらえかえせば、〈なんにもしていない〉ことは、なんにもしていないことに、ならない。

槐さんの歌が述べるように、「横にいてこうして座っているだけで」も、おびただしい「素粒子」が「輪唱をする」。

槐さんの歌集には他にも素粒子の歌がある。

  このままを肯定的に受け入れる 宇宙から来る素粒子を待つ  田中槐

「宇宙から来る素粒子を待つ」ことで、次元が変わるチャンスを待っているようにも思える。物理学の認知は、わたしやあなたの知見を変えるジャンピング・ボードになるかもしれないから。

つまり、物理学とは、ものごとのしくみの解明ではなくて、わたしたちの日常の〈なんにもない〉場所、〈なんにもなかった〉場所を、〈なんかある〉場所、〈なんかあった〉場所に変える装置なのだ。これは、文学の話である。

槐さんの歌は物理学の認知に敏感なせいか、次元をめぐる歌が多い。

  十番目の次元で消える坂道に〈緑色脳髄〉描きつづけて  田中槐

  「超ひも」は超難解でウトウトと午後の教室ゆるくねじれる  〃

  太陽は必ず影を作るんだ 並行宇宙つまり、右側  〃

「ゆるくねじ」れ、「並行宇宙」的でもある多「次元」的世界に、日常の「ウトウト」したような次元を接続させること。それがそう遠くないことを認知すること。それは、詩や文学の役割かもしれないとも、おもう。そもそも、ことばは、もともと、多次元的変性をもっている。

  沈黙はマイノリティーの物語 サ変動詞がし、する、すれ、せよ  田中槐

ことばの物理学的変性。たとえば、妖怪ミステリーというよりも、認識ミステリーを書き続けた京極夏彦『姑獲鳥の夏』は、物理学的認識が事件になった話だった。ワトソン役にあたる関口巽は、素粒子の世界で、素粒子の観測者としての悲劇と喜劇を駆け抜けたのだ。

  そう、色も光であれば気まぐれな粒子がふっと駆け出してくる  田中槐

物理学と文学は近いのかもしれない。そう、思いながら、今回の次元をめぐる話を終わりにする。

  両端をつまんでそっと持ち上げる この美しい次元を終える  田中槐


          (「ギャザー」『ギャザー』短歌研究社・1999年 所収)

続フシギな短詩169[飯島耕一]/柳本々々


  きみがあれほど見たのだから
  プールの四角な青空も
  見知らぬ女の背中の水滴も
  唇の 佐久間良子のポスターも
  すべてきみのものだ
  きみはあれほど見られたのだから
  きみは四時半とは
  何時のことですかと
  水着の小学生にきかれたのだから
  殺すぞと泥酔した帽子の朝鮮人に
  言われたのだから
  紀伊国屋書店の地下街で
  raison とはどういう意味ですか
  とペーパーバックの表紙を指さす
  二人の若い男にきかれたのだから
  きみはすでにきみの私有ではない
    飯島耕一「私有制にかんするエキス」

飯島耕一の詩ではある同じ質感をもった言葉がなんどもなんども少し違った感じをともなって繰り返されることで、その言葉そのものがどんどん解析されていく。

  きみのものがある
  きみのものはない

  (……)

  この水が誰のものなのか
  きみは言うことができない
  あるいは言うことができる

 (……)

  きみはきみより
  はるかに大きな空間のなかにいる
  あるいはいない
  その空間は
  きみの所有物だ
  なぜならその空間は
  きみがいなければ存在しないから
  (飯島耕一、同上)

「きみ」「もの」「言う」「いる」「空間」「ある」「ない」がなんどもおなじふうな・ちがったかたちで繰り返されることで、「ある」と「ない」の微妙なひだにわけいっていく。

この詩にはなんにもないし、すべてがある。

  きみが一切の自由を獲得するには
  一切の私有を否定する
  以外にない
  あるいは一切を 私有する
  以外にない
  セックスも
  戦死者も
  そして詩もだ。
  (同上)

ここには「セックス」も「戦死者」も「詩」も、すべてをじぶんのものにしようとおもえばできるが、しかしそのすべてはじぶんのものにしないことを選択するしかないことが同時にあらわれている。

なんにもないし、すべてがあるのだが、しかし、大事なことは「きみ」と二人称的語りかけがこの詩の全編をとおして行われていることだ。

たとえ言葉が微分されていっても、「きみ」のなかでどんどん微分されるたびに・積分されていくものがある(ちなみにこないだ取り上げた河野聡子さんの詩も二人称的語りだった)。

  二人称にとっての無限。無限は、結局あらゆるものを含んでしまう。今はこれを外部から読んでいる「あなた」が、実は既に、ここで論じられている対象内部に含まれているというような事態が起きうる。つまり、外側に立つ視点を確保できない。これが二人称的な様相だ。
  (西川アサキ『魂のレイヤー』)

この詩を読んでいる「きみ」である読者の「あなた」という〈わたし〉は「外側に立つ視点を確保できない」。言葉が分解されていくなかで、「きみ」は内側に巻き込まれながら、なにかを託されている。詩がおわるころには。

この「私有制にかんするエスキス」は、半世紀前の詩なのだが、以前取り上げた最果タヒさんも少しこの詩の質感に似ているところがある。

  きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
  みんながそれで、安心してしまう。
  水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
  会わなくても、どこかで、
  息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
  死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
  テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
  きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、  最果タヒ「彫刻刀の詩」

たえず「きみ」を通した二人称的語りかけが行われていくなかで、「きみに会わなくても/それでいい」「会わなくても、どこかで、/息をしている」「きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない」と、「きみ」を通して〈動詞〉が「ない」へと否定されていく。「きみ」への〈行為〉がなしくずしにされていくのだが、しかし、そのなくなっていく行為のなかで、「きみ」は積み上げられていく。詩がおわるころには。

詩とは、なんにもない場所で、詩がおわるころには、なにかが積み上げられていくものなのかもしれない。ひたすら、微分し、分解しても、それでも「きみ」のなかに、なにかが残ってしまう。それを、、と呼べないだろうか。

  来るべき古代には
  きみは水をくぐるように
  生きることができる
  来るべき古代には
  きみは言語によって苦しまない
  来るべき古代には
  きみはきみとは
  別のものである。
   (飯島耕一「私有制にかんするエスキス」)

  

          (「私有制にかんするエスキス」『現代詩文庫10 飯島耕一詩集』思潮社・1968年 所収)

DAZZLEHAIKU7 [櫂未知子] 渡邉美保



簡単な体・簡単服の中     櫂未知子


ある日、母が「缶詰の服」なるものを買ってきた。缶から出てきた服は、一枚の布を筒状に縫い合わせただけのような簡単なものだった。母が着て、付属のベルトを締めると、あら不思議。服は体に添い、ちゃんとワンピースになっていた。妙に感心したことを思い出す。
〈簡単な体・簡単服の中〉のシンプルな語句の並列は、風通しがよく、涼しさを誘う。「簡単服」というレトロなニュアンスの季語が使われながら、とてもモダンである。
「簡単服の中」には「簡単な体」が入っているという発見は、どこか逆転していて、楽しい。簡単服の中の体、ついには、一本のチューブになってしまうのではないだろうかと心配になってくる。


〈句集『カムイ』2017.6 ふらんす堂 所収〉


2017年8月21日月曜日

続フシギな短詩168[坂野信彦]/柳本々々


  律文は拍節が形成されることによって成立します。拍節は、通常、八音をもって構成されます。  坂野信彦

音律は、難しい。音律についてのわかりやすい本はないかとずっと探していたのだが、浅沼璞さんの本を読んでいるときにこの本が紹介されていて、読んでみるととてもわかりやすい本だった(同じ坂野信彦さんの『ハとガ』も助詞の「は」と「が」の違いについてわかりやすく書いたものでおすすめ)。

私がふだん音律について感じていた疑問がひとつあって、先日取り上げた『川柳少女』の主人公がつくる川柳もそうなのだが、どうして中が八音になってしまうのか、ということだった。

575ではなく、一般に流通している句は、585が意外と多い。

もちろん「8になっちゃった」というのもあると思う。でも「なっちゃった」っていうのはそれこそ〈生理的リズム〉なのではないか。時実新子があんなに中7は死守せよと言ったのに、テレビでみる句は585が多い。なぜなんだろう。

だからよく575はきもちのよいリズムだと言われているが、ほんとうにそうなのかどうかわからなかった。きもちのよい方に行かないでなぜ一般のひとはきもちのわるい8音にむかう(ことがある)のか。

坂野さんによれば、日本語は2音がリズムの基本単位になっていると言う。

  「あっ。」「えっ?」「じゃっ。」というふうに、日本語の発話の最小単位が二音であること。一音の語は、しばしば二音ぶんにのばして発音されます。
たとえば「目見て」を「めーみて」、「絵かく」を「えーかく」というぐあいです。のばして発音しないばあいは、「め、みて」「え、かく」というふうに一音語のあとにちょっとしたポーズを置きます。一音だけでは、落ち着かなかったり、発音しにくかったり、聞き取りにくかったりするのです。このことも、二音が日本語の発話の最小単位であることと関連しているでしょう。
  (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

