2017年1月24日火曜日

フシギな短詩78[伊藤左千夫]/柳本々々


  池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる  伊藤左千夫


太宰治が死の直前に友人に色紙に書いて送ったことで非常に有名になった歌。

太宰治は齋藤茂吉・土屋文明編『左千夫歌集合評』を愛読していたという。その本のなかに掲出歌は収められている。

放送大学「和歌文学の世界」において担当教授である島内景二さんはこの左千夫の歌をこんなふうに解釈している。池の水は濁っていて、その真上で咲いている藤の花の影もうつらない。歌の意味としてはそうなのだけれど、しかし、左千夫のこの歌には今は見えないけれどもたしかに存在している「藤」をまなざしている視線があるのだと。一見してみえない「真実の世界」をみようとしている「眼力」の歌なんだと。だから太宰治もその一見みえない「真実の世界」をじぶんの混乱した生活の外に見いだそうとしたのではないかと。

私が島内さんの解釈をきいて興味深かったのがその構造である。たしかにこの歌は、〈見えない〉ものを〈見えない〉ものとして〈わざわざ〉語ることによって〈見える〉ものにした、〈見えない〉ものをとおした〈見える〉世界の歌なのだ。「藤波の影」はふだんは映っている。晴れの日の水面には。ところが雨が降りしきり濁った水面にはそれはもはや〈映っていない〉。ところがその〈映っていない〉ことを通して〈映るはずべき〉ものを語っているのだ。

それを太宰治が死の直前に友人に書いて送ったというのは、もしかしたら彼はその〈構造〉をそのまま手渡したのではないかと思う。自分の死=心中に関してはしょせん誰にも〈ほんとうのこと〉はわからないでしょう。なにもうつるはずのものでもないのですから。ただ「うつらず」とも多くの人間がわたしの死後、わたしの〈死〉を、「藤波の影」を語るでしょう。

別に太宰治の死だけではない。この「藤波の影もうつらず」しかしそれを語ろうとすることは社会のニュースやゴシップを見渡せばすぐに発見できる事柄である。ひとはほんとうのことは知らなくても、〈うつるはずべきもの〉がそこにあれば何かを語りたがる。これは物語の基本的な機制そのものではないか。〈うつる〉から語るのではない。〈うつらない〉から〈うつるべき〉ものを語るのだ。どんなに水面が濁っていても。

ここで少し視点を変えたい。太宰治の〈心中〉を詠んだであろう現代短歌にこんな一首がある。

  玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって  望月裕二郎
   (「わたくしはいないいないばあ」『桜前線開架宣言』左右社、2015年)

不思議な歌だ。「玉川上水」や「ながれている」「からだ」「つかって」など、太宰治の玉川上水における〈心中〉要素はちりばめられているが、実は望月さんのこの歌自体には「太宰治」をめぐる歌だという決め手は、ない。

また語りの視座も不思議な位置をとっている。語り手は「人のからだをかってにつかって/いつまでながれているんだよ」といらついているが、だとしたら語り手は「からだ」を奪われた状態にいるということになる。「玉川上水」の〈水中〉に語り手の「からだ」は「ながれ」たまま存在するのだが、しかし、語り手はそこにはいない。語り手を「人」と呼称するような距離感の誰かが「かってに」語り手の「からだ」を「つかって」いるのだ。

私はこの歌は、三千夫の、そしてそれを死の直前に引いた太宰の文脈に沿って読めば、〈意味〉の歌なのではなく、〈構造〉の歌なのではないかと思う。

ほんとうは「玉川上水」に「ながれ」る〈当事者〉であったはずの語り手は「からだ」を奪われ、当事者性を剥奪されている。だから、「いつまで~いるんだよ」といらついている。語りの位置が安定しないからだ。だとしたら〈ほんとうの位置性〉のようなものは〈誰〉が測位できるのか。

左千夫の歌も〈ない〉ものを通して〈ある〉ものを語っていた。〈ほんとうの位置性〉がどこにも定まらない形の〈まま〉で定型として形式化されたのが左千夫の歌だ。ここには「濁りににご」った水面しかほんとうはないはずなのに、しかし、〈ない〉ものであるはずの「藤波」はそこに〈ある〉。定型のなかでなにかがズレて、わきだしている。

太宰治の〈情死〉もそうだろう。実はそれは〈心中〉なのか〈他殺〉なのかもわからない。わたしたちがわかるのは、ひとりの男とひとりの女の「からだ(ボディ)」が玉川上水に沈んでいたこと、そして玉川上水が急流だったためになかなかそれが見つからなかったことだが、〈ほんとう〉のことはわからない。

伊藤左千夫の藤の歌-太宰治の情死-望月裕二郎の玉川上水の歌。

この三つの点をラインとしてつなぐのは、〈ズレ〉を〈ズレ〉のまま抱える位置性かもしれない。だれも〈答え合わせ〉はできないのだ。望月さんの歌の語り手はすでに「からだ」を奪われており、「いつまで」もみずからの「からだ」の〈答え合わせ〉ができない。

身体(からだ)の答え合わせ。

  そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ  望月裕二郎

もしかしたら「からだ」というのは〈答え合わせ〉の場所なのかもしれない。ところが「玉川上水」というトポス(場所性)はその〈答え合わせ〉を狂わせる場所として機能している。そしてその「玉川上水」性はそれとなくわたしたちの「からだ」にも胚胎しているのかもしれない。

だとしたら、望月さんの歌は〈太宰治〉のための歌ではなく、わたしたちの、わたしたちの「からだ」のための歌なのではないか。身体を手にいれられなくて、いらついていたのは、実はわたしたちの方なのだ。「からだ」も「嘘」をつくから。「からだ」は違う〈時間〉を胚胎し、ズレてゆくから。

  ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ  望月裕二郎

せっかくこんなとこまできたので、もっとズレて、次回に続く!

          (「和歌文学の世界第14回「近代短歌の世界」」放送大学・2017年1月13日 放送)