2017年9月30日土曜日

超不思議な短詩232[伴風花]/柳本々々


  恋人じゃないきみからの『おやすみ!』はみているだけのお菓子のように  伴風花

伴風花さんの歌集『イチゴフェア』は、歌集のタイトルのとおり、さまざまな食べ物がレトリックとして出てくる。

きみから『おやすみ!』のメールをもらっても、「きみ」は「恋人じゃない」ので〈食べる〉わけにはいかない。でも、それは、どこかおいしそうで、甘いものだ。「みているだけのお菓子のよう」なきみの『おやすみ!』。この歌は、食べ物がお菓子として甘いレトリックとして働いているが、食べ物のレトリックが効果的なのは、さまざまな味覚を有するとともに、その味覚があたたかい・つめたいによってグラデーションのような変化をもつことだ。

  キッチンにわたし一人が生きていてラップのしたのカレー冷えてく  伴風花

ラップは「カレー」を「保存」するためのものだが、どうして「冷えてく」〈状態〉を語り手は「一人」でいま、感じているのだろう。それは〈待っている〉からだ。ここで「冷えてく」のは、もちろん「カレー」だけではない。待っているわたしの〈内面〉も「冷えてく」。

冷たい食べ物と言えば、こんな啄木の詩とあわせて読んでみたい歌もある。

  われは知る、テロリストの
  かなしき心を――
  言葉とおこなひとを分ちがたき
  ただひとつの心を、
  奪はれたる言葉のかはりに
  おこなひをもて語らむとする心を、
  われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
  しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

  はてしなき議論の後の
  冷めたるココアのひと匙を啜りて、
  そのうすにがき舌触りに、
  われは知る、テロリストの
  かなしき、かなしき心を。
  (石川啄木「ココアのひと匙」1911年)

  おとうとの頬にココアの湯気がふれ終わらせてきた夢こぼれだす  伴風花

啄木の詩では、言葉と行動を分けることのできないテロリストのかなしいほろ苦い心が〈冷たいココア〉と掛けられているのだが、伴さんの歌では「おとうと」の言葉と行動が一致し、「終わらせてきた」はずの「夢」が「こぼれだす」瞬間が〈温かいココア〉と重ねられる。

1911年の冷たいココアの記憶は、2004年の温かいココアとして反転して蘇る。1911年大逆事件検挙者処刑の時代から、2004年のイラクの日本人人質事件による「自己責任論」の時代へ。

「終わらせてきた夢」とココアが出会ったが、伴さんの歌集では学生時代を詠んだ短歌に食べ物がでてくる。

  売店で牛乳を買う 炭酸も髪のばすのも一緒にがまん  伴風花

  香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに  〃

野球部のマネージャーとして野球部員と「一緒にがまん」しながら飲むときの青春の時間をパックするような「牛乳」。数学の授業であらわれた数式に消費されるだけの「りんご」や「みかん」。でもその名もなく、口に入れられることもない「りんご」や「みかん」たちは短歌のなかでパックされたまま青春の「終わらせてきた夢」として保存される。

〈イチゴフェア〉という食べ物のレトリックに彩られるわたしたちの生は、ときおり、節目となるような食べ物に保存されながら、ずっと、続いてゆく。順に忘れられながら、それでも順に、歌い出されるのを待ちながら。

  やっといて、は三十個まで保存され順に忘れる(きみのを除き)  伴風花

  りんごはまるく
  でもそのまるさは
  オレンジのそれよりもしずかで
  にぎやかなオレンジにはにぎやかなオレンジの
  しずかなりんごにはしずかなりんごの
  一年がある
  それぞれの皮の内側に
  きっちりと閉じ込められて

  髪を切ったり
  冗談を言ったり
  旅にでたり
  風邪をひいたり
  して
  一匹の蚊にとってはSF的にながい一年を
  私たちはやすやすと生きる
  (江國香織「一年」『扉のかたちをした闇』)



          (「夜の銀杏」『イチゴフェア』風媒社・2004年 所収)

超不思議な短詩231[人体の構造と機能]/柳本々々


  心臓は胸部の中心、左右の肺の間にあり、成人の握りこぶし大の大きさである。また心臓は4弁・4室からなり、体循環から静脈血は右心房へ戻り、三尖弁と呼ばれる房室弁を通り右心室、肺動脈弁から肺へ。肺循環を終えた動脈血は左心房へ戻り、僧帽弁を通り左心室、大動脈弁から全身へと血流を維持するポンプとしての構造を持っている。  山本真千子