2音は4音に、4音は8音になってリズムを構成している。坂野さんがあげている例文だが、たとえばこんな言葉を思い出してみよう。

鬼ごっこの「もういいかい」「まあだだよ」ということば。これは声に出していることばを視覚化するとこんなふうになる。

  もう┃いい┃┃かい・・ まあ┃だだ┃┃よー・・

「もう」「いい」「かい」「・・」「まあ」「だだ」「よー」「・・」と2音ずつ口に出して読んでいるはずだ。

「もう」「いい」と「かい」「・・」の2音が対になり、

  もう/いい  かい/・・

「もういい」と「かい・・」の4音が対になり、

  もういい/かい・・

「もういいいかい・・」の8音は、となりの「まあだだよー・・」の8音と対になる。

  もういいかい・・/まあだだよー・・

「あした天気になれ」は、どうだろう。

  あー┃した┃┃てん┃きに なー┃ーー┃┃れ・┃・・

「あー」「した」「てん」「きに」「なー」「ーー」「れ・」「・・」と2音が、

  あー/した てん/きに なー/ーー れ・/・・

と対になり、「あーした」「てんきに」「なーーー」「れ・・・」の4音が、

  あーした/てんきに なーーー/れ・・・

と対になる。そして「あーしたてんきに」「なーーーれ・・・」のそれぞれ8音が、

  あーしたてんきに/なーーーれ・・・

と対になる。こんなふうに2音の基本単位が増幅し対になることで日本語は律文をつくると、坂野さんは述べている。

8音の対をつくろうとするのでそこには数に応じて「・・・」の休みが入る。その休みが入ることによって音律というかリズムができる。その休みをじゃあいれなかったらその文はなんと呼ばれるのか。それは「散文」と呼ばれることになる。たとえば小説中で、

  あしたてんきになれあしたてんきになれと私は繰り返した。

という一文がでてきたら、上のように休みをいれたりのばしたりして読まないはずだ。ところがこれが歌だとちがう。いくら「あしたてんきになれ」と書かれていてもそれを歌うときには、「あーしたてんきになーーーれ・・・」と声にだして歌うのだ。歌詞カードなんかはそういうふうに休みの記号はいれられていないが、歌をきいているとその文字テキストの速度とはちがうはずだ。

この坂野さんの本を読むと、8音によって律文を生成しているので、たとえば一般のひとが中8で川柳をつくったとしても実はそんなに不自然にならないんじゃないかという気もする。7音プラス休みの1音のための、その休みはなくなり、だから早口になるのだが、しかし休みがなくなるだけで、音律としては成立してしまう。でもリズムの問題ではなく形式の問題として、条件がなければ8音は難しいと坂野さんは述べている。

  容易に打拍の破綻が生じる以上、八音は定型の音数としては失格ということになります。これはリズムの善し悪しといった相対的な問題ではありません。絶対的に、必然的に、失格なのです。
  もしどうしても八音をもって定型の音数としたいというのであれば、「四・四構成の八音にかぎる」といった条件をつけなければなりません。「ホンネとタテマエ」(「ホンネと┃┃タテマエ」)はよくても、「タテマエとホンネ」ではダメなのです。
  お経が八音を基本としながら四律拍で通せたのは、漢字一字を一律拍とする唱えかたのためでした。
  (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

八音で定型をつくることはできるがそれには4音と4音が対になるような条件がいるという。7音の場合はかんたんにいうと、ポーズ(休み)をとる場所が自由にうごかせるぶん、そうした条件付けの必要がない。うしろがきつきつになっても前でポーズなり休みをとることができるからだ。

だから律を支えているのは八音の感覚なのだが、そのなかでどう休みを入れるかで定型というのが決まってくる。そのときに、八音めいっぱいにつめると、休みのとりかたが不自由で、音律ががたがたになることがある。

だから7音と8音の違いはこうだ。

《そこに1音ぶんの休みを入れたいかどうか》。

坂野さんは、「七音と五音の優位性」を次のように述べている。

  けっきょくのところ、七音と五音の優位性をもたらしたものは、たった一音ぶんの休止なのでした。この一音ぶんの休止の効能を箇条書きにまとめておきましょう。

  一、句に変化とまとまりをもたらす。
  一、リズムの歯切れをよくする。
  一、句をつくりやすくする。
  一、打拍の破綻を防止する。
   (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

8音でもできるのだけれど、8音だと柔軟性がきかないため定型の律をつくるのは難しい場合があります、7音だとなにも考えなくてもフレキシブルなため律をつくりやすいです万能です、という話なのだった。
  
          (「音律の原理」『七五調の謎をとく』大修館書店・1996年 所収)

2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩167[楳図かずお]/柳本々々


  へび少女へをしたとたん美少女に  楳図かずお

NHKの対談番組『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』において、漫画家・楳図かずおと怪談家・稲川淳二がこんなふうに話している。

  楳図 笑いが先なのか、恐怖が先なのかわからない。

  稲川 たまに怪談ってすごく笑えることがある。笑いのなかにふっと狂気があったり。

  楳図 恐怖と笑いは一緒。
  
この話の流れになって、楳図かずおが川柳をつくってきたから稲川に見せたいと川柳をだしてくる。

  「かい蟲(ちゅう)を釣るんだ!」と釣り針のみ込んだ  楳図かずお

  「お前のはくさすぎる!」とトイレの中から声がした  〃

  髪の毛ののびる人形にパーマあて  〃

少し前に取り上げたマンガ『川柳少女』もそうなのだが、どうして楳図かずおが〈川柳〉という枠組みを《わざわざ》使ったのかが興味深いところだ。番組では川柳を紹介しただけで、どうして楳図かずおが川柳にしてわざわざもってきたのかは語られなかった。だから考えてみよう。

楳図かずおが持ってきた川柳は、恐怖と笑いは紙一重という話題が出されたときに、稲川にみせられたものだった。だからひとつは楳図にとって川柳という形式は、《恐怖と笑いを複合させる》のに適した表現形式だったということができる。

恐怖と笑いは相反するベクトルをもっていそうだが、エネルギー量は似たものをもっている。たとえば恐怖の表情と笑顔の表情の顔のひきつれに生じるエネルギー量はおなじようなものかもしれない。快(笑い)・不快(恐怖)としては反対方向のエネルギーベクトルをもっているのだが、それがあるリミットを越えた瞬間、おなじようなエネルギーベクトルになるのである。たとえばあまりにも残酷な風景をみたときに感情が振り切れて思わず笑ってしまうような。カート・ヴォネガット。

  わたしは連合軍によるドレスデンの大空襲をこの目で見た。空襲前の街を見て、地下室に入り、地下室から出て、空襲後の街を見たわけだ。声をあげて笑う以外なかった。心が何かから解放されたくて、笑いを求めたのだと思う。
  ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う。
  笑いが恐怖によって生じることはかなり多い。
   (カート・ヴォネガット『国のない男』)

楳図かずおは恐怖と笑いを複合するのに川柳という表現形式を選んだが、川柳というのはそうした反作用する感情を複合(パッケージング)し、そのままリミットを超え出ようとするのに向いているんじゃないかと思うのだ。

たとえば樋口由紀子さんの現代川柳をみてみよう。

  義母養母実母の順ににじりよる  樋口由紀子

  三十六色のクレヨンで描く棺の中  〃

  布団から父の頭が出てこない  〃

  明るいうちに隠しておいた鹿の肉  〃

  非常口セロハンテープで止め直す  〃
      (『容顔』)

これらは現実でやろうとすればできないこともない現代川柳である。「義母養母実母の順ににじりよ」られることも人生にはあるかもしれないし、「三十六色のクレヨン」で棺の中を描くことだってできる(怒られると思うが)。布団から父の頭が出てこない休日もあるだろうし、明るいうちにジビエを隠しておく猟師もいるかもしれない。非常口を応急処置としてセロハンテープでつけることもやれないことはない。

だけれども。

なんか、おかしい。と、おもうはずだ。できるけれど、なんか、おかしい、と。そして、こわい、と。

「義母養母実母」とシステムに操られたようににじりよる人間、カラフルな祝祭と死の同居、「布団」が生の「世界」と等価になってしまうときの不在の父、野生の本能にあらがえなくなった人間から離れてゆく人間、この世の出口かもしれない大切なものがぞんざいに機能しはじめた世界。

おかしいけれど、こわい。

現代川柳はそういう混在し反作用する感情を複合させ、なんの答えも与えずに点として指し示すことができる。それがいったいなんなんですか、と言われればそれまでなのだが、しかし〈いったいなんなんですかこれは〉というインパクトもある。そのインパクトは文学になるかもしれない。

楳図さんがそれに気づいていたかどうかはわからないが、楳図さんは川柳を知らなくても、マンガを描いていくなかで、相反する感情の同居という〈川柳性〉のようなものに本人も気づかないかたちで気づいていたのではないか。

別に川柳を知らなくたって、川柳にアクセスしてしまっていることがあるのだ。

  半袖に着替えて待っている最初  樋口由紀子

          (NHK『SWITCHインタビュー達人達 楳図かずお×稲川淳二』2017年7月23日 放送)

