2017年4月6日木曜日

フシギな短詩99[明恵上人]/柳本々々


あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明恵上人


定型詩は定型がある以上、定型を満たすまでしゃべり続けなければならない。以前このフシギな短詩で富野由悠季さんの富野ゼリフをめぐりながらそんなことを書いた。

丸の内の出光美術館で江戸時代の禅僧・仙崖(せんがい)による禅画を展示した「大仙崖展」をみたことがある。仙崖というひとは〈ゆるかわいい禅画〉として再発見されていった面があるが、展示には筆で大きく○を描いた円相の軸もかけられていた。いろんな○があったのだが、それをみていてちょっと思ったのが、《他にもたくさん描けるものがあったはずなのに○しか描かなかったのはどういうわけなんだろう》ってことだ。

円相っていうのは○として完全な悟りをあらわす。だから余計なものをそこに描いてはだめなのだが、むしろ大事なのは○なのではなくて、そこにほかにも描けたはずなのに・描かないということなのかなと思ったのだ。

絵と短歌というのは実は形式においてよく似ている。それは絵がかならず額や枠やコマを必要とする点が、短歌の定型と形式的に類似するからだ。絵や言葉の意味を決めているのは、実は絵や言葉そのものでなくて、《枠=定型》という形式そのものかもしれないということ。

鎌倉時代前期の僧である明恵上人の掲出歌。定型で29音使えたはずのところをほぼ「あかあかや」で使い切ってしまっている。それ以外も語れたはずなのに、語らなかったこと。もしかして定型において円相を描くのだとしたら《これ》なのかなと思った。「月」という形の○も際だっている。

歌人の橋本喜典さんが『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』という著書のなかでこの歌を引いてこんなふうに解説している。

  この「あかあか」は「明明」で明るく澄みきった月を詠んでいます。戯歌(ざれうた)のように言われますが、無限・夢幻の感のただよう宗教性が私には感じられるのです。
  (橋本喜典「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法角川書店2016年)

橋本さんがどうしてこの歌に「宗教性」を感じたのか。それはこの歌が「あかあかや」を繰り返すことによって言葉=意味の領域を離脱し、無限に円環する○の領域に入ったからではないか。それは言葉=意味=分節の支配しない主客のない領域だ。ただ○だけが茫漠と月のように浮かぶ領域。もちろんその○に意味などない。あってもなくてもどうでもいい○だ。そもそもそれを認識する〈わたし〉などそこらじゅうに溶け込んでいないのだから。

明恵上人の質感に似た現代短歌を引用してみよう。

  んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸
  (『あるまじろん』沖積舎、1992年)

なぜ語り手は「んんんんん」で埋め尽くさなかったのだろう。「何もかもんんんんんんん」なら「何もかも」さえ語らずに「んんんんん」で埋め尽くせばいいではないか。ところが語り手はそれをしなかった。「何もかも」が「何もかも」と繰り返されている。ここがこの歌の《ポイント》なのでないか。「んんんんん」ではなくて。

「んんんんん」と「ん」を繰り返していくうちに、「何もかも」という有意味的=構造化できる最小限の統語意識さえも《繰り返し》の渦のなかに巻き込まれ「何もかも何もかも何もかも何もかも何もかも」と新たな渦の生成に巻き込まれてゆく。「何もかも」というかすかな意味性さえも「ん」の螺旋のなかで意味をうしなっていく。この短歌はそうした《巻き込まれ》を実況中継的に描いたものなのではないか。

円相という完全な悟りには実は《あと》がある。悟りが悟りとして《終わった》と思ったら、それは《悟り》になりえない。《悟り》と勘違いしているにすぎない。《悟り》には終わりが、ない。だから、悟りのプロセスを描いた十牛図には、円相のあとにさらに絵が続いてゆく。○で終わりではないのだ。終わらないことをうけいれられることこそが、悟りだから。

わたしはその「○で終わりではない」をこの「んんんんん」の歌に見いだしたいと思う。《巻き込まれ》ながら、《巻き込み返し》ながら、「んんんんん」の大海のなかで悟りかけながら・悟りきらずに生きてゆくこと。そこにひとつの「難題をすり抜けていく」希望を見いだしたいと思う。

  難題をすり抜けていくんんんんん  吉田吹喜


          (「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年 所収)