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2015年11月25日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 26[高橋淡路女]/ 依光陽子




掃きとるや落葉にまじる石の音   高橋淡路女


落葉を掃いている人がいる。作者か他の誰か。静かに耳を澄ませて句を読んでみる。箒の先が地面を軽く引掻く音、乾びた落葉と落葉がぶつかりながら立てる音、それらの軽い音の中にカツンと硬い石の音。

落葉を掃いていて石が混じっているというモチーフは珍しくない。山ほどある。しかし「掃きとるや」の上五が書けそうで書けない。「掃く」と「掃きとる」は全く違う。塵取りにザッとのった一瞬の音の混在を作者は書分けているのだ。音だけではない。石は重く落葉の下に隠れて、掃きとっている人の目には映らない。視覚的には落葉が見えているだけだが、音でその下に石があるのだとわかる。落葉の一つ一つの在り様まで見えてくる。

他にも、
冬ざれやものを言ひしは籠の鳥>籠の鳥の声がした前後に何も音のない空間。心の中にまで及ぶ「冬ざれ」という季題の効果。<白菊のまさしくかをる月夜かな>この「まさしく」が白菊の凛とした白と芳香をこれ以上ない程に表している。<渋柿のつれなき色にみのりけり>「つれなき色」などという言葉、どこから出て来るのだろう。心底驚かされる。

高橋淡路女は明治23年神戸に生まれたが12歳ごろ東京佃島に転居。大正2年に結婚したものの翌年夫と死別している。本格的な作句は大正5年から。「ホトトギス」を経て、大正14年に飯田蛇笏に師事。「雲母」「駒草」(阿部みどり女主宰)に拠る。掲句を含む第一句集『梶の葉』は明治45年から昭和11年までの作品のうち蛇笏選870句を収録する。「○○女」という俳号は月並で、名前からのインパクトが薄いという点で淡路女は損をしていると思う。870句の打率は決して低くない。蛇笏にして「その実作に於ける芸術価値といふものが、幾多彼女等の追随をゆるさぬ、独自な輝きを示すところがある」(『梶の葉』序)と言わしめただけの内容である。

序文における蛇笏の力の入れようを、もう少し引いておこう。
蛇笏は故人女流俳家二三者として千代女、園女、多代女の句を引用した後にこう続ける。

要するに彼女等の諸作が持つ薄手のクラシカルな芸術味に比し、これを咀嚼し、而してこれを滲透し、より高踏的に、若干の近代味をもつてコンデンスされた俳句精神の顕揚が、著しく淡路女君のそれを高所におくことを瞭かにすると思ふのである。 
(句集『梶の葉』序 飯田蛇笏)

また、同世代の女流に対しても、たとえ天稟の才能があっても時に地に足が着かない憾みを感じていたという蛇笏が、淡路女については、その自覚的矜持を深く秘めながら女性的常識を失うことなく「実に生命的な、うつくしくして厳かなるものであることを反復せなければならない」と賛辞している。

淡路女の句は一読、平明淡白だが、読むほどに情感の豊かさ、言葉の抽斗の多さと的確さ、素材の掴み方に目を瞠る。彼女の巧みな言葉遣いにかかるとなんでもない景に光が与えられる。
俳句とは何かと考えるとき、淡路女の句に学ぶところは多い。


春寒しかたへの人の立ち去れば 
花曇り別るる人と歩きけり 
かんばせのあはれに若し古雛 
まはりやむ色ほどけつつ風車 
居ながらに雲雀野を見る住ひかな 
炎天を一人悲しく歩きけり 
風鈴に何処へも行かず暮しけり 
ふくよかに屍の麗はしき金魚かな 
むかし業平といふ男ありけり燕子花 
家出れば家を忘れぬ秋の風 
うきことを身一つに泣く砧かな 
紫陽花の色に咲きける花火かな 
草市やついて来りし男の子 
ぽつとりと浮く日輪や冬の水 
冬の蠅追へばものうく飛びにけり


(『梶の葉』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月11日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 25[中尾白雨]/ 依光陽子




ふる雪にみなちがふことおもひゐる    中尾白雨


雪が降っている。次々と現れては目の前を落ちてゆく雪片。まっすぐ落ち、風に撓り、枝に懸る。大きな雪片。小さな雪片。光。翳。

掲句は「療養所の人々」と前書がある。療養所の箱の中の、更に一つ部屋の中の人々。四角い窓の外に雪片の絶え間ない運動が見えているだろう。窓辺に立って見ている人はガウンのようなものを羽織っているだろうか。重ね着とはいえ痩せた身体は寒々としているだろう。ベッドに横たわって天井を見つめている人もいるだろう。瞼を閉じている人もいるだろう。世界は白く、ベッドのパイプも白く、人々の着衣も白く、後姿も白いことだろう。

雪が降っている。
その日、その時の雪を見ている人。その誰もが違うことを思っているだろう。それはそうだ。人それぞれ違うのだから。だが療養所に入っている人の想いは、決して明るいものとは限るまい。雪のひとひらに命を重ねただろうか。雪の美しさに永遠を思っただろうか。しかし掲句は単にその事実を述べているだけではない。療養所の人々の「おもひ」に引きつけながら、彼等の姿を突きつけてくる。雪の降るある日の白々とした空間と静寂を。命ある者らは動かず、命なき雪のみが動き続ける、静と動の、生と死の逆転を。


中尾白雨は明治44年生まれ。明治学院中学部卒業後、教員となるが病のため昭和5年に退職。昭和7年より作句開始。わずか2年後に第三回馬酔木賞を受賞。昭和11年11月26日喀血により死去した。享年25歳。掲句所収の『中尾白雨句集』は昭和8年から昭和11年までの三年間の作品と推測され(『現代俳句大系』解説に拠る)、白雨没後に刊行された。序文はなく、一句目の「妹に日夜のみとりを感謝しつつ」という前書のある<汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり>に始まる184句全て病床俳句と思われる。


水原秋櫻子の跋文を引く。

妹さんの見舞の手紙を受け、その返事として詠んだといふ前書のある、 
紫陽花に手鏡おもく病むと知れよ 

といふ句は僕の特に感心してゐる句だが、この手鏡は無聊さに折々顔を見る用をしてゐるのだらうと思つてゐた。ところがある日訪ねて見ると、白雨君はその手鏡を持つてゐて、それを顔の上にかざし、庭の景色をながめてゐるのであつた。仰臥ばかりつづけてゐる人の哀しい発明で、僕はつくづく気の毒に思つたことがあつた。
 
(『中尾白雨句集』跋文「白雨君のこと」水原秋櫻子)

庭のものを見るために身体を起こすのではなく手鏡を使う。なんという創作熱だろう。跋文によると、白雨は相談相手もなく独り作句し、その度に熱を出し苦しんでいたという。彼の作品は多くの病床俳句の作者たちの尊敬を集めた。そしてそれはさぞや大きな励ましとなったことであろう。石田波郷は白雨に手向け、次の言葉を残している。「僕の心に俳句の住まふ限り、而してこの国に俳句の滅びざる限り静謐なる精神の華の不易なるすがたをのこすであらう。僕は僕なりに、莞爾として、中尾白雨氏の壮絶の死を送るものである」(「馬酔木」昭和12年2月号)

てのひらにのせるとうち透けてゆく雪片のような透明な詩魂だと思った。

手花火の香のきこえたるふしどかな 
朝顔はひといろなれどよく咲きぬ 
この冬を花菜さくてう君が居は (病友H君へ) 
病み耐へてをさなごころや金魚飼ふ 
朝顔の鉢のかづあるついりかな 
紫陽花に胸冷しつつわれは生く 
寒燈下脈奔流のごとく搏ちぬ 
薔薇培り詩をつくりみな若きひとよ 
荒園に落葉とぶ日ぞ病みおもる 
ひややかなひとたまゆらを菊に佇つ

(『中尾白雨句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月4日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 24[松藤夏山]/ 依光陽子




水鳥の水尾引き捨てて飛びにけり 松藤夏山


水鳥は冬、水上にいる鳥の総称。北方から越冬のために渡って来た鳥だ。春になって生殖地である北方へ再び帰るまでの一冬を水の上で躰を休める。大抵は頸を背の羽根に埋めて浮き寝しているが、あたたかな日には水面に線を描きながら泳いだり、時には鳥同士の小競り合いも。そんな冬の光の中に繰り広げられる鳥たちの世界は見ていて飽きることはない。