続フシギな短詩166[寺山修司]/柳本々々


  肉屋の鉤なまあたたかく揺るるとききみの心のなかの中国  寺山修司

ときどき短詩のなかの国名について考えることがある。たとえば、

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

という歌があるが、このときの「サバンナ」とはなんだろう、と考えたりする。たとえばそれが〈アフリカ〉だったとしてもこの歌で特徴的なのは、「Xよ聞いてくれ」と呼びかけの形をとっていることである。つまり語り手の「心のなかのアフリカ」ということになる。

この「サバンナの象のうんこ」は、実物の「サバンナの象のうんこ」とはたぶんかすかにずれている。もし目の前にサバンナの象のうんこがあるならば、「サバンナの象のうんこに話しかける」でもいいのだし、そもそも「象のうんこ」でいい。「サバンナ」と特定したのは、「Xよ」と〈遠く離れて〉呼びかけるためだ。しかしその呼びかけは届かない。「私の心のなかのアフリカ」だからだ。つまり、私は・私に「だるいせつないこわいさみしい」と言っている。この「だるいせつないこわいさみしい」といううねりは、〈排泄〉できない。いつまでもわたしのなかに回流しつづける。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  寺山修司

寺山修司のとても有名な歌だが、「つかのま」が「祖国」と響きあい、「祖国」という言葉の重たさがいったん軽減されている。「つかのま」の「祖国」だ。身を捧げる「祖国」は、「マッチ」を「擦るつかのま」くらいの〈幻想〉でしかないのだが、しかし、「海」に派生した「霧」は「ふか」い。〈幻想〉だが深い奥行きがある。軽減された「祖国」はべつのかたちで、重くなってゆく。

これも、「私の心のなかの祖国」だと思うが、〈心のなか〉をいったん通すことによって、ステレオタイプになりがちな〈国〉のイメージを「心のなか」のステレオタイプとしてあらかじめ引き受けた上で、ずらしている。

穂村さんの「アフリカ」もまたそうなのではないかとおもう。アフリカはステレオタイプになりがちだ。いまだにステレオタイプなアフリカは、ディズニーのジャングルクルーズやひょっとすると『パイレーツ・オブ・カリビアン』で微妙に再生産されているかもしれないが、しかしそうしたステレオタイプな国のイメージをあらかじめ自意識のねじれとして引き受ける(だるいせつないこわいさみしい)。そういう機制としての国の表象の仕方があるのではないか。

  老犬の血の中にさえアフリカは目覚めつつありおはよう、母よ  寺山修司

つまり寺山も穂村さんも両者とも、国を語ろうとしているのではなく、〈国〉というイメージの立ち上げ方を語っているのではないか。〈中にある〉国として。

  行かないと思う中国も天国も  なかはられいこ

川柳において否定語法で語られた「中国」と「天国」。国を語るとしたら、国を語ることの機制を発見しなければならない。国をめぐる短詩をみていると、そんな気がする。国のイメージに、どう、ノイズやスクラッチをしょわせるのか。どう、どう、どう。

  出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ  寺山修司
  (未発表歌集 月蝕書簡)

          (「テーブルの上の荒野」『寺山修司全歌集』講談社学術文庫・2011年 所収)

続フシギな短詩165[河野聡子]/柳本々々


  きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく。だれかがきみの物語を読む。きみはもう不滅を求めない。生きている者だけがきみの名を呼ぶ。  河野聡子「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」

詩「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」は、「きみ」のこれまでの人生のさまざまな〈傷〉をめぐって書き継がれていく。たとえば冒頭はこんな一行だ。

  きみが車にはねられたのは仮面ライダーの三輪車に乗って路地裏で遊んでいたときだった。

そして「きみ」の少年期・青年期の〈傷〉(それは周囲の「きみ」の他者〈傷〉も含めて)語った語り手はこんな言葉を挿し挟む。

  たくさんの出来事がおきるが
  階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ
  きみはよく知っていただろう
  ころびやすい段もすべりやすい段も
  きみの足にはとどかないように思える高い段も
  とりあえず踏んでしまえばいいのだと

興味深いのは、「階段をいちだんいちだんのぼってはおりるようなものだ」と「いちだんいちだん」のぼったにも関わらずそれが〈人生の経験値〉として積算されていかないことだ。〈傷〉なのに、だ。

傷なのにそれは決定的なものにならない。車にはねられても、ひたいを縫っても、妹を溺れさせても、学校に行かなくなっても、小指を骨折しても、鼻の骨を折っても、右脚を骨折しても、親友がバイク事故で死んでも、マルチ商法に入れ込んだ恋人と別れても、何年か失業しても、ハワイで結婚したのちべつのひとと駆け落ちしても、それは〈傷〉ではあるが、加算された経験値としての傷にはならない。「のぼってはおりる」なのである。

だとしたらこの〈経験値の質〉とはなんだろう。この〈傷の質〉とはなんなのだろう。このフローな傷/経験値の質の感覚。はこばれているような。これは、なんだ。

冒頭に引用した詩の最後の箇所に少しヒントがある。「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる。きみの人生はスマホの画面に流れていく」。人生は「スマホの画面に流れ」「きみはいろいろな人にいろいろな名前で呼ばれる」。フローな傷の質感は、このスクロールされる「のぼってはおりる」生の感覚からきているのかもしれない。

でも大事なことがひとつある。詩の最後の一行「生きている者だけがきみの名を呼ぶ」だ。これはこの詩のタイトルにもなっている。この詩は最後にスマホできみをみるオーディエンスではなく、「生きている者」で「きみの名を呼ぶ」ものを見いだしている。もちろんそれはこの詩の語り手自身もそうなのだ。「きみ」の人生の傷をフローするように語りながら、最終的に「生きている者だけが」と「きみの名を呼」び強く刻むような語りにたどりついている。「生きている者」は語り手自身でもある(この詩では根強いかたちで〈死〉が抑圧されておりそれもひとつのテーマになっている)。

わたしはそうした「生きている者だけが」という、ある意味では死者を差異化し排除した強度のある〈生〉が「スマホの画面に流れ」る人生と対立しているとは思えない。むしろそれを含みこんでなお刻まれるような、フローから生まれた強度のある語り口がここには同居している。

  きみは長いあいだ呼ばれていると感じていた
  とにかく段を踏まなくてはならない
  自由にのぼったりおりたりできるわけじゃない

傷を特別視することなく、しかしそのフローな感覚のなかから、力強い語りがうまれること。

すごく、詩って、不思議だとおもう。

          (「きみを呼ぶのは生きている者だけだ」『ユリイカ』2017年4月 所収)

続フシギな短詩164[松井真吾]/柳本々々


  十二支の端から食べてゆく鼬  松井真吾

松井さんの句集はすごく大きい。縦25cm位、横18cm位のB5サイズで、大学ノートとおなじ大きさだ。これはでかい、と率直におもう。こんなにでかい句集には出会ったことがなかったし、これからも出会わないかもしれない。そんなでかさとすごさがある。

しかも、表紙が象の写真なのだが、象の頭ではなく、姿でもなく、お尻なのだ。象のお尻がでっかく表紙になっている。物質的にでかいだけでなく、意味生成としてもさらにおおきなことをしようとしている。とにかく、でかいものをめぐっている。俳句がでかいものをめぐるってどういうことなんだろう。

例えば掲句。鼬(いたち)が十二支の動物たちを端から食べてゆく。たった17音なのに、そう言われてしまうと、スケールがでかい。鼬は牛も虎も龍も食べるだろう。

こんなミクロコスモスとマクロコスモスがであう句も。

  白魚を載せて気球の飛び立てり  松井真吾

白魚というミクロコスモスをのせてマクロコスモスの大空へと気球が飛び立っていく。これは「でかい」というか、考えてみると、「めまい」だ。

  いっせいに椅子の引かれる蜃気楼  松井真吾

とたんに全員の座っている椅子が引き抜かれ、全員が後ろにひっくりかえるバスター・キートンの総動員。これは「でかい」というか、「いたい」。

松井さんの俳句のおもしろさのひとつは収拾のつかない空間である。

  噴水に家族写真のばら撒かれ  松井真吾

  涅槃図のトムはジェリーを追いかける  〃

  きみとぼくだけの学級閉鎖春の雪  〃

  向日葵のアジトで内緒の少女たち  〃

区切られた空間で収拾のつかないなにかが起ころうとしている。それはあらたな空間の収拾のつかなさを呼ぶだろう。象のお尻みたいに。そう、象のお尻とは、収拾のつかない空間の生成なのだ。だからこの句集がでかいのには、《わけ》がある。とりとめもない空間に読者も《体感的》にそれは巻き込もうとしているのだ。

  蜘蛛の巣にピントを合わせ世界散る  松井真吾

だから松井さんのこのでかい句集を手にとって、でかいな、と思いながら、あなたも、巻き込まれてみてほしい。このでかい空間に「ピントを合わせ」世界の遠近を「散」らせてみてほしい。

夏休みだってもっとアナーキーな「死後」を含んだ空間だっていいのだ。収拾のつかなさとしての生前=整然として。

  死後さばきにあうぼくたちの夏休み  松井真吾


          (『途中』2016年 所収)

