2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々


  「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。  復本一郎

復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。

  川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
  (復本一郎『俳句と川柳』)

復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。

今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ  シルバー川柳

誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。

  生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
  (樋口由紀子『MANO』1998年5月)

不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。

  ちょっと湿っている山高帽子  樋口由紀子
   (不快)

  悪になるオニオンスープ召し上がれ  〃
   (悪意)

  ねばねばしているおとうとの楽器  〃
   (不気味)

  荒野から両手両足垂れ下がる  〃
   (不可解)

  洗面器に水を満たして憧れる  〃
   (奇妙)

  階段の前を流れる不確実  〃
   (あいまい)

現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。

だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。

私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。

ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。

わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。

わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。

現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。

ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。

  額の汗きらきらきらと悪である  樋口由紀子

          (「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)

2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩205[斎藤史]/柳本々々


  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

短歌のアンソロジーを読むとたいてい載っているとても有名な歌だ。

ちょっとデリダのこんな言葉を引いてみたい。

  明日、君に手紙を書く、でもおそらく、またしても、手紙より私のほうが先に着くだろう
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

デリダは、こう言ってよければ、手紙に挫折したひとである(〈郵便的誤配〉とは、手紙に対する挫折だったのではないか)。

手紙は、届かない。というよりも、届くんだが、届くまえに、わたしが先に着いてしまう。だから、手紙は届かない。まだ来ていないからだ。

ここには、手紙の身体性があらわれている。斎藤史さんの歌をテクストとして読んでみよう。デリダと事態は逆である。

すでに手紙は届いている。けれども、語り手は、「待たう」というのだ。手紙は、もう、着いているのに。

おそらく、その手紙に、誰かがくることが書かれている。それは語り手の父親かもしれないし、デリダかもしれない。わからないけれど、でも、身体は遅れてやってくる。手紙をめぐる身体は、《先に着いたり、遅れてやって来たり》する。

つまり、手紙は身体の時間差をうむ。その身体の時間差が、手紙の誤配をうんでいく。いくら言葉を読みとっても、もう身体はさきに着いているのだし、まだ着いていないのだし、が、言葉を先走らせたり遅延させたりする。意味は、ずれていく。

では、手紙と身体が、《同時に》やってきた場合は、どうなるのだろう。こんな歌がある。ほんとうに同時にやってくる歌だ。

  お手紙ごつこ流行りて毎日お手紙を持ち帰り来る おまへが手紙なのに  米川千嘉子

お手紙をもって母親のもとにやってくる子ども。ちゃんと手紙と身体が同時にやってきた。ところが、やはり、《遅延》が起きる。語り手は、「おまへが手紙なのに」と思うのだ。ここには、手紙と手紙のズレがある。やはり、手紙は誤配され、届かなかったのだ。なぜなら、「おまへが手紙なのに」おまえはそれに気づいていないから。だから、手紙は、届かない。身体は、そこにあるのに。

  私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

手紙は、身体を、分割する。そしてその身体の分割の破局を、立ち直らせない。

そういえば、穂村さんに、こんな手紙の歌があった。

  窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった  穂村弘

なんで「窓のひとつにまたが」ったのか? それは自ら積極的に身体を分割し、手紙身体になったからだ。窓枠にまたがり、みずからを、ソクラテス/プラトンに分割(スプリット)する。破局させる。そのとき、積極的にわたしが手紙を追いかけたことで、手紙の遅れをとりもどし、わたしに《だけ》わたしの手紙が、とどく。すべてをゆるす手紙に「なる」。わたしにとってだけれど。

もちろん、すべてをゆるす手紙は、また、誤配を重ねる。でも、あいても、窓枠にまたがって読むかもしれない。そうしたら、相手に、手紙は届くかもしれない。届くんだったら、

  時差は私のうちにある、それは私だ。時差は私を阻止し、禁じ、分離し、停止させる──しかしまた、私から楔を取り去り、私を飛翔させる、君も知っているように、私は自分に何も禁止しない、というか、私を禁止しない、そして私はまさに君のほうへ、君へと飛翔する。
ただただ君のほうへと。一瞬のうちに。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

          (『斎藤史全歌集』大和書房・1997年 所収)

超不思議な短詩204[筑紫磐井]/柳本々々


  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

筑紫さんの句のひとつの特徴に、〈非-自己完結性〉(自己完結しない)ところがあるんじゃないかと、おもう。

たとえば掲句だが、「行く先」を「行く先を知らない妻」に「聞いて」いる。しかも率先して「聞いてみたい」と言っている。語り手は妻が行き先を知らないことを《知っていて》それでも「聞いてみたい」というのである。しかも〈そういうこと〉が俳句になっているのだ。

とうぜん、妻は行く先を知らないので、知らない、というだろう。それでも聞いてみたいのである。行く先を。だとすると、この行く先は、いま・どこにある行く先なのだろう。なんの目的のための行く先なのだろう。いま・ここに踏みとどまるための〈行く先〉ではないか。しかしそれはここでも私でもなく「妻」にゆだねられている。つまり、外へと。

