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2017年10月13日金曜日

超不思議な短詩239[野口る理]/柳本々々


  チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

前にも書いたが、俳句とは、世界のアクセスポイントをさぐる試みでもあるのではないかと思っていて、たとえば、

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

「おおかみ」と「蛍」のアクセス・ポイント、「本の山」が崩れる瞬間と「鮫」のアクセス・ポイントなどがこれまで名句として発見され引用されてきた。俳句は、ただ、アクセス・ポイントを、提出する。こういうアクセスが、そのときありました、ということを(あるいは、アクセスしてしまいました、ということを)。

関悦史さんにこんな句がある。

  内臓のひとつは夏の月にかかる  関悦史

ここでは「内臓」が「夏の月」にアクセスしている。「夏の月」という〈清潔〉そうなものに「内臓」が「かか」り、血みどろにしてゆく(海外ドラマ『ウォーキング・デッド』ではゾンビ避けのために登場人物が死体の内臓をぶらさげてあえて死臭を放ちながら歩くシーンがあった)。

冬の季語「おおかみ」に夏の季語「蛍」がアクセスし神話的な時間に、「本の山」の「くづれ」に「遠」い「海」の「鮫」がアクセスし可傷的瞬間に、「内臓」に「夏の月」がアクセスしプレーンなものが血みどろになるサブカルゾンビ的侵犯の時間に。

じゃあ、野口さんの句ではどうだろうか。

私はかつてもこの句を考えてみたことがあるのだが、「チャーリー・ブラウン」というマンガ・アニメの身体が、「巻き毛」という記号の線から実体を伴った「毛」を手に入れ、さらにその「毛」に「雪」がのることがこの句のアクセス・ポイントになっているのではないかと思う。

 マンガ・アニメのチャーリー・ブラウン(線の記号的身体)
   ↓
 巻き毛という毛をもったチャーリー・ブラウン(毛をもった実質的・脱キャラクター的身体)
   ↓
 雪がちゃんと毛のうえにのるような巻き毛をもったチャーリー・ブラウン(モノの身体としてのチャーリー・ブラウン)

雪が毛の上にのるということは、その毛はモノであり、いつかは抜けるということでもある。抜けるということは、このチャーリー・ブラウンの身体は、やがては、老いて、死んでゆくということでもある。この「幸せな雪」の「幸せ」とはそういう身体をもちながらも、それでも〈いま・ここ〉の時間を「幸せ」と感じることのできることをあらわしている。

だからここでのアクセスポイントは、チャーリー・ブラウンが〈老いる身体〉と出会ったというそのことにある。それでも、その〈老いる身体〉のうえに、「幸せな雪」がふり・つもった。その〈重み〉がこの句の生になっていると、おもう。

  チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気  野口る理


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩238[岡崎京子]/柳本々々


  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。  岡崎京子

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に寄せた文章のなかで小沢健二は次のように書いている。

  岡崎京子は『ヘルタースケルター』で、「みなさん」という言葉を使っている。マーケティングの会議/思考がとらえようとするのは、この「みなさん」の動向だ。
  ……
  でも、「みなさん」は、実は存在しない。
  「みなさん」は、実は数字だ。
  (小沢健二「「みなさん」の話は禁句」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

小沢健二は『ヘルタースケルター』に埋め込まれた「みなさん」と「あんた達」の差異について語る。「みなさん」に取り巻かれた主人公のりりこ。表の「みなさん」と裏の「あんた達」の二重構造的環境にとりまかれるりりこ。

ここで興味深いなと思うのが、岡崎京子マンガが喚起してくる全体性である。岡崎京子は、冒頭に掲げたように「たった一人の」「女の子のことを書こうと思っている」と述べるのに、そして実際それは納得できるはずなのに、岡崎マンガでは、その「一人」が〈全体的ななにか〉を立ち上げていく。それは「女の子」を取り巻く全体的な「みなさん」や「あんた達」かもしれないし、「一人の女の子」が「全体」(終末感と奇妙な明るさが同居した80年代)の「女の子」を代表してしまう。「一人」が「全体」に結びついていってしまう風景を岡崎マンガは描いていたのではないか。

冒頭の引用部分は『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』の「ノート(ある日の)」からだが、こんな続きがある。

  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ちかた。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
  どこの街、どこの時間、誰だって。
  近頃の落ちかた。
  そういうものを。
  (岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』)

「一人の女の子」の風景は、「別のありかたとして全て同じ私たち」につながっていく。それはもう女の子/女性/男の差異もない「全て同じ私たちの」風景である。

『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』には穂村弘さんの短歌が寄せられているが、やはり、〈全体〉を想起させる短歌になっている。

  長い夢から覚めたら世界がなんか変 タクシーの基本料金がちがう  穂村弘

  「商社ってシステムでかいから一度海老に決まると一生海老だ」  〃


  真っ青な目に僕たちを入れたまま台風はゆっくりとウインク  〃

  「目玉焼き、かたさどのくらい?」と問いかける誰かの声が永遠になる  〃

  「気をつけて一OLのあやまちは全OLのあやまちだから」  〃
  (「インターフォンにありんこがいる」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

夢から覚めると「世界」が変わり、「システム」は「海老」が「海老」で一生ありつづけることを決め、「台風」の「真っ青な目」のなかに「僕たち」はいて、「誰かの」なにげない「声が永遠にな」り、「一OLのあやまちは全OLのあやまち」になる〈世界〉。

  そうよ あたしはあたしがつくったのよ
  (岡崎京子『ヘルタースケルター』)

〈ひとり〉の「あたし」の世界は、〈ぜんぶ〉の「あたし」の世界に結びついてゆく。

  日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さについて行ってみよう。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている」と書き出した文章で岡崎京子は「日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さ」について書き始めている。岡崎マンガでは、絶望的に、ひとりの女の子とぜんぶの女の子が結びついてゆく。それは、時間さえも、超えて、だ。

  あなたが これから 向かうところは わたし達が やってきたところ
  (岡崎京子『チワワちゃん』)


          (『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』平凡社・2015年 所収)

超不思議な短詩237[高山れおな]/柳本々々


  ムーミンはムーミン谷に住んでいる  高山れおな

「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」というのはほんとうにそのままであるのだが、しかし、誰かが・どこかに・住んでいる、ということ、誰かが・どこかにいざるをえないということとは、そのことを句にするだけで意味生成の現場になることがある。地政学的感性、と言ったら大げさかもしれないが、だれが・どこに回収されてゆくのかということ。

  無能無害の僕らはみんな年鑑に  高山れおな

「ムーミン」は「ムーミン谷」に〈回収〉されたが、「無能無害の僕らはみんな年鑑に」〈回収〉されてゆく。こうした回収の差異のありかたによって、「ムーミン」が「ムーミン谷」に回収されるというあり方もほんとうに〈そのまま〉であるのかどうかという〈偏差〉が出てくる(ムーミンは俳句にも住み込んでしまっているわけだし)。

この〈回収〉という枠組みでれおなさんの俳句をみてみると、たとえば、

  麿、変?  高山れおな

の句は、「麿」が「変」に回収されるかいなかの瀬戸際というか臨界そのものを描いている句にもみえる。「変」に回収されるかもしれないし、「変」に回収されないかもしれないそのぎりぎりのところを切り詰めた言葉で、それしかいわないようにして、描いている。

