2017年2月17日金曜日

フシギな短詩85[くんじろう]/柳本々々


  新月をまさぐったのはムーミンパパの方  くんじろう

ムーミン谷は記号学のようなところがある。ムーミンたちは記号の差異によって成立している。たとえばムーミンパパのシルクハットやムーミンママのエプロン、スノークのお嬢さんの前髪、署長さんの制服。

裸にしてしまえばムーミンたちに差異はないがわずかな記号の差異によってムーミンたちは弁別されている。だから、パパは毎日シルクハットをかぶるし、ママは毎日エプロンをかける。

つまり、ムーミンたちの身体性とは、身体そのものにあるのではなく、シルクハットやエプロンの方にある。それがかれらの身体を成立させている。

ところがこの句では「まさぐる」という動詞を採用することにより、それまではシルクハットにあったムーミンパパの身体性を〈手〉の方に移植している(あなたはムーミンパパの手をこれまで一度でも意識したことがあったか)。

「新月」のとき、太陽と月が同じ方向にあるため、月が見えなくなる。太陽のまぶしさでわたしたちには月がみえないのだ。だからみえなくなった「月」を「まさぐ」る必要性があるのだが、この「ムーミンパパの方」の「の方」に注意してみよう。

ここではムーミンパパ以外のだれかも「まさぐる」可能性があった。ママかもしれないし、スナフキンかもしれないし、ヘムレンかもしれないし、ミイかもしれない。

でも、「まさぐ」ったのは「ムーミンパパの方」だった。ここでは「ムーミンパパの方」という、シルクハットで弁別していたやり方とはちがうやり方で、「まさぐらなかった誰か/まさぐったムーミンパパ」という〈新しい弁別〉が持ち込まれている。 

「シルクハットをかぶっているムーミン/シルクハットをかぶっていないムーミン」という名詞で弁別されるのではなく、「まさぐったムーミン/まさぐらなかったムーミン」という動詞で弁別される状況。

もしこの句に性的なエロスがあるのだとしたら、わたしは、その名詞から動詞への転換こそが、エロいのではないかと思うのだ。エロスとは、それまで結びつかなかったような新しい記号の文法のことだから。エロスにはいつも驚きと興奮しかない。

このムーミンパパの句は、榊陽子さんが選者となり、森茂俊さんの出題「ムーミン」のもと、『川柳 北田辺』の句会において行われたものだけれど、榊さんが選んだほかのムーミン句もみてみよう。

  ムーミンと同じ顔色の子供  竹井紫乙

  くちびるがなくてムーミンくちづけす  野口裕

  人間を見るためムーミン谷へ行く  森田律子

現代川柳は、ムーミンにおける新しい身体性を見いだすことに積極的なのかもしれない。たしかにムーミンの肌の色は病的であり、ムーミンにはくちびるがない。これらの句はこれまでのムーミンのありかた=身体性を解体している。ここではこれまでのムーミンが〈不在〉になる。「人間を見るためムーミン谷へ行く」のも、〈ムーミンを不在〉化させるやり口だ。

川柳において、ムーミンたちは、ムーミン的な外部へ、さらけだされる。
  
では、俳句におけるムーミンはどうなのだろう。

俳句においては、ムーミンについて、なにも言わない。なにも言わないことを言うことで、ムーミンを語ろうとする。川柳はムーミンについて非ムーミン的ムーミンを語ろうとするが、俳句はムーミンについてムーミン的ムーミンという同語反復を語ろうとする。いったい何を言っているのかというと、

  ムーミンはムーミン谷に住んでゐる  高山れおな


          (「題「ムーミン」榊陽子 選」『川柳 北田辺』76号・2017年1月 所収)