浅沼璞さんとの往復書簡の関係で、さいきん編集をしてくれている宮本佳世乃さんとお話する機会があり、そのなかで、斉藤斎藤さんの「のり弁」の歌の話が出た。佳世乃さんは「のり弁」の歌は、同連作内の「急ブレーキ音」や「医師」との応答などの歌とあわせて読むと「のり弁」の歌の読みが一首単位とは変わってくるという(佳世乃さんは医療の仕事に携わっているのでもともとそういう視野をもっているところもある)。今回の記事は佳世乃さんとの会話から想を得ている。

次回の璞さんとの往復書簡は、「三句の転じ」と言って、句が横にひろがっていくことで〈認知のし直し〉が行われていくという話題になる予定なのだが(『オルガン』11号に掲載予定)、こうした〈認知のし直し〉は連作においても行われているように思える。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤
  (「ちから、ちから」『渡辺のわたし』2004年)

この歌は、

  問い、「(これは)なんでしょう」←答、「のり弁」

とわたしの〈問いかけ〉がわたしの見たもの(認知)に〈答えられる〉構造になっているのだが、問題は、この「ぶちまけられて」の不穏な挿入である。いくら、「なんでしょう」の正体が「のり弁」だとわかってしまったとしても、その「ぶちまけられ」た〈事態〉、だれが・なんのために「ぶちまけ」たのか、ということには答えが出ない。ここにはふたつの位相がある。

 すごくよく見ればわかること。→のり弁だとわかった

 すごくよく見ても絶対に答えがでないこと。→だれが・なんのためにのり弁をぶちまけたのか。

つまりこの歌は、形而下の「ぶちまけられたのり弁」には答えが与えられながらも、形而上の「なんのためのぶちまけられたのり弁」には答えが与えられない構造になっている(ちょっとこれは連作のタイトル「ちから、ちから」の二重構造の〈ちから〉のあり方にも関わっているかもしれない。「(答えが与えられる)ちから、(答えが与えられない)ちから」。

〈縦〉としての一首だけでみるとこうした二層構造が出てくるのだが、〈横〉として連でみていくと、この「のり弁」の歌はまた違った質感が出てくる。

この連作「ちから、ちから」には詞書を手がかりにすれば〈二年前〉にこんな歌が置かれている。

  急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛  斉藤斎藤

  医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した  〃

「急ブレーキ音」。なにかの事故に関わるものだと思うが、ただその「事故」は「愛」に関わったものである(「愛」に関わるような大事なひとが事故にあっている)。そして「医師」が心臓マッサージをしているような場面。「冷静」で判断ができそうな「ぼく」を「見」る「医師」。〈もうそろそろ(やめてもいいです)〉と「医師」に〈答える〉「ぼく」。「ぼくが殺した」は、ぼくが心臓マッサージをやめさせた、「ぼくが(愛に関わるあなたを)殺した」に掛かってゆく。

連作には、こうした〈事故〉と、その〈事故〉によって起こる医師との〈受け答え〉が置かれている。

そのまま連作を読み進めてゆくと〈その後〉として「のり弁」の歌は置かれている。事故が起きて、医師に〈答え〉て、「ぼくが殺し」て、〈答え〉が出たのだけれど、でも、「のり弁」の「ぶちまけられて」には、〈答え〉が出ない。医師への応答もそうだし、のり弁の気づきもそうなのだが、〈答える〉ことは、〈答え〉ではない。

今度の往復書簡にも書いたのだが、例えば「のり弁」の歌の一首おいて後には次の歌が置かれている。

  ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように  斉藤斎藤

〈わたし〉を包んでいた景としての「雨」は、「あめ」として隠されるように〈わたし〉の口の中に包まれながら、〈わたし〉の口の「ちから」によって溶かされながら消えていく。「ややあほらしくなりますように」と、〈のり弁的問いかけ〉そのものが放棄されるような「あほ」的状態への願いが志向されるが、しかしそれは「あほらしく」という〈擬態(ふり)〉でしかなく、また「なりますように」という〈願い〉でしかない(ことも〈わたし〉にはわかっている)。「あほ」であることを志向しながらも、その「あほ」になれない〈わたし〉の気づき。「ぶちまけられて」から逃れようのない〈わたし〉。

「のり弁」が「のり弁」と書いてある限り「心臓」のメタファーであるとは言えないが、「のり弁」をめぐる〈問いかけ〉の二重構造は愛に関わるひととの事故と連なりながらこの連作のなかで通底しているように思う。