筑紫さんにはこんな句もある。

  さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井

すぐに宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」を彷彿とさせるが、しかし「さういふもの」とは、なんだろう。「私はなりたくない」とさきほどのようにやはり〈欲動〉は発動している。しかしその目的がわからない。目的論的にならない。「さういふもの」がどういうものか、わからないからだ。さきほどの句のようにいま・ここにぐるぐる踏みとどまる句だが、「さういふもの」という何かを指し示す語があることによって、やはり〈外〉にでている。外へ。

こんな句もみてみよう。

  サムシングが足りぬと言はれさう思ふ  筑紫磐井

なにかが足りないと言われる。語り手は、言われて、そうだとも、思っている。しかし、その何かとは何なのか。しかもその何かはサムシングとなっている。この何かのサムシングの何かとは何なのか。何が足りないのか。何故サムシングなのか。「さう思ふ」と完結しそうになりながらも、「サムシング」によってやはり読み手は外に連れ出されてしまう。

この筑紫さんの俳句における「外」への連れだしエネルギーのようなものは、なんなのだろう。俳句の外へ外へとおもむこうとするエネルギー。俳句そのものを問いただしかねないエネルギー。それを俳句がもってしまうこと。

私はかつて筑紫磐井さんの掲句の拙評を書かせていただいたときにフロイトのこんな言葉を引用した。

  人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。
   (フロイト、本間直樹訳「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト全集18』岩波書店、2007年)

フロイトによると、欲動の断念、あきらめ、というのは、あきらめなきゃだめだ、があって、あきらめる、のではなくて、むしろ、逆だというのだ。最初にとつぜん、あきらめさせられて、その後に、そのあきらめさせられたことによって、あきらめなきゃだめだ、という「良心」や「倫理」がやってくるという。

  あきらめなきゃだめだ→あきらめる

ではなくて、

  あきらめる→あきらめなきゃだめだ

この外からの強制的諦めが自意識の倫理や良心を育むというのは、どこか、定型という強制的枠組みと似てはいないだろうか。

わたしたちはまず定型によってあきらめさせられる。妻にこれからの行く先をききたいし、そういうものが何かをしりたいし、サムシングが何なのかをききたいけれど、あきらめさせる。しかし、その諦めによって、定型をめぐる自意識のようなものを養っていく。これは、よいことなのだと。これこそまさに定型詩であり、俳句なのだと。まもるべきものだと。

筑紫さんの俳句というのはこうした定型と外部の交通や折衝、緊張のありかたをそのまま俳句化しているように、おもうのだ。

もちろん、わたしも知りたい。しりたいけれど、あきらめなければいけない。そしてあきらめることはよいことだと、わたしは〈もう〉おもっている。

定型は、自意識を育むことがあるのだろうか。そもそも、自意識とは、どうやってうまれているのだろう。しかしそうした自意識の探求をあきらめさせるのも、また、定型が育んでいく自意識である。

定型は欲動させながらも欲動するわたしを断念させる。

定型的自意識は、「なんにもしない」私をよしとするだろう。

  うるふ日をなんにもしないことにする  筑紫磐井


          (『俳句新空間 No.4』2015年 所収)

超不思議な短詩203[竹山広]/柳本々々


  二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな  竹山広

穂村弘さんの解説がある。

  「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存する世界に我々は生きている。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

先日放送されたNHKの「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 山本直樹×柄本佑」を観ていたら漫画家の山本直樹さんが連合赤軍事件を描いたマンガ『レッド』で、凄惨な事件のなかでもつい笑ってしまうような楽しいことがある、それも描きたかったと話していた。これもひとつのレベルの違うものの共存である。でも、たしかにヴォネガットの小説を読めばわかるようにどんなに凄惨な状況でもわらってしまうことはあるかもしれない。

たとえばそうした違うレベルの共存をずっと描いたのが、松尾スズキだとも、おもう。松尾スズキさんがかつて「トップランナー」というインタビュー番組で、葬式に向かう途中で週刊誌の袋とじヌードを破ってしまうことがあったとする、すごくかなしいことはかなしいのだけれど、その一方で、そういう状況のなかでもヌードをみたいきもちが共存してしまうときがある。その状況とはなんなのか、みたいなことを話されていた(『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』には障害者と笑いの共存というテーマが模索されている)。そういうものを忘れないでいたい、と。これもレベルの違うものの共存の話である。

レベルの落差の共存を描いたアニメに富野由悠季の『 ∀ガンダム(ターンエーガンダム)』がある。このアニメは、世界名作劇場+ガンダムと言われるような、ほのぼの日常労働社会と戦争リアルロボットアニメが融合していく特異というかとってもヘンなアニメなのだが(その意味で〈それまで〉のガンダムサーガを裏返している)、竹山さんの歌のうおな「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存・折衝していく状況が描かれている。