こうした〈回収〉への意識は、〈回収〉しえないものたちも呼んでくる。

  げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も  高山れおな

の、「あそび」としての「げんぱつ」は、「ムーミン谷」にも「年鑑」にも「変」にも〈回収〉しきれない「あそび」としての揺れ動きや余剰のなかで存在しつづける。

  踊る嫁が君(マウス)よ、私が私で、明るすぎる  高山れおな

「踊る嫁が君(マウス)」という揺れ動く〈あなた〉に対して、「私が私で」と即座に「私」を「私」に回収させる「私」。その対立が「明るすぎる」空間としてスパークする。

こうした回収不能性と回収可能性の対立のダイナミックスのなかに「ムーミンはムーミン谷に住んでいる」という句が置かれることによって、回収可能性としてのムーミン句は、実は、回収不能性としての意識も孕んだ句、回収不能性と関係しつづける句だということもみえてくるのではないだろうか。

ムーミンはムーミン谷に住んでいる、という言説ほど質素で過激なものはないかもしれない。

  虚空より紫蘇揉み出すは寂しけれ  高山れおな


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

超不思議な短詩236[星野源]/柳本々々


   夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ  星野源

最近星野源の「恋」の歌詞「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ」について考えていて、これは漱石『門』の、

  宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。
  (漱石『門』)

や、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

などの〈夫婦〉というユニットをめぐる小説や句と通底しあっている歌なのではないかと思った。

夫婦を考えるときに問題となるのは、夫婦を夫婦として意識しはじめたときに2人のあいだで逸脱してきてしまう〈なにか〉である。でもその〈なにか〉は〈なにか〉の余剰としてしか感じ取れず、〈なにか〉のままで置くしかないのだが、星野源の歌詞にも語られているように、「夫婦」を考えたとき、「夫婦」とは、「2人」とは、「1人」とは、というカテゴリーをめぐる問いが生まれてくる。

星野源も漱石も池田澄子さんもいったん〈夫婦〉というカテゴリーに沿いながら、その夫婦というユニットのカテゴリーをたどっているうちに越え出ようとしているところに特徴がある。星野源の歌の「似た顔や虚構」と言った第三者が夫婦幻想に介入してくるのも、星野・漱石・澄子に共通するところだ。夫婦は夫婦で簡潔しない。池田さんの句にあるように「他人」という第三項の問題がかかわってくる。

たとえばこの池田さんの句を漱石『門』になぞらえるなら、

  屠蘇散や夫は他人(の安井がいるから)なので好き

ということになる。

  二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。
  (漱石『門』)

は、逆にどれだけ安井を夫婦が意識しているかを〈逆語り〉している。安井から駆け落ちするように逃げるように2人になった2人。私は星野源の恋ダンスをほんとうは漱石『門』の野中夫婦に踊って貰いたいなあと思ったりもする。例えば野中宗助が、野中御米が、恋ダンスを踊りながら「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ」の部分でなにを思うのか。いや夫婦というユニットを考え続けた漱石に恋ダンス踊ってもらいたい。

夫婦であるということは、夫婦というカテゴリーを考えると同時に、2人であるとはどういうことかを考えると同時に、1人であるとはどういうことかを同時に考えることでもある。そして時々たぶん私たちはその夫婦という、2人という、1人というカテゴリーを〈恋〉によって(なんとなく)超えてしまう。

星野源の歌でも「似た顔や虚構」という〈脅威〉が迫っているように漱石『門』でも「安井」という夫婦存在を脅かす「似た顔や虚構」が現れる(宗助は脅えるがその安井がどの安井なのか作品では結局明らかにならないぶん、宗助は「似た顔や虚構」に怯え続けることになる)。

  そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
  (漱石『門』)

宗助は最終的に、じぶんの存在の根っこと、妻と、妻のかつての夫婦となろうとした相手に、おびやかされることになる。つまり、夫婦で今じぶんがたまたまいることの可能性、夫婦がこわれることの可能性、夫婦でなかったことの可能性、のみっつのねじれ≒夫婦ループのなかにはいりこんでゆく。

夫婦というユニットの静かな危機と崩壊を描き続けてきたのが劇作家の岩松了で、『水の戯れ』や『テレビ・デイズ』でなんとなく・しずかに・はげしく・こわれていく夫婦を描いている。

  夫 でもキミは、その前、自分だけの問題じゃない。ふたりの問題だって言ったよ。
  妻 問題なんて言わないわ。生活だって言ったのよ。
  夫 ……。
  妻 ……。
  夫 生活って?
  妻 ……。
  夫 ……。
  妻 生活よ……。
  (岩松了『テレビ・デイズ』)

『水の戯れ』では、もう「結婚」しているのに、「ちゃんと結婚してないような気がする」と夫の春樹が言い始める。しかし、「ちゃんと結婚」するとはどういうことなのか。夫婦に「ちゃんと」を持ち込みはじめたとき、その夫婦は、どうなるのか。夫婦を、2人を、1人を、ひとは、どうやって、越えられるのだろうか。恋ダンスのねじれるようなダンスは、その答えがアクロバティックにしか見いだせないことをあらわしているかもしれない。

ちゃんと2人になりたい、ちゃんと2人でいたい、ってどういうことなんだろう。おおくの〈2人〉がといかけていること。

  春樹 ちゃんと結婚したい……
  明子 え?
  春樹 ちゃんと結婚したい。
  明子 どういうこと?
  春樹 ちゃんと結婚してないような気がする……。
  (岩松了『水の戯れ』)


          (「恋」・2016年 所収)

2017年10月6日金曜日

超不思議な短詩235[オクタビオ・パス]/柳本々々


  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。  オクタビオ・パス

今年の夏に青森の川柳ステーションに呼ばれたときに、ある方から連歌(連句)に誘っていただいてそれからずっと今も続けている。

オクタビオ・パスの『RENGA』序文のことばは、連歌の性質をよく、わかりやすく、あらわしていると思うので、引用してみよう(私は大学の頃、パスの「波と暮らして」という運命の波と浜辺で出会い、波と同棲し、波と添い寝し、波と破局する超現実的な短篇が大好きだったが、まさかまた別のかたちでパスと巡り会うとは思わなかった)。

  しばしば、連歌は日本人に対し、自分自身から脱出する可能性、孤立した個人の無名性から、交換と承認が形づくる円環へと転じる可能性を提供したのではないかと思われる。これは階級制度の重圧から自己を解き放つ一つの方法だった。連歌は礼儀作法に匹敵するような厳格な規則にしばられてはいるものの、その目的は個人の自発性を抑え付けることではなく、反対に、各人の才能が、他人にも自分自身にも害を及ぼすことなく発揮されるような自由な空間を開くことにあった。
 (オクタビオ・パス『RENGA』序文)

連歌(連句)をやってみて体感的にすごくよくわかったのが、俳句とは発句だというのが実感として理解できたということだ。わたしはずっとこの発句というのはいまいちよくわからなかった。連句のはじまり、出「発」としての発句は、はじまりだからきちんとしていかなければならない。だから、切れや季語によってきちんとする。それでいて、はじまりなのだから、これからの長い旅への挨拶になっていなければならない。これは小澤實さんがよく書かれている俳句は「挨拶の文芸」とも通じ合う。

「挨拶」がつねに誰かに向けてなされるものであるように、発句という一句屹立するものでありながら、次に続くひとのことを考えるのも連句である。これをパスは「交換と承認が形づくる円環」というふうに表現している。

「交換と承認」のサークルのなかで、じぶんがどこまで個性を発揮していいのか考えながら、じぶんの出力のバランスをかんがえながら、同時に、これまで続いてきた句を、いま、じぶんがつくる句にどのように入力していくかのバランスも考えながら続けていく連句。