 医師との応答:〈わたし〉が答えてしまうこと。〈わたし〉答えがきっちり享受されること。

 のり弁の問答:〈わたし〉の答えがわかること。しかしわかっただけでは出てこない〈わたし〉の問いかけに気づくこと。

 あめをめぐる問いの放棄:〈わたし〉の問いかけや答えを放棄しようとする願い。しかしその願いがどこまでいっても〈ふり〉でしかなく、放棄できない問いかけでもあることに気づいてしまうこと。

答えられることと答えられないこと、問いかけを放棄しようとすることと、問いかけを放棄しきれないこと。そうした〈わたし〉の「ゆきつもどりつ」をめぐって「のり弁」の歌がある。

「心臓」は「ひとりにひとつづつ」しかないのに、わたしたちが生きると、どうしてもそれだけでは割り切れない、「ぶちまけられて」に向き合うしかない生の様相が生まれてくる。横へ、横へ、生きるにつれて、わたしたちに、わたしたちから、わたしたちへの問い直しが、生まれてくる。

  桜餅ひとりにひとつづつ心臓  宮本佳世乃
   (『鳥飛ぶ仕組み』)


          (「心臓と血管」『人体の構造と機能』放送大学教育振興会・2005年 所収)

2017年9月29日金曜日

超不思議な短詩230[江國香織]/柳本々々


  身も世もなく恋をした果ての結婚も
  なんとなくなりゆきで
  気がついたらしていた結婚も結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに  江國香織「世界じゅうに結婚が」

江國香織さんの詩を読んでいると、ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ってどういうことなんだろうと、考えさせられる。

  あの路地にもこのビルにも
  結婚したひとたちが住んでいて
  あの電車にもこのバスにも
  結婚したひとたちが乗っていて
  あの花屋でもこの八百屋でも
  結婚したひとたちが働いている

  続いていくそれも
  破綻するそれも
  みずみずしいそれも
  かさかさのそれも
  饒舌なそれも
  寡黙なそれも
  結婚は結婚で
  世界じゅうに結婚が
  あふれ返っているのでした
  たとえばこの
  あかるい夏の夕暮れに
  (江國香織「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』)

この「結婚」をめぐる詩は、「結婚」を制度的にとらえた詩ではない。ただ、〈おどろいた〉のだ。「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ということに。そしてその「結婚」がどんなプロセスを含んでその「結婚」に行き着いていたとしても、それは〈わたし〉にとって等質な、あふれ返った「結婚」でしかないことに。

ただ、それを、びっくりしている。

〈いっしょにいる〉ひとたちが「あふれ返」るように〈いてしまう〉ことに語り手はおどろいている(そしてたぶんそのなかに〈この・わたし〉も含まれてしまうことに)。

「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」という時間の限定に注意してみよう。これは語り手が「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」「世界じゅうに結婚があふれ返っている」ことに〈気づいた〉ことをあらわしている。ある時間の区切りのなかに、「たとえば」というある任意の時間のなかに。この「たとえば」はわたしたちには関係のない時間だ。でも語り手にとっては関係のある時間なのだ。〈あるとき気づいてしまった〉時間として。

「世界じゅうに結婚が」いっぱいあること、は気づきさえすればいつでも気づけたはずなのだけれど、語り手は、とうとつに、「たとえばこのあかるい夏の夕暮れに」気づいてしまった。ひとが・ひとと〈いっしょにいる〉ことのふしぎさに。

江國香織さんの詩は、そうやって、〈いっしょにいる〉ことの不思議さに、あるとき、かみくだきながら(あの路地にもこのビルにも/あの電車にもこのバスにも/あの花屋でもこの八百屋でも)、きづいてしまう。そのときの、ふしぎさは、〈いっしょにいるってふしぎだね〉という〈あたしたちは運命的(非論理的)にであっちゃったんだね〉というほほえましいものではない。〈いっしょにいる〉ことが〈いっしょにいる〉の意味をぜんぶ剥ぎ取られながらも、それでも〈いっしょにいる〉ことしか残らないような、ちょっと、おののくような風景である。つまり、運命論とは別の、〈あたしたちの出会いなんてなんでもないのかもしれないね。それでもあたしたちはいっしょにいようとするんだね。これってなんなんだろうね。しかもそうした出会いで世界じゅうあふれ返っているんだ〉という風景。

こんな詩をみてみよう。

  よく知らない男の人と
  寝るときには緊張します
  と言えば放埒(ほうらつ)なようですが
  最初のときには
  誰だってよくは知らない男の人です
  すこしずつなじみ
  いとしんだりいとしまれたり
  あふれたりあふれさせたり
  して
  やがて
  よく知っている男の人と
  安心して寝られるようになります
  (江國香織「よく知らない男のひと」同上)