物語の主人公ロランは偶然核弾頭を見つけてしまうのだが、そのとき核弾頭は、キャラクターたちの内面を、核の恐ろしさを知る味方、核の恐ろしさをまったく知らない味方、核の恐ろしさを知る敵、核の恐ろしさを知らない敵と微妙な層をわけながら、描き出していく。

核の恐ろしさをもとに協同しようとする敵味方、核のおそろしさを知らずそれが何かとても〈いいもの〉だと思い横取りしようとする味方。

結局、核は暴発してしまうのだが、そのとき、その回のタイトルにもなっているのだが、あまりの明るさで真っ暗闇のなか「夜中の夜明け」がきてしまう。核のおそろしさを人間はこの〈夜中の夜明け〉のひかり(まるで「ゆふかがやき」のような)に恐ろしさを感じるし、知らない人間は、美しいと感じる。

たぶん、核を考えるということは、このような核と一見無縁の〈風景〉=「夜中の夜明け」「ゆふかがやきの中のかなかな」と核を含んだ風景が、等価であるような状況を考えるということになるんじゃないかと思う。

ほのぼのした風景のなかに、核がある。

キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のロデオのようにまたがることのできる核、タイムボカンシリーズの三悪の爆発するしゃれこうべ型の煙の核、核の風景は凄絶さよりもいつも〈コミカル〉や〈ほのぼの〉とも同居していたのではないか。

その凄絶さとほのぼのがコンタクトをとるその地点に、たぶん、ずっと立っている。わたしたちは凄絶な状況で、おかしなことがあれば思わずわらうし、ほのぼのとした日常のなかで凄絶な死をとげたりする。だれかがそれを正しいといったり、まちがっているといったりする。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。

  おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき  竹山広

  人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
  (ヴォネガット『スローターハウス5』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

超不思議な短詩202[土屋文明]/柳本々々


 子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず  土屋文明

1935年の歌。

  時代と社会の動きを捉えようとする目を感じる。「子供等」の「海月に興じつつ」には、無邪気さの中に不穏なイメージがある。大人等は戦争を理解していたのだろうか。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

この土屋の歌では、「理解」という行為が軸になることで、さまざまな二項対立を形作っている。

  子供等  /大人等
  浮かぶ海月/沈む重い何か
  興じる  /興じない
  理解せず /理解している

子どもたちが浮かぶ海月にはしゃぎ戦争を理解しない一方で、大人たちは浮かぶことのない何かを前にはしゃぐこともできず、ただ戦争という事態を理解している。

「理解」ということは、「あなたたち」と「わたしたち」という二項対立をどうしてもうみだしてしまう。かならず、理解できるひとと理解できないひとがでてくるからだ。

この「理解」ということばは現代の歌ではどのように受け止められているだろう。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

中澤さんのこの歌でもある意味、「理解」は戦争状態を通して《行われ》ている。「快速電車が通過」するとき、「理解できない」にんげんは「理解できない」まま、死んでいく可傷性がある。わたしを破壊的な死に巻き込むこの電車とはいったいなんなのか、なぜわたしたちの社会に電車があるのか、こんな危険な致死にもたらす可能性があるものになぜぼんやりとわたしたちはホームで待つのか、理解できないまま身体を損壊されて、しんでゆく。

ただし。

「理解」できたからといってそれがなんなのだろう。いったい《なに》を理解したことになるのだろう。「3番線快速電車が通過します」というセンテンスの意味性を理解した(つもりになっている)に過ぎないのではないか。それを「理解」したところでときどき電車という暴力装置のなかで骨片になってゆくひとたちの〈きもち〉は理解できない。毎日、朝の、夜の、生の、機械の、戦争のなかで、電車によってこなごなにされ、ふいつぶされ、たたきつぶされ、しんでゆくひとたち。「理解」は、どこにあるのだろう。

  戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか。その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される。
  (押井守『機動警察パトレイバー2』)

わたしたちとあなたたちを《分けて》いたはずの「戦争」や「理解」はいったいどこにいってしまったのか。

わからないけれど、しかしわからないなかで、「理解」そのものを拒むという理解への積極的否定をとることだって、できる。「理解できない人は下がって」と大きな主体から言われたときに、「理解しよう」と飛びつくのではなく、だったらそうかんたんには「理解しません」と〈理解しない〉ことを耐え抜く態度だ。

死にたくはないので「下が」るが、だからといって、「理解」については譲らない。理解しない。理解する気なんてない。理解しないままのわたしで《あえて》下がる。理解しないその場所で、忍耐強く、たたずみつづける。中澤さんのうた。

  小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない  中澤系
  

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月6日水曜日

超不思議な短詩201[与謝野晶子]/柳本々々


  大いなるツアラツストラの蔑すみし女の中にわれもあるかな  与謝野晶子

この歌に関してこんな解説がある。

  夫との愛の相剋の悩みを歌い続けていた三十四歳のころ、ニイチェの書をよみ愕然とします。女の盲目的従属性を突く「ツアラツストラ」の言葉を肯定しつつも自恃を砕かれた反発ともよみとれます。
  (川口美根子「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編』)