小池正博さんがかつて書いていたように、連句は後戻りすることはできない。前へ前へ〈それでも〉進んでゆく勇気が、連句である。

だから、あまりにネガティヴになると、だんだん連句の座が暗いムードになっていくので、捌きというリーダーのひとから、やぎもとさん、ちょっと暗いです、暗すぎます、と注意を受けるのだが、ああわたしって暗いんだなあ、と連句をやってはじめてわかった(それまでは明るい人間だと思っていたのだ)。ただし実はこれは現代川柳そのものがわりと暗い色調をもっているからなのではないかとあとでうつむきながら考えたりもした。

浅沼璞さんの本を読んでいて知ったのだが、小津安二郎も連句をよくやっていたらしい。たしかに、自分の個性の入出力のバランスをとりながら、ぽんぽん会話しながら、なにがあってもそれでも前へ前へと進んでいく小津安二郎映画の風景は、連句の風景によく合うように、おもう。

いや、そもそも連句は、小津安二郎が言うように、映画的、なのだ。

  ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。
 (小津安二郎『キネマ旬報』1947年4月)

         (「受け継ぐこと、紡ぐこと」『リアル・アノニマスデザイン-ネットワーク時代の建築・デザイン・メディア』学芸出版社・2013年 所収)

超不思議な短詩234[福田若之]/柳本々々


  春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之

ときどき、俳句のなかのアクセス不能、というものについて考えている。いや、というよりも、この福田さんの句をはじめてみたときに、俳句にはアクセス不能というテーマがあるように知ったのかもしれない。

当たり前のことだけれど、俳句とは、季語を通して・季節にアクセスする文芸である。季語や『歳時記』というメディアを通して季節にアクセスする。そのためのパスワードは季語そのものである。

ところがこの句では「春」を感触しながらも、アクセスするための「パスワードが違う」ために、「すぐそこ」の「春」にアクセスできない。感触しながら、触知できない。

たとえばこんな句と比較して考えてみよう。

  おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

「おおかみ」(冬の季語)と「螢」(夏の季語)がアクセスしてしまう神話的な時間がここにはある。超アクセスの句である(アクセス過剰の力といったらいいか)。

でも福田さんの句は「春」というすごくシンプルな季節にたどりつけない。金子さんの句が季語を使えばそれがパスワードそのものになったようにはできていない。季語はいつかパスワードとしては失効しはじめ、〈別のパスワード〉が必要になっている。春も、季語も、アクセスも、この句では遅延している。

  ながれぼしそれをながびかせることば  福田若之

アクセス不能とは「ながびかせる」遅延として言い換えることもできるかもしれない。「春」はやがてはアクセスできるかもしれない。「すぐそこ」まで来ていることは感触できているんだから。でも、触知はできない。「それをながびかせることば」にわたしたちは「まかれて」包囲されているので。

  なんという霧にまかれていて思う  福田若之

もちろん、アクセスできたとしてもこんどはアクセスそのものも疑う必要がある。

  騙されながら風船に手を伸ばす  福田若之

さきほども言ったようにアクセス自体も遅延しつづけるからだ。

季語は世界にアクセスするためのパスワードだったはずなのに、俳句の現在においてはそのパスワードが失効しはじめている。という事態が、俳句そのもので、失効し、遅延しながら、それそのものが俳句化しながら、かんがえられている。「どこか」にたしかな「ねじ」が落ちていることは、わかる。

  夜景どこかにつめたいねじが落ちている  福田若之

わかるのだけれど、でもそれはどうすれば到達できるのだろう。「どこか」は、どこまでも、「どこか」でしかない。おおきな、とても、おおきな不可能性が、ある。

  真っ白な息して君は今日も耳栓が抜けないと言う  福田若之


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年10月3日火曜日

超不思議な短詩233[シルバー川柳]/柳本々々


  寝てるのに起こされて飲む睡眠薬  シルバー川柳(瀬戸なおこ)

ある俳句の方が、俳句の認識における〈過入力〉の話をされていて面白いなと思ったことがある。

俳句は〈短い〉ので過剰な入力を施すことで、〈過剰な認識〉が形式化される。例えば雑に言えば、古池やカエルの飛び込む音が過剰に意識される。過剰に意識されるだけ、のことである。しかし、それが俳句になってしまう。俳句って、なんだろうか。

俳句が認識の過入力をほどこすのだとしたら、川柳は身体に対して過入力をほどこすのかもしれない。以前、詩性川柳とサラリーマン川柳の共通点は〈悪意〉だと述べたことがあるけれど、これは身体への悪意としての過入力時だということもできる(考えてみると、意地悪とは、過入力である)。

「寝てるのに」わざわざ「起こされて」(過入力)、「睡眠薬」を「飲」まされる(過入力)。シルバーの身体が過入力に遭い、それが悪意の形式化として詩になっている。川柳は、悪意と身体への過入力ではないか。

  紙おむつ地位も名誉も吸いとられ  シルバー川柳(厚木のかずちゃん)

「紙おむつ」というそれまでの人生にはなかった「過入力」が「地位も名誉も」剥ぎ取っていく。

  「君の名は?」老人会でも流行語   シルバー川柳(はだのさとこ)

新海誠の映画『君の名は。』の「流行」は、「老人会」に密輸され、「老人」たちの認知をめぐる〈過入力〉(=過出力)となっていく。シルバーな認知=脳をめぐる過剰。

浅沼璞さんとの往復書簡で私は俳句や川柳は〈人称の強度〉と関わりがあるのではないかと述べて、あとで自分でこれ宿題にしていかないといけないなあ、と思ったのだが(それは人称のグラデーションの比較的少なさでそう述べたのだが)、過剰入力や過剰出力のありかた、過剰認知や過剰身体というのは、俳句や川柳と関係しているかもしれないと、おもう。

俳句/川柳は、過剰であるという地平。

  付いて来い言った家内に付いていく  シルバー川柳(山本敦義)  

  

          (『シルバー川柳7』ポプラ社・2017年 所収)

2017年9月30日土曜日

超不思議な短詩232[伴風花]/柳本々々


  恋人じゃないきみからの『おやすみ!』はみているだけのお菓子のように  伴風花

伴風花さんの歌集『イチゴフェア』は、歌集のタイトルのとおり、さまざまな食べ物がレトリックとして出てくる。

きみから『おやすみ!』のメールをもらっても、「きみ」は「恋人じゃない」ので〈食べる〉わけにはいかない。でも、それは、どこかおいしそうで、甘いものだ。「みているだけのお菓子のよう」なきみの『おやすみ!』。この歌は、食べ物がお菓子として甘いレトリックとして働いているが、食べ物のレトリックが効果的なのは、さまざまな味覚を有するとともに、その味覚があたたかい・つめたいによってグラデーションのような変化をもつことだ。

  キッチンにわたし一人が生きていてラップのしたのカレー冷えてく  伴風花

ラップは「カレー」を「保存」するためのものだが、どうして「冷えてく」〈状態〉を語り手は「一人」でいま、感じているのだろう。それは〈待っている〉からだ。ここで「冷えてく」のは、もちろん「カレー」だけではない。待っているわたしの〈内面〉も「冷えてく」。

冷たい食べ物と言えば、こんな啄木の詩とあわせて読んでみたい歌もある。

  われは知る、テロリストの
  かなしき心を――
  言葉とおこなひとを分ちがたき
  ただひとつの心を、
  奪はれたる言葉のかはりに
  おこなひをもて語らむとする心を、
  われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
  しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

  はてしなき議論の後の
  冷めたるココアのひと匙を啜りて、
  そのうすにがき舌触りに、
  われは知る、テロリストの
  かなしき、かなしき心を。
  (石川啄木「ココアのひと匙」1911年)