2017年8月19日土曜日

続フシギな短詩163[徳田ひろ子]/柳本々々


  人と書く時に震えてしまう足  徳田ひろ子

ひろ子さんにとって、〈人〉とは、なんだろうか。ひろ子さんの句集『青』にはこんな句もある。

  バスタオル人という字は好きですか  徳田ひろ子

「人」という字が好きかどうかの問いかけ。「バスタオル」という広さをもった平面にいったん包容されそうになった間際、すぐに句は突き放したように問いかける。「人という字は好きですか」

掲句は、その〈答え〉のようだ。「人と書く時に震えてしまう足」。人という文字に接したときの足の震え。語り手が、人という字を好きなのか嫌いなのかはわからない。でも。語り手が人という字を決定的ななにかとしてとらえていることは、わかる。

でも、どうして「人」ではなく、「人という字」なんだろう。人が、人そのものではなく、書く行為をめぐって問いかけられているのだ。

  放置自転車野口五郎と書いてある  徳田ひろ子

人という字ではないけれど、「野口五郎」と人の名前が書かれた「放置自転車」。タレントの野口五郎の自転車ではおそらくないだろう。別の野口五郎だろう。しかしそれは「放置」され、置き去りにされた。「放置自転車」とともに「野口五郎」という人の名前もそこに放置されたこと。語り手はそこになにかを見いだしている。放置された野口五郎。野口五郎からのみんなへの問いかけ。

野口五郎は「人」に似たメタファーかもしれないが、「人(ひと)」という音律を介してメトミニカルに横にずれながら「ヒ・ト」はさまざまな音を連れてくる。「ひとり」や「と」を。

  私がひとり私がふたり夜のバス  徳田ひろ子

  私こういう者ですと宙返り  〃

  幸せって少しカレーの匂いすると  〃

人(ひと)という文字が震えるほどに大きいのは、それを文字でとらえた場合、「ひとり」や「と」への繁殖可能性をも持つからではないか。でもそれは〈閉(と)〉じないことの可能性でもある。元気ですか。〈問(と)〉いつづけることへの、可能性でもある。

  屁糞葛がまだ咲いている「元気ですか!」  徳田ひろ子


          (「青兎」『青』川柳宮城野社・2016年 所収)

2017年8月18日金曜日

続フシギな短詩162[川柳少女]/柳本々々


  そういえば私玉ネギだめだった  川柳少女

『川柳少女』という四コマ漫画があるのだが、柄井高等学校に通う雪白七々子という女子高生が主人公になっている。

特徴的なのは五七五系女子である彼女が川柳を介してしか他人とコミュニケーションがとれないことである。彼女はひとことも声を発しない。だから常に句箋を持ち歩いており、川柳によって他者とコミュニケーションしている。別にだからといって悲しいことが起こるわけではなくて、むしろコメディタッチで物語はすすんでゆく(ほっこり文化系ショート漫画)。

ひとつ面白いなと思うのが、俳句少女ではなくて、川柳少女だったことである。たとえば主人公の発話を奪い取り575のみのコミュニケーションにした場合、俳句少女だったらどうしても季語がコミュニケーション・ノイズとして入ってきてしまう。俳句とは〈挨拶〉=始まりの文芸であるため、コミュニケーションのキャッチボールのなかでの〈やりとり〉のなかでの発話には向いていない(俳句は、「発」句である)。

ところが川柳はこう言ってしまうとあれなのだが、〈なんでもあり〉の文芸である。たとえばそもそもこの主人公が通ってる高校の名前、柄井高等学校は、柄井川柳という川柳のジャンル勃興に関わっている人間の名前からとられているはずだが、しかし柄井川柳という人名が川柳ではそのままジャンル名になっているのである。これは、奇妙なことではないか。俳「句」や短「歌」というジャンル名を思い出してみてほしい。川柳は、人名がジャンル名になっているのだ。結果、句でも歌でもないものになったのだ。なんでもありの。

浜田義一郎は川柳という名称について次のように述べている。

  川柳という名称はジャンル名を兼ねているのでまことに都合が悪い。文学史上の用語として明治中にこの名称に定着したが、一般には狂句の名称が行われ、むしろこの称が適切なのにと思われる。実は初代川柳在世中から適当な名称がないため、他文芸にあらわれている用例を見ると、「川柳が前句」「川柳点」「川柳が選」「川柳が句」「柳樽風の発句」「かの川柳が所謂」など種々雑多である。正確にいえば初期は「川柳点の前句附」であるが、長すぎて実用的でないので色々に表現され、まして初代川柳死後は川柳の前句・点・選・句ではなくなって一層困ったため、三一篇からは文日堂が川柳風という新語を作った。芭蕉の蕉風に対する川柳の川柳風の意である。「川柳風」の語は一般化しなかった。流派(スクール)名の感じでジャンル名としてふさわしくなかったのであろう。
  (浜田義一郎『岩波講座日本文学史9』)  

川柳はどういうわけか「狂句」という名称が定着しなかった。ほんとはそういう未来もあったはずなのだが。私も不思議なのだが、だからこそ、句でも歌でもない現在の〈なんでもあり〉の川柳が成立し、枝分かれし、不思議なことになっているようにも思われる(カオス、アナーキーな状態に)。柄井川柳の亡霊がそのまま生き続けているような。

もちろん、〈なんでもあり〉というと怒り出す川柳人はいると思う。いるだろうけど、この四コマ漫画にかんしていえば、〈なんでもあり〉だからこそ、七々子は日々、川柳で他者とコミュニケーションをかわし、たくましく生きているのである。

七々子をみていると、川柳は、かなしいでもたのしいでもない。それは、五七五で他者と結びつく〈なにか〉なのだとおもってしまう。もしかしたら、川柳は、意味論ではなく、意味行為論的なパフォーマティヴなものかもしれない。あなたとふっとつながるための。

  じゃあここで私も一緒に食べていい?  七々子

          (五十嵐正邦「五七五系女子」『川柳少女』講談社コミックス・2017年 所収)

続フシギな短詩161[廿楽順治]/柳本々々


  でもただしいものに踏まれたのだからしかたない
               泣いて感動しなさい
              (あ、なんだこの虫)
     最後まで手足が漢字みたいにうごいている
               これは文学になるぞ
                   さようなら
            廿楽順治「妖虫のさいご」

『現代詩手帖』の廿楽さんの連載詩「鉄塔王国の恐怖」には毎回、挿絵が全面的にレイアウトされている。そもそも廿楽さんの詩は引用でわかるように、文頭ではなく、《文末》がそろえられている。そのことによってはじめから詩のレイアウトへの意識が非常に高いということが形式的に指示されている。だから廿楽さんの詩はたえず図像的意識を喚起している。意味だけでなく。

この図像への意識の鋭さは、挿絵を挿絵のままにしておかない。

そもそもテクストと絵の関係はどのように成り立つのだろうか。かつてイラストレーターの安福望がギャラリートークにおいて、短歌に絵をつけるときに、その短歌の文字テキストを絵のどこにおさめていいかわからなくなるときがある、絵の外に、絵の外の壁にテキストを直接書き付けられればいちばん安心する、と述べていたが、絵とテキストの関係は、おそらく、意外にも、やっかいなのである(だから絵とテキストを形式的に分離してくれるTwitterメディアは安福望にとって、ひとつの理想的な〈額縁〉だった)。

廿楽さんの詩における絵の役割はどうなっているのだろうか。第六回は、宇田川新聞さんの版画が詩にそえられているが、それはそえられているというよりも、詩テクストと画のどちらが〈主従〉なのかわからないように画が全面に展開されている。そのことで、画に挿詩されているのか、それとも詩に挿絵されているのか、わからないようになっている。

画のなかにテキストが侵入し、画を境界のように使いながら詩が展開され、詩と画をわかつものが〈感覚的〉にしかとらえられないようになっているのである(ある意味この詩においてはイメージが言語の魔宮になっている。言語的境界が意味ではなくイメージによって果たされるのだ)。

たとえばギザギザの吹き出しのなかに、詩とは分離した「あ、/なんだ/この虫」というテキストが入ることによって、テクストと画の主従関係がかきまぜられる。

それはこの詩の形式がそもそもそうで、まるでマンガのコマの外に描かれた作者の欄外注のように縁取られた枠線の外には「【ペンフレンド募集】字の書ける人ならどなたでも。顔をうしなった友だちになりませう。理想の」「物語の途中で明智先生が消えてしまった。わたしたちに何もいわず。」と上下左右にテキストが確認できる。

この詩と画が相互に〈挿入〉されていき、主従関係を解消していくさまが、ここでは〈詩〉として働いている。詩は垂直にも水平にもベクトルを形作らず、画と干渉しあいながら、読者の特異点を分解しようとする。

この連載詩「鉄塔王国の恐怖」は、「探偵詩篇」と名づけられているが、レイアウトそのものが〈探偵=ミステリー〉的なまなざしのミスリードと混淆におかされている。「最後まで手足が漢字みたいにうごいている/これは文学になるぞ」の通り、ここではたえず文字が手足や虫のように「うごいて」おり、その〈うごく〉なにかが読者に〈文学になる〉かもしれない〈なにか〉を喚起させる。しかしそのなにかは、「探偵詩篇」である以上、〈なにか〉なのであり、そして