短歌を読んでいてときどき気になるのが、書物=テクストが歌のなかに出てくる場合だ。テクストは歌のなかで、どんなふうに機能するのか。たとえばこんな歌がある。

  愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉描写するどし  五島美代子

愛を優先する人間、なによりも愛のために自分よりもひとのために行動してしまう人間の方がまず死んでしまうという『方丈記』の飢饉描写がするどい、と言っている。

こんな歌もある。

  十三歳(じふさん)で読みし『舞姫』不愉快なり四十歳(しじふ)で読めどかなしからず不愉快  米川千嘉子
  (歌集『一葉の井戸』)

森鴎外『舞姫』はいつ読んでも不愉快だと言っている。この米川さんの歌は、与謝野晶子の掲出歌の系譜を引き継いだ歌といってもいい。『舞姫』は主人公の太田豊太郎の視点をあわせると〈近代自我形成の物語(わたしはどう生きていくべきか、人生とはなんなのか)〉になるのだが、エリスという女性に視点をあわせると、エリスが妊娠させられ、捨てられてしまう〈だけ〉の物語となる。また、エリスが豊太郎に決断をせまる大事なシーンで、豊太郎は気絶してしまい、その決断を友人にまかせてしまう。

  実は『舞姫』の豊太郎は、作中で何一つ自分では決断できていない。一番決断しなければならなかったとき、彼は人事不省に陥っており、やっかいな事後処理をしてくれたのはすべて友人の相沢謙吉なのだった。ヒーローとヒロインの間にはついに何の対話もないまま、一切は友の手によってひそかに片づけられてしまっていたのである。
  (安藤宏『「私」をつくる』)

だから米川さんのおそらく女性主体の語り手はこの『舞姫』を〈女性主体〉=エリスの立場から読んで「不愉快」だと言っている。

与謝野晶子のニーチェ、五島美代子の方丈記、米川千嘉子さんの舞姫。

これら歌にでてきたテクストは、読者の〈期待の地平〉を裏切っていくものであり、歌のなかで逆なでされている。ニーチェのたくましい強さの哲学は女性主体の立場から〈切り捨てられたもの〉が渦を巻き、『方丈記』は「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」という〈無常〉よりも〈飢饉〉という現実(リアル)な問題が渦を巻く。米川さんの『舞姫』ではエリスの声が女性主体の身体に宿り渦を巻いている。

テクストは逆なでされながら、歌に顔をあらわしはじめる。それが、歌のなかの、テクスト=書物ではないだろうか。

それは、感動ではない。感動ではなくて、逆なでされた、感・動なのだ。感じて・動いてしまった〈なにか〉。

米川千嘉子さんの歌集タイトルは『一葉の井戸』だが、タイトルに樋口一葉の名前があらわれているように、米川さんはテクストをとりこんだ歌が多い。

  賢治はやさしくせつなく少し変な人花巻花時計に来てまた思ふ  米川千嘉子

  「銃後といふ不思議な町」を産んできたをんなのやうで帽子を被る  〃

宮沢賢治が「やさしくせつなく少し変な人」とやわらかく、しかしとらえがたいアマルガムなイメージで〈現代〉に召喚される。「銃後といふ不思議な町」はかつて取り上げた渡辺白泉さんの句テクストだけれど、「銃後という不思議な町」を「産んできた/帽子を被る」と女性身体から読み直している。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

白泉は「見た」と見る主体なのだが、米川さんの歌ではそれを「産んできた」と女性身体から〈翻訳〉し直している。そのことによって、「見た」という「不思議な町」との距離が抹消し、その町を銃後を支えていたのは誰だったのかに想像力が向けられる。しかし語り手は「帽子を被る」。なぜだろう。それはこの語り手が男性/女性という分節だけでなく、当事者/非当事者も意識しているからではないか。

テクストは、多くの人間を取り込むとともに、多くの人間(マイノリティ)を疎外し、忘れたものとしてそれを含みこんで語る。〈忘れたもの〉としてそれは語られる(まるでヒッチコックの映画の地下鉄のシーンに〈黒人〉がいないように)。

けれども、だからといって、テクストの当事者に〈なろう〉というのも、ちがうのだ。それはただの転倒としての反復にしかならない。そうではなくて、テクストを裏返しながら、語らずに、「帽子を被る」こと。それが、テクストを、小説を、本を、〈読み直す〉ということではないだろうか。

テクストを、みつめる、のではなくて、テクストから、みつめかえされること。ここからはじめたい。

  絵はがきにフォービスムの緑のをんなゐてわれを見ながらポストに落ちる  米川千嘉子


          (「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編1月明の巻』六法出版社・1986年 所収)

