2017年9月30日土曜日

超不思議な短詩231[人体の構造と機能]/柳本々々


  心臓は胸部の中心、左右の肺の間にあり、成人の握りこぶし大の大きさである。また心臓は4弁・4室からなり、体循環から静脈血は右心房へ戻り、三尖弁と呼ばれる房室弁を通り右心室、肺動脈弁から肺へ。肺循環を終えた動脈血は左心房へ戻り、僧帽弁を通り左心室、大動脈弁から全身へと血流を維持するポンプとしての構造を持っている。  山本真千子

浅沼璞さんとの往復書簡の関係で、さいきん編集をしてくれている宮本佳世乃さんとお話する機会があり、そのなかで、斉藤斎藤さんの「のり弁」の歌の話が出た。佳世乃さんは「のり弁」の歌は、同連作内の「急ブレーキ音」や「医師」との応答などの歌とあわせて読むと「のり弁」の歌の読みが一首単位とは変わってくるという(佳世乃さんは医療の仕事に携わっているのでもともとそういう視野をもっているところもある)。今回の記事は佳世乃さんとの会話から想を得ている。

次回の璞さんとの往復書簡は、「三句の転じ」と言って、句が横にひろがっていくことで〈認知のし直し〉が行われていくという話題になる予定なのだが(『オルガン』11号に掲載予定)、こうした〈認知のし直し〉は連作においても行われているように思える。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤
  (「ちから、ちから」『渡辺のわたし』2004年)

この歌は、

  問い、「(これは)なんでしょう」←答、「のり弁」

とわたしの〈問いかけ〉がわたしの見たもの(認知)に〈答えられる〉構造になっているのだが、問題は、この「ぶちまけられて」の不穏な挿入である。いくら、「なんでしょう」の正体が「のり弁」だとわかってしまったとしても、その「ぶちまけられ」た〈事態〉、だれが・なんのために「ぶちまけ」たのか、ということには答えが出ない。ここにはふたつの位相がある。

 すごくよく見ればわかること。→のり弁だとわかった

 すごくよく見ても絶対に答えがでないこと。→だれが・なんのためにのり弁をぶちまけたのか。

つまりこの歌は、形而下の「ぶちまけられたのり弁」には答えが与えられながらも、形而上の「なんのためのぶちまけられたのり弁」には答えが与えられない構造になっている(ちょっとこれは連作のタイトル「ちから、ちから」の二重構造の〈ちから〉のあり方にも関わっているかもしれない。「(答えが与えられる)ちから、(答えが与えられない)ちから」。

〈縦〉としての一首だけでみるとこうした二層構造が出てくるのだが、〈横〉として連でみていくと、この「のり弁」の歌はまた違った質感が出てくる。

この連作「ちから、ちから」には詞書を手がかりにすれば〈二年前〉にこんな歌が置かれている。

  急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛  斉藤斎藤

  医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した  〃

「急ブレーキ音」。なにかの事故に関わるものだと思うが、ただその「事故」は「愛」に関わったものである(「愛」に関わるような大事なひとが事故にあっている)。そして「医師」が心臓マッサージをしているような場面。「冷静」で判断ができそうな「ぼく」を「見」る「医師」。〈もうそろそろ(やめてもいいです)〉と「医師」に〈答える〉「ぼく」。「ぼくが殺した」は、ぼくが心臓マッサージをやめさせた、「ぼくが(愛に関わるあなたを)殺した」に掛かってゆく。

連作には、こうした〈事故〉と、その〈事故〉によって起こる医師との〈受け答え〉が置かれている。

そのまま連作を読み進めてゆくと〈その後〉として「のり弁」の歌は置かれている。事故が起きて、医師に〈答え〉て、「ぼくが殺し」て、〈答え〉が出たのだけれど、でも、「のり弁」の「ぶちまけられて」には、〈答え〉が出ない。医師への応答もそうだし、のり弁の気づきもそうなのだが、〈答える〉ことは、〈答え〉ではない。

今度の往復書簡にも書いたのだが、例えば「のり弁」の歌の一首おいて後には次の歌が置かれている。

  ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように  斉藤斎藤

〈わたし〉を包んでいた景としての「雨」は、「あめ」として隠されるように〈わたし〉の口の中に包まれながら、〈わたし〉の口の「ちから」によって溶かされながら消えていく。「ややあほらしくなりますように」と、〈のり弁的問いかけ〉そのものが放棄されるような「あほ」的状態への願いが志向されるが、しかしそれは「あほらしく」という〈擬態(ふり)〉でしかなく、また「なりますように」という〈願い〉でしかない(ことも〈わたし〉にはわかっている)。「あほ」であることを志向しながらも、その「あほ」になれない〈わたし〉の気づき。「ぶちまけられて」から逃れようのない〈わたし〉。

「のり弁」が「のり弁」と書いてある限り「心臓」のメタファーであるとは言えないが、「のり弁」をめぐる〈問いかけ〉の二重構造は愛に関わるひととの事故と連なりながらこの連作のなかで通底しているように思う。

 医師との応答:〈わたし〉が答えてしまうこと。〈わたし〉答えがきっちり享受されること。

 のり弁の問答:〈わたし〉の答えがわかること。しかしわかっただけでは出てこない〈わたし〉の問いかけに気づくこと。

 あめをめぐる問いの放棄:〈わたし〉の問いかけや答えを放棄しようとする願い。しかしその願いがどこまでいっても〈ふり〉でしかなく、放棄できない問いかけでもあることに気づいてしまうこと。

答えられることと答えられないこと、問いかけを放棄しようとすることと、問いかけを放棄しきれないこと。そうした〈わたし〉の「ゆきつもどりつ」をめぐって「のり弁」の歌がある。

「心臓」は「ひとりにひとつづつ」しかないのに、わたしたちが生きると、どうしてもそれだけでは割り切れない、「ぶちまけられて」に向き合うしかない生の様相が生まれてくる。横へ、横へ、生きるにつれて、わたしたちに、わたしたちから、わたしたちへの問い直しが、生まれてくる。

  桜餅ひとりにひとつづつ心臓  宮本佳世乃
   (『鳥飛ぶ仕組み』)


          (「心臓と血管」『人体の構造と機能』放送大学教育振興会・2005年 所収)