  そのくるしみの手はずっとこちらへ振られている
             でも言語的には虫だから
          なにがいいたいのかわからない
                    親戚一同
           だれがどの顔だかわからない
           (廿楽順治「妖虫のさいご」)


          (「第六回 鉄塔王国の恐怖 妖虫のさいご」『現代詩手帖』2012年8月 所収)

2017年8月17日木曜日

続フシギな短詩160[柴田千晶]/柳本々々


  夜の梅鋏のごとくひらく足  柴田千晶

さいきんたまたまこんな鋏の短歌を考えていた。

  残された下着を細かく切り刻み袋に捨てる ばらばらのブルー  谷川電話

こんな鋏の短歌について考えたこともあった。

  前髪を5ミリ切るときやわらかなまぶたを鋏の先に感じる  中家菜津子

こんな鋏の川柳についても考えたことがあった。

  蟹歩き時に鋏を目に当てて  松岡瑞枝

どれも身体が傷つくことのメタファーになっていると思う。たとえば別れた恋人の下着を「細かく切り刻」む。もちろん、下着を捨てるときに鋏で細かく切ってから捨てることはあるだろう。しかしそれが「残された」側の「残された下着」になるときに、それはぎりぎりのラインをもはらんだメタファーになるかもしれない。

「やわらかなまぶた」にあてられた「鋏の先」。「前髪を5ミリ」という繊細さが要求される行為のなかで、ふっと〈死〉と〈傷み〉が訪れる。いつでもそこにあるわたしの可傷性。

「鋏を目に当て」る行為はとてもこわい経験だ。「蟹歩き」のような〈まっすぐ〉歩けない自分が試す行為かもしれない。

柴田さんの掲句の「鋏」は上記の詩歌とやや重なりながらも、ベクトルが異なる。上記の詩歌は、対象化された、使われる鋏だった。わたしを傷つける鋏だった。

でも柴田さんの句の「鋏」は、自身の「足」になっている。わたしが鋏を使うのではなく、わたしが直喩(ごとく)として「鋏」なのである。たとえばもしこれをセックスの句だとするならば、〈きもちよさ〉ではなく、まったく逆のセックスにおける可傷性を描いた句だということができる。「鋏のごと」きわたしの「足」はあなたを傷つけるかもしれないが、しかしあなたは同時に傷つけられながらも・わたしを傷つける可能性をもっていること。セックスにおける相互的可傷性。穴を輻輳させること。

  単純な穴になりたし曼珠沙華  柴田千晶

そして「穴」を込み入らせつつも、同時に、相手に特権的に「頭」「突き」を渡さない。

  冬銀河陸橋の君の背に頭突き  柴田千晶

セックスはどうしても非対称的になりがちだが、そこに相互作用する運動性をみいだしていく俳句が柴田さんのダイナミズムなのではないだろうか。もちろんそれはわたしがわたしをみる(ラブホテルの装置を介した)視線にもなってくる。性をするわたしは、性をするわたしにまなざしかえされる。

  天井に我を見る我春の闇  柴田千晶

柴田さんは句集『赤き毛皮』の「花嫁の性-あとがきにかえて」でこんなふうに書いている。

  女性の性表現はなかなか自己愛から一歩を踏み出せなかった。
  (柴田千晶「花嫁の性-あとがきにかえて」『赤き毛皮』)

性表現は、相互に照らし返すようなまなざしがいる。自己が自己になるようなまなざしではなく、他己が自己になり、自己が他己になるような、錯綜したまなざしが。

その性のまなざしのダイナミズムが柴田さんの俳句では模索されているのではないかと思う。そしてそれは、いつでも非対称的にしか性的な存在になれない〈わたし〉につねに問いかけられた《性的》問題なのではなかったか。

  全人類罵倒し赤き毛皮行く  柴田千晶

 
          (「 軀(からだ)」『赤き毛皮』金雀枝舎・2009年 所収)

続フシギな短詩159[生駒大祐]/柳本々々


  花の中をゆつくり歩いてゆかなくてはね  生駒大祐

青木亮人さんのNHKカルチャーラジオ文学の世界「俳句の変革者たち-正岡子規から俳句甲子園まで」の最終回のいちばん最後を青木さんは生駒さんの次の句でしめくくった。

  秋燕の記憶薄れて空ばかり  生駒大祐

青木さんは、私の記憶がたしかならば、こんなふうにこの句について評されていた。

記憶が薄れて空ばかりがひろがっている。その空のむこうから俳句の変革者は俳句史にかならずあらわれるはずだ。それは俳句史の蓄積を知っている者かもしれないし、俳句史をぜんぜん知らないものかもしれない。

私がこの青木さんの締めをきいて面白いなと思ったのが、生駒さんの句が締めにふさわしいような〈全体性〉をもっていることだった。どうしてこの句は全体性をもっているんだろう。

この句は「空ばかり」と「空」に向かって終わっている。全体が空にみちておわっている。ところが、「記憶薄れて」とあるように、根っこのところ、根本的な生成の現場が言及され、それを通して、空にむかっている。底(そこ)と空(そら)がここには同時に描かれている。だから全体的な空間をうんでいる。「記憶」が「薄れ」た人間は、「空」にむかうという逆説的倒立の世界。

以前、宮本佳世乃さんとお話していたときに、生駒さんの俳句の〈底〉への感覚がおもしろいと言っていた。それを聞いて、なるほど、そこ(底)から生駒さんの俳句をみてみるのは面白いかもと思った。

たとえば掲句。七七七の句なのだが、妙に「底」感がないだろうか。「花の中」なのでおそらく語り手は桜がふるなかを歩いているのだが、定型をこれでもかと目一杯使い、ゆっくりゆっくり歩いていく。「花の中」という空の方向が意識されながら、〈底〉がゆっくりゆっくり意識されている。まるで全体を背負い込みながら歩いていくような句だ。最後の「ゆかなくてはね」の「ね」は〈根〉なのかもしれない。だからこんな句。

  つまづきて土這ふ花の根と知れり  生駒大祐
   (「花」『オルガン』9号、2017年5月)

つまずいて空間が反転する。空は地になり、「土」を這う「花の根」を感受する。

  塵取の裏や花屑張り付きある  生駒大祐

空から降った桜の花びらだ。でもいまはこうしてちりとりのうらに張り付いている。花はあたらしい底を見いだし、語り手もあたらしい底をみいだしている。花をとおして〈底〉を発見してゆくこと。しかしそれが全体性への言及になること。

生駒さんの俳句には底からの全体性の立ち上げがあるのかもしれない。

  幹つめたしこの満開の中にあれど  生駒大祐

桜「満開」のなかで「幹」の「つめた」さを気にかけているひと。「あれど」の「ど」は、やはり、「土」ではないのか。

連作のタイトルは「花」だったのに、「根」のことをたえず気にかけるひと。「根」のことを気にかけていたのに、「空」を感受していたひと。

  車窓から桜のやうな噓のやうな  生駒大祐

          (「花」『オルガン』9号、2017年5月 所収)

2017年8月16日水曜日

続フシギな短詩158[いなだ豆乃助]/柳本々々


  鳴門には縁もゆかりもない@  いなだ豆乃助

こないだ恵比寿で小池正博さんが主催する東京句会があって傘をさして行った。まわすと渦みたいになるカラフルな傘でなくさないように気をつけていたのだが、その日、あっというまにきえた。どこにいったんだろうか。都内のどこかにはあるとおもう。

その句会では、題で「渦」が出ていたのだが、そこにいなださんの掲句が出ていた。よく短詩のなかで記号をどうやって成立させられるのかということについて考えているのだが、この句は「@」という記号が川柳のなかで成立しているように思った。

なんでだろう。

まずひとつはこの句が《なにもいってない》ことに注目してみたい。

「鳴門には縁もゆかりもない@」ということは、「(鳴門には縁もゆかりもない)@」ということで、ようするに、「@」としか言っていないのだ。この句は実は「@」だけの句なのである。@という記号を使いながらも、その記号に重点的な関心をしめさず、否定語法で「@」を語ったこと。ここらへんにこの句で記号が成立している理由がひとつあるような気がする。

もうひとつ。まったく上と逆のことを述べるが、この句が嘘をついている可能性もあるということだ。「鳴門には縁もゆかりもない@」と句は述べているが、関連づけようと思えば、@は縁やゆかりがありそうな気もする。@(アットマーク)=「at」という原義を思い起こせば「鳴門」という地名と結びつくかもしれないし、鳴門海峡の渦潮と@の形状は縁があるかもしれない。つまりこの句は、《なんにもいってない》ように形式的にはみせながらも、実はすごく《なにかをいっている》場合もあり、それは題の「渦(うず)」のように立て込んでいる。

語り手は、ほんとうに縁もゆかりもないと思っているかもしれないが(ベタのレベル)、違うレベルでは、ほんとうは縁もゆかりもあるのに、嘘を述べている可能性もある(メタのレベル)。言説として、渦のように、たてこんでいる。