DAZZLEHAIKU10[鎌田 俊]渡邉美保



  蚊の仔細眺めんと手を喰はせをり  鎌田 俊


「刺されるのは嫌ですが、近寄ってきたら観察する余裕を持ちつつ、夏を乗り切りたい」という記事を読んだ。もちろん蚊の話。

 蚊のほとんどの種類のメスは、脊椎動物の血を吸うが、それは卵をつくるため。オスもメスも日々のエネルギー源としては花の蜜などを吸っていて、血と蜜が入るところは、体の中で分かれているのだとか。そんな話を聞くと、血を吸いにくるメスの蚊がいじらしく思えてくる。

 手にとまって血を吸っている蚊の様子を観察している姿は、ちょっとおかしく、俳味にあふれている。一句一章のおおらかさ、「手を喰はせをり」の大仰な言い方が効果的である。

 ここには、仔細に眺めた蚊そのものではなく、「手を喰はせをる」人(作者)の人となりが表れている。


〈東京四季出版「俳句四季」2017年9月号〉


2017年9月5日火曜日

続フシギな短詩200[目次Ⅱ]/柳本々々

【101、高屋窓秋さんとカラー
 頭の中が極彩色の夏野となっていく

【102、まひろさんと安福望さんとクリスチャン・ラッセン
 プレシャスラブドルフィンフリーダムエンドレスドリーム。すなわち、愛、自由、夢。

【103、加賀田優子さんとおにぎり
 おにぎりをつくるみたいにわたしたちされてできたのかもしれないね

【104、介護百人一首と形式】  
 僕たちが何をするか、なぜそうするかなんて、いったい誰にわかるだろう。

【105、池田澄子さんとピーマン】  
 ピーマンに出会う方法はすくなくともふたつある。ひとつは、わたしの場所にピーマンを呼び込んでくること。ふたつめは、わたしじしんがピーマンになってしまうこと。

【106、樋口由紀子さんとジャック=マリー=エミール・ラカン】  
 「きみは、この地球が宇宙の精神病院だと思わないか?」

【107、佐藤みさ子さんとたたかい
 生まれたてですとくるんだものを出す

【108、榊陽子さんと悪意】  
 汝の虫酸を、汝のたてがみを、われに与えたまえ

【109、ひとり静さんとポ】  
 すべてのポのために。

【110、三谷幸喜さんとミュージカル
 もうお風呂の後、濡れた体でいつまでも歩き回らないよ。君の姪っこの誕生日には必ず電話を入れて、ミッキーマウスの声でハッピーバースデーを唄うよ

【111、鴇田智哉さんと人参】  
 ニンジンを並べてわかったこと。

【112、安福望さんと木】  
 どんなに緊張した場でも吐き気がして卒倒しそうな場でも、とにかく、はじまったら・おわる。どんなにそれが艱難辛苦の場所だって、はじまったら・おわる。それを私は勇気にしていこうと思う

【113、鶴見俊輔さんともうろく】  
 私は「でも」ということしかいえない。赤ん坊がいえるのはそういうことなんだ。「でも」が、私の生涯の著作になったということでいいんじゃないか。

【114、西尾勝彦さんとこたつ】  
 …こたつ主義とは何か…理想のこたつ生活…こたつと本…こたつとコーヒー…こたつとお茶…こたつとみかん…こたつと猫…こたつと湯豆腐…こたつとおでん…こたつと音楽

【115、山田露結さんと家族】  
 家族と生きるって、なんですか。

【116、最果タヒさんと死なない
 「生きる」ことではなく、「死なない」ことをきみのたたかう価値として。

【117、新・幻聴妄想かるたと不思議の国のアリスたち
 チュルチュルピー小動物に演説する私

【118、仲畑流万能川柳と爆笑問題】  
 「世界とお前の戦いでは世界に味方せよ」というカフカの言葉

【119、川嶋健佑さんとキキとララ
 ララは、鳥かごに閉じ込められたキキのところへかけよりました。「おい、弟よ! 魔女はやっつけた! あたしたち、助かったのよ!」「ほんとうかい! ありがとう、ララ」

【120、岡村知昭さんとAなのにB】  
 然るべく生きるべきなのに、然るべく生きられなかったら、泣いていい。

【121、新聞歌壇とアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ】  
 彼の前歯が胸につまっていく。「ねえあの頃はよかったとは思わない?人生のなにもかもがまっすぐであったかくてむじゃきで幸せだった。なんだったのかしら」 

【122、千春さんと夫への説得】  
 説得は、激しい。説得には、生きてゆくことの激しさがある。私がしにたくても、あなたがいるのだ。あなたの説得されなさの激しさのあなたが

【123、柳本々々さんと過剰性】  
 というのも、そのたびに、そのたびに特異に、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死はまさしく《世界〈の〉終わり》だからである。

【124、樹萄らきさんとキャラ】  
 欠損と誇張を媒介として生み出されるのが「キャラ」=のび太なのだ。それゆえキャラ=のび太には内面がない。アトムの内面はアトムの髪型であり、のび太の内面は0点なのである。