掲句は、水から別の水へ飛び移るところだろうか。一旦水を離れて空へ移る。空を飛ぶという鳥の本分を掲句は改めて読者に確認させる。水鳥を観て和むのは人間の勝手で、水鳥は野生の厳しさを忘れているわけではない。「引き捨てて」の措辞に現されている。射貫くほどにモノを見て摑んだ言葉だ。

松藤夏山は明治23年生まれ。大正5年ごろに俳句を始め、昭和7年「ホトトギス」同人となる。虚子提唱の花鳥諷詠の忠実な使徒でありつつ、虚子が携わった歳時記の編集にあたり手足となって働いたという。手元にある改造社版『俳諧歳時記 春之部』を開いてみたところ、解説に当った者のリスト33名の中に夏山の名も確かにあった。

君は命がけで俳句を作つた。俳句は君にとつては、決して趣味や道楽ではなかつた。句会に出ても、制限の句数だけはとにかく耳を揃へるなどといふ遊戯的なやり方は、絶対に君の採らざるところであつた。苟も君が発表するほどのものは、悉く君の肺腑から絞られる、生き血の垂れるやうなもののみであつたといつていい。
(『夏山句集』序文より 富安風生)

『夏山句集』は著者32歳から病没する45歳までの13年間の588句を収録、作者の死後上梓された。虚子は次の弔句をしたためている。<この寒さにくみもせずに逝かれけん 虚子>。「寡黙ではあつたけれども、その頬辺には、いつも柔かく温かい微笑をたたへてゐた。(富安風生)」という夏山の人柄が偲ばれる一句だ。夏山の句は一読、派手さからは遠く静かな句ばかりだが、読み込むほどにじわじわと沁みてくる。何物もをいとおしむような包容力、十七音の中のたっぷりとした“間”、衒いのない言葉遣い。

花鳥諷詠句でも詠み手の姿が見えてくるのが俳句。そんなことを考えた句集だった。

霧雨の雫重たや桜草
傾きて蠟燭高き燈籠かな
草刈女帰るや蓮を手折り持ち
洗ひ障子赤のまんまに置きにけり
初冬やここに移して椅子に倚る
封切れば溢れんとするカルタかな
鶸の群小鳥の網をそれにけり
案内図に衝羽根の実を添へてくれし
大漁の鯨によごれ銚子町
足どりに春を惜しめる情(こころ)あり
立葵声をしぼりて軍鶏啼きぬ
暖かき日となりにける炬燵かな
同じ日が毎日来る柿の花
風邪の子に着せも着せたる紐の数
蛆虫のちむまちむまと急ぐかな

(『夏山句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)


2015年10月14日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 23[中村草田男]/ 依光陽子


秋の航一大紺円盤の中 中村草田男


印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは   秋の航一大紺円盤の中  草田男  といふ句でありました 虚子    (中村草田男『長子』序)

句集『長子』に寄せられた高濱虚子の序文だ。印度洋航行という豪快な気分は残念ながら共有できないが、仮に伊豆七島を航行する東海汽船の船上であっても掲句の爽快感は十分味わえる。誰もが一読、胸がすくような爽快感と開放感を覚え、澄みきった空の下、真っ青な海原を進む船と丸みを帯びた水平線がイメージされるだろう。草田男の句の中で特に好きな句だ。

しかしそれだけの句だろうか、と立ち止まる。

私は二つの海を思い出していた。
一つは映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)の海。
もう一つは映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972)の海。

前者はポルトガル人の母娘が歴史的遺跡を辿りながら夫の待つボンベイへ船旅を続ける。ただ優雅に見えるその船旅は、実は人々が何千年も前から戦争に明け暮れ、収奪と喪失を繰り返していた歴史を辿る凝縮された時間の旅と重なっている。最後は新しい悪の形であるテロの問題が提起されるのだが、人類の愚かさに対する海の美しさが重く心に残り続ける。

後者は海と霧に覆われた惑星ソラリスへ探索へ行った心理学者の眼にした海が、知性を持った「思考する海」として描かれる。心理学者はソラリスを前に自問する。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国…。だが人類や地球までは愛の対象としない。人類はたかだか数十億人、わずかな数だ。もしかすると我々は人類愛を実感するため、ここにいるのかも」

勝手な連想だ。だが、この句の前後に航海の句はなく、虚子の船旅に際し贈った句かどうか前書もないのだから鑑賞は自由だろう。草田男が哲学、わけてもニーチェに傾倒していたこと、求道的な句が散見される事を鑑みるに、掲句はニーチェの「遠人愛」的視点とも受け取れるし、人類の背負った運命を一つの航海に重ね描いたオリヴェイラの問いかけへ想が飛ぶ。また、タルコフスキーがソラリスの海に表わそうとした「人類愛」とも結びつくのだった。「一大紺円盤」の海。掲句が夏の航ではなく、秋の航ゆえに地球上の一存在としての自己を強く意識する。

併せて句集『長子』の跋文の次の言葉も引いておこう。

<私は、所謂「昨日の伝統」に眠れる者でもなければ、所謂「今日の新興」に乱るる者でもない。縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。斯くて自然の啓示に親近する。横に、空間的・社会的に働きつづけてゐる「必然」と共力して、為すべき本務に邁む。即ち、時代の個性・生活の煩苦に直面し、あらゆる文芸と交流することに依つて、俳句を、文芸価値のより高き段階に向上せしめようとするのである>
草田男が虚子に師事したのは27歳。当時としては決して若いスタートとは言えない。第一句集『長子』で俳句作者として生きる決意をした後、草田男の句がどのように展開していったのか、以前とは別の角度から読めそうな気がしている。


つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり
おん顔の三十路人なる寝釈迦かな
負はれたる子供が高し星祭
蟾蜍長子家去る由もなし
夜深し机上の花に蛾の載りて
手の薔薇に蜂来れば我王の如し
六月の氷菓一盞の別れかな
蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ
貌見えてきて行違ふ秋の暮
山深きところのさまに菊人形
冬の水一枝の影も欺かず
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

(『長子』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



~およ日劇場~  youtubeより



Um Filme Falado (2003)
映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)




 

映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972) 予告編
http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html



2015年9月23日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 22[渡辺水巴]/ 依光陽子




天渺々笑ひたくなりし花野かな   渡辺水巴



安保法案可決の翌日、句帳を持って花野に立った。まさに天渺々、どこまでも晴れた一日で、芒も萩も女郎花も彼岸花も蓼も虎杖も咲き誇り、翅あるものは飛び交い、草草の光が交差し合っていた。それは、ここのところずっと立憲主義とは何かを考えながらメディアを注視し続けてきた目に、まるで初めて見るような異質な光景に映った。現実から遠く、しかし確かに現実であり、句帳を手に対象に向っている自分は明らかに異物だった。

山本健吉みたいだ。『現代俳句』の中で健吉は、掲句については珍しく自身の体験、感情に引きつけて鑑賞している。水巴の訃報をきいた時、健吉は京都洛西宇多野の花野にいた。そしてふと思い出したのが、他のどの名句でもなく掲句だったという。健吉は自己分析する。敗戦後のやり切れないようなみじめさを思い切って虚空に哄笑を発散させてみたいという鬱積した気持ちが、晴れ渡った花野の景色に触れて掲句を引き出してきたのだろう、と。

掲句の背景には関東大震災がある。掲句は水巴が震災であらゆるものを失った直後の句なのである。しかし句の背景を知らずともこの「笑ひ」が明るく楽しい笑いだと受け取る者はいないだろう。何故なら季題が「花野」だからだ。そして私が健吉と受け止め方が少しだけ違うのは、健吉は掲句から水巴の特徴のある高笑いを聞き取っていること。「どうやら人間の笑いとは思えない高い乾いた声が虚空のどこからか聞こえてくるような気持に引きずりこまれるのだ」(『現代俳句』山本健吉)

私は掲句からベルクソンの言う笑いの背後にある「悲観論の兆し」を見てとった。

「もっと自発的でない苦々しいなにか、笑う者が自分の笑いを考えれば考えるほどますますはっきりしてくるなんともいえない悲観論の兆しを直ぐに判別できるはずだ。」 
「生に無関心な傍観者として臨んで見給え。数多くの劇的事件は喜劇と化してしまうだろう。」
(『笑い』アンリ・ベルクソン)