  おとうとの頬にココアの湯気がふれ終わらせてきた夢こぼれだす  伴風花

啄木の詩では、言葉と行動を分けることのできないテロリストのかなしいほろ苦い心が〈冷たいココア〉と掛けられているのだが、伴さんの歌では「おとうと」の言葉と行動が一致し、「終わらせてきた」はずの「夢」が「こぼれだす」瞬間が〈温かいココア〉と重ねられる。

1911年の冷たいココアの記憶は、2004年の温かいココアとして反転して蘇る。1911年大逆事件検挙者処刑の時代から、2004年のイラクの日本人人質事件による「自己責任論」の時代へ。

「終わらせてきた夢」とココアが出会ったが、伴さんの歌集では学生時代を詠んだ短歌に食べ物がでてくる。

  売店で牛乳を買う 炭酸も髪のばすのも一緒にがまん  伴風花

  香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに  〃

野球部のマネージャーとして野球部員と「一緒にがまん」しながら飲むときの青春の時間をパックするような「牛乳」。数学の授業であらわれた数式に消費されるだけの「りんご」や「みかん」。でもその名もなく、口に入れられることもない「りんご」や「みかん」たちは短歌のなかでパックされたまま青春の「終わらせてきた夢」として保存される。

〈イチゴフェア〉という食べ物のレトリックに彩られるわたしたちの生は、ときおり、節目となるような食べ物に保存されながら、ずっと、続いてゆく。順に忘れられながら、それでも順に、歌い出されるのを待ちながら。

  やっといて、は三十個まで保存され順に忘れる(きみのを除き)  伴風花

  りんごはまるく
  でもそのまるさは
  オレンジのそれよりもしずかで
  にぎやかなオレンジにはにぎやかなオレンジの
  しずかなりんごにはしずかなりんごの
  一年がある
  それぞれの皮の内側に
  きっちりと閉じ込められて

  髪を切ったり
  冗談を言ったり
  旅にでたり
  風邪をひいたり
  して
  一匹の蚊にとってはSF的にながい一年を
  私たちはやすやすと生きる
  (江國香織「一年」『扉のかたちをした闇』)



          (「夜の銀杏」『イチゴフェア』風媒社・2004年 所収)

超不思議な短詩231[人体の構造と機能]/柳本々々


  心臓は胸部の中心、左右の肺の間にあり、成人の握りこぶし大の大きさである。また心臓は4弁・4室からなり、体循環から静脈血は右心房へ戻り、三尖弁と呼ばれる房室弁を通り右心室、肺動脈弁から肺へ。肺循環を終えた動脈血は左心房へ戻り、僧帽弁を通り左心室、大動脈弁から全身へと血流を維持するポンプとしての構造を持っている。  山本真千子

浅沼璞さんとの往復書簡の関係で、さいきん編集をしてくれている宮本佳世乃さんとお話する機会があり、そのなかで、斉藤斎藤さんの「のり弁」の歌の話が出た。佳世乃さんは「のり弁」の歌は、同連作内の「急ブレーキ音」や「医師」との応答などの歌とあわせて読むと「のり弁」の歌の読みが一首単位とは変わってくるという(佳世乃さんは医療の仕事に携わっているのでもともとそういう視野をもっているところもある)。今回の記事は佳世乃さんとの会話から想を得ている。

次回の璞さんとの往復書簡は、「三句の転じ」と言って、句が横にひろがっていくことで〈認知のし直し〉が行われていくという話題になる予定なのだが(『オルガン』11号に掲載予定)、こうした〈認知のし直し〉は連作においても行われているように思える。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤
  (「ちから、ちから」『渡辺のわたし』2004年)

この歌は、

  問い、「(これは)なんでしょう」←答、「のり弁」

とわたしの〈問いかけ〉がわたしの見たもの(認知)に〈答えられる〉構造になっているのだが、問題は、この「ぶちまけられて」の不穏な挿入である。いくら、「なんでしょう」の正体が「のり弁」だとわかってしまったとしても、その「ぶちまけられ」た〈事態〉、だれが・なんのために「ぶちまけ」たのか、ということには答えが出ない。ここにはふたつの位相がある。

 すごくよく見ればわかること。→のり弁だとわかった

 すごくよく見ても絶対に答えがでないこと。→だれが・なんのためにのり弁をぶちまけたのか。

つまりこの歌は、形而下の「ぶちまけられたのり弁」には答えが与えられながらも、形而上の「なんのためのぶちまけられたのり弁」には答えが与えられない構造になっている(ちょっとこれは連作のタイトル「ちから、ちから」の二重構造の〈ちから〉のあり方にも関わっているかもしれない。「(答えが与えられる)ちから、(答えが与えられない)ちから」。

〈縦〉としての一首だけでみるとこうした二層構造が出てくるのだが、〈横〉として連でみていくと、この「のり弁」の歌はまた違った質感が出てくる。

この連作「ちから、ちから」には詞書を手がかりにすれば〈二年前〉にこんな歌が置かれている。

  急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛  斉藤斎藤

  医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した  〃

「急ブレーキ音」。なにかの事故に関わるものだと思うが、ただその「事故」は「愛」に関わったものである(「愛」に関わるような大事なひとが事故にあっている)。そして「医師」が心臓マッサージをしているような場面。「冷静」で判断ができそうな「ぼく」を「見」る「医師」。〈もうそろそろ(やめてもいいです)〉と「医師」に〈答える〉「ぼく」。「ぼくが殺した」は、ぼくが心臓マッサージをやめさせた、「ぼくが(愛に関わるあなたを)殺した」に掛かってゆく。

連作には、こうした〈事故〉と、その〈事故〉によって起こる医師との〈受け答え〉が置かれている。

そのまま連作を読み進めてゆくと〈その後〉として「のり弁」の歌は置かれている。事故が起きて、医師に〈答え〉て、「ぼくが殺し」て、〈答え〉が出たのだけれど、でも、「のり弁」の「ぶちまけられて」には、〈答え〉が出ない。医師への応答もそうだし、のり弁の気づきもそうなのだが、〈答える〉ことは、〈答え〉ではない。

今度の往復書簡にも書いたのだが、例えば「のり弁」の歌の一首おいて後には次の歌が置かれている。

  ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように  斉藤斎藤

〈わたし〉を包んでいた景としての「雨」は、「あめ」として隠されるように〈わたし〉の口の中に包まれながら、〈わたし〉の口の「ちから」によって溶かされながら消えていく。「ややあほらしくなりますように」と、〈のり弁的問いかけ〉そのものが放棄されるような「あほ」的状態への願いが志向されるが、しかしそれは「あほらしく」という〈擬態(ふり)〉でしかなく、また「なりますように」という〈願い〉でしかない(ことも〈わたし〉にはわかっている)。「あほ」であることを志向しながらも、その「あほ」になれない〈わたし〉の気づき。「ぶちまけられて」から逃れようのない〈わたし〉。

「のり弁」が「のり弁」と書いてある限り「心臓」のメタファーであるとは言えないが、「のり弁」をめぐる〈問いかけ〉の二重構造は愛に関わるひととの事故と連なりながらこの連作のなかで通底しているように思う。

 医師との応答:〈わたし〉が答えてしまうこと。〈わたし〉答えがきっちり享受されること。

 のり弁の問答:〈わたし〉の答えがわかること。しかしわかっただけでは出てこない〈わたし〉の問いかけに気づくこと。

 あめをめぐる問いの放棄:〈わたし〉の問いかけや答えを放棄しようとする願い。しかしその願いがどこまでいっても〈ふり〉でしかなく、放棄できない問いかけでもあることに気づいてしまうこと。