【125、高橋順子さんとあなたに会ってこんなに遠くまで来てしまった】  
 あなたなんかと結婚するひとがいるとは思えないと人に言われたことがあります

【126、吉井勇さんと吉井勇さんの歌の引用を間違える谷崎潤一郎さん】  
 どこにもない(no-where)から、今・ここ(now-here)の世界へ

【127、疋田龍乃介さんと犬がひげのがん】  
 アリスはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなるかもしれないわ〉と思ったので、その行為に名前をつけた。犬、と。

【128、山下一路さんと失意のアメフラシ】  
 何一つとして人から贈られたものはない。一切のものをあらたに獲得しなければなりません。現在と未来ばかりではありません。過去さえも新たに獲得しなければならないのです

【129、月波与生さんと本当に悲しい】  
 私は、あなたにかなしい縁を感じてゐる。

【130、パパ(ほんだただよし=本多忠義)さんとパパのことば】  
 「ねえ、真実を話して」「真実? ダースベイダーはルークの父だよ」

【131、Sinさんとおでん剥ぎ】  
 むかし、友達に、いくらこころが汚濁してても、身体はきれいだからあなたのこと好きだよっていったら、ふつう逆だよねっていわれたんだ

【132、曾根毅さんと巨人】  
 立ち上がった巨人への最後の一撃は、せつない。

【133、中村安伸さんとバターになった虎】  
 ものを書くというプロセスの核心にどのような暗黒の謎がひそんでいようともそこにはただ一つの企業秘密があるだけだ。それは君は生きのびなくてはならないということなのだ

【134、囲碁川柳と体液】  
 どんなときでも彼は爽やかに「デュフフコポォ」と笑ってくれた。「心配ないよ」と言って「オウフドプフォ」と微笑した。私を励ましてくれたときの彼の「フォカヌポウ」の笑顔を私は忘れない

【135、村井見也子さんとやがて近くにいるそれ
 現代川柳は、ていねいに、ぼんやりしている。

【136、広瀬ちえみさんとなんにも見ていない】  
 戻れないけれどどうぞ

【137、山川舞句さんと怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒
 怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒

【138、奈良一艘さんと鯖缶】  
 クリスチャン・ラッセンのこんな名言がある。「フォーエバー・ラブ」

【139、むさしさんとエネルギー噴出】  
 止めてくれどんどん人が好きになる

【140、中村冨二としっぽ】  
 しっぽは、何人称なんだろう?

【141、三宅やよいさんと鶫】  
 鶫って、読めますか?

【142、北山まみどりさんと少女マンガ】  
 そもそも恋愛状態の人間というのは、いろんな矛盾の中に置かれているといってもいいんです

【143、陣崎草子さんと蛇口】  
 「好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」とモネは言った

【144、藤本玲未さんとやつ】  
 「死なせたら死んだままだと気付かずにあなたにずっと話しかけたい」はあの星のことば

【145、橘上さんとイズミ】  
 イズミは寂しさで死んだ。その寂しさは数値化され、イズミの死んだときの寂しさは「1IZ」という単位で表現され、寂しさの致死量を計る基準値となった

【146、今井和子さんとネコバス】  
 猫と本って似ているよう気がする。向こうからはこない。時々仲が悪くなる。でも仲がいい時は変に仲がいい。わかったようなきもちになることがある。そして次の瞬間わからなくなる。

【147、種田山頭火とさみしい】  
 倒錯してしまった私(猫)には帰る場所なんてない。だから私はいつもさみしい。まっすぐな道なのに全然どこにもたどりつかない。たどりつけない。歩いても歩いても。また鞄に帰ってくる

【148、カニエ・ナハさんと改行】  
 改行するのはその行のところでことばの角を曲がるからです。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです

【149、吉岡太朗さんと潜勢力】  
 よくわからない知らないひとがわたしがおしっこをするところを見にきてしかもよくほめる

【150、谷川電話さんと恋人】  
 恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の不死

【151、浅沼璞さんと桜の園】  
 あなたのものかもしれないかった桜の園がいまやわたしのものであるということ。

【152、芥川龍之介と芥川君が自殺した夏】  
 芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。

【153、ロマンシングサガ2と皇帝継承歌】  
 それに、だれにだって、あるだろう、やるしかないっていう気持になる時が。

【154、楢崎進弘さんとメロンパン】  
 次の世がメロンパンでもかまわない

【155、赤松ますみさんと光りなさい】  
 魔法だと思うこの世に生きている

【156、北川美美さんと中にどんどん入っていく
 いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、

【157、きゅういちさんと反逆
 縁取りにぬるいファンタをたててゆく

【158、いなだ豆乃助さんと渦】  
 鳴門には縁もゆかりもない@

【159、生駒大祐さんと空と底】  
 花の中をゆっくりゆっくり歩いてゆかなくてはね 

【160、柴田千晶さんと鋏】  
 複雑な穴と頭をめぐって

【161、廿楽順治さんと幼虫】  
 【ペンフレンド募集】字の書ける人ならどなたでも。顔をうしなった友だちになりませう。理想の

【162、川柳少女と五七五系女子】  
 そういえば私玉ネギだめだった

【163、徳田ひろ子さんと人】  
 野口五郎からのみんなへの問いかけ

【164、松井真吾さんと収拾のつかない空間】  
 向日葵のアジトで内緒の少女たちと遊べ

【165、河野聡子さんときみを呼ぶのは生きている者だけだ】  
 きみは長いあいだ呼ばれていると感じていた。とにかく段を踏まなくてはならない。自由にのぼったりおりたりできるわけじゃない

