2017年2月3日金曜日

フシギな短詩81[尾崎放哉]/柳本々々


  咳をしても一人  尾崎放哉

自由律俳句ってなんなんだろうと時々考えるのだが、次の上野千鶴子さんの言葉にひとつのヒントがあるような気がする。

  放哉もある時期までは順当にエリートコースを歩んできた人ですよね。捨てて、捨てて、捨てて、捨てきったはずなのに、言葉を捨てないという 

  (上野千鶴子「「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社、2016年)

私は今まで自由律を「自由」に「律」をつくりこむことから、〈盛る〉文学だというふうに考えていた。定型に加えて、さらに〈盛り込んで〉いくのが自由律なのだと。

でも、上野さんの言葉を読んだときに、実は逆なんじゃないかとふと思った。〈捨てる〉のが自由律なんじゃないかと。それはどれだけ長くてもそうなのだ。たとえば、

  鳩が出はひりするまるいあながみんなうすぐらい  中塚一碧樓

この句もこれだけ長くても、捨てられた〈あと〉の句なのだ。

いったいなにを捨てているのか。

それは、〈定型〉である。定型が捨てられた地点から自由律は出発する。その意味でどれだけ長くてもそれは〈捨てた〉文学なのだ。

ただし、上野さんが「捨てきったはずなのに」と述べたように、「自由」を志向しながらもそのせつな「律」とふたたび「律」に支配されるところに〈自由律〉の特徴がある。〈定型〉を捨てたはずなのに、ふたたび、また別の顔で、ちがった顔をして、〈定型〉はやってくるのだ。

吉田知子が小説で書いていたことだが、〈捨てる〉ということのいちばんこわいことは、一度捨てたものは二度と捨てられないことだ。

  もう帰る、と私は老婆に言った。……  「あんたは帰れんよ」老婆は言った。「帰れる道理がなかろうがさ。これまでだって捨てられんかったんだ。あんたは捨てた気かしらんが。一度捨てたら二度は捨てられんよ」
  (吉田知子「迷蕨」『お供え』講談社文芸文庫、2015年)

すなわち、〈捨てる〉ということは、どこかでそれを永遠に背負っていくことも意味する。

  咳をしても一人  尾崎放哉

の〈孤独感〉とは〈定型〉を捨てた・にもかかわらず、せきを・しても・ひとり、と3・3・3の律(リズム)をつくろうとしているところにあるのではないか。しかし、その律は、孤独である。この句とともに、その律は運命を終えるかもしれない。その意味でこの律は「咳」のようなものだし、その「咳」の律はたとえ律だとして「も」〈一人〉だ。

だけれども、〈捨てた〉あとの風景とはそういうものではないか。

  日本語の生理は、ものすごく五七五にひきずられていくんです。「適齢期みんなで越せば怖くない」とか「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」とか、五七五にしてしまえばどんな標語でも何となく詩のフレーズになるみたいに、言語的に定型にひきずられていくでしょう。この重力を振り切るには、逆噴射みたいなものすごいパワーがいるはずなんです。
  (上野千鶴子、同上)

俳句も短歌も川柳も定型を通して、定型のなかで、定型にふちどられて、定型に去勢されて、なにかを語るのだが、その意味では、定型に依拠した世界に対する〈失語〉なのだが、しかし、《定型そのものに対して失語》を感じた者はどうすればよいのか。世界に対して、ではなく、定型に対して言葉を失ってしまった人間。定型によってこわれてしまったにんげん。そのにんげんの律はいったいどうなるのか。

その問題が、自由律にはあるんじゃないか。

こわれても、こわれても、こわれても、なおあふれでた言葉。


  春の山のうしろから烟が出だした  尾崎放哉


          
(「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社・2016年 所収)