2014年12月31日水曜日

身体をよむ 5 [桂信子] 今泉礼奈


香水の香の内側に安眠す 桂信子

香水の香りに包まれながら、眠りにつく。円を描いているかのような、やわらかさがある句だ。

しかし、「香水」というものは、外出時に使うものではないか。自分のため、というより、他人のため、に使うものだと思う。それを自分の、しかも眠りにつくために用いている。なんと贅沢な。
「安眠」という言葉は、やたら説明的な感じがする。むしろ、ここで「安眠」を強調するということは、普段安眠できていないのか。

すこし心配になりつつも、このちょっとした危うさが、「香水」らしい。

(『晩春』1967年所収)


2014年12月30日火曜日

きょうのクロイワ 10 [鷲谷七菜子]  / 黒岩徳将


どこからか道の来てゐる焼野かな 鷲谷七菜子

いつもの道が違ったように感じられる野焼なのだろう。道が意思を持って、この場所が終着点であるかのように焼野に集まったような感覚。「どこからか」は冒険だと思うが、のびのびとしている強さがある。

(第五句集「天鼓」より)

2014年12月29日月曜日

貯金箱を割る日 9 [豊玉] / 仮屋賢一


たたかれて音のひびきし薺かな   豊玉

 新選組副長土方歳三の最期を飾る発句。春の七草でもある薺、別名は「ペンペン草」。ペンペン草で遊ぶ時、実のついた支茎をひとつひとつ慎重に下に剥き、でんでん太鼓の要領で主茎をくるくる回して音を鳴らす。だから、薺が音を鳴らすのはこれといって新鮮なことじゃない。けれどもこれは「たたかれて」音がひびく。決して大きな音じゃない、耳をすませばようやく聴こえるか、といったくらい。それも、勢い良く叩かなきゃ聴こえない。「ひびく」という動詞、また、「ひびきし」という言葉の響きそのものが、広々とした静寂の空間を作り上げる。

 武州の薬屋であった土方歳三。天然理心流の道場、試衛館のメンバーと共に壬生浪士組に参加し、新選組「鬼の副長」として京でその名を馳せる。最期、箱館戦争でも愛刀、和泉守兼定を以って戦い、最期までこの多摩郡石田村出身の「バラガキ」(乱暴者)は信念を貫き通した。


歳三は、死んだ。 

それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。

《司馬遼太郎『燃えよ剣 下巻』(1972,新潮文庫)》


歳三は官軍の二発の兇弾に斃れるわけだが、この田舎者の一貫した強い信念が、日本という一国の歴史に堂々と名を残すくらいなのだ。薺の響きがどれだけ小さいものであったとしても、侮れない強大なエネルギーが根底にある。


広長院釈義操、歳進院殿誠山義豊大居士、有統院殿鉄心現居士。これらはすべて彼の戒名である。一字一字たどってゆくだけで、彼の生涯が想起される。

(註:この作品は豊玉の作でないという主張もある)

《出典:村山古郷『明治俳壇史』(1978,角川書店)》

2014年12月27日土曜日

人外句境 5 [筑紫磐井] 佐藤りえ


礼装が那由他の蝶をささめかす   筑紫磐井

那由他は不可思議の手前、阿僧祇の次の単位で、10の60乗(※1)である。
アラビア数字表記してみると、1那由他は
1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000
…です。

正直視認できるイメージの範疇を超えていて「ゼロがたくさん並んでる」としか思えない。
そんな膨大な数の蝶がささめく背景に「礼装」がある。

虫が大量出演するパニック・ムービーではないが、蝶にまみれて窒息してしまいそうな「礼装」が、むしろ蝶をコントロールする側にまわっているのが、さりげなく奇妙だ。

「礼装」の人でなし感(※2)が、うんざりするほどの数の蝶を可憐な存在にしてみせているがやはりこの句の主役は「蝶」だろう。

気の遠くなりそうな羽ばたきに取り巻かれ、礼装の内もいつしか蝶で溢れる幻想を見せられる。


※1 10の72乗という説もある。
※2 この「人でなし」は江戸川乱歩「人でなしの恋」のそれにあたる。



〈俳誌「俳句新空間」No.2 2014所収〉

2014年12月26日金曜日

きょうのクロイワ 9 [大橋佳歩]  / 黒岩徳将


写経する母の隣の蚊遣豚 大橋佳歩

母の集中の具合と横に置かれた蚊遣豚の素っ頓狂な顔が面白い。寺と読んでも家と読んでもよいと思う。蚊遣豚自身も、真剣に蚊を避けようとしてはいるのだろうが。俳句的目線というか、景の切り取り方が良い。母は正面ではなく背中がうつってほしいと思う。

(現代俳句協会第11回ジュニア俳句祭 現代俳句協会賞 より)