ここには〈いっしょにいる〉になるまでのかみくだかれたプロセスが描かれている。たとえよく知っている男の人でもセックスのときに至っては、いったんゼロに、「よく知らない男の人」になること。それから「すこしずつなじみいとしんだりいとしまれたりあふれたりあふれさせたりしてやがてよく知っている男の人」として〈いっしょにいる〉のに「安心」できる「男」になること。けれどそのとき、その〈気づき〉に到達したとき、〈いっしょにいる〉ことの危機もやってくる。

  けれど
  でも
  よく知っている男の人とのあれこれはみんな
  おぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり
  記憶のなかでしたたかに微笑み
  私を誘(いざ)ない
  焦がれさせるのは
  もうどこにもいない
  よく知らない男の人
  だったりします
  (江國香織、同上)

「よく知っている男の人とのあれこれはみんなおぼろであいまいな一つの記憶にすぎなくなり」、〈いっしょにいる〉という「安心」に対して、「よく知らない男の人」からの〈いっしょにいよう〉という「誘い」がやってくる。「よく知っている男の人」との〈いっしょにいる〉は、「よく知らない男の人」の〈いっしょにいよう〉からの危機にさらされる。

語り手が、世界じゅうに結婚があふれ返っている、とある日、それまで〈当たり前〉だったことを、〈知らなかったわたし〉と〈知ったわたし〉を通して気づいたように、そしてそのことを通して〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになっているように、〈知らなかったあなた〉と〈知ったあなた〉を通して、やはり語り手は〈いっしょにいる〉とはどういうことかに気づいてしまいそうになる。

  けさ
  めがさめて
  さいしょに
  たこを一匹
  まるごと茹でて
  たべたいと
  おもった
  (江國香織「一月の朝」同上)

「めがさめて」「たこを一匹まるごと茹でてたべ」るような唐突で・圧倒的で・感覚的な〈気づき〉が、だれかと〈いっしょにいる〉ときに、〈いっしょにいる〉ひとをみたときに、江國さんの詩にはしばしば訪れる。それは「たこ」のように、どこか露骨に具体的で、しかし、つかもうとすると未知であるような〈気づき〉なのだが、〈いっしょにいる〉とき、〈いっしょにいない〉ときに、その「たこ」的な気づきはやってくる。

だれかといっしょにいることは、なんなのだろう。だれかといっしょにいないことは、なんなのだろう。すごくシンプルで、ありふれていて、根の深い問いだと、おもう。うまれたときから、しぬまで、ひとが、ありふれた顔をしながら、ずっと問いかけていく、問いだと、おもう。

  そして私は
  二月の音楽にとじこめられる
  ミートソースの具体的な匂いまで

  私はなぜまだここにいるのだろう
  ひとりで この世に
  この部屋のなかに
  (江國香織「二月の音楽」同上)


          (「世界じゅうに結婚が」『扉のかたちをした闇』小学館・2016年 所収)

2017年9月24日日曜日

超不思議な短詩229[京極夏彦]/柳本々々


  せをはやみ岩にせかるゝ瀧川の、思ふ男はーーおまへならでは。  京極夏彦

京極堂シリーズには、カバーの折った部分(前袖)に、かならずその物語全体にかかわるエピグラフがかかげてあるのだが、『絡新婦の理』のエピグラフが冒頭の歌である。

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院

という百人一首からとられているエピグラフなのだが、この「おまへならでは。」というのは私はずっと京極夏彦のオリジナルだと思っていたのだけれど、そうではなくて、鶴屋南北『四谷怪談』には「夢の場」と呼ばれる夢の中の場面があって、そのなかのこんな伊右衛門とお岩のやりとりから取られていることが最近わかった。

  お岩 スリヤあのあなたの御家名は、民谷様と申しまするか
  伊右 いかにも民谷。シテ、そなたの名は、なんと言ふぞ
  お岩 アイ、わたしがその名は。…
     すなはちこれが、わたくしが
      ト差し出す。伊右衛門、取つてこの歌を見て
  伊右 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、瀬をはやみ、岩にかるゝ滝川の
  お岩 われても末に、逢はんとぞ思ふ。○(間) われても末に
      ト伊右衛門が顔をじつと見て
     逢うてたまはれ民谷様
  伊右 ヤ、さう言ふそなたは、家出しやった
  お岩 岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは
      ト膝にもたれて、思ひ入れ
  (「後日中幕」『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』新潮社、1981年)