【166、寺山修司と中国⇄アフリカ】  
 初出のかたちは、サバンナの象のうんこよ聞いてくれつらいせつないこわいさびしい

【167、楳図かずおさんと美少女⇄蛇少女】  
 美少女の嘔吐がほしいな/裏悪水

【168、坂野信彦さんと律文】  
 日本語の発話の最小単位が二音であること。一音の語は、しばしば二音ぶんにのばして発音されます。たとえば「目見て」を「めーみて」、「絵かく」を「えーかく」というぐあいです

【169、飯島耕一さんと二人称】  
 来るべき古代にはきみは水をくぐるように生きることができる。来るべき古代にはきみは言語によって苦しまない。来るべき古代にはきみはきみとは別のものである
【170、田中槐さんと素粒子
 ニュートリノは他の粒子と相互作用しにくく私達のからだを毎秒毎秒ニュートリノは10超個以上もつきぬけてゆく。ニュートリノは空からぱちぱち降ってきて私達のからだを通り抜けてゆく

【171、佐藤弓生さんと幻想】  
 ながいながいあそびのはての生のはじまり

【172、川口晴美さんとシン・ゴジラ】  
 地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で、おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました

【173、瀧村小奈生さんと木じゃないとこ】  
 そうですかきれいでしたかわたくしは

【174、米山明日歌さんと鏡】  
 鏡からわたしやわたしたちが帰ってくる

【175、荻原裕幸さんと文字禍】  
 この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える

【176、岡部桂一郎さんと岡部桂一郎さん】  
 3に5を足せば桂一郎9になるなあ?そんなむずかしいこと聞かれても

【177、?さんと松茸】  
 壁を一枚へだてて、そこはもう、車がバンバン通ってる……壁がバタンて倒れたら、ここは、この坂を通る人や車から丸見え……フフフ……私、お化粧してこなかったことを悔やむかしら……。

【178、大岡信さんとさわる】  
 さわることはさわることの確かさをたしかめることか。

【179、鶴彬と戦争Ⅰ】  
 「驚いてはいけませんよ」と言いながら、そっと白いシーツをまくって見せてくれた。そこには、悪夢の中のお化けみたいに、手のあるべき所に手が、足のあるべき所に足が、まったく見えないで、

【180、塚本邦雄と戦争Ⅱ】  
 電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから

【181、野沢省悟さんと中村冨二】  
 私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ

【182、芦田愛菜さんと下の句の忘却】  
 「やって」と黒柳徹子は言った。

【183、河野裕子さんとあなたとあなた】  
 あなたとあなたに触れたい

【184、茨木のり子さんとわたしが一番きれいだったとき
 あなたが一番きれいだったとき、とんでもないところからいったい何が見えていたのか

【185、小久保佳世子さんと1
 一人称単数としてあなたの前へ

【186、萩原朔太郎さんと病気】  
 おわああ、ここの家の主人は病気です

【187、北野岸柳さんと密会
 歳時記の中で密会してみよう

【188、神野紗希さんとすぐそこにある神話】  
 ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題

【189、与謝野鉄幹と斉藤斎藤さん】  
 「あなたと一緒になりたい」じゃなく、「あなたになりたい」になってしまったらどうしたらいいのか

【190、奥村晃作さんとボルヘス】  
 ここにはカテゴリーしかないので、百年後、やはり、中年のハゲの男が立ち上がる、立ち上がり大太鼓打つ。年齢も頭髪も体力もまったく変わらずに。

【191、金子兜太さんとアクセスポイントⅠ
 蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合うと?

【192、小澤實さんとアクセスポイントⅡ】  
 本の山がこちらに崩れてきたときに、アクセスポイントを発見してしまう

【193、普川素床さんとアクセスポイントⅢ】  
 顔のスイッチを入れる 夜を消すのを忘れていた 

【194、佐佐木幸綱さんとたつからだ】  
 のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ

【195、村木道彦さんとするだろう】  
 「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら」とは言うけれど、誰がするのか?

 【196、前田夕暮さんとじっくり見る】  
 異常なぐらいじっくりと見る vs 顔を近づけ過ぎてだれだかわからない

【197、福島泰樹さんとバリケード・一九六六年のノルウェイの森】  
 あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし読者にも考えてほしくなかった

 【198、野口あや子さんと大きな主体】  
 わたしは今大きな主体にさらされていることがわかっている。でも、あきらめて肯定する。でも、あきらめて否定する。だから、くびもとに錐が刺さろうとしている
【199、吉田恭大さんとむこう側】  
 最後の風景は、「名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる」

2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々


  名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる  吉田恭大

最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。

高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。

  喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
  [向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
  言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
  見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
  (高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)

「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。

  ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也

「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?