2014年12月25日木曜日

身体をよむ 4 [桂信子] 今泉礼奈


生きもののすれ違ふ眼や冬霞  桂信子

ライオンなど、激しい動物が互いに睨み合ってすれ違う、戦いの前を思った。しかし、私たちも「生きもの」のひとつである。すれ違うときに、いつも、睨み合っているわけではない。(というか、睨むことなんてめったにない。)すれ違う相手をチラっと見たり、見なかったり。その程度である。そして、また、他の生きものもそうであろう。水族館に行くと、魚なんてみんなそんな感じである。

他の生きものを見て、自分を思った。
今、私の眼はどんな眼をしているのだろう。

冬霞がすこしあたたかく、やわらかく、生きものの世界を包む。

(『新緑』1974年所収)

2014年12月23日火曜日

今日の小川軽舟 25 / 竹岡一郎


灯を点けて顔驚きぬ秋の暮         「近所」

「秋の暮」は、この場合、晩秋というだけでなく、秋の夕暮れの意も含む。薄暗くなった部屋に灯したのである。そして驚いた顔を見たのだ。顔が驚いたのは、いきなり明るくなったからであろうが、相手を誰かと言わず、人とさえ言わずして、顔と言った、その表現に、実は驚いたのは作者でもある、という意が含まれる。顔は、果たして人であろうか。掲句では、顔だけがぬっと浮かび上がったような印象を与える。その浮かび上がった一瞬、作者にはそれが人で、誰かの顔であるという認識より先に、ただ顔なるものだけが室内に浮かび上がった認識があったのである。一寸、岡本綺堂の怪談の雰囲気に通じる処もある。加藤楸邨の「蚊帳出づる地獄の顔に秋の風」も思い出させる。平成八年作。

2014年12月22日月曜日

人外句境 4 [安井浩司] 佐藤りえ


舞踏して投げてドリアン道の果   安井浩司

南国フルーツというものにはあまり縁が無いが、ドリアンと言われれば姿が浮かぶ。あの、こどもの頭ぐらいの大きさの、数キロもある、トゲトゲの外皮に覆われた、割るとたいへんな芳香がするというものでしょう。

掲句ではそんなドリアンをほとんど果物扱いせず、舞踏して道の果てまで至るぐらいに放り投げている。なにかあやしい呪術の儀式でも行っているかのようだ。

初句からの迷いのない感じ(舞踏して投げて、とたたみかけること)により、もっと言えば突き抜けた行動力?を感じさせられて、あやうく笑ってしまいそうになる。

そうまでされてもドリアンはきっとさした外傷も負わず無傷であろう、と予測して、心は数行前にたちかえる。これが人の頭だったら…。

ドリアンの転がる道の辺。人頭の転がる道の辺。なんだろう、大差なく思えてくるのは、何故だろう。

同じ作者に「ドリアンは飛びくる頭で受けるもの」という句もある。作者にとって、兎に角ドリアンは「割って食べるもの」ではないらしい。

〈『四大にあらず』1998年沖積舎所収

2014年12月20日土曜日

きょうのクロイワ 8 [日下野由季]  / 黒岩徳将


木星の軌道に夏の夜の電話 日下野由季

木星といえばあの輪っかを真っ先に思い出す。水星でも金星でもなく、言葉と言葉の衝突を探る。詳しくはないが電話と惑星は何も関係ないだろう。わからない嘘もここまで堂々とすると気持ちよい。曲者なのは中七の「に」。木星のエネルギーがそのまま下五に連結することで、電話の内容を想像させる楽しみが広がる。よく、「俳句には因果関係がない」方が良いという話題が句会で挙がるが、よい参考になる。宇宙飛行士を除き、誰からも距離の離れた宇宙空間を詠むことは、俳人として同じスタートラインでの勝負なのかもしれない。

(角川俳句2013年月号 希望の星たちー新世代作品特集 「香水」より)

2014年12月18日木曜日

今日の小川軽舟 24 / 竹岡一郎


初恋は残酷なりし桔梗かな         「近所」

「なりし」という過去から、自身の初恋を懐かしんでいるのであろう。恐らくは恋敗れたのであろう。初恋の相手が如何なる女であったかには言及されていないが、桔梗を配している処から、容易に想像されうるのである。桔梗の立ち姿から想起される如く、凛然として意志の強い、寡黙な女である。これが仮に牡丹、薔薇、百合であるなら、そのように形容される女であったのなら、最悪、作者は弄ばれたのである。また、向日葵、或いはカンナなら、行き過ぎた情熱の果の破綻だったのである。桔梗であるがゆえに、節度ある、毅然とした女が見えて来る。そのような女との初恋であったがゆえに、残酷に破れたとしても、時を経て、美しい思い出となり得るのだ。桔梗には匂いはほとんどないが、掲句には微かな無垢の匂いとでもいうべきが漂うように思う。平成十一年作。