もともと崇徳院の歌は、川の流れが岩でふたつに割れたとしても、また終いにはそのふたつの流れは必ず出会うことになる、という別れた男女の再会という〈恋歌〉になっているのだが、お岩はその恋人の再会の歌の「岩」を「岩に堰かるゝその岩が、思ふ男はおまへならでは」と自身の名前と掛けながら民谷伊右衛門に「思ふ男はおまへならでは(わたしの想う男のひとはあなたでなくてはならない)」と言う。川をせきとめる岩だったものが「岩」という名前になることで、すさまじく情念のこもったものにもなっている(つまり、彼女は誰かと誰かを引き剥がし別れさせる障害物にもなりうるような存在でもある)。

この百人一首と四谷怪談が複合した歌が、『絡新婦の理』のエピグラフになっている。「二人は別れてしまうけれど、やっぱりあなたではなくてはなりません」

じゃあ、『絡新婦の理』ってどういう物語だったんだろう。

京極夏彦の小説は〈レンガ本〉と言われるようにとても分厚く長大な物語(ミステリ)なのだが、この『絡新婦の理』というストーリーを私なりにこんなふうに短く要約してみたいと思う。

 システムに自覚的なあまり悲しい男が、システムに無自覚なあまり悲しい女に出会う物語。

ここで男とは京極堂であり、女とはこの事件の本当の犯罪者(絡新婦=じょろうぐも)のことである。どちらもシステムをめぐる立場でありながら、自覚/無自覚というちがいをとおして、ふたりは〈おまえではなくてはならない〉ような人間(おまえ)に出会う。

  「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理(ことわり)から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を常に括弧(かっこ)に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識(し)っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」
  「あ、貴方はーー」
  「《僕の悲しみ》はそこにあるのです。あなたにはそれはないのかと、ずっと思っていた。しかしどうやら、あなたはそれに無自覚だっただけのようだーー」
  男は女に向き直る。
  女は戦(おのの)く。しかしたじろぐことはしない。
  男は隈取(くまどり)のある凶悪な眼で女を見据える。
  「ーーこれで漸く解りました。あなたは《あなたが発動した計画がどのような理に則って動く》のか、全く理解していなかったのですねーー」

  「ーーだからあなたは《止められなかった》んだ」
  (京極夏彦『絡新婦の理』)

京極堂/犯罪者双方ともシステムに関わる者としては二人はおなじ種類の人間である。二人ともシステムを産み出す側の人間だ(ちなみによく探偵と犯罪者は一心同体ではないかと言われることがある。事件解決とは事件を忠実にたどり直すことに他ならないから探偵は犯罪者の立場になることができる人間なのだ)。

ただ京極堂はシステムを産み出す(解決する/説明する)ときにそれを自覚している。ほんとうはやりたくないことなのだとも思っている。じぶんができることなんてなにもない。ただシステムを言葉にして可視化するだけだ。そんなことは実は意味がない。なんの生産にもならない。出来事の速度を、結果をはやめるだけだ。それになんの意味があるのか。だから彼はかなしい。この世の中に《不思議なことはなにもない》のだから放置しておけばいい。なるようになる。でも彼はひっぱりだされ、システムを言語化=可視化するよう要請=強制させられ、そのことによって、時間を、時間の流れを、出来事の流れをはやめ、出会うべくして出会うべきだった不幸なものたちを不幸なかたちで出会わせることに《たずさわる》。ネガティヴな「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」を京極堂は雑司ヶ谷の産院の事件から、ずっと行っているし、行わされている。

でも『絡新婦の理』の犯罪者には、そのシステムの理(ことわり)が自覚できていなかった。彼女にとっての「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、いつも、偶発的なかたちで(彼女の思いがけないかたちで)起こった。京極堂にとっては必然的な「瀬をはやみ~」は、彼女にとっては偶発的な「瀬をはやみ~」だったのだ(そしてたぶんそのことさえをも自覚してしまうこと、できてしまうことをも京極堂は悲しがっている)。

『絡新婦の理』はフェミニズムをめぐる長大な物語なのだけれど、シンプルにまとめるならば、こうしたシステムの認識の違う男女が《出会う》物語としてみることができる。そして、その意味で、実は、『絡新婦の理』の最大の事件は、この男女がすれ違いつつも《出会(ってしま)う》ことにある。

犯罪者である彼女にとって、この《違い》を教えてくれるのは、たぶん、京極堂しかいなかった。その意味で彼女にとって「おまへならでは」は京極堂である。そして京極堂にとって彼女にそれを教えてやれるのは自分しかいなかった。悲しいことだけれど京極堂にとってまた彼女も「おまへならでは」だった。