「笑ひたくなりし」と「花野かな」の間に「笑うことはできなかった」姿が見える。「僕笑っちゃいます」的なトホホな笑い以上の痛切な想いがここには確かにあって、この不条理を笑えるのならばいっそ笑って喜劇化してしまえたら、といった空しい願望も感じる。あっけらかんとした物言いが逆に道化師の笑いのように悲観的な心情を滲ませる。実際、生命の最後の饗宴である花野の圧倒的な景を眼前にしてどうして笑うことができようか。

大空にすがりたし木の芽さかんなる><家々の灯るあはれや雪達磨>のような句からも水巴のものの見方の偏向が見てとれる。大空を仰ぎ心を解き放つでなく「すがりたし」と思い、雪達磨のある家の灯には家族の団欒を見るではなく「あはれ」を見てしまう目。

さて、掲句を含む句集『白日』は水巴の第五句集であり、明治33年から昭和11年までの36年間の定本句集である。水巴の句は、殊に繊細な句が人口に膾炙しているが、蛇笏、鬼城り、普羅、石鼎等と「ホトトギス」の第一全盛期を築いただけの骨太さがある。そして季題への着地地点が独自だ。今読んでも唸らされる句が多い。

「十年も経てば大抵の作品は色が褪せてしまふ。廿年も経てば大抵の作品は色が失せてしまふ。それは現に此の句集が明確に語つてゐる。(中略) 此の句集とて、畢竟は、それだけの存在でしかありえない。」 
(『白日』あとがき) 

炯眼である。


水蜜桃や夜気にじみあふ葉を重ね

秋風や眼を張つて啼く油蝉

菊人形たましひのなき匂かな

紙鳶あげし手の傷つきて暮天かな

一つ籠になきがら照らす螢かな

会釈したき夜明の人よ夏柳

どれもどれも寂しう光る小蕪かな

向日葵もなべて影もつ月夜かな

幼な貌の我と歩きたき落葉かな

手をうたばくづれん花や夜の門

伽藍閉ぢて夜気になりゆく若葉かな

牡丹見せて障子しめたる火桶かな

樹に倚れば落葉せんばかり夜寒かな

家移らばいつ来る町や柳散る


(『白日』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年9月9日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 21[松本たかし]/ 依光陽子




たまに居る小公園の秋の人     松本たかし


妙な句である。なんとなく妙だ。内容も、こんなことを句にする作者も妙だ。


そこらへんにある、これといって特徴のない公園。通常「小」などと入れると失敗するのがお決まりであるのだが、「小」と念押しするくらい余程たいしたことない公園なのだろう。住宅街に申し訳程度にある公園だ。毎日の通い路か、家から見えるのか、普段は特に気にしていないが、ふと見るとたまに人が居る。説明はなくとも大人で一人だとわかる。その人物は同じ人なのか、はたまた違う人なのか。兎も角「秋の人」なのである。「秋の人」としか表現しようのない存在としてそこに居るのだ。

本を読んでいる青年、ただぼんやりと遊んでいる子ども達を眺めている男性、犬を連れてベンチに座っている女性。同じ人であれば、その人物の心象が外見に顕れたような「秋」を感じるし、同じような人というのであれば、「秋の」という全体的な季感が一層強く感じられてくる。結局、この人物はどんな人でもいいのだ。作者はただ、眼前のシーンを切り取っただけだ。ぶらんこも砂場も滑り台も木々もそこに居る人も、一と色に溶けているシーン。

そこで再び句に戻って見ると、この「小」と「秋」が動かしがたく置かれていることに気付く。やわらかな秋の日差しの中にうっすらとした哀感がある。存外、この「秋の人」は作者自身かも知れぬ。

川端茅舎に「芸術上の貴公子」と言われた松本たかしは、能の宝生流十六世家元の高弟でシテ方宝生流の能役者松本長の子として生まれ、本来であれば能役者の道を進むべき運命であったが、肺尖カタルなどの胸部疾患に併せて神経症が痼疾となり能役者の道を断念し俳句道を進むことになった。幼い頃より重ねた能の鍛錬が、枯淡な句姿として表れている。

たかしの短文に<間髪――俳句の表情は一瞬間で決まる――>というものがある。一部分を引く。

だから俳句の表現は、時に、一貫した意味のある叙述といふより、何かの合図か、気合の声にすぎないと思はれることがある。気合をかけられ、ハツとした読者の眼にあるひらめきが映り、かすかに精神が伝はつてゆく――――。

経験、把握、表現という複雑な総工程がほとんど無意識に近い状態で間髪を入れずに一挙に行われ、そんな工合に結晶した作品は「一粒の白露が、ぽろりと掌の中にこぼれてくるやうなものでもあらうか」とたかしは書く。

気合いの声によって掌の中にこぼれた白露。そんな句が散りばめられているのが、第一句集『松本たかし句集』である。端正で且つ清冽、一方、どこか舞台劇のような趣の句も多く、掲句もその一つだ。しかし何故か心に残る。たかしの精神がかすかに伝わってくるということだろう。松本たかしは昭和31年5月心臓麻痺のため長逝。享年50歳であった。

すこし待てばこの春雨はあがるべし
いつしかに失せゆく針の供養かな
仕る手に笛もなし古雛
恋猫やからくれなゐの紐をひき
たんぽぽや一天玉の如くなり
羅をゆるやかに著て崩れざる
一夏の緑あせにし簾かな
柄を立てて吹飛んで来る団扇かな
金魚大鱗夕焼の空の如きあり
月光の走れる杖をはこびけり
秋扇や生れながらに能役者
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
水仙や古鏡の如く花をかかぐ
赤く見え青くも見ゆる枯木かな
枯菊と言捨てんには情あり

(『松本たかし句集』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年8月26日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 20[石橋辰之助]/ 依光陽子



汗ばみし掌の散弾を菊にうつ  石橋辰之助


「心象風景」と題された連作の中の一句。散弾を握る手が汗ばんできて掌をひらく。ぬめりを帯びた幾つかの散弾がある。再び握りしめたそれを眼前の菊にうつ。銃に込めることなく、擲つ。うたれた散弾は菊を打ち、あるいは掠め、あるいは掠めもせずに地面に落ちるだろう。

菊は日本の象徴ともいえる花である。皇室の表紋、国会議員の議員バッジ、パスポートの表紙の十六弁一重表菊紋、自民党の党章、靖国神社の門扉の装飾。

掲句の書かれた昭和9年の前年、日本は国際連盟から脱退、昭和12年日中戦争、昭和13年国民総動員法制定、昭和14年第二次世界大戦と、時代は日常とは別のところで戦争へと着々と歩を進めており、その気配を感じることのできる者のみが言いようのない漠然とした怖れを抱いていたのではなかったか。

石橋辰之助は水原秋櫻子に従い「ホトトギス」を離れ「馬酔木」に拠ったのち、昭和12年「馬酔木」を離れ「京大俳句」に参加、新興俳句弾圧事件で検挙され、40歳という若さでこの世を去った。その事を鑑みると、掲句の「汗ばみし掌の散弾」の鈍い光が私を打つ。

掲句所収の句集『山行』は辰之助の第一句集。昭和6年から昭和10年までの句から成る。集中のほとんどが山行の中で作られた俳句であり、この句集が山岳俳句を切り拓いた句集であったことは紛れもない。その中にあって掲句を含む「心象風景」の連作は異質だ。やがて秋櫻子と袂を分かった辰之助の姿がここに見て取れる。

さて、上述のとおり句集『山行』には山岳俳句の嚆矢と称された<朝焼の雲海尾根を溢れ落つ>をはじめ“垂直散歩者”石橋辰之助の産んだ珠玉の山岳俳句が詰まっている。しかし高屋窓秋、石田波郷、西東三鬼ら才人の傍にいて山へ身を向けざるを得なかった心情を慮ると、単なる馬酔木調の山岳俳句とは言いきれぬ厳しさと哀しさが澱のように残るのであった。