そうしたときに、それらを媒介し束ねるポイントとしての@はとても効果的なように思う。これが漢字やひらがなだと弱いのではないか。@はめまいのようななにかがある。

この@は、この川柳のなかだけの指示記号として、どうしても必要になる。だからこの@は、この詩のなかで成立した。

ちなみに私はこの日句会を途中で小津夜景さんの授賞式に出席するために抜けさせてもらったのだが、そこに向かうときに逆方向の電車に乗り間違えて、途中で気づき、慌て、頭や目がうずのように、眼や脳やメンタルが@のような感じになっていき、そのとき傘もストリームのなかに呑み込まれていったのかもしれないが、その夜景さんの俳句にはこんな記号の句がある。

  仁★義★礼★智★信★厳★勇★怪鳥音  小津夜景


続フシギな短詩157[きゅういち]/柳本々々


  縁取りにぬるいファンタをたててゆく  きゅういち

川柳と食べ物の話をもう少し続けてみよう。きゅういちさんの句集『ほぼむほん』から食べ物の句をひろってみる。

  りかちゃんに湯船に満ちる生卵  きゅういち

  算数の本のりんごが落ち・・・チャイム  〃

「ぬるいファンタ」は「縁取り」のために使われ、「生卵」は「湯船」に満ち、「算数の本」から「りんご」が「落ち」ると「チャイム」がなって授業が終わる。「ファンタ」「生卵」「りんご」は〈空間〉を規定するちからをもっているようだ。

ただ食べ物たちは静かに〈空間規定〉しているわけではない。なにか得体の知れないものをかすかに引き出し・あふれださせながら空間規定しているのも特徴的である。

「ぬるいファンタをたててゆく」の「ゆく」という意志。「りかちゃんに湯船に満ちる生卵」の「りかちゃん《に》」の志向性、「りんごが落ち・・・チャイム」の「・・・」の得体の知れない沈黙。

食べ物は空間を規定するのだが、その規定された空間から、どろどろとなにかが出ている。

《空間は、じっといていない》と言ったらいいか。

  情念を語るソーセージの金具  きゅういち

「ソーセージの金具」は「ソーセージ」を拘束していたが、しかしそのようにソーセージを空間規定していた金具が「情念」を語りだす。これもじっとしていない空間からあふれだしていくひとつのどろどろである。

句集タイトル『ほぼむほん』の表題句をみてみよう。

  ほぼむほんずわいのみそをすするなり  きゅういち

ずわい蟹の「みそをすする」行為、蟹の甲羅という空間からどろどろしたもの(蟹味噌)を引き出す行為が、「ほぼむほん」という心性のありかたを引き出している。謀反には、反逆の意味のほかに、ひそかに計画して事を起こすこと、の意味もある。空間は、ずっとなにかを計画し、ときにどろどろしたものをあふれださせながら、反逆する。これをヒントにきゅういちさんのこんな句群をピックアップしてみよう。

  たらちねの農農たらり農たらり  きゅういち

  体毛をふふふほほほと風姉妹  〃

  鼻なんよのびるのびるのびるのびるんよ  〃

  羊合う呼び合う見合うおい小池  〃

  買いの手の手の手の果ての浅瀬の鯨  〃

  走りたい逢いたい痛い人体図  〃

  逆さですあふれそうです鶴見えます  〃

空間は反逆すると述べたが、定型もひとつの空間である。その空間に〈謀反〉を起こさせるにはどうしたらいいだろう。ひとつには、《言葉の自走的暴走》を起こさせるというやり方がある(ちなみに以前、このフシギな短詩で取り上げた中家菜津子さんの歌集『うずく、まる』の歌や詩には言葉の自走性があらわれている。「うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前/中家菜津子」)。

「たらちね/たらり/たらり」、「ふふふほほほ」、「のびるのびるのびるのびるのびるんよ」、「合う/呼合う/見合う」、「手の手の手の果ての」、「たい/たい/痛い/人体」、「です/です/ます」。言葉が音を介して暴走し、どろどろした意味があとから追っかけてくる。これもひとつの、定型への、意味へのむほんではないか。

しかしそれは完全なむほんではない。なぜならきちんと定型は遵守されているからだ。されてはいるのだけれど、反復された文字と音によって錯覚が起きてあたかも定型が崩壊しているようにもみえる。定型は〈まもられている〉のに、定型に反逆がおきて、定型が〈崩壊した〉ようにみえたら、それはもう、こういうしかない。《ほぼ》むほん、と。

  輪を叩きつけて天使は出ていった  きゅういち

          (『ほぼむほん』川柳カード・2014年 所収)

2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩156[北川美美]/柳本々々


  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

私はふだんその〈ひと〉のことじゃなくて、そのひとの〈ことば〉について書こうと決めているので、そのひとと出会ったりしてもあんまりそのことは書かないのだけれど、でもたまにはいいかと思って書いてみる。夏が終わるし、お盆だし。

北川美美さんはこの『およそ日刊俳句新空間』の編集をつとめていて私はずっとお世話になっていた。わたしは美美さんに誘われて書き始めた。

去年の年末に白金高輪で豈の忘年会があって、わたしは美美さんに挨拶しに行こうと思い、バスに乗ってこそこそと行った。会場はイタリア料理屋だったのだが、クリスマスのあたたかい明かりに包まれており、なにか句会のようなものをしていて、ここに途中から入るのはハードル高いぞと私は大きな木の陰から手をついてしばらく見ていた。ちょっとマッチ売りの少女を思い出したが、売るマッチはなかったし、雪も降っていなかったし、私は不幸でも幸福でもなかった。

でもこのままここで木の陰で手をついているのは人目もあることだしまずいぞということで、そのあと「どんどん入ってい」って美美さんに無事挨拶することができたのだが、美美さんはそのあとアクティブにいろいろ動き回っていて、はいもともとさん、とケーキを運んだりしていた。そういえば美美さんの句はアクティブな句がおおいと、おもう。

  日盛や人追いかけて道をきく  北川美美

  ひとりづつ金魚に水を足しにゆく  〃

  さびしいとさびしい幽霊ついてくる  〃

なんだか、じっとしていないのだ。なにか「道をきく」「水を足しに」「さびしい」などの〈目的〉があって、その〈目的〉のために、かれらは〈動く〉のである。俳句なのだから、もう少し、切れのもと、じっとしてもいいのではないかと思うのだが、みんなじっとしていない。幽霊でさえ、さびしいからと、ついてくる。なんだか、それは目的があって忘年会に行ったわたしみたいで、俳句にはそういうアクティブな俳句があるのだなあと思った。

ちなみにその忘年会で私は現在編集をしている佐藤りえさんにもお会いした。何年も前にりえさんには挨拶したことがあるのだが、今年の春夏になんどもりえさんに都内のあちこちで会ったような気がして、人生ってふしぎだなあとちょっと思った。イベントにいくと、りえさんがいるのだ。

  あと二五〇〇個の銅鍋がわたしに磨かれるのを待っている  佐藤りえ
  (『What I meant to say.』)

美美さんやりえさんに実際にお会いして思ったのだけれど、なにかを待とうとはしなくても、ただ待っているだけで、なにかが、「二五〇〇個の銅鍋」のようなぎらぎらしたなにかが、やってくるかもしれない。でも、その、ただ待っているだけ、をすることの難しさ。それでも、待つ、ということ。

うーん、でも考えてみると、掲句、「夕立の中にどんどん入っていく」というのは、「入っていく」とはいうものの「夕立」の側からやってきてることを「入っていく」と言い換えているだけかもしれないのだ。だからこれもひとつの積極的な〈待つ〉といえるかもしれない。待っていると「どんどん入っていく」のだ。

これは、待つことをアクティブにあらわした句なんじゃないか。そういうアクロバティックな。待つ。

  いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。
  (太宰治「待つ」)

待つ、という動詞は、実は、何もしなくても「どんどん入っていく」ことに近いのではないだろうか。なぜなら、対象が定められたとき、それは固定され、待つ、ではなく、追っていく、に変化するからだ。対象を定めず、「なんだか、わからない。いや、ちがう。やっばり、ちがう。けれども」と言いながら「待つ」状態で、「どんどん中に入っていく」こと。そんなことが可能なのだろうか。

  夕立の中にどんどん入っていく  北川美美

可能なのではないだろうか。

          (『俳句新空間』4号・2015年夏 所収)

続フシギな短詩155[赤松ますみ]/柳本々々


  魔法だと思うこの世に生きている  赤松ますみ

川柳のなかの不思議な食べ物の関係について前回書いたのだが、そもそも川柳という装置自体がマジカルなことを内包している。たとえば現代川柳観というものを一言でいうなら、赤松さんのこの句そのものなんじゃないかと思う。すなわち、「魔法だと思うこの世に生きている」。

以前、川柳の大会で佐藤文香さん自身が川柳を選ぶ際の基準としてこんなふうに述べられたことがある。とても印象的な一言でよく思い出している。

  自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会でどれだけ貢献しないか、ということです。
  (佐藤文香『バックストローク』33号)

どうして「社会でどれだけ貢献しないか」が現代川柳を選ぶ際の基準になるのだろう。ふつう、逆ではないか。しかし文香さんはそうかんがえた。「その句がどれだけ社会に貢献しないか」と。