フェミニズムが、男女の出会いを演じながらも、その違いを、《男女の出会いの失敗》を、析出する思想であるならば、まさしく本書は〈フェミニズム〉をめぐる物語である。『絡新婦の理』では、男女の出会いが、男女の出会いの失敗が、出会いの失敗のあきらめが、しかしその失敗からのかすかな新しい希望が、描かれる。

この長大な物語の最初と最後は同じセリフであり、ループのような構造になっている。この京極堂の一言で『絡新婦の理』は、始まり・終わる。

  「あなたがーー蜘蛛だったのですね」

つまり、この物語は、男女が出会い、男が女に「蜘蛛」としての、複雑に交錯=交雑するシステム(蜘蛛の巣)の中央に君臨する者としての、アイデンティティを付与する物語だということができる。

だけれども、それは決して男が女に名付けを与える類のマスキュリンな、マッチョな物語ではない(男から女への「感情教育」の物語ではない)。なぜなら、男は、京極堂は、そうせざるをえないことを自覚し、悲しんでいるから。

つまり、はじめから、どの事件でもそうなのだが、京極堂は負けを自覚してやっている。負けを自覚はしているが、しかし京極堂の悲しみは、負けを自覚することではなく、他者に関わりながら・なにもできないことの〈自覚〉にある。それを〈負け〉というなら〈負け〉だが、『邪魅の雫』で超越的探偵の榎木津礼二郎が言ったように、大事なことは「勝ち負け」でも「善し悪し」でもない。他者に今関わっている自分を「逢いたかった」とか「久し振り」とか「こんにちは」と〈関わり〉として自覚することなのだ。

  「え?」
  「馬鹿野郎と云った。君はーー本当に馬鹿だ」
  「わ、私は、だって」
  「逢いたかったとか、久し振りとか、せめてこんにちはとかーーそう云うことを云うものだろう」
  「だってーーそんな、私は」
  「勝ち負けじゃないぞ」
  「勝ちーー負け?」
  「善し悪しでもない」
  どう云うーー意味?
  「解らないようだな」
  「え、榎木津君ーー」
  「もう遅い」
  (京極夏彦『邪魅の雫』)  

他者にいま自分が関わりながら同時になにかをしてあげることの限界を自覚することの認識。探偵にあって、犯罪者にないものは、それだ。犯罪者はいつもそれに《気づく》ことの「遅さ」を抱えこんでいる。

『絡新婦の理』はそうした意味で、京極堂シリーズにおける京極堂の〈悲しい認識〉、ひいてはすべての探偵たちの〈悲しい認識〉を位置づける物語になっている。

探偵たちは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に」、幾つもの事件を通して、世界の中心にいようと《試みた》「おまへならでは」に出会う。

探偵たちは、数限りない事件と再会をとおして、犯罪者たちに告げる。この世界には中心なんてないのだ、と。

  それは幻想(まやかし)だ。
  大いなる錯誤だ。
  己と世界は同等だとーー。
  或いは己こそが世界だとーー。
  或いは己が世界の中心に居るとーー。
  何(いず)れも間違っている。
  あの奇妙な男が教えてくれたことだ。
  …世界の構成要素であることと、世界そのものであることは、同義ではない。
  そしてーー世界に中心などない。
  (京極夏彦『邪魅の雫』)


          (『絡新婦の理』講談社・1996年 所収)

*システムの網の目とその中心にいるものの話をしたが、歴史的に考えてみると、『絡新婦の理』は1996年刊行であり、1995年がインターネット普及の年だったことを思い出してもいいかもしれない(1996年はヤフー創業年)。つまり、わたしたちが蜘蛛の巣状のネットワークのセカイの中心になりはじめたときなのである。1995年『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話タイトルは「セカイの中心でアイを叫んだけもの」だった。ちなみに『邪魅の雫』はセカイ系がテーマの事件になっている。

2017年9月23日土曜日

超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々


  ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび  ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」

現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。

  『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
  (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)

『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。

  バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
  (同上)

意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。

こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。

『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。

90年代後半の歌になるが

  歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける  荻原裕幸
  (『デジタル・ビスケット』)

「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。

あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。

92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、

  だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ  荻原裕幸

などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。

こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。

ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。

だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。

日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。

  春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒  荻原裕幸


          (『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)

2017年9月21日木曜日

超不思議な短詩227[レイモンド・カーヴァー]/柳本々々


  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。  村上春樹

村上春樹はレイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」についてこんな解説を書いている。

  夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。……すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破綻している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには《救済があってもよかったのだ》。
  (村上春樹「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』)