岩魚釣歯朶の葉揺れに沈み去る
白樺の葉漏れの月に径を得ぬ
吹雪く夜の雷鳥小屋の灯に啼くか
岩燕霧の温泉壺を搏ちて去る
藁干すや来そめし雪の明るさに
霧ふかき積石(ケルン)に触るるさびしさよ
吹雪来て眼路なる岩のかきけさる
凍る身のおとろへ支ふ眼をみはる
雲海に人のわれらにときめぐり
山恋ひて術なく暑き夜を寝ねず
穂草持ちほそりし秋の野川とぶ
蒼穹に雪崩れし谿のなほひびく
風鳴れば樹氷日を追ひ日をこぼす
除雪夫の眼光ただに炉火まもり

(『山行』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年8月5日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 19[軽部烏頭子]/ 依光陽子




みとりゐの蚊帳つられあり白き蚊帳  軽部烏頭子


「みとり」と題された連作の中の一句目。連作を総括した次のような前書きがある。

託されたるみどりごのいのちあやふければとて或夜修道院に聘かれける

修道院に託された嬰児。この子は、この世に生まれた祝福も受けず、愛情の日溜まりの中で微笑むこともなく、今その短い命を終えようと蚊帳の中で小さなからだを横たえている。作者の目に映ったものは、ただ白い蚊帳だ。ここには医師としての目はない。ただ俳人としての眼があるばかりだ。客観写生の、なんという厳しい事実描写だろう。

全句引く。

みとりゐの蚊帳つられあり白き蚊帳 
かかげ給ふ蚊帳も十字架(クルス)もゆらめける 
蚊帳せばく合掌の人たちならぶ 
白き蛾のきて合掌の瞳をうばふ 
白き蛾にささやかれしは伊太利亜語 
合掌のもすそに白き蛾を見たり

蚊帳の白と引き合う蛾の白を俳人の眼は捉える。蠟燭の灯に来た蛾は暴れ飛び、合掌する人々の瞳まで奪う。聴こえてくるのはイタリア語。カトリック総本山、バチカン市国をいただくイタリア語の響きが天国へと導く音楽のように囁かれ、蚊帳も十字架も揺らめく。先ほどまで荒れ狂っていた蛾は、魂が肉体を離れる時を知るかのごとく、蚊帳と一体となってその裳裾にひたと留まっている。

この「みとり」6句の連作を、烏頭子にとっては旧友であり、また彼が兄事した水原秋櫻子は「これを読まずして連作を語るべからず」と書いた。連作俳句を手段として新興俳句運動が発展していた時期である。中学から東大医学部まで同期であり、特に一高時代は寄宿寮の同室で二年間を共にした秋櫻子と烏頭子。秋櫻子に従い「ホトトギス」を離れ「馬酔木」に拠った烏頭子は終生主宰誌を持たず、「沈黙の指導者」と称されたという。

掲句を含む軽部烏頭子の第一句集『樝子の花』の跋文の中で秋櫻子は、感情の純なる美しさ、表現の正確さ、調べの巧みさを挙げ、「これほど美しい俳句には無論現代に於て比肩するものはない。過去の文献をさがしてもたしかに類を絶してゐる」と賛辞を送っている。この美しさは耽美さではない。俳句でしか言い得ないことを、過不足なく正確な言葉で、しずかな心の眼で書きとめる。全てに抑制が効き単純化された美しさ、それが烏頭子の魅力だ。
(ちなみに『樝子の花』は石田波郷に依る編輯である)


日曜の庭にひとりや春の雷 
まつはりし草の乾ける跣足かな 
触れてゐる草ひとすぢや誘蛾燈 
蓮の中あやつりなやむ棹見ゆる 
とんぼうや水輪の中に置く水輪 
鳴きいでて遠くもあらず鉦たたき 
片頬なる日のやはらかに晩稲刈 
返り花まばゆき方にありにけり 
夕立のはれゆく浮葉うかみけり 
後れたる友山吹をかざしくる 
いなづまに白しと思ふ合歓の花 
舟ぞこに鳴りて過ぎしは枯真菰 
をかまきり贄となる手をさしのぶる

(『樝子の花』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年7月22日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 18[楠目橙黄子]/ 依光陽子




本をよむ水夫に低き日覆かな 楠目橙黄子


本と水夫いえば誰もが次の句を思い浮かべるだろう。


かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄



三橋敏雄は戦中は横須賀海兵団に所属、戦後は運輸省所属の練習船事務長として船に勤務していた。この句が<天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ 南雲二峰>のオマージュであるにせよ、ロマンティシズムに徹した青春性の迸り出る敏雄の句が他の二句を遥かに上回っていることは改めて書くまでもない。

掲句は本と水夫という組み合わせは魅力的だ。さりげないが水夫の人物像がくっきりと見えて来て、絵としても美しい。船上と捉えるもよし、また港の風景と捉えてもいい。読んでいると異国のような気もしてきて、イメージする国によってこの水夫を取り巻く空気感が様々に変わって味わえる。

色は白。水夫の制服も、夏の日差も、日覆の下の明るい陰の中で開いた本のページも。日差の強さから日覆自体の色は消え、遠目にはただの白光となって目に映るだろう。船体もまた白いに違いない。

「低き」の措辞も効いている。日中の休憩時間だからまだ太陽は高い位置にあるが、だんだん光線が斜めに射し込んでくるので日覆を初めから低く下ろしているのだ。本に没頭している姿から、水夫には似合わぬ痩身で文学青年のような印象や、清潔感や若さも感じる。

掲句を含む句集『橙圃』は大正4年から昭和9年までの20年間で高濱虚子選の作品から抄録した665句から成る楠目橙黄子の第一句集。この間の橙黄子は間組代表取締役で、任地に従い朝鮮・満州、九州、大阪など様々な地を仮住しながらの句作であった。各地を転々としながらも俳句がいわゆる絵葉書俳句に落ちなかったのは、しっかりと地に足がついた句作りをしていたからであろう。花鳥諷詠で一句一句丁寧に作られているが、句数の割に視点も句風も単調で不充足である。作者の俳句への思いを汲み取るには読み手側に辛抱がいるかも知れない。

追従を許さじと扇使ひけり 
僧に尾いて足袋冷え渡る廊下かな 
野に遊ぶ日曜毎の路を又 
枯芦に大阪沈む煙かな 
定かなる蠑螈の姿泥動く 
をかしさや全く枯れし菊に傘 
潮ざゐに遠のく泡や春の雨 
蟷螂の飛び立ちて行くはるかかな 
水中にすがるる草や秋日和 
草刈のしとどぬれたる馬を曳き

(『橙圃』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年7月15日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 17 [山口誓子]/ 依光陽子




汗ばみて少年みだりなることを  山口誓子


誓子の冷徹な眼差しの捉えた肉体は、生ぬるい情感を受け付けない。人間の本質を突きながら、物体としての肉感が生々しく、時に揶揄を含み、エロティックでありグロテスクだ。

句集『黄旗』の中でざっと拾ってみると

北風強く水夫の口より声攫ふ 
纏足のゆらゆらと来つつある枯野 
ストーヴや処女の腰に大き掌を 
さむき日も臚頂見え透く冠を 
侯は冬の膚うつくしく籠ります 
しづかに歩める風邪のタイピスト 
玉乗の足に鞭(しもと)や夏祭 
ラグビーの味方も肉を相搏てり

声を攫われた水夫の口の動き、枯野を来る纏足の女の覚束ない脚のゆらめき、処女の腰に置かれた男の手の欲情、冠がなければ威厳も何もない貧相な臚頂、侯爵朴泳孝の男性ながら白く美しい肌、立ち上がってしずかに歩きだしたタイピストのふくらはぎ、鞭打たれ腫れているであろう侏儒の足、肉体を打ち合う音から伝わるラガーたちの熱気と男臭さ。

しかし掲句は上に挙げた句とは違い、どことなく戸惑いを匂わせる。連作「汗とプベリテエト」4句中の3句目。<おとなびし少年の手の汗ばめる><少年の早くも夏は腋にほふ>のあと掲句、<ほのかなる少女のひげの汗ばめる>で完結する。思春期の少年少女の姿を活写したもので、中では4句目が秀逸であろうが、私は掲句に惹かれる。「みだり」にどの字を当てるか。乱り・妄り・濫り・猥り。『雨月物語』の「かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて」の婬も含まれようか。これらは少年の秘めたる性質。しかしむしろ『源氏物語』桐壷の「かきくらすみだりごこちになむ」の「みだり」を読み取る。言い表しようのない心の乱れ。つまり当事者である少年が無自覚なエロスは汗ばんだことで現れ、その姿を見ることによって誰彼の「みだりごこち」を誘うのではないか、といった他者としての視線。同時にそれを見出してしまった自分。

トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバハが美少年タージオに向けた眼が「みだり」であり、彼の苦悩は「みだりごこち」であった。

掲句所収の句集『黄旗』は山口誓子の第2句集。詩精神と現実主義の上に立った句材の幅の広さ、個々の句に独立性を持たせた編集法による連作俳句と、それらを大表題の下に置き一大連作を成すという構成から、従来の俳句の固定観念を打ち破り感性を解放した新興俳句の金字塔といわれる句集である。


玄海の冬浪を大(だい)と見て寝ねき 
渤海を大き枯野とともに見たり 
枯野来て帝王の階わが登る 
陵さむく日月(じつげつ)空に照らしあふ 
笛さむく汽車ゆく汽車の上をゆく 
掌に枯野の低き日を愛づる 
駅寒く下りて十歩をあゆまざる 
映画見て毛皮脱ぐことなき人等 
夏草に汽罐車の車輪来て止る 
春潮やわが総身に船の汽笛(ふえ) 
籐椅子や海の傾き壁をなす 
檣燈を夏の夜空にすすめつつ


(『黄旗』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



2015年7月1日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 16 [川端茅舎]/ 依光陽子




伽羅蕗の滅法辛き御寺かな  川端茅舎


句意は読んで字の如し。この寺は、出してくれる伽羅蕗がとんでもなく辛い寺なのだよ、ということ。

ではこの句、どこが面白いか。それは文字である。
「伽羅」「滅法」「御寺」どれも仏教に因んだ言葉だ。

香木である沈香の中で最も質の良いものが伽羅。インドでは仏を供養する荘厳のために香を焚き、身体に香粉を塗った。さらに出家者の戒律を定めた『四分律』にも、身体に塗る薬剤の一つとして伽羅があり、高級な線香の材料にもなる。東大寺正倉院に収蔵されている蘭奢待(らじゃだい)も伽羅だ。煮つけると黒く伽羅色になるところから伽羅蕗という言葉は来ている。

滅法はそもそも、因果関係に支配される世界を超越して、絶対に生滅変化することのないもの、真如や涅槃のことである。滅法界はこの世のものではない所。よって滅法とは、この世のものとは思われないほどという意味になる。

これだけの言葉が盛られれば普通なら相当抹香臭くなるところ。だが茅舎の天才を以ってすれば、この仰々しさも俳諧味と言えよう。

川端茅舎は明治30年生まれ。医師を目指していたが受験に失敗。志望を変更して洋画家を志し、武者小路実篤の「新しき村」の会員となり、その縁で岸田劉生に師事。異母兄に日本画家の川端龍子がいる。句作は18歳の頃から。画業の気分転換として始めた。朝日文庫の『現代俳句の世界・川端茅舎集』の三橋敏雄の解説によると〝茅舎〟の号は、姓〝川端〟と合わせて、旧約聖書のモーセがイスラエルの人々の祖先が曠野にさまよった〝遊牧の民〟の生活を記念するために、ヨルダン川のほとりに「結茅節(かりほずまいのいはい)」を定めたことに基づくそうである。

大正4年「ホトトギス」初入選。画業に専念しつつ「渋柿」「雲母」などにも投句していた。関東大震災後、京都東福寺の正覚院に寄宿。昭和5年頃より病がちとなり、画業から遠ざかった。同年「ホトトギス」巻頭を占めたことをきっかけに「ホトトギス」一本に投句を絞る。居は池上本門寺裏の青露庵。茅舎は脊椎カリエス、結核性の病に侵されながら珠玉の作品を数々遺し、昭和16年、44歳で鬼籍に入った。戒名は青露院茅舎居士。露を好み、露の名句を数々遺したことから、露の茅舎と呼ばれた。

露の茅舎も、『川端茅舎句集』の夏の露の句としては<迎火や露の草葉に燃え移り>の一句を認めるのみである。茅舎の句は最晩年へ向かうほど凄みを増してくるのだが、まだ第一句集であるこの句集では清新に登場した新人という趣である。

中学生で聖書を精読、キリスト教の影響を受けながら、仏教に近くいた茅舎の句群には、双方の要素が混在している。これも特徴の一つ。掲句の他にも<金輪際わりこむ婆や迎鐘>など、仏教用語を飄逸に使用した句も散見され、茅舎の本来的な茶目っ気を垣間見ることができる。

以上を踏まえた上で、再び掲句に戻ろう。この寺の伽羅蕗の桁外れの辛さは不変不動、この世のものとも思えないほど辛いと言うのである。有無を言わせぬ辛さのである。未来永劫絶対に変わらぬ辛さなのである。なんともとんでもない御寺に茅舎は厄介になってしまったものだ。一言でも辛いと口に出そうものなら「辛いと思うから辛いのじゃ」という御僧の喝が飛んできそうな、実に味わい深い一句である。


金剛の露ひとつぶや石の上
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり
新涼や白きてのひらあしのうら
御空より発止と鵙や菊日和
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ
放屁虫かなしき刹那々々かな
芋腹をたたいて歓喜童子かな
舷のごとくに濡れし芭蕉かな
しぐるるや目鼻もわかず火吹竹
一枚の餅のごとくに雪残る
眉描いて来し白犬や仏生会
蛙の目越えて漣又さざなみ
蟻地獄見て光陰をすごしけり

(『川端茅舎句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年6月24日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 15[西山泊雲]/ 依光陽子




切籠左に廻りつくせば又右に    西山泊雲


切籠は秋の季題だが、季題別に編まれた『泊雲句集』で掲句は夏の部に収められている。西山泊雲は丹波竹田村(現在の兵庫県丹波市市島町)の出なので盂蘭盆会は旧盆で行われたと思うが、この句集の千句余りの季題選別はさほど厳密ではない。

この句の切籠はどんな形だろう。即座に思い浮かんだのは廻り燈籠で、岐阜提灯や絵燈籠、走馬灯の類。燈籠が灯っていて中の影絵が廻っているもの。だが仮にそうであれば一定方向に廻り続けているはずで「廻りつくせば又右に」という部分がどうもしっくりこない。そもそもそれらを切籠と言わないのではと大歳時記を調べたががはっきりせず、山本健吉の『基本季語五○○選』に当ったところ、「燈籠の枠の角を落として切子形に作り、燈籠の下に長い白紙をさげたものを、切子燈籠、略して切子と言う。」として<雨車軸をながすが如く切子かな 万太郎><しだり尾の切子さげ来し萩の中 碧童>などの例句を挙げている。

『泊雲句集』には切籠の句は一句のみ。<燈籠提げて人や穂草を泳ぎ来る><雨だれのしぶき明かに燈籠かな>のあとに掲句が続くのだが、先に挙げた万太郎と碧童の句とモチーフが似ている。この燈籠は切子燈籠のことか。

切籠といえば折口信夫の説も興味深い。一部分を引く。

面白いのは、彼の盂蘭盆の切籠燈籠である。其名称の起りに就ては様々な説はあるが、切籠はやはり単に切り籠で、籠の最(もつとも)想化せられたものといふべく、其幾何学的の構造は、決して偶然の思ひつきではあるまい。盂蘭盆供燈や目籠の習慣を参酌して見て、其処に始めて其起原の暗示を捉へ得る。 (中略)
 要するに、切籠の枠は髯籠の目を表し、垂れた紙は、其髯の符号化した物である。切籠・折掛・高燈籠を立てた上に、門火を焚くのは、真に蛇足の感はあるが、地方によつては魂送りの節、三昧まで切籠共々、精霊を誘ひ出して、これを墓前に懸けて戻る風もある。かのお露の乳母が提げて来た牡丹燈籠もこれなのだ。「畦道や切籠燈籠に行き逢ひぬ」といふ古句は、かうした場合を言うたものであらう。

(折口信夫『盆踊りと祭屋台と』より)

なるほど切籠とは、諸説はあるが角を落とした幾何学的な構造をしていて、紙を垂らした燈籠であり、門口に掛けられてあるものや、魂迎のときに手に提げていくものも含めるようだ。何れにしても精霊の依代であり、燈籠の中の絵が回っているという解釈は見当違いだった。むしろ切籠そのものが廻っているのだ。

西山泊雲は高濱虚子の説く客観写生の忠実な信奉者であった。四Sが登場するまでの大正期、幾度も「ホトトギス」の巻頭を独占し「泊雲時代」と称される時期があった「ホトトギス」前期の代表的な作家である。