わたしはそれは川柳が「魔法」だからじゃないか、とおもう。魔法はこの社会になくていいものである。私はかつてテーブルクロスからサンドイッチくらいは出せる魔法を拾得しようとしたが挫折している。水をかけられたら溶けて消えちゃうような低級な魔法使いでいいのでお願いします、といったのだが、だめだ、と言われた。魔法はこの社会にはいらない。コンビニに行けばおいしい玉子サンドもある。

でも魔法はみんな使うことはできないけれど、この社会や世界のどこかがマジカルな部分で成り立っていることもたしかなことだ。たとえば赤松さんの句。

  ともだちの数をときどき足しておく  赤松ますみ

これは一般的には「友達の数がふえた」といわれることだが、「ともだちの数をときどき足しておく」と〈数〉として〈足されるもの〉として、「ともだち」をみることによって、それまでの社会や世界から少し軋んだ感覚としてとらえかえされていく。なぜ「足しておく」のか、そのとき「ともだち」の主体性はどうなるのか、そういった不穏な感じが次々と派生してくる。

こんなふうにわたしたちは〈ふだんやっていること〉でも少しだけ構文を変えるだけで、不穏になることができる。それを、魔法、と呼んでもいいんじゃないだろうか。少し世界を軋ませるのである。それは、ハッピーにもアンハッピーにもなれるような魔法である。どちらに転ぶかはわからない。

  暗闇で最後の段を確かめる  赤松ますみ

  きらきらとするまでたっぷりと眠る  〃

その魔法が暗闇のおわりを呼ぶのか、きらきらの始まりを呼ぶのか、それともすべてのおわりを呼ぶのか、わからないが、しかし川柳は社会に貢献できない〈死角〉を暗闇で、眠りながら、可視化しようとしているようだ。

みえないからこそ社会に貢献できないのだが、しかし、みえないものにはみえないからこその永続的な希望も、ある。たとえば見えないところでこんなふうに言われる。ひかりなさい。

  光りなさいと星のマークをつけられる  赤松ますみ

          (「鳥になる」『セレクション柳人 赤松ますみ集』邑書林・2006年 所収)

続フシギな短詩154[楢崎進弘]/柳本々々


  次の世がメロンパンでもかまわない  楢崎進弘

メロン、ってなんなんだろうな、っておもう。
いや、そうじゃなくって、川柳にとってメロンってなんだろうな、とおもう。

たとえば現代川柳にはこんなメロンの句がある。

  こっそりとエステサロンへ行くメロン  赤松ますみ

  メロンパンだって内面と外面  オカダキキ
   (『川柳文学コロキュウム』77号、2017年7月)

赤松さんの句には「こっそりと」の部分にメロンがふだん隠している内面がある。メロンは「エステサロンへ行」きたいほどになにかを恥ずかしがっている。恥ずかしがるのは、メロンに内面があるからだ。

だから、オカダさんの句ではそのまま「メロンパンだって内面と外面」と書かれている。メロンパンの多層構造をこんなふうに表現したのかもしれないけれど、「内面」と書かれることによってあたかもメロンパンに感情があるように描かれている。

こんなふうに川柳のなかのメロンはとてもていねいに扱われている。内面が描かれるほどに。

楢崎さんの掲句。「次の世がメロンパンでもかまわない」と言い切っている。一見すると、捨て鉢のようにも見える。もう次の世なんてどうなったっていいと。今回のこの世をがんばりますと。でも川柳の枠組みにしてみれば、メロンには内面があり、ていねいにあつかわれるのだから、もし次の世がメロンパンだったとしても、私は川柳をやっていて、ちゃんとメロンパンのことをわかっているのだから、安心しているのです、と受け取ることだってできる。川柳をする、ということは、メロンと向き合うということでもあるのだ。

  苦しくていとこんにゃくを身にまとう  楢崎進弘

  彼方より飛来するもの茄子を焼く  〃

だから。

楢崎さんの川柳においてはとっても大切な人生のシーンにおいて、食べ物が飛来する。「彼方より飛来するもの茄子を焼く」と書かれているが、実は人生の大切な場面にそのつどそのつど飛来しているのは、メロンパン、いとこんにゃく、茄子などの食べ物たちだ。

川柳は、食べ物に、食べ物以外の、なにかを見出そうとしている。それがなんなのかはわたしにもわからない。わからないから川柳のことを考え続けているのだが、でもどうして川柳は食べ物になにかを見出そうとしているのだろう。わかったひとはぜひこのフシギな短詩のコーナーにお便りください。あてさきはないんですが。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

          (「8月」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』2017年 所収)

2017年8月11日金曜日

続フシギな短詩153[ロマンシングサガ2]/柳本々々


  そして代々の皇帝とその仲間達の詩 この詩をうたい終えられるよう 精霊よ 我に力をあたえよ  ロマンシングサガ2オープニング

ゲーム『ロマンシングサガ2』で興味深いのが物語全体の枠組みである。『ロマサガ2』は酒場での吟遊詩人の歌い出し=語り出しからはじまる。そこから代々の皇帝とその時代時代の仲間たちが何百年という時をめぐって七英雄と戦ったようすが吟遊詩人によって歌い出されてゲームがはじまる。

こうした冒険を代々語り継がれてきた歌のスタイルにすることによってロマサガは他のRPGにないロマサガ性を手に入れた。

それは運命を偶然化する冒険物語のスタイルである。ロマサガ2は、プレイするキャラクターがすぐに死んでしまう。そして皇帝継承としてプレイヤーの〈わたし〉が次の皇帝を任意で選ぶことになる。次の皇帝候補は何十人とおり、そのなかから選択することになる。だからプレイヤーの数だけロマサガの物語はあることになる。

また、イベント進行に関してもほとんど任意で行われる。国を滅ぼすこともできるし、味方を見殺しにもできる。よくあるRPGのような正義の必然化はない。悪に徹してもいい。正義も悪も任意で行われるのだ。

吟遊詩人の歌う伝承歌の歌のポイントとはなんだろうか。それは、伝承されるたびに、歌われるたびに、歌い直され、語り直される点だ。たとえば白川静のこんな言葉を思い出してみてもいい。

  民謡には、その集団性に適応して詞句の変換が可能であるという替え歌への条件がある
  (白川静『初期万葉論』)

集団的に共有される言葉の伝承は即興演奏(アドリブ)として誤配される。杉田俊介さんは、物語への信頼を次のように逆説的に述べていた。

  私たちが物語=言葉を信じるとは、言葉の伝承の断絶や誤配への信頼、裏切りへの信頼でもあるだろう。この私が今こうして語りうることのすべての限界を超えて、この私を根本的に裏切って、誰かが語っていく。しかし、そのことで、自らやそれに先行する死者たちの「死後の生」(ベンヤミン)をも継承し翻訳するかのように生かしてくれる、そうした後続の誰かがいるはずだ、と。物語ることは誰かから物語られていくことであり、物語の銀河系に巻き込まれていくことである。
  (杉田俊介『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』)

特に伝承歌は、即興的な磁場のなかで「言葉の伝承の断絶や誤配への信頼、裏切りへの信頼」が強く作用する「死後の生」を生きるテクストだろう(まるでゲームの主人公たちの皇帝継承のように)。

なんだかわたしは杉田さんのこの記述は、このまま『ロマサガ2』の解説にもあてはまるような気がしている。ロマサガ2は、物語全体の枠組みを歌に設定することで、〈運命の偶然性〉を描き出す。そこではどんな行為も、最終的には吟遊詩人によって、語り直され歌い直される相対的なテクストになるのだ。

でもこのロマサガ2のオープニングには仕掛けがある。ネタバレなのでこれからプレイするひとはもう読まないでほしいが、じつはこの吟遊詩人の歌をかたわらで聴いているのが、廃位したばかりの最終皇帝なのだ。ロマサガ2のオープニングはこうしてオープニングの外部としてのエンディングを先取りしながら、物語の円環をかたちづくる。しかしそれそのものも、あなたというプレーヤーによって語り直され、歌い直されるだろう。もちろんわたしもいま別のかたちでこうして語りなおしている。それに、だれにだって、あるだろう、やるしかないっていう気持になる時が。いつでも来い。今、そんな気持になった



          (『ロマンシングサガ2』スクウェア・エニックス・2017年 所収)


2017年8月10日木曜日

続フシギな短詩152[芥川龍之介]/柳本々々


  蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな  芥川龍之介

暑い。
内田百閒が芥川龍之介の自殺についてこんなふうに書いている。

  芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。
  (内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』)

「それでいいのだと思った」と書くのが内田百閒らしいのだが、芥川と〈暑さ〉についてこんなふうに結びついて言説化されているのは、芥川の有名な掲句を思い出すとちょっと面白いとおもう。

思いつきでしかないけれど、もしかしたらこの「ゼンマイ」という螺旋状のどこにもゆきつかない感じに芥川の〈死(因)〉をみたひともいたのかもしれない。

妻・芥川文が夫・芥川龍之介を回想した本に『追想 芥川龍之介』がある。そのなかに、この蝶の舌の句が直される前の句とともに並べられている。

 旧 ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな
   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