真夜中、夫婦は、事故で死んだ子どもの腹いせをするかのようにパン屋に押しかける。でも、夫婦は《ほんとうに思いがけなく》その場で・そのとき、パン屋とパンを通して、非言語的に和解する。なんて言ったらいいか誰にもわからないような啓示的な瞬間が訪れる(「大聖堂」や「ぼくが電話をかけている場所」や「ダンスしないか?」なども同じ構造をとっている)。

以前に、カーヴァーと鴇田さんとの親近感のようなものを書いたのだけれど、わたしが気になっている句にこんな句がある。

  うすぐらいバスは鯨を食べにゆく  鴇田智哉
    (『凧と円柱』)

最近、この句について考えていたときに、ふっとまた思い出したのが、カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」だった。いったい、なにが、親近しているのだろう。

トークのときに鴇田さんが話されていたのを聞いたのだが、たしかこの鯨の句は、〈吟行句〉だったと思う。たしかに、バスってうすぐらいときがあるし、バスに乗って鯨を食べにゆくような経験をすることがひとにはあるとおもう。〈そのまま〉読もうと思えば、〈そのまま〉読める句である。

カーヴァーの短編も同じで、なにかが起こっているのだが、しかしなにか超常現象のようなことが起こるわけではない。SF的なことが起こるわけでもない。ただパン屋はあたたかいパンを真夜中にこどもを亡くし怒っている夫婦に提供しただけで、怒り心頭の夫婦はそのあたたかい糖蜜たっぷりのパンをもくもく食べただけだ。

だから、なにも起こっていないのだが、なにかが起こっているようにも思える。

なんでか、あえて、かんがえてみたい。

たとえば、カーヴァーの小説でいえば、パン屋は〈世界の果て〉と等価になっている。そこは、ふつうのひといとってはただのパン屋だが、夫婦はパン屋にとっては世界のぎりぎりの果てである。だからこの世界の果てで命を養うということが神秘的な意味をもつことになる。まるで世界がむしゃむしゃパンを食べ、世界自体が栄養補給し回復の途上にあるような感覚になるのだ。それが、啓示として感じられるのではないか。パン屋という部分で世界という全体をあらわすこと。それを提喩的、といってもいいかもしれない(提喩とは、皿が食べ物をあらわすといった、部分が全体をあらわすたとえ)。

鴇田さんの句をみてみよう。「うすぐらいバス(に乗ってわれわれ)は鯨(料理)を食べにゆく」という意味なのだが、定型で省略されることによって、「うすぐらいバス」自体が生命をもちあたかも「鯨」をまるごと食べにゆくようなダイナミックな構図になる。その「うすぐらいバス」は、カーヴァーのパン屋のような世界の縮図になっている。「うすぐらいバス」というバスが〈自然〉に還ってゆくようなミニマルな世界が、みずからのエネルギーを補給するかのように鯨をくらいにゆく。

そのまま読めばそのままなんだけれど、そのまま読むと省略された世界の縮図のようなものに関わってしまい、自分でも意識しないかたちで〈啓示〉にふれてしまうこと。そのようなことが、鴇田さんの句にもあるのではないだろうか。

世界の終わりの風景のなかの箱船としてのバス・その世界と等価としての〈聖書物語〉的な鯨・食べる、という根源的行為。でも、そのまま読めば、そこには、なんにもない風景。なんにもないけれど、すべてがあること。

  彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
  (レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』)

  ここは何処だらうか海苔が干してある  鴇田智哉

          (「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』中央公論社・1989年 所収)

2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

超不思議な短詩225[石川美南]/柳本々々


  村を捨てた男の家はこの冬より民俗資料館へと変はる  石川美南

石川さんの短歌にとっては、テキスト(文字/文章/資料/書物/物語)と生世界の交渉がとても大事なテーマのように思う。

掲出歌。それまで生活空間として生きられていた「男の家」は、「民俗資料館」という読みとられるテキストの館へと変わる。これは「村を捨てた」という共同体の離脱と深い関わりがある。ひとが共同体を離脱するその瞬間は、ひとがテキストそのものになる瞬間かもしれないということを示唆している。

その流れでこんな短歌をみてみよう。

  何ひとつうまく行かざる金曜よポップだらけの書店にひとり  石川美南

「何ひとつうまく行か」ないという生世界=現状の噛み合わなさが「ポップだらけの書店」というやはりテキストの〈館〉と複合される。書店もやはり「民俗資料館」のように「ポップだらけの書店」として読みとられるテキスト空間をなしているのだが、「ポップだらけの書店」という複雑なテキスト空間がある問いを喚起する。