答えられることと答えられないこと、問いかけを放棄しようとすることと、問いかけを放棄しきれないこと。そうした〈わたし〉の「ゆきつもどりつ」をめぐって「のり弁」の歌がある。

「心臓」は「ひとりにひとつづつ」しかないのに、わたしたちが生きると、どうしてもそれだけでは割り切れない、「ぶちまけられて」に向き合うしかない生の様相が生まれてくる。横へ、横へ、生きるにつれて、わたしたちに、わたしたちから、わたしたちへの問い直しが、生まれてくる。

  桜餅ひとりにひとつづつ心臓  宮本佳世乃
   (『鳥飛ぶ仕組み』)


          (「心臓と血管」『人体の構造と機能』放送大学教育振興会・2005年 所収)

2017年9月29日金曜日

超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々


  身も世もなく恋をした果ての結婚も
  なんとなくなりゆきで
  気がついたらしていた結婚も結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに  江國香織「世界じゅうに結婚が」

江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。

  あの路地にもこのビルにも
  結婚したひとたちが住んでいて
  あの電車にもこのバスにも
  結婚したひとたちが乗っていて
  あの花屋でもこの八百屋でも
  結婚したひとたちが働いている

  続いていくそれも
  破綻するそれも
  みずみずしいそれも
  かさかさのそれも
  饒舌なそれも
  寡黙なそれも
  結婚は結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに
  (江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)

この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。

ただ、それを、びっくりしている。

〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。

「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。

「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。

江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。

こんな詩をみてみよう。

  よく知らない男の人と
  寝るときには緊張します
  と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
  最初のときには
  誰だってよくは知らない男の人です
  すこしずつなじみ
  いとしんだりいとしまれたり
  あふれたりあふれさせたり
  して
  やがて
  よく知っている男の人と
  安心して寝られるようになります
  (江國香織「よく知らない男のひと」同上)

ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。

  けれど
  でも
  よく知っている男の人とのあれこれはみんな
  おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
  記憶のなかでしたたかに微笑み
  私を誘(いざ)ない
  焦がれさせるのは
  もうどこにもいない
  よく知らない男の人
  だったりします
  (江國香織、同上)

「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。

語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。

  けさ
  めがさめて
  さいしょに
  たこを一匹
  まるごと茹でて
  たべたいと
  おもった
  (江國香織「一月の朝」同上)

「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。

だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。

  そして私は
  二月の音楽にとじこめられる
  ミートソースの具体的な匂いまで

  私はなぜまだここにいるのだろう
  ひとりで この世に
  この部屋のなかに
  (江國香織「二月の音楽」同上)


          (「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)

2017年9月24日日曜日

超不思議な短詩229[京極夏彦]/柳本々々


  せをはやみ岩にせかるゝ瀧川の、思ふ男はーーおまへならでは。  京極夏彦

京極堂シリーズには、カバーの折った部分(前袖)に、かならずその物語全体にかかわるエピグラフがかかげてあるのだが、『絡新婦の理』のエピグラフが冒頭の歌である。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院

という百人一首からとられているエピグラフなのだが、この「おまへならでは。」というのは私はずっと京極夏彦のオリジナルだと思っていたのだけれど、そうではなくて、鶴屋南北『四谷怪談』には「夢の場」と呼ばれる夢の中の場面があって、そのなかのこんな伊右衛門とお岩のやりとりから取られていることが最近わかった。

  お岩 スリヤあのあなたの御家名は、民谷様と申しまするか
  伊右 いかにも民谷。シテ、そなたの名は、なんと言ふぞ
  お岩 アイ、わたしがその名は。…
     すなはちこれが、わたくしが
      ト差し出す。伊右衛門、取つてこの歌を見て
  伊右 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、瀬をはやみ、岩にかるゝ滝川の
  お岩 われても末に、逢はんとぞ思ふ。○(間) われても末に
      ト伊右衛門が顔をじつと見て
     逢うてたまはれ民谷様
  伊右 ヤ、さう言ふそなたは、家出しやった
  お岩 岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは
      ト膝にもたれて、思ひ入れ
  (「後日中幕」『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』新潮社、1981年)

もともと崇徳院の歌は、川の流れが岩でふたつに割れたとしても、また終いにはそのふたつの流れは必ず出会うことになる、という別れた男女の再会という〈恋歌〉になっているのだが、お岩はその恋人の再会の歌の「岩」を「岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは」と自身の名前と掛けながら民谷伊右衛門に「思ふ男はおまへならでは(わたしの想う男のひとはあなたでなくてはならない)」と言う。川をせきとめる岩だったものが「岩」という名前になることで、すさまじく情念のこもったものにもなっている(つまり、彼女は誰かと誰かを引き剥がし別れさせる障害物にもなりうるような存在でもある)。

この百人一首と四谷怪談が複合した歌が、『絡新婦の理』のエピグラフになっている。「二人は別れてしまうけれど、やっぱりあなたではなくてはなりません」

じゃあ、『絡新婦の理』ってどういう物語だったんだろう。

京極夏彦の小説は〈レンガ本〉と言われるようにとても分厚く長大な物語(ミステリ)なのだが、この『絡新婦の理』というストーリーを私なりにこんなふうに短く要約してみたいと思う。

 システムに自覚的なあまり悲しい男が、システムに無自覚なあまり悲しい女に出会う物語。

ここで男とは京極堂であり、女とはこの事件の本当の犯罪者(絡新婦=じょろうぐも)のことである。どちらもシステムをめぐる立場でありながら、自覚/無自覚というちがいをとおして、ふたりは〈おまえではなくてはならない〉ような人間(おまえ)に出会う。

  「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理(ことわり)から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を常に括弧(かっこ)に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識(し)っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」
  「あ、貴方はーー」
  「《僕の悲しみ》はそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだーー」
  男は女に向き直る。
  女は戦(おのの)く。しかしたじろぐことはしない。
  男は隈取(くまどり)のある凶悪な眼で女を見据える。
  「ーーこれで漸く解りました。あなたは《あなたが発動した計画がどのような理に則って動く》のか、全く理解していなかったのですねーー」

  「ーーだからあなたは《止められなかった》んだ」
  (京極夏彦『絡新婦の理』)

京極堂/犯罪者双方ともシステムに関わる者としては二人はおなじ種類の人間である。二人ともシステムを産み出す側の人間だ(ちなみによく探偵と犯罪者は一心同体ではないかと言われることがある。事件解決とは事件を忠実にたどり直すことに他ならないから探偵は犯罪者の立場になることができる人間なのだ)。

ただ京極堂はシステムを産み出す(解決する/説明する)ときにそれを自覚している。ほんとうはやりたくないことなのだとも思っている。じぶんができることなんてなにもない。ただシステムを言葉にして可視化するだけだ。そんなことは実は意味がない。なんの生産にもならない。出来事の速度を、結果をはやめるだけだ。それになんの意味があるのか。だから彼はかなしい。この世の中に《不思議なことはなにもない》のだから放置しておけばいい。なるようになる。でも彼はひっぱりだされ、システムを言語化=可視化するよう要請=強制させられ、そのことによって、時間を、時間の流れを、出来事の流れをはやめ、出会うべくして出会うべきだった不幸なものたちを不幸なかたちで出会わせることに《たずさわる》。ネガティヴな「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を京極堂は雑司ヶ谷の産院の事件から、ずっと行っているし、行わされている。