掲句を含む七句で泊雲は大正八年九月号の「ホトトギス」の巻頭を取っている。全てが盂蘭盆の句ではなく梅雨の句があったり鳳仙花の句があったりいろいろなのだが、<雨だれのしぶき明かに燈籠かな>と並んでいることを鑑みれば、この切籠を廻しているのはかなり激しい風雨とも考えられる。前句と関わりなしとすれば、或いは切籠を手に提げている人、例えば子どもが魂迎の道々戯れにくるくると廻しているとも読める。いずれにしても、左に廻りつくせば又右に、右に廻りつくせば今度は左に、その規則的な動きをただ客観写生しただけの掲句に、読むほどに惹きつけられていくのは誠に不思議である。精霊の力か。はたまた言霊の力か。


梅雨の蔓人々踏みて通りけり
燈籠や瀬杭にとまりとまり流る
手に足に逆まく水や簗つくる
蚊帳裾を色はみ出たる夏布団
花入れて数にも見ゆる金魚かな
朝顔の大輪や葉に狭められ
胡麻花を破りて蜂の臀(ゐしき)かな
蟷螂壁に白日濁る野分かな
露の径行きすぎし人呼びとむる
芋虫の糞の太さや朝の雨
空深く消え入る梢や雪月夜
焚火の輪解けて大工と左官かな
見て居れば石が千鳥となりてとぶ

(『泊雲句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年6月10日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 14[前田普羅]/ 依光陽子




空蟬のふんばつて居て壊はれけり   前田普羅


蟬の存在自体儚いのに、その上どうしてウツセミなんて哀しい響の名前をつけたのだろう。

そんな空蟬そのものは意外にしぶとく、羽化するために出た地上で、ここと決めた枝や茎や葉にしがみついた姿のままいくつも季節を送る。分身である蟬が鳴いている間も、それが命尽きて乾び、地上に落ちた翅や銅が吹かれどこかへ紛れてしまったその後も、割れた背中から雨が入ったり、風に吹かれたり、埃まみれになって双眼を濁らせたり、日の光に輝いたり、霜を纏ったりしながらそこに在る。

ふんばって居て壊れたのは空蟬だろうか。散文であればそう捉えるのが普通だろう。だがそもそも踏ん張ったのは蟬の幼虫であって空蟬ではないし、命のないものが自らの動作によって壊れるはずもない。ここには俳句独特の切れという仕掛がある。「空蟬の」の後の軽い切れの後の虚。空蟬の、その踏ん張って見える容に己の気持、あるいは誰かを重ねたのだ。空っぽになって、それでも踏ん張っていたのに壊れてしまった何か、あるいは誰か。

そして、目の前の空蟬が壊れる。ガラガラと、パラパラと落ちる欠片を、不思議と冷静に見ている自分。音のない音をたてて落ちた、透明な、琥珀色のカケラ。


「わが俳句は、俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」と云へる大正元年頃の考へは、今日なほ心の大部分を占むる考へなり、こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。 
(『新訂 普羅句集』小伝 より)


第二句集となる『新訂 普羅句集』の小伝で、俳句を手段に過ぎないと述べている前田普羅は、この時すでに職を辞め、東京を離れて北陸に移り、俳句一筋の人生に入っていた。普羅の一徹な生き方に相反して、また『新訂 普羅句集』の集中に於いても、フラジャイルな掲句は異色だ。しかし今読み返してみたとき他のどの句でもなくこの句に立ち止まってしまうのは、今を生きる私たちの多くが、心の奥底にこの空蟬のカケラを拾うことができるからではないか。


春更けて諸鳥啼くや雲の上 
花を見し面を闇に打たせけり 
人殺ろす我かも知らず飛ぶ螢 
新涼や豆腐驚く唐辛 
秋出水乾かんとして花赤し 
しかじかと日を吸ふ柿の静かな 
病む人の足袋白々とはきにけり 
立山のかぶさる町や水を打つ 
湖に夏草を刈り落しけり 
探梅の人が覗きて井は古りぬ

(『新訂 普羅句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月27日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 13[清原枴童]/ 依光陽子



ココア啜る夕顔の前の博士かな  清原枴童

夕顔の花は二つに分けられる。一つはウリ科ユウガオ属で実を干瓢とする正真正銘の夕顔の花。もう一つは朝顔と同じヒルガオ科サツマイモ属で正式にはヨルガオ。こちらは明治時代の初め頃に渡来し観賞用として栽培された。なぜかヨルガオではなく白花夕顔などという名称で売られている。今、夕顔の花と言えばこちらを想像する人の方が多いだろう。

前者は瓜の花らしく花弁がくしゃっと皺になっている。後者の花弁は皺なくつるんとしていて莟の時の襞が花にくっきりと残る。どちらも夕刻から緩みはじめ夜に咲く。いずれにしてもその白さは昼間に見るどんな花の白さよりも白い。


さて掲句はどちらの夕顔だろう。いずれにしても行燈仕立てで花を楽しむことができるようになっていると想像する。そういえば白洲正子にこんな随筆があった。夕顔に魅せられた白洲がその花の開く瞬間を見ようと一つの莟を何時間も見続けていたが、結局その莟は開かずに落ちてしまったというもの。掲句の人物もやはり夕顔の花を観ているのだろう。こちらはココアを啜りながら。さらに枴童は、この人物は「博士」だと言い添えている。「ココア啜る」というのんびりした雰囲気から、植物博士が花を観察しているのではなく、何か学術書でも読んでいてちょっと一服といった景だろうか。白洲正子といい『源氏物語』といい、夕顔の花からは女性を想像しがちだが、掲句からは男性の姿が見える。しかも夕顔の花に対しているあたり、なかなか渋い風体。きっと先の撥ねた口髭がある初老の男性で、実の容からうりざね顔だ。そんな風に想像してしまうのも面白い。


清原枴童は高濱虚子の『進むべき俳句の道』にも採り上げられている作者である。虚子は枴童の句<土砂降の夜の梁の燕かな><花深き戸に状受の静か哉><別れ路の水べを寒きとひこたへ><大炉燃えて山中の家城の如し>などの句を挙げ、「技巧の上に格段の長所が認められるばかりでなく、まだ小さく固まってしまわずに如何なる方面にも手足を延ばすことが出来るような自由さを持っている」と評している。

掲句の収められた清原枴童の第一句集『枴童句集』からは「格段の長所」というほどの技巧は感じ取れなかった。むしろ静かな佳句が並んでいると感じた。だが繰り返し読んでいると、人物を描いた句、或いは擬人化を取り入れたような句からじわじわと独特の味が出て来る。手堅い風景描写句だけにとどまらない温かみのある人物描写句の多さ。これが清原枴童のひろやかさだと気付いた。

土砂降の夜の梁の燕かな 
むつかれば梅に抱きゆきてほうらほうら 
夕立の脚車前草をはなれけり 
茄子買うてまた縫ものや祭前 
月ありと見ゆる雲あり湖の上 
燈籠の灯かげの雨のもつれけり 
芋虫のぶつくさと地にころげたる 
兄に怒る鎌や芒を刈り倒し 
夕風の野菊に見えて道遠し 
眉画くや湯ざめここちのほのかにも 
枯菊にあたり来し日をなつかしむ

(『枴童句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月15日金曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 12[山口青邨]/ 依光陽子



どうしても見えぬ雲雀が鳴いてをり  山口青邨


雲雀が鳴いている。離れた場所からもそれとわかる声だ。

どこだろう。空のどこか。鳴き声は続いている。空を仰ぐ。雲の窪み。雲の切れ間。空の穴。もっと高いところ。ずっと高いところ。

一面の空の中の、ただ一点を探すだけ。声はこんなにも澄み切っているのに、どうしても姿が見えない。羽ばたきは止まらないのだろうか。その声はますます強く高らかで、堂々としていてまるで空を支配しているようだ。雲雀より大きい私が声の限りに叫んでも、絶対に雲雀には届かない。けれど私より数十倍も小さな雲雀の声は私を貫き、草をくすぐり、風に乗り、森へ川へ野へ町へ響き渡る。この力強い声の主を見たい。降りて来て姿を見せて欲しい、と思う。