短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。

金網は、どこにあるのか。

ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。

外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?

  外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車  吉田恭大


          (「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)

続フシギな短詩198[野口あや子]/柳本々々


  良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う  野口あや子

さいきん谷川電話さんの歌集について書かせていただく機会があって、そのとき、唾液というのは短歌においてどんなふうに歌語として培われてきたのだろう、と漠然と考えた。

  二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す  谷川電話
  (『恋人不死身説』)

わたしと恋人の「唾液」がエピアンの水とまじりあい、わたしと恋人が一体となった液体をひかりがきらきら通過する。赤坂真理さんの小説『ヴァイブレータ』のこんな一節を思い出す。

  栄養を取り込むように男の汗を吸っている。誰かが言ってた、人はすべてを、水溶液のかたちでしか取り込めない。空気でさえも、体内の水に溶かし込んだものを摂っていると。
  (赤坂真理『ヴァイブレータ』)

電話さんの歌や赤坂さんの小説を読んでわかるように、ひととひとが融合できるのは〈水〉になったときだけだ。わたしはどこにもゆけないが、わたしの水は(行こうとおもえば)どこでにもゆける。あなたの水はわたしのなかに、わたしの水はあなたのなかに。

で、冒頭に話した唾液と短歌をめぐる関係なのだが、飯田有子さんの歌集を読み返していたらこんな〈唾液〉をめぐる歌をみつけた。

  純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい  飯田有子
  (『林檎貫通式』ブックパーク、2001年)

実はこの歌の次は飯田さんのここでもかつて取り上げた有名なこの歌がのっている。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子

こうして連作として読んでみるとわかってくる質感は、〈無機質性〉と〈融合への拒絶〉である。「あなたの唾がきらい」や「枝毛姉さん」へのヘルプには、「あなたの唾」が入ってくることの拒絶や「枝毛」という枝分かれ=分岐の称揚がある。

こうして〈唾液〉への距離のスタンスによってその歌の質感も変わってくる。電話さんの歌なら融合感がでてくるし、飯田さんの歌なら非融合感がでてくる。

すごく長い遠回りをしたが、野口さんの歌。この野口さんの歌がおさめられている歌集タイトルは『夏にふれる』で、季節の身体性がよくあらわれているタイトルだが、この歌にも「春の唾液」というように季節の身体性があらわれている。この「唾液」は、電話さんや有子さんの歌にみられたような誰かに所有されている「唾液」ではない。「春の唾液」という大きな主体の、無人称的な唾液である(都市の唾液、国の唾液、雲の唾液のような)。

ただ、この歌が俯瞰的にみえないのは、「良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う」と、個人の発話によって「春の唾液」がサンドイッチされている点だ。ここには個人の小さな主体と季節という大きな主体がミックスされている、重層的な主体性をみることができる。

野口さんの歌集は性の主題が強くあらわれるが、この歌の「春」も性的なモチーフを含んでいると言ってもいいと思う。「良い本です よければ貸します」と性的な主体がいま近づいている、もしくは今近づかれているのだと。ただそのときの率直な性の欲動の象徴となるような「唾液」が「春の唾液」とされることによってここには大きな主体があらわれている。これは小さな主体と小さな主体の競り合いではない。背景に大きな主体をかかえた小さな主体との競り合いなのである。

だから、この小さな主体をしりぞけても、「春の唾液」はほかの小さな主体に浸透し、またやってくるだろう。性的に競り合うというのは、たぶん、そういうことなのだ。

こんな歌をみてみよう。

  性的な喩ですと言えりくびかざりと首のあいだに錐差し込んで  野口あや子

なぜ「性的な喩です」と言うことによって首に錐を刺されるような瀕死状態に陥っているのか。それは、おそらくここでも、「性的な喩なんですよね? これは?」と言ってくる相手(小さな主体)に対して、大きな主体をっみているからではないだろうか。この小さな主体を否定しても、大きな主体は否定されない。またやってくる。だから、肯定してしまう。「性的な喩です」と。否定なんかしても意味がないのがわかっているので。でも、だからといって、大きな主体のことを感覚もしている。わたしは今大きな主体にさらされていることがわかっている。だから、くびもとに錐が刺さろうとしている。

野口さんの〈唾液〉をめぐる歌は、こうした小さな主体の背後にひかえる大きな主体をみいだしたのではないか。

問題は、こうだとおもう。世界には、小さな主体を肯定しても、意味がないことがある。背後には、大きな主体がいるので。でもだからといって、背後には、大きな主体がいるのだから、否定したって、やはり、意味がないのだ。では、どうすればいいのか。

そのとき、歌う、ということがでてくるのではないのか。それを、その構造を、定型で、うたうということ。

  そういうこともありますよねって言ったときひとりで見ていた黒い川がある  野口あや子


          (「短き木の葉」『夏にふれる』ふらんす堂・2012年 所収)