2017年7月14日金曜日

続フシギな短詩140[中村冨二]/柳本々々


  では私のシッポを振ってごらんにいれる  中村冨二

しっぽとは、なんなのだろう。

『オルガン』9号・2017年5月号の「座談会 斉藤斎藤×オルガン」のなかに〈しっぽの話〉が出てくる。

  尾のあれば春の闇より目を凝らす  鴇田智哉

人称をめぐる話のなかで鴇田さんがあげたこの句を斉藤斎藤さんは「三人称的私性」だと述べている。

  三人称的一人称というのは「私」を三人称的に、外から見て説明してるということです。たとえば「ぼくは高校生だ」は、文法的には一人称ですが、実質的には三人称ですよね。ふだん高校生は「ぼくは高校生だ」と意識していない。わざわざそう思うのは、自分について客観的に振り返ったり、他人に説明したりするときぐらいです。それと同じで、「尾のあれば」とわざわざ言っているということは、尻尾が生えた「私」を三人称的に意識しているということになりますし、成り代わりというか、もともと尻尾が生えてたんではない感も出てると思うんですね。……で、そういう意味で俳句の「私」はどうしても、三人称的一人称になりがちな気がするんです。
  (斉藤斎藤「座談会 オルガンからの質問状」9号、2017年5月)

もともと尻尾が生えていたなら、尻尾を意識することはない。「尾のあれば」という言説は出てこない。「尾のあれば」という言説が出てくるのは、〈尻尾があるわたし〉を意識して〈三人称的〉に語っているからということになる。〈一人称的〉に語るなら、〈尻尾の意識〉を持つ必要がないからだ。たとえばこう考えてみてもいい。わたしに指があるのでわたしはせっけんをつかむ。こんなふうに意識して、指の意識をもって、わたしたちはせっけんをつかむだろうか。ただ・単に、つかむのではないだろうか。つかむ、ということさえ意識せずに。

ここで「人称」の話をめぐって〈しっぽの句〉が提出されたのが興味深いと思うのだが、〈しっぽ〉とはもともと私たちが持っていないものである。だから〈しっぽ〉にどう言語的対応をしていくかで、人称や主体のバランスが変わってくる。

「尾のあれば」は、「今の私には尾があるので」であり、「尾がないわたし」が想定されている。この「尾のあれば」という言説によって、尾があるわたしを外からみているわたしという三人称的一人称がたちあがる。

ちなみに鴇田さんは「三人称」感とは逆にこの句を「『私が』という主語で読める句であり、作者もそういうつもりで提出しています」と自解している。この「尾のあれば」の唐突な切り出し方は、(あ、わたしにいま尻尾がある!)感もある。(あ、わたしにいま尻尾がある!)で突然語り始めたならそれは潜在的には一人称的一人称とも言える。俳句の短さがその唐突さを用意し、その唐突さが俳句に三人称的一人称だけでは割り切れない微妙な人称性の揺らぎなりショックを与えているとも言える(ただし、鴇田さんの俳句が一般の俳句とは異なり〈人称の微妙な不安さ〉をそもそも抱えているのだとも言えるかもしれない)。

中村冨二の川柳では〈しっぽ〉にどう向き合っているだろう。冨二の句は、「では私のシッポを振ってごらんにいれる」と現代川柳によくある口語体がとられている。口語体なので〈あなた〉に話しかけているのであり、この場合、わたしの発話としての一人称的一人称になっている(ただこれも微妙で発話というのを一人称的一人称にするか三人称的一人称にするかという問題はあると思う)。また「では」という応答の接続詞が入ることにより唐突さもなくなっている。ただし、575定型は破調し音数は長くなっている。口語体の発話である点と、接続詞の準備により、〈一人称的一人称・的〉になっている。

しっぽの話にしては複雑なので、今回のしっぽの話をまとめてみよう。

まず「しっぽ」を私たちは持っていない。だから、しっぽの私を語るとき、わたしたちはその語り方によってさまざまな人称のバランスに分かれていく。

その分かれ方に関しては、どれだけの音数でしっぽを語れるか、またどのような言葉のつなぎ目(助辞、言辞)をもってしっぽを語るかで、三人称的一人称のしっぽの私になったり、一人称的一人称のしっぽの私になったりする。なったりするのだが、どうしても〈他ならない・この人称〉と割り切れないのは、しっぽが〈わたしのもの〉でありつつも〈わたしのものじゃないもの〉だからだと思う。言わばしっぽとは、私のはんぶんはんぶんなのだ。

犬のしっぽ、とか、猫のしっぽ、とかならいいのだが、〈わたしのしっぽ〉となった場合、それは〈わたしのものじゃないもの〉でありつつも〈わたしのもの〉になっている。

谷山浩子「しっぽのきもち」という歌にあるように、「スキというかわりにゆれる」のがしっぽであり(いい歌だ)、それはわたしの身体やわたしのきもちの半分を受け持ちながら、わたしを、半分、ないがしろにしていく。しっぽのほうがわたしを先行するのだ。

だとしたら、しっぽは、〈何〉人称なんだろう。


          (「むだい」『かもしか川柳文庫第二十集・童話』野沢省悟編集、かもしか川柳社・1989年 所収)