「どうしても見えぬ」は思いつきで書いた言葉ではなかろう。一羽の雲雀に集中し、耳を澄まし、眼を凝らすことで迸り出た言葉だ。抑えきれない心の昂りだ。どうしようもないもどかしさだ。

『雑草園』は山口青邨の第一句集である。昭和22年に<菫濃く雑草園と人はいふ>という句がある。青邨の庭にはいろいろな植物があり、青邨はそれらを愛で自らその庭を「雑草園」と称した。杉並区にあった雑草園は青邨の死後、自宅(三艸書屋)と共に故郷みちのくの岩手県北上市の日本現代詩歌文学館に移築されている。

青邨句の特徴を一言で表すならば融通無碍。根っからの学者肌で好奇心も探求心も強く、本質を摑むまで凝視を止めず、少年のように感動し、その震える心で何にも捉われず自由に詠んだ。時に突拍子もない句も作るので、だんだん玉石混交度が増すのだがその特徴はこの句集ではまだあまり見られない。特に海外詠の先駆者としての秀句は第二句集『雪国』を待つことになる。しかしながら『雑草園』も佳句が多い。久しぶりに手にして、そう改めて感じた。


天近く畑打つ人や奥吉野
維好日牡丹の客の重りぬ
ひもとける金槐集のきららかな
をみなへし又きちかうと折りすすむ
芒振り新宿駅で別れけり
連翹の縄をほどけば八方に
やがてまた木犀の香に遠ざかる
仲秋や花園のものみな高し
枯蔓に残つてゐたる種大事
吸入の妻が口開け阿呆らしや
子供等に夜が来れり遠蛙
河骨を見てゐる顔がうつりけり
はたかれて黴飛んでゆく天気かな
祖母山も傾山も夕立かな
香取より鹿島はさびし木の実落つ
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな
本を読む菜の花明り本にあり

(『雑草園』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月5日火曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 11[芝不器男]/ 依光陽子



白藤や揺りやみしかばうすみどり 芝不器男

全て述べてしまわず、読み手が自由に想を広げられる席を空けておくことが大切な俳句という表現形態の中で、色を使う時には細心の注意を払う。出来ればそれを言わずに色が浮かんでくるのが理想とされ、なるべく安易に使わないようにしている。

中でも「うすみどり」には身構える。なんといっても先行する不器男の名句があり、他にも福永耕二に<子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり>、現代では正木浩一に<芹といふことばのすでにうすみどり>などがある。前回採り上げた篠田悌二郎にも<暁やうまれて蟬のうすみどり>があった。

つい使いたくなる「うすみどり」だが、どれだけその「うすみどり」に必然性があるだろうか。そう考えたとき改めて掲句の秀逸さを思うのである。ここには作者の才気と眼光がある。

言わずもがなこの白藤は下り藤だろう。空気は動いているから大抵はわずかな揺らぎがある。さらに風が強まれば藤房は大きく振れ、少し遅れて藤の花の香りが降りて来る。そしてその香に陶酔する。そんな藤もピタリと静止する瞬間がある。

掲句の「うすみどり」はムードではない。一房の藤を凝視したリアルな「うすみどり」だと思う。白藤は珍しい。だから自然と白さに目を奪われる。しかし凝視を続けていくとそこに含まれる緑に気付く。白藤の幹に近い部分の、一粒の花の奥には緑が微かに残っている。もちろん山本健吉が『現代俳句』に書いたように、その頃の辺りの全体的な「うすみどり」と捉える解釈もあろう。茎も葉も緑であるから、遠目には白ではなく「うすみどり」に見えることは確かである。しかし、この白藤と作者との距離はもっと近い。揺れ止んだところに気付くには遠目では駄目だ。
全体感の「うすみどり」や、白に透けて見えた「うすみどり」であったなら、ここまで印象深い句とならなかっただろう。一房の藤に深く踏み込んだからこそ、作者の心が藤の花に乗り、読み手の心に触れるのだ。

不器男は書簡の中で「俳句にも主観がしらべによって波立っていなければならない」と書いている。掲句はこの精神が見事に昇華している。眼前の動から静、さらに内面的な動へ。「揺りやみしかばうすみどり」というゆるやかな調べによって不器男の主観の波が読み手に伝わる。

句集『不器男句集』は昭和9年刊。不器男の死後、吉岡禪寺洞選、横山白虹により編まれた。不器男23歳から死の前年27歳までの176句を収録。その12年後、石田波郷が復刻版を出す。「昭和に入ってからの物故俳人の中で現代俳句につながる作風の先駆として、先づ紹介したい作家は芝不器男であった(復刻版後記)」。さらに昭和45年に飴山実が『定本芝不器男句集』を出版。平成14年には生誕100年を記念し芝不器男新人賞が創設された。「俳壇に流星のごとく現はれて流星のごとくに去った(『不器男句集』序)」芝不器男の名は、今やその作品よりも名前の方が知られている作家であろう。名前だけが一人歩きしないように不器男の遺した作品に今一度目を向けたい。

下萌のいたくふまれて御開帳
白浪を一度かかげぬ海霞
ささがにの壁に凝る夜や弥生尽
人入つて門のこりたる暮春かな
卒業の兄と来てゐる堤かな
向日葵の蕋を見るとき海消えし
風鈴の空は荒星ばかりかな
蓑虫の鳥啄ばぬいのちかな
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
枝つづきて青空に入る枯木かな
炭出すやさし入る日すぢ汚しつつ

(『不器男句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年4月27日月曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 10[篠田悌二郎]/ 依光陽子




初蟬や疲れて街をゆきしとき    篠田悌二郎


水原秋櫻子門下にして抒情的な句を作らせたら右に出る者がいないといわれた篠田悌二郎がはたして蟬が好きだったかどうかは知るべくもないが、旧号は「春蟬」であり、そう思ってみれば蟬の句が少なくもない。

掲句は昭和8年の<奥多摩晩春十二句>のすぐうしろに置かれている。なれば強引に松蟬と受け取ってもあながち見当違いでもないであろう。
三越本店に勤めていた悌二郎だから、日本橋あたりを歩いていた時か。一日の疲れを感じながら歩いている。その耳に、不意にその年初めて聴く蟬の声がひとすじの糸のように入り込んできた。ひとすじの糸とは抒情的な解釈にしたまでで、その蟬が松蟬であるならば、ギィギィと骨の軋むような声であり、街の雑多な音の中からある違和として聴き取ったその声から、疲れの質や疲れ具合が想像できる。

注目するのは「ゆきしとき」。この人は疲れてはいるがダラダラと歩いてはいない。普段と同じ歩幅、歩調がこの言葉から見えてくる。それから初蝶、初音、その頃になると現れる鉦叩など、生き物の初鳴きは「おっ今年も来たね」と一年ぶりの友人との再会のような、ちょっとした嬉しさで心を浄化させてくれるものだ。「初」という文字がフラッシュのように一句を明るくしている。

掲句を収めた句集『四季薔薇』は篠田悌二郎の第一句集。本句集には水原秋櫻子と共に「ホトトギス」を脱会する前後の句が収められている。<初心の頃、割り合に伸び伸びしてゐた自分の句が、中頃になつて全く個性を失つて、沈滞してしまつたのは、ホトトギスの客観写生の説に迷はされてゐたからである>と後記にあり、これには共感する部分もあるのだが、結局は言い訳にしかすぎないと思う。その証拠に「ホトトギス的」俳句から所謂「馬酔木調」への遷移は見えるが、劇的に句が変化し向上しているかといえばそうではないからだ。もちろん一冊の句集で判断できることではないのだが。ともかく、秋櫻子に師事することで<漸く、真の自分をとりもどす事が出来た(同)>という悌二郎の「真の自分」は句集の後半部に当る。全体的に絵で言えば印象画的な句、洗練された耽美的な風景描写はその頃は清新だったのであろうが、今の人がこれらの句にどれだけ感銘を受けるかは各人の俳句に対する志向性によるだろう。そんな集中にあって掲句は現代でも十分に受け容れられる一句である。

暁やうまれて蟬のうすみどり 
風立てば鳴くさみしさよ秋の蟬 
埼玉や桑すいすいと春の雨 
凌霄の花のふまるる祭かな 
波更けて心もとなく涼しけれ 
人今はむらさきふかく草を干す 
はたはたのをりをり飛べる野のひかり 
ひかりなく白き日はあり蘆を刈る 
トマト挘ぐ手を濡らしたりひた濡らす