でも『絡新婦の理』の犯罪者には、そのシステムの理(ことわり)が自覚できていなかった。彼女にとっての「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、いつも、偶発的なかたちで(彼女の思いがけないかたちで)起こった。京極堂にとっては必然的な「瀬をはやみ~」は、彼女にとっては偶発的な「瀬をはやみ~」だったのだ(そしてたぶんそのことさえをも自覚してしまうこと、できてしまうことをも京極堂は悲しがっている)。

『絡新婦の理』はフェミニズムをめぐる長大な物語なのだけれど、シンプルにまとめるならば、こうしたシステムの認識の違う男女が《出会う》物語としてみることができる。そして、その意味で、実は、『絡新婦の理』の最大の事件は、この男女がすれ違いつつも《出会(ってしま)う》ことにある。

犯罪者である彼女にとって、この《違い》を教えてくれるのは、たぶん、京極堂しかいなかった。その意味で彼女にとって「おまへならでは」は京極堂である。そして京極堂にとって彼女にそれを教えてやれるのは自分しかいなかった。悲しいことだけれど京極堂にとってまた彼女も「おまへならでは」だった。

フェミニズムが、男女の出会いを演じながらも、その違いを、《男女の出会いの失敗》を、析出する思想であるならば、まさしく本書は〈フェミニズム〉をめぐる物語である。『絡新婦の理』では、男女の出会いが、男女の出会いの失敗が、出会いの失敗のあきらめが、しかしその失敗からのかすかな新しい希望が、描かれる。

この長大な物語の最初と最後は同じセリフであり、ループのような構造になっている。この京極堂の一言で『絡新婦の理』は、始まり・終わる。

  「あなたがーー蜘蛛だったのですね」

つまり、この物語は、男女が出会い、男が女に「蜘蛛」としての、複雑に交錯=交雑するシステム(蜘蛛の巣)の中央に君臨する者としての、アイデンティティを付与する物語だということができる。

だけれども、それは決して男が女に名付けを与える類のマスキュリンな、マッチョな物語ではない(男から女への「感情教育」の物語ではない)。なぜなら、男は、京極堂は、そうせざるをえないことを自覚し、悲しんでいるから。

つまり、はじめから、どの事件でもそうなのだが、京極堂は負けを自覚してやっている。負けを自覚はしているが、しかし京極堂の悲しみは、負けを自覚することではなく、他者に関わりながら・なにもできないことの〈自覚〉にある。それを〈負け〉というなら〈負け〉だが、『邪魅の雫』で超越的探偵の榎木津礼二郎が言ったように、大事なことは「勝ち負け」でも「善し悪し」でもない。他者に今関わっている自分を「逢いたかった」とか「久し振り」とか「こんにちは」と〈関わり〉として自覚することなのだ。

  「え?」
  「馬鹿野郎と云った。君はーー本当に馬鹿だ」
  「わ、私は、だって」
  「逢いたかったとか、久し振りとか、せめてこんにちはとかーーそう云うことを云うものだろう」
  「だってーーそんな、私は」
  「勝ち負けじゃないぞ」
  「勝ちーー負け?」
  「善し悪しでもない」
  どう云うーー意味?
  「解らないようだな」
  「え、榎木津君ーー」
  「もう遅い」
  (京極夏彦『邪魅の雫』)  

他者にいま自分が関わりながら同時になにかをしてあげることの限界を自覚することの認識。探偵にあって、犯罪者にないものは、それだ。犯罪者はいつもそれに《気づく》ことの「遅さ」を抱えこんでいる。

『絡新婦の理』はそうした意味で、京極堂シリーズにおける京極堂の〈悲しい認識〉、ひいてはすべての探偵たちの〈悲しい認識〉を位置づける物語になっている。

探偵たちは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に」、幾つもの事件を通して、世界の中心にいようと《試みた》「おまへならでは」に出会う。

探偵たちは、数限りない事件と再会をとおして、犯罪者たちに告げる。この世界には中心なんてないのだ、と。

  それは幻想(まやかし)だ。
  大いなる錯誤だ。
  己と世界は同等だとーー。
  或いは己こそが世界だとーー。
  或いは己が世界の中心に居るとーー。
  何(いず)れも間違っている。
  あの奇妙な男が教えてくれたことだ。
  …世界の構成要素であることと、世界そのものであることは、同義ではない。
  そしてーー世界に中心などない。
  (京極夏彦『邪魅の雫』)


          (『絡新婦の理』講談社・1996年 所収)

*システムの網の目とその中心にいるものの話をしたが、歴史的に考えてみると、『絡新婦の理』は1996年刊行であり、1995年がインターネット普及の年だったことを思い出してもいいかもしれない(1996年はヤフー創業年)。つまり、わたしたちが蜘蛛の巣状のネットワークのセカイの中心になりはじめたときなのである。1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話タイトルは「セカイの中心でアイを叫んだけもの」だった。ちなみに『邪魅の雫』はセカイ系がテーマの事件になっている。

2017年9月23日土曜日

超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々


  ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび  ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」

現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。

  『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。

  バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
  (同上)

意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。

こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。

『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。

90年代後半の歌になるが

  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける  荻原裕幸
  (『デジタル・ビスケット』)

「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。

あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。

92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、

  だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ  荻原裕幸

などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。

こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。

ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。

だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。

日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。

  春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒  荻原裕幸


          (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)

2017年9月21日木曜日

超不思議な短詩227[レイモンド・カーヴァー]/柳本々々


  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。  村上春樹

村上春樹はレイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」についてこんな解説を書いている。

  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。……すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破綻している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには《救済があってもよかったのだ》。
  (村上春樹「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』)

真夜中、夫婦は、事故で死んだ子どもの腹いせをするかのようにパン屋に押しかける。でも、夫婦は《ほんとうに思いがけなく》その場で・そのとき、パン屋とパンを通して、非言語的に和解する。なんて言ったらいいか誰にもわからないような啓示的な瞬間が訪れる(「大聖堂」や「ぼくが電話をかけている場所」や「ダンスしないか?」なども同じ構造をとっている)。

以前に、カーヴァーと鴇田さんとの親近感のようなものを書いたのだけれど、わたしが気になっている句にこんな句がある。

  うすぐらいバスは鯨を食べにゆく  鴇田智哉
    (『凧と円柱』)

最近、この句について考えていたときに、ふっとまた思い出したのが、カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」だった。いったい、なにが、親近しているのだろう。

トークのときに鴇田さんが話されていたのを聞いたのだが、たしかこの鯨の句は、〈吟行句〉だったと思う。たしかに、バスってうすぐらいときがあるし、バスに乗って鯨を食べにゆくような経験をすることがひとにはあるとおもう。〈そのまま〉読もうと思えば、〈そのまま〉読める句である。

カーヴァーの短編も同じで、なにかが起こっているのだが、しかしなにか超常現象のようなことが起こるわけではない。SF的なことが起こるわけでもない。ただパン屋はあたたかいパンを真夜中にこどもを亡くし怒っている夫婦に提供しただけで、怒り心頭の夫婦はそのあたたかい糖蜜たっぷりのパンをもくもく食べただけだ。

だから、なにも起こっていないのだが、なにかが起こっているようにも思える。

なんでか、あえて、かんがえてみたい。

たとえば、カーヴァーの小説でいえば、パン屋は〈世界の果て〉と等価になっている。そこは、ふつうのひといとってはただのパン屋だが、夫婦はパン屋にとっては世界のぎりぎりの果てである。だからこの世界の果てで命を養うということが神秘的な意味をもつことになる。まるで世界がむしゃむしゃパンを食べ、世界自体が栄養補給し回復の途上にあるような感覚になるのだ。それが、啓示として感じられるのではないか。パン屋という部分で世界という全体をあらわすこと。それを提喩的、といってもいいかもしれない(提喩とは、皿が食べ物をあらわすといった、部分が全体をあらわすたとえ)。