いったいテキスト空間とはなにが読まれえて・なにが捨てられるのか、と。「民俗資料館」にしても「ポップだらけの書店」にしても、本当に読まれるべきテキストは「民俗」や〈書物〉のはずなのだが、そこには「資料館」や「ポップ」でパッケージングされてしまったがために〈到達できないテキスト〉もあらわれてくる。つまり石川さんの短歌では、生活世界とテキストがまず交渉しているのだが、そのテキスト空間も「ポップ」対〈書物〉とテキスト同士が交渉しあっているのだ。

  実現に至らなかつた企画たちが水面(みなも)に浮いて油膜のやうに  石川美南

そして読まれえなかった企画(テキスト)たちは、生活世界のなかに「油膜」のようにどろどろした記号ならざるものとして、帰ってくる。

  空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬  石川美南

  鼻うたや夢の類(たぐひ)も記録して完璧な社史編纂室よ  〃

「折り紙の犬」というテキストになれたはずの「紙」が「呼吸」という生命を帯びながらこちらの世界に帰ってくる。一方で、「鼻うたや夢の類」は、「記録」され、〈テキスト〉となり、わたしたちの生きられる生活世界から「完璧な社史編纂室」というもう手のつけられることも変化することもできない〈死んだテキストの館〉へと葬られる。

こちらとあちらの往還の物語。歴史ではこれまでも・これからもずーっと反復されてきた物語だ(最古では『古事記』の死んだ伊邪那美(イザナミ)に逢いたくて黄泉国に逢いにいった伊邪那岐(イザナギ)のあちらとこちら。日本最古の引きこもりともいわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)がこもった天岩戸というあちら)。

たとえばこんなふうに同時代の漫画文化と結びつける想像もしてみたい。石川美南さんの歌集『裏島』は2011年に刊行された。 諫山創の漫画『進撃の巨人』の連載がはじまったのは2009年だけれども、『進撃の巨人』では〈壁(か・べ)〉を介して、こちら側とあちら側が行き来する、ときに、こちら側があちら側であったりあちら側がこちら側であることが露呈してゆくこちらとあちらのねじれの物語が描かれた。花沢健吾『アイアムアヒーロー』も感染によって〈強化ゾンビ化〉してゆく感染を介したあちら側とこちら側の物語だったが、それは〈わたし〉の感染可能性によってあちらとこちらが交錯しねじれていく物語としてもあった(『アイアムアヒーロー』には、ほかにも非モテ/モテ、2ちゃん的情報世界/非2ちゃん的情報世界などさまざまな境界の往還がある)。

石川さんの歌集のなかには、〈紙(か・み)〉を介したテキストと生世界の往還や交渉、交錯が描かれており、テキストと生のどちらかがどちらかへと影響を与え続けるような一方的な関係は描かれてない。テキストと生は交渉しあい、あちらとこちらはねじれつづける。

あちらとこちらの境界線は、ねじれ、たびたび、ずっと、ゆらめく。

あちら(テキスト)と、こちら(生)は、ときどき、ちかづき、交渉し、ひっくりかえり、こちら(テキスト)とあちら(生)になり、また、ちかづく。

書き「足」すたびにわたしたちは境界線をつくり、あなたとわたしとあちらとこちらにわかれる。

  凸凹に描き足してゆく、ある人は煙をある人は階段を  石川美南


          (「晩秋の」『裏島』本阿弥書店・2011年 所収)

2017年9月19日火曜日

DAZZLEHAIKU11[西原天気]渡邉美保



   空港に靴音あまた秋澄める   西原天気



「空港に靴音あまた」と言われると、素直にそうだと思ってしまう。至極当然のことなのに、はっとするものがある。

秋になり、空気が澄み、遠方の山や木々がよく見えるようになる季節、「秋澄める」である。どこか遠い所へと、旅に出たくなるような、そんな時季、旅の出発点としての空港が目に浮かぶ。
空港の建物の中は旅行客が行き交い、雑多な音もまた行き交っている。一句の中、周囲のさまざまなものは一切省略され、靴音だけがある潔さ。普段はあまり意識しない靴音が、秋の澄んだ空気のなかで、高らかに弾んでいるような気分にさせてくれる。

空港には、空の広やかさがあり、遠くまで見わたせる明るさがある。澄みわたった秋空のなかを、これから飛び立つ旅への期待感が増す。


〈句集『けむり』西田書店2011年所収〉  


超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

  そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)