2020年2月29日土曜日

DAZZLEHAIKU43[辻 美奈子]  渡邉美保

  アボカドに種の重たき春の月    辻 美奈子


 熱帯アメリカ原産のアボカドは、今や、年中スーパーに並ぶ人気の果実のひとつである。それ自体には季節感が乏しいと思っていたが、アボカドの種と春の月の取合わせの新鮮さに惹かれた。
 アボカドの中央を縦に一周するように刃を入れ、全体を少しひねると、実はきれいに半分に分かれる。種から剥がれた方の半分は、丸いへこみをもち軽やかだが、残りの半分には、丸い大きな、いかにも重そうな種が残る。それは、輪を持った惑星のようであり、種はまんまるの月のようでもある。 ぽってりとした重量感はまさしく〈アボカドに種の重たき〉である。
 また、水分をたっぷり含み、しっとりと艶やかな春の月も、上空にありながら〈重たき〉を共有しているように思われる。
 アボカドの種と春の月の重たさが呼応して、どこか心許ない春の夕べである。


〈句集『天空の鏡』(2019年/コールサック社所収〉

2020年2月6日木曜日

DAZZLEHAIKU42[千坂希妙]  渡邉美保


  日向ぼこ靴下脱いでふと嗅いで       千坂希妙

  え~、嗅ぐの? と思わず笑ってしまう一句。
 冬日にあたたまり、いい塩梅に身体も心もほっこりほぐれ、足先ももそもそと、つい靴下も脱いでしまう。靴下を脱いだときの開放感。その気持ち良さが伝わってくる。
 そして、脱いだ靴下をふと嗅いでみる、たった一人の日向ぼこ。けっして、いい匂いとは言えないことは明々白々。その仕草を想像すると可笑しいが、どこか哀感が漂う。
 芳香ではないとわかっていても、つい嗅いでしまう、あるいは嗅ぎたいと思う心理は一体どこから来るのだろう。
 嗅覚には、へんなにおいを嗅ぎたいという欲求があるのではないかと思うことがある。ウォッシュタイプの山羊のチーズの強烈なにおいを嗅いで大笑いしたことがある。なんだか喜んでいるように…。

 句集中の〈手囲ひの螢を嗅いでゐてひとり〉〈新藁の匂ひがしたる馬糞かな〉
どちらも、佳き匂いとは言えない匂いを嗅いでいる。あたたかく、切ない作者の嗅覚である。

〈句集『天真』(2019年/星湖舎)所収〉

2020年1月9日木曜日

DAZZLEHAIKU41[東金夢明]  渡邉美保

  身から出た錆も美し冬の釘  東金夢明

 古い木造家屋の片隅で、壁に打ち付けられた一本の釘を思う。それ自体が無機質な、硬く細く冷たい釘であるが、長い年月の間に錆を纏う。錆を纏いつつ、冬の冷たい空気の中で、今、確固たる存在感を示している一本の釘。それを美しいと感じる作者がいる。その釘の美しさは、とりもなおさず、その錆の美しさなのだ。
「身から出た錆」は、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと、自業自得などの意味で、たいていは否定的に用いられる慣用句である。しかし、その慣用を裏切り、作者が〈身から出た錆も美し〉と言い切ったとき、この言葉は、新鮮な詩語として息づく。引き締まった堅固な響きが快い。
 混沌としたこの世界で、釘は釘であり続ける。身から出た錆が美しいという断定的な表現と、厳しい冬の出会いが、掲句の美しさを際立たせているのではないだろうか。
そして、私たちは自分自身の「身から出た錆」についても考えさせられる。

