2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩204[筑紫磐井]/柳本々々


  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

筑紫さんの句のひとつの特徴に、〈非-自己完結性〉(自己完結しない)ところがあるんじゃないかと、おもう。

たとえば掲句だが、「行く先」を「行く先を知らない妻」に「聞いて」いる。しかも率先して「聞いてみたい」と言っている。語り手は妻が行き先を知らないことを《知っていて》それでも「聞いてみたい」というのである。しかも〈そういうこと〉が俳句になっているのだ。

とうぜん、妻は行く先を知らないので、知らない、というだろう。それでも聞いてみたいのである。行く先を。だとすると、この行く先は、いま・どこにある行く先なのだろう。なんの目的のための行く先なのだろう。いま・ここに踏みとどまるための〈行く先〉ではないか。しかしそれはここでも私でもなく「妻」にゆだねられている。つまり、外へと。

筑紫さんにはこんな句もある。

  さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井

すぐに宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」を彷彿とさせるが、しかし「さういふもの」とは、なんだろう。「私はなりたくない」とさきほどのようにやはり〈欲動〉は発動している。しかしその目的がわからない。目的論的にならない。「さういふもの」がどういうものか、わからないからだ。さきほどの句のようにいま・ここにぐるぐる踏みとどまる句だが、「さういふもの」という何かを指し示す語があることによって、やはり〈外〉にでている。外へ。

こんな句もみてみよう。

  サムシングが足りぬと言はれさう思ふ  筑紫磐井

なにかが足りないと言われる。語り手は、言われて、そうだとも、思っている。しかし、その何かとは何なのか。しかもその何かはサムシングとなっている。この何かのサムシングの何かとは何なのか。何が足りないのか。何故サムシングなのか。「さう思ふ」と完結しそうになりながらも、「サムシング」によってやはり読み手は外に連れ出されてしまう。

この筑紫さんの俳句における「外」への連れだしエネルギーのようなものは、なんなのだろう。俳句の外へ外へとおもむこうとするエネルギー。俳句そのものを問いただしかねないエネルギー。それを俳句がもってしまうこと。

私はかつて筑紫磐井さんの掲句の拙評を書かせていただいたときにフロイトのこんな言葉を引用した。

  人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。
   (フロイト、本間直樹訳「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト全集18』岩波書店、2007年)

フロイトによると、欲動の断念、あきらめ、というのは、あきらめなきゃだめだ、があって、あきらめる、のではなくて、むしろ、逆だというのだ。最初にとつぜん、あきらめさせられて、その後に、そのあきらめさせられたことによって、あきらめなきゃだめだ、という「良心」や「倫理」がやってくるという。

  あきらめなきゃだめだ→あきらめる

ではなくて、

  あきらめる→あきらめなきゃだめだ

この外からの強制的諦めが自意識の倫理や良心を育むというのは、どこか、定型という強制的枠組みと似てはいないだろうか。

わたしたちはまず定型によってあきらめさせられる。妻にこれからの行く先をききたいし、そういうものが何かをしりたいし、サムシングが何なのかをききたいけれど、あきらめさせる。しかし、その諦めによって、定型をめぐる自意識のようなものを養っていく。これは、よいことなのだと。これこそまさに定型詩であり、俳句なのだと。まもるべきものだと。

筑紫さんの俳句というのはこうした定型と外部の交通や折衝、緊張のありかたをそのまま俳句化しているように、おもうのだ。

もちろん、わたしも知りたい。しりたいけれど、あきらめなければいけない。そしてあきらめることはよいことだと、わたしは〈もう〉おもっている。

定型は、自意識を育むことがあるのだろうか。そもそも、自意識とは、どうやってうまれているのだろう。しかしそうした自意識の探求をあきらめさせるのも、また、定型が育んでいく自意識である。

定型は欲動させながらも欲動するわたしを断念させる。

定型的自意識は、「なんにもしない」私をよしとするだろう。

  うるふ日をなんにもしないことにする  筑紫磐井


          (『俳句新空間 No.4』2015年 所収)