2016年10月4日火曜日

フシギな短詩46[小坂井大輔]/柳本々々


  わたくしは三十五歳落ちこぼれ胴上げ経験未だ無しです  小坂井大輔


「三十五歳」と言えば批評家の東浩紀さんがこんなことを言っている。

  村上春樹の「三五歳問題」というのは、……春樹の「やれやれ」という倦怠感の裏にある人生観というか時間観みたいなものです。それがもっとも要約して出ているのは、まさに八五年に出版された『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「プールサイド」という短編です。この短編では主人公は三五歳の誕生日を迎えて、頭髪から睾丸まで丹念に清め自分のタフさを再確認したあと、突然わけもなく泣いてしまいます。つまりは「ハードボイルド」の限界が来るということなのですが、春樹にとって、三五歳は、そういう臨界的で文学的な年齢なのですね。それで八四年というのは、まさにずばり春樹が三五歳の年です。

   (東浩紀「村上春樹とミニマリズムの時代」『思想地図 vol.4』NHKブックス別巻、2009年)


東さんの指摘が興味深いのは「三十五歳」とは村上春樹だけでなくとも、なんらかの「臨界的で文学的な年齢」である可能性があるということだ。

短歌において《年齢=加齢》をたびたび主題化してきたのは荻原裕幸さんである。

  まだ三十二歳だから、と言ひかけてうちなる虹の劣化に気づく  荻原裕幸

  三十五が近づいてゐるひたひたと菜の花でありロシアでもある  〃

  右眼に犀の視力を持つて三十代なかばの雪の深さを知つた  〃

  三十代のからだをつひに逃げ出した苺のけむりのやうな日となる  〃

  三十代は焦点もなくありうるか、ありうるといふ貌のあをぞら  〃

   (「永遠青天症」『デジタル・ビスケット』沖積舎、2001年)


ここにあるのはそう言ってよければ、どれだけ身体が加齢化しても言語的な比喩によって〈救われる〉ことの可能性である。たしかに「うちなる虹の劣化に気づく」かもしれないけれど、それはあくまで「虹の劣化」であって、《身体的な劣化ではない》。だから「三十五が近づいて」もそれは「菜の花でありロシアでもあ」り、「犀の視力」や「苺のけむり」「貌のあをぞら」という身体的な加齢は比喩によって逸脱していく。

ここには身体がどうあってもそこから比喩によって加齢化する身体から抜け出せる契機がある(とわたしは思う)。「永遠青天症」は「一九九四年秋から二〇〇〇年夏まで」の作品からなるものだが、では2016年の「三十五歳」はどうだろう。

小坂井さんの冒頭の短歌をみてもらえばわかるように、ここには比喩はいっさい無い。「胴上げ経験未だ無しです」と語り手は〈無い〉ことを語るが、むしろここに突出して〈無い〉のは、言語的なアクロバティックや比喩によって少しでもなにか逸脱するチャンスをさぐろうとすることがいっさい〈無い〉「三十五歳」のまなざしだ。そこからは「胴上げ経験未だ無し」のように積極的に身体性も棚卸しされてしまう。この歌が「無しです」で象徴的に終わるように、この歌にはほんとうに〈なにも無い〉ように《意図的》につくられているようにわたしは思う。

村上春樹も荻原裕幸さんの歌も頭髪や睾丸、「視力」や「からだ」と加齢する身体性を自己言及的に確認していたが、小坂井さんの歌においては「胴上げ経験未だ無し」というまったく別の「三十五歳」の身体観が語られている。ここには加齢(エイジング)という身体経験値のプラスの過程へのまなざしはなくて、《私の身体にいったいなにが無かったのか》という身体経験値のマイナスのまなざしがあるばかりだ。

でもここで注意しておきたいのは、この比喩の皆無な状況、無いことから構成される「三十五歳」の語り手は決して言語構成する力を放棄しているわけではないということだ。たとえばこの歌がおさめられた連作「スナック棺」にはこんな言語表現的な歌もある。

  

あれ 声が 遅レテ 聞こえル 死ヌのかナ だれ この ラガーシャツ の男ハ  小坂井大輔


つまり、言語加工を「できる」のに「三十五歳」を語るときは「しない」ということ。そういう〈無い〉を意図的に選んであること。それが小坂井さんの「三十五歳」の「落ちこぼれ胴上げ経験未だ無し」の短歌なのではないかと思うのだ。

  社会的承認を受けることなく地下室に蠢く無数の三十五歳達が地下室人のようにサバイヴ……し、何らかの社会的連帯のうちに希望を獲得する転回を遂げるのか、あるいは依然その自意識を持て余し、全てをリセットする破局を待ち望むのか、またはヒロイックな要素の微塵もない緩慢な自死の中に人知れず溶解するのかーー。

   (藤井貴志「三十五歳問題 芥川的《不安》と現在的《不安》」『生誕120年 芥川龍之介』翰林書房、2012年)
芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を抱えながら〈三十五歳〉で自殺したが、それは荻原さんの「三十代は焦点もなくありうるか」に共振しているだろう。「ありうる」と荻原さんの語り手は次の瞬間、その「ぼんやり」を〈引き受けた〉が、小坂井さんは「三十代」の〈焦点のなさ=ぼんやり〉を奇妙な平たさとズレのなかで引き受けもせず描こうとする点が特徴的なのかもしれない。引き受けはしないし、積極的に加工もしないが、しかしそうかといって閉息的状況になるわけでなく(そこは「スナック」なのだ!)、〈むこう〉から「進路指導の先生」がやってくる状況。芥川龍之介にはおそらくいなかった「死ぬなと往復ビンタしてくる」先生。

  わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる  小坂井大輔


2016年の35歳は、奇妙に〈ひらかれた場所〉に、いる。 
 
          (「スナック棺」『短歌研究』2016年9月 所収)