〈句集『月下樹』(2013年/友月書房)所収〉

2019年12月1日日曜日

DAZZLEHAIKU40[大石悦子]  渡邉美保

  草の実になるなら盗人萩がよい   大石悦子

 11月初旬、田圃の畦道を抜け、里山を歩く。道すがら、いろいろな草が実を結んでいた。桜蓼、小蜜柑草、屁屎葛、鵯上戸、石美川、牛膝、そして盗人萩などなど。いずれもかわいらしい小さな実である。
 これら草の実は、野趣に富み野山を彩るが、あまり人々に注目されることもなく、束の間に消えてしまう。
掲句、〈草の実になるなら〉 はそんな草の実への、作者の愛情の表れのような気がする。自分が草の実になるのを想像するのは楽しい。選択肢は豊富だ。すてきな遊びだと思う。また、人間もしょせんは草の実と同じ存在なのだという感懐も感じられる。
 作者は〈盗人萩がよい〉という。いささか物騒な名前からして愉快だし、名の由来となる実の形、なるほど盗人の忍び足に似ていて面白い。衣服に付いてもチクチクしないので、棘のある実ほどは嫌がられないだろう。旅人の服や鞄にくっついて、その相手と一緒に思わぬところまで移動し、旅先で落ちて、その地に芽吹くというロマン。盗人萩いいなあ。では、私は小蜜柑草に。

〈月刊『俳壇』12月号(2019年/本阿弥書店)所収〉

2019年11月9日土曜日

DAZZLEHAIKU39[鈴木牛後]  渡邉美保


  黄落や牛の尻追ふ牛の鼻   鈴木牛後

 木々は黄葉し、地にも黄の落葉、真青な空を背景に黄葉の落葉が宙を舞う黄落期。秋の終りの黄の光にみちた空間には哀切さが漂う。
降りそそぐ黄色い光の中に放牧の牛のシルエットが浮かぶ…、そんな牧歌的な景を思い描こうとするとき、〈牛の尻〉〈牛の鼻〉という生き物の器官が生々しくクローズアップされ、一瞬たじろいてしまう。
「牛の尻追ふ牛の鼻」は、生殖行動の一環なのか、牛同士のコミュニケーションの手段なのか、よくわからないが、黄落もまた生命の現場なのだと思わされる。

 牛の尻に鼻先を近づける牛、その後にまた牛が鼻を寄せ、さらにその牛の尻を追う牛の鼻。そんな光景を想像するとちょっとユーモラス。それは生命の連環であり、高揚ではないだろうか。
黄落がはじまると、いよいよ寒くなってくるという。

〈句集『にれかめる』(2019年/KADOKAWA)所収〉

2019年9月27日金曜日

DAZZLEHAIKU38[川島 葵]  渡邉美保


冬瓜をどうするかまだ決められず       川島 葵

 句会で冬瓜が話題に上った。「味がない」「歯ごたえがない」「あんまり美味しいもんじゃない」などとその場の男性諸氏の評判は芳しくなかった。「淡白な味は、出しによって引き立つし、翡翠煮など見た目も美しい」という擁護派もいて、冬瓜は、好き嫌いの分かれる食べ物だと思う。
 掲句、台所にごろんと置かれた大きな冬瓜が目に浮かぶ。
料理の目的があって買い求めたのではなく、思いがけない頂き物としての冬瓜なのだろう。
 その冬瓜を前に、さてどうしたものかと思案中の作者。〈まだ決められず〉に作者の軽い困惑と逡巡が伺える。
 スープ、煮付、あんかけなどの料理法はいくつか思い浮かぶが、決まらない。どうするか決まらないままに、数日が経ち…。〈まだ決められず〉である。放置された冬瓜の、のっぺらぼうの無聊を思うと、なんだか可笑しい。そして冬瓜に同情する。

〈句集『ささら水』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2019年8月23日金曜日

DAZZLEHAIKU37[ふけとしこ]  渡邉美保


ごきぶりの髭振る夜も明けにけり     ふけとしこ

ごきぶりを見ると、反射的に臨戦態勢をとってしまうので、(たいていは逃げられてしまうのだが)「髭振る」ことに注目したことは、ほぼない。
確かにごきぶりには一対の髭がある。その髭は嗅覚、触覚などをつかさどり、食物を探したり、外敵を防ぐ用をするという。
 このごきぶりは、髭を振り振り何を探しているのだろうか。それをじっと見ている作者の視線。ここでは、ごきぶりは忌み嫌う対象ではないようだ。

「夜も明けにけり」の「も」は、「ごきぶりの夜も」「私の夜も」の「も」ではないかと思う。
「明けにけり」(明けてしまったよ)にどことなく感じられるやるせなさや倦怠感。短夜と言われる夏の夜。作者にもごきぶりにも夜はまだ続いて欲しかったのではないだろうか。同句集中