鴇田さんの句をみてみよう。「うすぐらいバス(に乗ってわれわれ)は鯨(料理)を食べにゆく」という意味なのだが、定型で省略されることによって、「うすぐらいバス」自体が生命をもちあたかも「鯨」をまるごと食べにゆくようなダイナミックな構図になる。その「うすぐらいバス」は、カーヴァーのパン屋のような世界の縮図になっている。「うすぐらいバス」というバスが〈自然〉に還ってゆくようなミニマルな世界が、みずからのエネルギーを補給するかのように鯨をくらいにゆく。

そのまま読めばそのままなんだけれど、そのまま読むと省略された世界の縮図のようなものに関わってしまい、自分でも意識しないかたちで〈啓示〉にふれてしまうこと。そのようなことが、鴇田さんの句にもあるのではないだろうか。

世界の終わりの風景のなかの箱船としてのバス・その世界と等価としての〈聖書物語〉的な鯨・食べる、という根源的行為。でも、そのまま読めば、そこには、なんにもない風景。なんにもないけれど、すべてがあること。

  彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
  (レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』)

  ここは何処だらうか海苔が干してある  鴇田智哉

          (「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』中央公論社・1989年 所収)

2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月19日火曜日

超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

  そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)



2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々


  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火  井上法子

短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。

  わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら  石川不二子

「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。

短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。

茹でる、だが、こんな歌もある。

  十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子

「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。

  長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
  (川上弘美『椰子・椰子』)
  
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。

そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。

  ことばにはならないものが茹で上がる  佐藤幸子

料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。

それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。

ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。

井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。

「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。

主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。

つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。

火が、外から、やってくる。

  夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋  井上法子


          (『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2017年9月16日土曜日

超不思議な短詩220[攝津幸彦]/柳本々々


  三島忌の帽子の中のうどんかな  攝津幸彦

前回、『MOTHER』と俳句をめぐる話だったのだが、『MOTHER』というゲームは最終的に〈赤ん坊(のときの記憶〉と出会うゲームであり、その意味で、大人の分節をどんどんなくして、どろどろの世界に還っていくゲームでもあった(例えば『MOTHER2』のラスボスはもはや輪郭をなしていない。苦悶の表情のような、胎児の姿のような、連続し、流動する背景そのものが、ラスボスだった)。

だから『MOTHER』は、みずからが〈母親〉になりながら、意味や分節や価値観がわたしとあなたが生まれる前の未生の世界へ、赤ちゃんの世界を探求する、遡行・退行・去勢の物語と言うこともできるかもしれない。

そこでちょっと意外なのだが、この『MOTHER』的世界に俳句からアクセスしていたのだが、攝津幸彦だったのではないかと、おもう(ゲーム『MOTHER』と攝津幸彦を組み合わせると異色すぎて怒るひともいるかもしれないが、しかし、ゲーム『MOTHER』では豊富な映画史的記憶の引用がなされており、映画を一年で300本以上観ていたという映画史的記憶と共にあった攝津幸彦と共通点がないわけではない)。

攝津幸彦の俳句に出会ったとき、まず抱くのは、不可解さ、ではないかと思うのだが、しかしそれは『MOTHER』で主人公たちが最終的に赤ちゃん化してゆくラスボスに出会ったような、どこか不可解でありながらもわかってしまうかんじ、身体の奥のほうでじぶんがいつか歩いてきた道、にも通じているのではないか。攝津幸彦は句集『鳥屋』のあとがきでこんなふうに書いている。

  どうやらぼくの意識下には、幼時すでに表現されてしまっている確固とした世界があり、その世界が、ある時、記憶の光を通じて外部の風景に触発されるや、自然とそこに一句が成立してしまうのだと、しばしば思ってみることがある。
  幼時の表現世界は、きまってフリーキーでしかも暴力的であり美しい全うな世界に対していつも挑発的であるのだが、時折、俳句形式に遭遇することにより、別の世界の貌をして小さな安息を求めているのかも知れない。
 (攝津幸彦『俳句幻景』)

なんだかとても奇妙な話なのだが、『MOTHER』のゲーム世界を攝津幸彦に解説されているような気になってくる(ちなみにこの「あとがき」が書かれた句集『鳥屋』は1986``年に刊行されており、1989年発売の『MOTHER』とほぼ同じ時期にある)。

この攝津幸彦にとっての「幼時の表現世界」というのは、言ってみれば、〈未分節性〉へ立ち返るということではないのかと思う。大人の分節をこわせば、当然そこには、暴力性や挑発性、フリーキー、不可解さがあらわれてくる。

たとえば掲句の「帽子の中のうどん」だが、「帽子の中のうどん」を率直にいえば、〈取り返しがつかない〉ということだ。もし帽子の中にうどんを入れたら、帽子とうどんの分節は消え、分離しがたくなってくる。帽子は帽子の機能をやめ、うどんはうどんの機能をやめ、帽子うどんのような奇怪な意味分節があらわれてくる(いちごとうふ)。

これは攝津幸彦の有名な句、

  階段を濡らして昼が来てゐたり  攝津幸彦

にも通底しているように思う。階段が濡れて、階段と液体の分節がこわれるとき、そこに〈意味の昼〉がやってくる。それはどこかやはり不快でありながら、未分節が新しい分節をもたらす予感もある。

  口腔にわだかまりけり森の端  攝津幸彦

  浄土これ畳のへりにとろゝ汁  〃

口のなかにわだかまる「森の端」はやはり不快感がある。食べ物ではなく、それが「森」なのだから、根本的にこの口のなかの不快感は消えないのではないかというおそれもある(神話的不快感というか)。

畳のへりにとろゝ汁とやはり〈取り返しのつかない不快〉が描かれる(吉田戦車が描きそうな不快でもある。吉田戦車でも、言語や意味の未分節を探究することをギャグマンガとして昇華していた。ちなみに吉田戦車『伝染るんです。』は1989年からの連載。攝津幸彦、『MOTHER』、吉田戦車は同時期にいる)。

こうした未分節の風景を、不快感とともに、俳句にあらわすことが攝津幸彦の俳句にあるんじゃないかと思う。

  そう言えば、ぼくの句にたち現れる、人や毛物や花は、いずれも現実の地上にあるとするより、その身のいずこかに奇形を抱え込んだまま、遠い宙空を漂っているとした方がいっそう似つかわしいのではあるまいか。
  この遙かにしてなつかしい表現世界は、その奇形ゆえ久しく脳球の奥にとどまり、他者の理解をあらかじめ拒絶する在り方をしているのだが、ぼくにとっては逆にいつも新鮮で親しいものとして存在しているのだった。
  (攝津幸彦、同上)

他者を拒絶するものでありながら・いつも新鮮で親しいものとしてあらわれてくるもの。『MOTHER2』のラスボスであるギーグは、戦闘中、どんどん「奇形」になり「宙空を漂」いながら、こんなセリフを洩らしている。

  …カエレ…チガウ…チガウ…チガウ
  アーアーアー
  ……ウレシイ…
  …カナシイ…ネスサン。
  ……トモダチ…
   (『MOTHER2』)

  オギャーとは何の音ぞよ芋嵐  攝津幸彦

        (『俳句幻景』南風の会・1999年 所収)


