2017年5月26日金曜日

続フシギな短詩119[川嶋健佑]/柳本々々


 向日葵に秘密を隠すララとキキ  川嶋健佑 

連作のタイトルは、連作の中身に、どう関わるのだろう。

掲句の収められた川嶋さんの連作タイトルは「ララとキキ」である。有名なサンリオキャラクターが「キキララ」と呼ばれているのに対し、「ララとキキ」はその逆の慣性をもっている。しかも「ララキキ」でもない。

「キキとララ」ではなく「ララとキキ」とあえて逆にしてあるのは、キキ(男)とララ(女)という男女の階層差で並べたわけではなく、ララ(姉)とキキ(弟)という姉弟の階層差で並べた可能性もある。

どうしてそんな〈姉弟〉の枠組みの可能性を持ち出したかというとこの連作には「魔女」「小鳥」「少年」「帽子」「逃げ出す」「追いかける」「秘密を隠す」といった童話的なモチーフが頻出するからだ。

だからこの「ララとキキ」は必ずしもサンリオのキャラクターではなく、この連作においてそのつど発生した〈姉弟キャラ〉とみることもできるかもしれない(童話「ヘンゼルとグレーテル」のような。ちなみに「ヘンゼルとグレーテル」は双子(ツインズ)らしいのだが、「キキララ」の正式名称は「リトルツインスターズ」であり「双子」である)。

この連作、タイトルは「ララとキキ」だが、すべての句に「向日葵」が内蔵されている。「向日葵」が入っていない句はない。その意味でこの連作は、サンリオ・童話的雰囲気をまといながらも、すべての軸が「向日葵」によって進行されていく。

しかもその向日葵は魔法がかかったように自在である。

  向日葵の影に降りれば皆小鳥  川嶋健佑

  百年の向日葵にある祖母の家  〃

  どんよりが来て向日葵が泣いている  〃

  故郷を捨てて向日葵祖父と来る  〃

  向日葵で少年に会う若き魔女  〃

  向日葵の空は開けっぱなしかな  〃

向日葵が向日葵であるだけでなく、〈マジカルな場所〉であり(みんな小鳥に)、〈人間化された主体〉であり(ひまわりが泣く)、〈名詞の修飾〉にもなっている(向日葵の空)。

ここで不思議なのは連作内すべてが向日葵で満たされていたのに、なぜ、語り手はタイトルに「向日葵」とつけなかったのだろう、ということだ。タイトルは「ララとキキ」なのである。「ララとキキ」が出てくる句は冒頭とラストにサンドイッチのように出てくるのだが、20句中5句しかない。

  向日葵へちょっと逃げ出すララとキキ  川嶋健佑

  向日葵へララ行けばキキ追いかける  〃

  向日葵の彼方まで行くララとキキ  〃

  向日葵で少年に会うララとキキ  〃

  向日葵に秘密を隠すララとキキ  〃

この5句だけ抜き出すとわかるのだが、「ララとキキ」をめぐる「向日葵」の物語はすべて「向日葵」という〈場所〉をめぐる物語になっている。つまり、「ララとキキ」が関与するときは「向日葵」は行動の範囲や性質を規定する〈場所〉になるのだが、「ララとキキ」が関与しないときは先に述べたようにマジカルな自在さをみせる。

となると、この連作はタイトルで「ララとキキ」という意図的な反転する階層をみせていたように、タイトルを「ララとキキ」とすることで「ララとキキ/向日葵」という前景/後景の階層をタイトルに仕込んでいたということができる。これは「向日葵」の物語ではない。「ララとキキ」の物語なのである。その位相を用意しなければならない。

連作タイトルは、連作の中身に、どう関わるのか。

私たちは連作を読むときに、タイトルも含めて連作を読み込まなければならない。なぜなら、タイトルが連作の階層を《自然と》つくりあげていることもあるからだ。

タイトルは、連作内に階層差をつくる。タイトルの付け方次第では、連作の表情(凸凹)は、まったく反転するのだ。キキとララと、ララとキキのように。

連作を読むときは、タイトルのありえた可能性と同時に、ありえなかった可能性も考えてみよう。連作の断層が、わかってくる。

ちなみに私は今回サンリオ公式ページをみながらこの記事を書いたが、キキとララは「ひと」ではなく「ふしぎ系」に分類されていた。おどろきだった。こんなところにも断層があるのだ。この「ふしぎ系」にはほかに「ぐでたま」や「ハンギョドン」もいて、そうか、ここは人外カテゴリーなのだなと思った。キキララは、人外なのだ。ひとじゃないんだ。いつか、誰かに、真摯に話そう。そういえばね、と。

キキララ公式解説「ゆめ星雲のおもいやり星でうまれた双子のきょうだい星。立派に輝く星になるために遠い星の国からやってきました」

キキララはひとではない。星なのだ。覚えておこう。きっと、いつか、なんかのときに、なんかの役に立つ。

          (「ララとキキ」『豈』59号、2016年12月 所収)