旧作をみるとわかるように、当初、蝶の舌の句は「蝶の舌」に重心があった。まず「蝶の舌」が「ゼンマイ」に似ているなという発見があり、いったん切れて、「暑さ」に接続される。これだと「蝶の舌」の印象が強くなるが、「暑い」感触は弱くなる。あんまり暑くない感じだ。思考の入り口や出口がちゃんとわかる。

直された句はどうだろう。「蝶の舌」でいったん切れて、そこから「ゼンマイに似る暑さ」と「暑さ」に修飾がほどこされることで「蝶の舌」と同時に「暑さ」にも重心がでるようになった。旧作では、「暑さ」は独立していたのに対し、直された方では「ゼンマイに似る暑さ」と暑さがうだるような長さになり螺旋状のどこにもゆきつかさい感じが「蝶の舌」をぶきみな感じにもしている。つまり、この螺旋状のぐるぐるした暑さのせいで、このひとは「蝶の舌」を幻視しているんじゃないかという気すら、する。この句なら、このひとは、まずいんじゃないか、死んじゃうんじゃないかという気もしてくる。思考の入り口も出口も失って。

旧作の「ゼンマイ」と「蝶の舌」が似ているという認識は、カタチの類似であり、わりあいふつうでありまっとうである。でも、「暑さ」が「ゼンマイ」に、「蝶の舌」に、似てきたときに、そこに感覚が形象に類似してくるという〈なんかヤバい感じ〉が出てくる。ただ暑いすごく暑い、と思うのはいいが、この暑さはこれに似ている、という思考回路は〈帰ってこられない思考〉のようにも思う。「暑い」を形象と同一化するのは思考のルールが逸脱しているかんじというか。

妻・文は、「妙な悪い予感」のもと、夫・芥川龍之介が死ぬんじゃないかという思いにとらわれていた。

  大正十五年の初秋の或日、私は部屋にいましたが、妙に悪い予感がして、主人が死ぬような気がして淋しくてたまらず、思わず二階へかけ上りました。
  主人は机に向って、やせ細って坐っておりました。…主人は、
  「何だ?」と言います。
  私は、
  「いいえ、お父さんが死んでしまうような予感がして、淋しくて、恐ろしくてたまらず来て見たのです」
  と言ったら、主人は黙ってしまいました。
  (芥川文『追想 芥川龍之介』)

あなたがなんだか死ぬような気がするんです、というのは、できればせっかく生きているのだから、言われたくない言葉だが、芥川龍之介はのちに、遺稿「歯車」の中でこのシーンをこんなふうに、〈言われた立場〉から書いている。

  「どうした?」
  「いえ、どうもしないのです。……」
  妻はやっと顔をもたげ、無理に微笑して話しつづけた。
  「どうもしたわけではないのですけれどもね、ただ何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
  それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。
  (芥川龍之介「歯車」)

「どうもしたわけではない」のだけれども「死んでしまいそうな気がした」と面と向かって言われたひとは、この翌年の「大変な暑さ」の夏にほんとうに自殺してしまった。


          (『追想 芥川龍之介』中公文庫・1981年 所収)

2017年8月9日水曜日

続フシギな短詩151[浅沼璞]/柳本々々


  チェーホフ劇の台詞は、それぞれが独白に近く、散文的な論理からすれば、すれ違っています。けれど、たんねんに読み込むならば、そこに詩的な繋がりを発見することができるはずです。これを連句的に解説すると、チェーホフ劇の台詞は、表層的な「意味付け」ではなく、もっと深く中層域に根ざす「匂い付け」であるといえるのです。  浅沼璞

連句研究者の浅沼璞さんの本、『「超」連句入門』には「超」と冠がついているように、連句を〈超えて〉連句の視野からみた文学や文化についても語られている(あらゆる文学・文化・思想が〈連句〉の視野から総動員されていく)。

たとえば浅沼さんは『三人姉妹』を例にあげている。

  ナターシャ まあ乱暴な、無教育な人!
  マーシャ いま夏なのやら、それとも冬なのやら、気もつかずにいる人は幸福ね。

「無教育な人」というナターシャの〈前句〉は、マーシャの「気もつかずにいる人は幸福ね」という〈付句〉で、転じながらも・続いていくことになる。マーシャは、「そうね。そうだわ」と同意はしない。そこに連なりながら・ひらくのである。

この連句の、連なりながらも・決しておなじ雰囲気をまとうことをしない、という「匂い付け」の感じは、チェーホフ劇にとってもよく合う。

なぜチェーホフ劇には対話がないのか。どうしてみんなほとんど独り言を言っているのか。どうしてみんなだらだら会話を続けているのか、しかしなんとなく共に生きてしまっているのか。そしてどうしてみんな、後戻りできずに、終局やゆるい破滅に向かうのか。

それが連句的といえば、とても連句的なのだ。

「歌仙は三十六歩也、一歩も後に帰る心なし」と芭蕉は述べたそうだが、連句は、前の句やその前の句で使った言葉や漢字は使わない(「同字」を避ける)。「後戻り」をしない。そういう決まりになっている。いちどはじまったら、前進するしかないのだ。

  前の句とは別の世界に移動すること、前進あるのみ。しかし、「付ける」という条件がつく。
  (坂本砂南+鈴木半酔『はじめての連句』木魂社、2016年)

これはそのままチェーホフ劇の説明になっているのではないか。

チェーホフの『桜の園』でこんなシーンがある。

  ガーエフ ねえお前、むかしはお前といっしょに、ほれこの子供部屋で寝たもんだが、今じゃわたしも五十一だ、なんだか妙な気もするがなあ……
  ロパーヒン さよう、時のたつのは早いものです。
  ガーエフ なんだって?
  ロパーヒン いや、時のたつのは早い、と言ったので。
  ガーエフ この部屋は、虫とり草のにおいがする。
  アーニャ わたし、行って寝るわ。おやすみなさい、ママ。(母にキスする)
  ラネーフスカヤ わたしの可愛い子。(娘の手にキスする)おまえ、うちに帰って嬉しいだろうね? わたしは、まだほんとのような気がしないの。

商人のロパーヒンは破産の危機を回避させようと、ガーエフたちに話しかけるが、「なんだって?」とロパーヒンの話をだれもきこうとはしない。ただ〈聞いてはいない〉のだが、みなが「時のたつのは早いものです」に連なっている。「今じゃわたしも五十一だ(人生の時間)」「おやすみなさい(一日の時間)」「わたしは、まだほんとのような気がしないの(認識の時間)」。

ここに出てくる地主一家さんにんがそれぞれにそれぞれのやり方で「時のたつのは早いものです」に連なっているのに、誰もロパーヒンには同意しようとはしない。

ここには対話はない。しかしなにげなくやりとりされた会話の深層に、時間意識が連なり、ひしめきあっている。それを連句的時間ともいえるかもしれない。「同字=同意」は避けながら、しかし破滅する「連衆」として一体化してゆくこと。

浅沼さんがよく書かれていることなのだが、連句は「発想が違う発句と平句という二つの詩形式をずっと抱えこんできた」。「二律背反の濃い塊り」が連句である。切れのある発句と切れのない平句。チェーホフにこれをうつせば、キレのある現実にシャープなロパーヒンと、平凡なお花畑の認識の地主一家が、おたがいに〈会話〉を連ねながら、破滅していくのが『桜の園』である。『桜の園』はひとつの歌仙なのかもしれない。

ちなみにこの戯曲『桜の園』には不思議なポイントがひとつある。ロパーヒンがいつ舞台に登場するのか書かれていないのだ。訳者の神西清はこんなふうに注釈をつけている。

  (訳注 原書には示していないが、ロパーヒンもこのとき登場するらしい)

いつ舞台にあらわれたのかわからないロパーヒン(宮沢章夫さんがこの視点からロパーヒンと速度というおもしろいロパーヒン論を書いている)。ロパーヒンは、この戯曲そのものを〈超越〉しているところがある。超越といえば、連句には「捌き」という超越的な〈進行役〉がいる。連句の規則に照らしておのおのが提出した句をチェックし修正させていく。ロパーヒンは、「捌き」だったのかもしれない。

『桜の園』をわが手中におさめ歓喜するロパーヒンのセリフで終わりにしよう。声にだして読んでみると、『天空の城ラピュタ』のムスカみたいで、けっこう興奮する。ムスカのように声に出して読んでみよう。

  ロパーヒン わたしが買ったんです! ……(笑う)…まんまと落したんです。桜の園は、もうわたしのものだ! わたしのものなんだ! (からからと笑う)ああどうしたことだ、皆さん、桜の園がわたしのものだなんて! 言いたいなら言うがいい、わたしが酔っているとでも、気が変だとでも、夢を見てるんだとでも……(足を踏み鳴らす)…おおい、楽隊、やってくれ、おれが聴いてやるぞ! みんな来て見物するがいい、このエルモライ・ロパーヒンが桜の園に斧をくらわせるんだ、木がばたばた地面へ倒れるんだ! ……楽隊、やってくれ!

          (「「超」ジャンル」『「超」連句入門』東京文献センター・2000年 所収)