〈ごきぶりに子がうまれるぞこんな夜は〉の句も。

〈句集『眠たい羊』(2019年/ふらんす堂)所収〉

2019年7月25日木曜日

DAZZLEHAIKU36[栗林 浩]  渡邉美保



  行く夏のからとむらひか沖に船     栗林 浩

 「からとむらひ」という言葉にはっとする。
 広辞苑に「空葬。死体の発見されない死人のために仮に行う葬式」とある。
 「からとむらひ」から
  〈屍なき漁夫の弔ひ冬鷗〉   平野卍
  〈屍なき柩のすわる隙間風〉   〃
の句が思い浮かぶ。冬の海で遭難した死者の葬儀、空の柩の虚しさが悲しみを深くする。
 しかし、掲句の「からとむらひか」という軽い疑問形には、悲愴感や暗さはない。
 作者の視線は沖へ向いている。過ぎてゆく夏へ向けた遠まなざし。
 沖を行く船が、行く夏を弔っているかのようだということだろうか。
 空の色や雲の形、海の色、波の高さに夏の衰え、秋の気配を感じる、明るいけれど、どこかもの悲しさを秘めた景を思わせる。

 夏の終りは、太平洋戦争の死者たち、海で命を落とした人たちを思う季節でもある。沖を行く船や寄せる波に鎮魂の思いが込められているような気がする。

〈句集『うさぎの話』(2019年/角川書店)所収〉

2019年7月1日月曜日

DAZZLEHAIKU35[榎本 亨]  渡邉美保



  飛んでくる蠅に大らか烏賊を干す     榎本 亨


 海辺の町の「烏賊を干す」というイメージは鮮やかだ。
 ずらりと一列に干された烏賊の白い身が光り、その向こうに青い空と青い海が広がっている。潮風がときおり、干された烏賊を揺らす。
 そこへ、匂いを嗅ぎつけてか、蠅が飛んでくる。不衛生ということで、嫌われることの多い蠅であるが、ここでは多分、想定内の許容範囲。いちいち気にしてはいられないのだ。
 烏賊を干す作業、飛んでくる蠅、その一部始終を見ている作者の眼差しもまた大らかで、一句一章の伸びやかな景に懐かしさを覚える。
 衛生管理の行き届いた設備の中、機械的に乾燥させた干し烏賊よりは、少々蠅がとまろうとも、天日を浴び、潮風に吹かれた烏賊の方が断然美味しいと思う。

〈季刊『なんぢゃ』[夏]45号(2019年)所収〉


2019年5月17日金曜日

DAZZLEHAIKU34[市川薹子]  渡邉美保



  戸袋の鳥の巣壊したる夕べ  市川薹子
  
 近所に、いつも二階の雨戸が閉まっている家がある。その庭には大きな柿の木があり、小鳥たちの格好のたまり場になっている。
 二階のベランダから、その木に来る小鳥を見るのが、楽しみでもある。春の終わり頃、雨戸の辺りがことに騒がしくなる。その開かずの雨戸の戸袋に椋鳥が巣を作っているのだ。仲間の椋鳥も大勢やってきて騒ぐ。
 親鳥と思われる二羽が、ひっきりなしに餌を運んでいる。親鳥が戸袋の隙間に身を入れるやいなや、雛鳥たちの一斉に囃し立てるような鳴き声がきこえる。親鳥が出ていくとたちまちシーンとなる。しばらくすると、別の一羽が戸袋に入り、再びピチュピチュざわざわ。その繰り返しが続く。親はたいへんである。
 親鳥二羽のうち、一羽は慎重派で、餌を運んできてもすぐに巣に入らないで、一旦、近くの屋根や庇に着地、周りを見回して安全確認後、巣に入る。しかし別の一羽は、何の用心もせず、さっと来てすっと巣に入る。慎重派と大胆派、どちらが母鳥なのか、興味深い。
 掲句、戸袋の鳥の巣を壊したという、ただそれだけが述べられている。しかし、その言葉には、作者の忸怩たる思いが滲んでいるように思う。これから命を育もうとする鳥の営為を阻むことは決して作者の本意ではない。できればそういうことはしたくないのだ。しかし、日常的に使用する戸袋であれば、鳥の巣を看過することはできない。悲しい「夕べ」が暮れていく。


〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