2016年8月9日火曜日

フシギな短詩30[田島健一]/柳本々々



  噴水の奥見つめ奥だらけになる  田島健一


ずっと、田島健一さんの俳句をフシギだなあと思っていた。《どう》理解すればいいんだろうと。今回はこの問いからはじめてみたい。


ここでひとつ大きな補助線を引こう。


  ひらく雛菊だれのお使いか教えて  田島健一

   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)


たとえば関悦史さんが田島さんのこの句についてこんなふうに語っている。


この句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。…もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。
  
(関悦史「●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史」2016年5月4日」『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』)

ここで私が大事だと思うのは関さんの次の指摘だ。


「もはや誰が不審者なのかすらわからない」。


これは関さんが「謎は開かれたまま終わる」と書いたように、〈問いかけ以前〉の問題である。〈問いかけ〉を通してすべてが〈問いかけそのもの〉になっていくという〈問いかけ以前〉への地点に関さんは田島さんの句を通過することによってたどりついたのだ。


〈読む以前〉の場所に。それは〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまる前の地点であり、しかし〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまることによってしかたどりつけなかった地点でもある。


ふつうひとは句の〈読解〉をした後に、なんらかの〈たしかな場所〉にたどりつく。それが〈読解〉であり〈鑑賞〉である。でなければ、句を読む意味なんてない。意味が決定される場所へ赴くためにわたしたちは半ば暴力的に〈鑑賞〉を行うのだ。


ところが関さんが田島さんの句を読解してたどりついた場所は、〈読み以前の場所〉だった。「誰が不審者なのかすらわからない」、〈状況〉そのものが〈不審者〉化する場所にたどりついたのだ。


全方位的に主体が解体される場所。


その場所に田島さんの句(の関さんの読解)を通じてわたしがたどりついたとき、田島さんの句というのは《そういうもの》なのではないかとわたしは思った。


どういうことか。


冒頭の掲句をみてみよう。「噴水」は夏の季語だが、語り手はその夏の季語を通して〈どこにも〉たどりついてはいない。


たしかに「奥」を「見つめ」ながら「奥だらけ」の場所にたどりついてはいる。しかし「奥だらけ」とは〈奥〉が意味をなしえない〈解体された〉場所なのである。


語り手は〈奥〉以前の場所に〈奥〉を通してたどりついたのだ。


そしてそれこそが田島さんの俳句そのものではないか。〈奥〉が〈奥そのもの〉になろうとすること。〈問いかけ〉が〈問いかけそのもの〉になろうとすること。俳句が俳句そのものになろうとする俳句。

俳句が俳句化する過程を通して、語り手が、読み手が、俳句そのものが、「正体不明な不審者」になってしまうこと。それが田島健一の〈俳句の現場〉なのではないか。

田島さんの俳句とは、俳句が生成された瞬間、俳句が解体される〈現場〉そのものなのである。俳句だらけの場所なのである。それは、もちろん、奥が奥になりえなかったように、俳句ではない。しかし、それは、もちろん、俳句をめぐる俳句だらけの俳句なのである。


俳句は俳句にどこまで近づけるのか。俳句はいつ俳句になるのか。


わからない。わからないけれど、田島さんの俳句を読んだわたしは田島さんの俳句を通してこんなふうに思う。俳句は俳句であろうとするその限りによって俳句となる、と。


だから当然田島さんの俳句においては「出来事」は「出来事」そのものであろうとするだろう。「出来事」が「出来事」であることを問われながら、〈出来事だらけ〉のなかに置かれるだろう。つまり、


  菜の花はこのまま出来事になるよ  田島健一
   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)



          (「射る女子」『オルガン』2号・2015年7月 所収)