木乃伊の手胸にとどかず雁渡る 大石雄鬼
ミイラときけば古代エジプトの王の墓や、日本なら入定、即身仏といったものが浮かぶが、そうしたやんごとなきひとびとにかぎらない、ひとりのミイラを眼前に置いてみる。
そのミイラには手がある(全身が現存するか、部分的に残るかは生成の過程や環境による、らしい)。まっすぐ体側に伸ばされているのか、胴体の上で軽く組まれているのか。その手が動き、自らの胸に届くことはない。
胸は心臓の位置とされ、なおかつ「心」や「魂」のある場所と仮定されがちな場所でもある。不老不死や蘇りといった事々に彩られたミイラの、その手が胸に届いていないという把握は、少しの不全感を連れてくる。
死してもなお、生きている人々の想像力によって、ミイラはある意味生かされている状態にあるとも言える。
その「死に切れない」不全をおぎなうには、祈りでも捧げるよりほかはない。
ミイラの「手」と「胸」に関する深読みは、そこに帰着する。
〈『だぶだぶの服』ふらんす堂 2012〉