(『四季薔薇』昭和8年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年4月21日火曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 9[富安風生]/ 依光陽子




春の灯や一つ上向く箪笥鐶  富安風生


祖父が持たせた母の嫁入り道具に一棹の箪笥があった。総桐製で二つ抽斗と三つ抽斗が二段重ねの所謂「東京箪笥」といわれたもので、最上部には袋戸棚が設えてあり、中には隠し鍵附きの抽斗。そこには私と弟の臍の緒など大切なものが仕舞われていた。二つ抽斗は着物が入る深さ、三つ抽斗はそれより倍くらい深く、いづれも箪笥鐶(たんすかん)がついていた。そこには母の余所行きの服が入っていたので、普段は殆ど使われることなく、しんとした佇まいで置かれていたのだが、幼いころの私は箪笥鐶そのものが面白く、ドアノックのようにカチカチ鳴らしたり、上向きにしてみたり、それを握って抽斗を引いたり戻したりしたものだ。

以上、掲句の「箪笥鐶」という文字から蘇って来たきた極私的な回想だが、季題の「春の灯」が意外に効いている。春らしく花見がてらの芝居見物だろうか。「一つ上向く」から、少し慌てた様子が窺える。気持ちが逸っていて箪笥鐶にまで気持ちが残っていなかったので、そのまま出かけてしまったのだ。さて家に残された作者はそんなところに目をとめて、いかにも句材得たりとばかりに句にしてしまった。

富安風生の第一句集『草の花』は、自身が晩年「『草の花』時代の基礎勉強」と言い切っているだけあって、これといった発見のないスケッチ風で単調な句が並び全体的に面白味に欠ける。高浜虚子の序文が懇切丁寧かつ強引に花鳥諷詠に引き寄せ過ぎて空々しいくらいだ。私は風生の本領は飄々とした面白さにあると思う。<垣外のよその話も良夜かな><寵愛のおかめいんこも羽抜鶏>などに見られる俳諧味。後に世に出た15冊の句集においてその色はだんだんと濃くなってゆくのだが。

さて、今や箪笥ではなくクローゼットの時代。まして「箪笥鐶」などという単語を使った句は、もうあまり作られることはないだろう。『草の花』は大正8年から昭和8年までの句から成る。<苗売をよびて二階を降りにけり>などと共に、句の背後にある時代の空気感を味わいたい。

春雨や松の中なる松の苗
蜘蛛の子のみな足もちて散りにけり
春泥に傾く芝居幟かな
寒菊の霜を払つて剪りにけり
羽子板や母が贔負の歌右衛門
大風の中の鶯聞こえをり
一もとの姥子の宿の遅桜
美しき砂をこぼしぬ防風籠
石階の滝の如しや百千鳥
通りたることある蓮を見に来たり
みちのくの伊達の郡の春田かな
よろこべばしきりに落つる木の実かな

(『草の花』昭和8年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年4月15日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 8[飛鳥田孋無公]/ 依光陽子


くぐりてはくぐりてはさくらへまなこを  飛鳥田孋無公


何かをくぐる。トンネル。花のアーチ。門。鳥居。橋。「ロンドン橋落ちた」で繋がれた二人の手。心に覆いかぶさってくるもの。

くぐるとき人は姿勢を低く頭を下げる。目は足下へ向き、まぶたが伏せがちになるので、一瞬明るさを失う。体制を立て直すと再び明るさが戻る。そのとき眼を向けるのは桜。頭上の花か、あるいは心の中の花か。「くぐりては」の少し詰まったような濁音のリフレインが、あるいは作者に次々と降りかかる困難や試練を感じさせもする。しかし眼を向ける動作は作者の強い意思であり、眼に映る花明りは救いだ。

すべて平仮名で書かれた桜の句ですぐ思い浮かぶものに野澤節子の<さきみちてさくらあをざめゐたるかな>がある。野澤節子は臼田亜浪、大野林火門下。孋無公も同じく臼田亜浪門下であり、林火とは句友である。これは単なる偶然。だが野澤節子の句よりも先行する掲句の方に、より現代性を感じるのは不思議だ。言葉の力みのなさ、ふと口をついて出たままの句姿ゆえだろう。最後に置かれた「を」が限りなく散文に近い形にとどめながら、句絶の効果を如何なく発揮している。

臼田亜浪はある日の句会で、不治の病にある孋無公が句集を出したがっていることを大野林火から聞く。「私は―――句集を出してやること、それは今の場合、彼への唯一の慰めである。そしてそれは、俳壇的に観ても意義が存する―――ことに気づいたのである。」(『湖におどろく』序文より)。かくして亜浪指導の下、林火を中心に句集の準備が進められた。収録句数923句。逆年順という珍しい排列は、関東大震災後から最晩年まで加速度的に光度を増していった句の、最も美味なる部分から読むことができる。句集上木は孋無公の生前に間に合わなかった。しかし後世に貴重な一冊を遺した事は確かである。亜浪の「俳壇的にも意義が存する」という慧眼に、いまは一読者として感謝するのみだ。それにしても孋無公の句集がこの一冊しかないことが残念でならない。私は、『湖におどろく』自序の中で俳句について語られた次の言葉を噛み締めながら、38歳という短い生涯を心より惜しむのものである。


これ程世の中に真であり、善であり、美であるものがあらうか。
飛鳥田孋無公『湖におどろく』自序より


とかげの背わが目まばたく間もひかり
くちぶえにかかはらぬ水鳥白し
あまりつめたきまなこよ草の萌ゆるみち
唯とろりとす春昼の手紙焼き
クローバや雨の焚火が雨焼いて
寝返りはよきもの蜻蛉は空に
月さすや萍の咲きをはる花
かげながす案山子の淡きすがたかな
もつ本の寒さはおなじ電車かな
炎天や人がちいさくなつてゆく
春の雪うけんとす受けとまりけり
草一本の凍らぬ花を町に見し
人ごみに誰れか笑へる秋の風
霧はれて湖におどろく寒さかな

(『湖におどろく』昭和8年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年4月9日木曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 7[吉岡禪寺洞]/ 依光陽子




あめつちの中に青める蚕種かな   吉岡禪寺洞


蚕は昆虫だ。しかし人間の保護下以外では生き続けることは出来ない。何千年もの間、人に飼われ続けることで野生回帰能力失った唯一の家畜化動物、完全なる新種の虫だ。

蚕は生糸を生産する「普通蚕」と、種を遺すための「原蚕」に分けられる。原蚕は次代のために交配し産卵させられる。蚕の卵ははじめクリーム色で菜種に似ているため蚕種と言われ、出荷のため洗われ小分けにされた蚕種は催青まで保護される。孵化直前の状態が催青だ。それまで黒味を帯びてきた卵が青く透き通る。

あめつちの中、この世界の中で、数万の命が刻々と青みを帯びてゆく。良質の桑の葉に風の影響があるならば、外は轟々たる春の嵐かもしれない。天地一指、生命の誕生は劇的だ。

吉岡禪寺洞は明治22年福岡県生まれ。14歳で俳句を知り「ホトトギス」などに投句、30歳のときに「天の川」を創刊。昭和4年40歳で「ホトトギス」雑詠予選を任嘱されたが、その3年後から新興俳句運動に加わり、無季俳句の提唱、多行形式の試みを理由に「ホトトギス」同人を削除され、定型文語俳句と訣別し口語俳句協会を結成するに至った。掲句の収録されている第一句集『銀漢』は昭和7年刊。まさに禪寺洞が新興俳句へと歩み出した年である。つまり『銀漢』刊行は新しい一歩を踏み出すための過去の清算とも受け取れる。芝不器男、横山白虹、篠原鳳作、日野草城、橋本多佳子など禪寺洞の門を叩いた俳人の顔ぶれを見れば、その存在、影響力は大きかったに違いない。

今まさに産まれんとする夥しい数の蚕種の青は、俳句界における新興俳句の誕生の色であった。

うちまじり葬送凧もあがりけり
目刺焼いて居りたりといふ火を囲む
春の池すこし上れば見ゆるなり
衣更へて庭に机にある日かな
篠曲げて拙き罠や鳥の秋
椋の実を拾ふ子のあり仙厓忌
屋根の上に月ありと知る火鉢かな
日向ぼこ影して一人加はれり


(『銀漢』昭和7年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)