 

2017年9月15日金曜日

超不思議な短詩219[糸井重里]/柳本々々


  フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。  糸井重里

名作RPGと言われる『MOTHER』をつくった糸井重里さんがインタビューのなかで『MOTHER』を俳句と関連づけながら語っている。『MOTHER』と俳句という取り合わせは意外だったのだが、しかし考え直してみると、『MOTHER』の説明過少な朴訥で〈無口〉な語り口には、たしかに俳句と通底しているところがある。

  セリフは、ひらがなで作りましたから。声に出して、そのまま耳に響く音として、自分で受け止め直して、反響させてみて「これは違うな」と思うなら消す。原稿書きのように、自分でひたすら推敲していました。だから、敢えて言うなら俳句ですよね。「古池や・蛙飛び込む・水の音」って俳句には「だからどうした?」ってリアクションをしたくなりますよね。古池があって、蛙が飛び込んだ? 水の音がしたんだ? それはどんな音だった? ポチャンと音がしたのか、しなかったのか。自分にマイクを突きつけられたような、コール&レスポンスがあると思うんですよ。
  (糸井重里『ゲームの流儀』)

また『MOTHER』と〈写生的認識〉のかかわり合いをめぐるこんな記述も見逃せない。

  糸井重里の作り出した劇中人物に「~じゃ!」というおじいさんは出てこなかった。ゲームシナリオに自然主義的写生文を持ち込んだわけで、決まり文句で構成する古典の手法は音楽同様に否定されている。
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

任天堂から『MOTHER』が発売されたのは1989年。プラットフォームとなるファミリーコンピュータ発売の1983年の6年後に発売された。この間には『スーパーマリオブラザーズ』や『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』など後々までそのブランドを維持していくゲームが発売されている。

糸井さんは俳句の「だからどうした?」性を『MOTHER』のなかに持ち込んだというが、そもそも過少な容量で広大な物語世界を表現するドットをベースにしたファミコンには、そもそもの「だからどうした?」性があった。

たとえば今でも『マリオメーカー』でプレイできる初代ファミコンマリオ。クリボーとはいったいなんなのか、なぜクリボーにふれただけで死ぬのか、死ぬといってもマリオはいったい画面外のどこにいくのか、マリオにとって命とはなんなのか、穴に落ちるとなぜ死ぬのか、穴に落ちて死んだのになぜ陽気な音楽がかかるのか、キノコを食べるとなぜ大きくなるのか、なぜキノコがブロックのなかにあるのか、キノピオは食われるキノコをどう見ているのか、花を食べて火を放つのはどういう仕組みなのか、なぜクッパは何体もいるのか(クリボーやノコノコがクッパに化けているから)、或いはなぜクッパはたびたび自ら出向いてくるのか、なぜクッパはマリオがぎりぎり自らのもとまでたどりつけるようコースをつくってあげたのか、ピーチとキノピオの関係はどうなっているのか、この国の〈種差〉のありかたは? ピーチ姫はさらわれている間何をして過ごし生きていたのか、食べ物や排泄はどうしていたのか、助けにいけないままだとどうなるのか、クッパはピーチをどうしたかったのか、なぜマリオはおじさんなのか。

これらはほとんど説明されることなく、プレイヤーはプレイのなかに投げ込まれていく。しかし大事なことはそうした不条理をドットという過少な表現が支えていてしまったことにあるように思う。こうしたゲームへ投げ出されながら、プレイしていくなかでリアリティを確保していく様子は、定型に投げ出されながらその定型のなかでリアリティを確保していくようすに似ている。とりあえず・やっていくこと、体験や経験のプレイがリアリティを支えていく。プレイ・リアリズム、というか。

その意味で、ゲームや定型詩のリアリズムとは、《すること》が《すること》を支えていくという同語反復的なゲーム・リアリズムに支えられているのかもしれない(だからゲームをプレイしたことのないひと、定型詩を詠まないひとにはわかりにくい。《プレイ》していないから)。

プレイすることに加えて、もうひとつ大切なのは、というより、糸井さんが強調したのは、足りない部分を補っていく想像力だ。足りないからこそ、補う。

『MOTHER』は、ただでさえ足りない情報量の世界を、テキストにまで俳句的足りなさをもちこむことで、さらに想像力をひきだした。

  たとえば『MOTHER』のキャラクターには、「お前は○○なのか?」と聞いておきながら「そうか」と答えるだけの奴がいるんです。そういうぶった切るやり取りが、すごくある。だから、その短い言葉の中に、相手の気持ちを斟酌する“想像力”が必要になってくる。「『そうか』ってどういう意味だよ!」という、単なる三文字の中に、想像力に応じたオマケがついてくるんです。
  (糸井重里『ゲームの流儀』)

RPGは世界観を構築するために、またはゲームの容量上制限された視覚情報を補うために、膨大なテキストを用意するが、『MOTHER』はそのテキストをあえて俳句的に〈外し〉ていく。

『MOTHER』にはフライングマンという主人公をかばうだけの、一見強そうななりで、ひ弱なキャラクターがいる。かれらはすぐに死ぬのだが、しかし、寡黙なかれらからは使命感が伝わってくる。俺らが主人公をかばわなきゃ誰がかばうんだと。わたしたちは命を賭けて主人公をかばい死んでいくと。「わたしはフライングマン。あなたのちからになる。そのためにうまれてきた」とかっこいいセリフも用意されている。でも、かれらは弱い。弱いうえに、ゲーム上どうでもいいキャラなのである。だから、おもう。いったいなんなんだ? と。でもその「いったいなんなんだ?」が組成していく世界が『MOTHER』だった。俳句のように。

  ゲームの中に「フライングマン」という、勝手に冒険に加わって死んでいくキャラクターが出てくるんだけど、この感想も人によって全然違う。……その人の想像力に応じて、フライングマンが役割を果たすわけで。フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。リズムが五・七・五ではないのだけれど、問いかけの構造。未完成のものをポンポン置いてあるってのが、僕のテキスト世界じゃないかな。
  (糸井重里、同上)

モンスターを駆逐し、父親のようなラスボスを倒し、世界を領土化し、仲間をふやしていく〈完成型〉のRPGが多いなかで、『MOTHER』はそのタイトルから〈父権的〉なものを喪失しており、未完の世界のなかで、未生の赤ん坊をめぐる物語だった。主人公たちが最後に出会うのは赤ん坊であり、その赤ん坊の〈母親〉になれるかどうかが『MOTHER』には賭けられていた。さいごに主人公たちは、〈たたかう〉ではなく、〈うたう〉を選んだ。

ときどき、なんで『MOTHER』は3D化できる機会を失ったんだろうと考える。『MOTHER3』は当初3Dで開発が進められていたのだが結局頓挫し、2Dになった。でも、その〈達成しがたさ〉としての未完のありかたは、マザーっぽいと言えば、マザーっぽい。マザーというゲームは、くじけること、たたかわないこと、無意味なこと、いちごとうふ、意味不明なこと、素朴なこと、あたたかいこと、いきてゆくことを考えさせてくれる。

『MOTHER』は1989年というバブル・カルチャーが終わりに向かってゆく年に発売された。もう後5年で1995年という〈世界の終わり〉をサブカルチャーが描くような変わり目の年がくるのだが(新世紀エヴァンゲリオン・オウム真理教事件・阪神淡路大震災)、その5年前にこうした淡々とした俳句的世界観のゲームがあった。

  人生はゲームよ。休んだり戻ったりも大事よ。
   (『MOTHER』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)