2015年1月2日金曜日

今日の小川軽舟 26 / 竹岡一郎


原子炉の無明(むみやう)の時間雪が降る    「呼鈴」


掲句の中心となる語は「無明」である。これを闇、または精神の闇である処の無智、道理を理解する智慧の無いこと、と解釈すれば取り敢えず鑑賞は出来る。原子炉は人類の愚かさの表れであり、それによって世界は闇に突入する危険性がある、と。

しかし、無明と名付けられた概念が本来何を意味するか、という思惟を成すとき、掲句は単なる警告ではなくなってくる。

無明とは、仏教における十二因縁の最初に位置づけられる。即ち、十二因縁を逆に辿れば、老死(老や死に向かう有様)、生(生まれる事)、有(存在、しかし常住ではない)、取(執着)、愛(抗い難い衝動的な欲求)、受(感受作用)、触(感覚器官と対象との接触)、六処(眼・耳・鼻・舌・身・意、又はそれらに相当する感受する器官)、名色(体と心)、識(識別する作用)、行(心を形成し行動を形成する潜在的形成力)、無明である。

無明あるがゆえに残り十一の要因全てが生ずるとすれば、無明とは業(カルマン)の根本要因である。無明の闇を破るとは、実は生物であることを越える、もっと言うならば(生物として生まれ落ちる要因となる)根本的欲求を超える事であり、それは生物の意志を成り立たせている「盲目的な霊」である事に甘んじないという事だ。

人類の歴史とは破壊の歴史であり、文明の歴史とは即ち戦争の発展の歴史でもある。原子力とは現時点において、人類の得た最大の力であり、最深の闇であり、人類という種が到達した業(カルマン)の結晶であろう。つまり、業の力が顕現したとき、それまでの報いが一気に現れるという理に照らせば、人類はまず避けがたく原子力によって滅びるのである。

では、滅びを回避する手段はあるのか。無明を破れば、滅びは回避できるであろうが、無明は政治や経済によっては破れない。如何なる政策も国家理念も国際的な連合も、個人個人の無明を破ることは出来ないであろう。産業革命も五族協和の理念も共産主義革命も世界市民の理想もグローバリズムもインターネットの普及による連帯と、情報の暴露も、無明を破る事に関しては全くの無力であった。

なぜならば、自らの底に澱む地獄を照らし観る事無くして、外界の地獄は破り得ぬからである。個々の人間が、個々に精励刻苦して、人間であることを超える事によってしか回避できないと言えば、絵空事であると笑われるであろうか。少なくとも今の人間の心であることに甘んじていては回避できないであろう。

原子力が「人類という種」の業の到達点であるならば、原子力という力に内蔵される、惑星さえも破壊する圧倒的な滅びは、そもそもあらゆる人間の心に(生まれたての赤子の心にさえも)因として組み込まれているのである。その因が「核融合という技術を有する時代」と縁を生じ、原子力という結果を産んだのだ。その因を滅せずして仮に原子炉と核ミサイルの全てを破棄したとしても、やがて原子力に匹敵する新たな力を人類は手中にし、その力によって滅びるであろう。

ここで上五中七を見てみよう。「原子炉の無明の時間」、原子炉に、ではない。原子炉の、である。つまり、時間は原子炉に内蔵されているというよりは分ち難く原子炉に属している、もっと言えば原子炉を成り立たせている核の部分が無明の時間であるとも読めよう。ならば、その時間とは、人類の歴史である。文明の歴史であり、国家の歴史であり、個人の魂が生き変わり死に変わりしてきた輪廻の歴史である。個人の魂から文明の興亡に至るまでの人類の全ての歴史の業が圧縮され発現しようとする、無明の時間なのだ。だから、この「時間」という語には「後戻りできない性質」という意味が含まれていよう。

掲句では、雪が降っている。その雪は作者の希望である。人間が、その種族としての無明、人類の集合的無意識の底にある無明を断滅することが出来るかどうか、それは分からない。だが、少なくとも今は雪よ在れ、その降り積もる静けさによって、無明の闇を白く覆え、と希求するのである。下五の「雪が降る」の「が」は、一見乱暴に放り出した感じを以て、雪と、その降る様を強調して浮かび上がらせる。冬日の弱い光にさえも忽ち溶ける儚い雪の白である。太陽の光熱に等しい核融合の力の前には全く無力な白である。その雪の白は、作者を初めとする個々の人間の象徴でもある。
だが、人間は思惟し、瞑想することが出来る。原子力が人類にとって無明の終極の顕現であり、それが原子炉という明確な形となって、人間の魂に否応なき変革を迫っている事は理解できる。そこから智慧が生まれるかもしれぬ。少なくとも、智慧を希求するであろう。無明を破るための第一歩を踏み出すことは出来よう。恐らくは、自らの魂を、明らかに隅々まで観照するという事が、因を滅する一歩となろう。

福島の原発事故以来、原発を詠った数多の句が出たが、原子力とは何か、その発生の原因は何か、それは人間の心と如何なる関係性にあるのか、という考察において、掲句ほどに突き詰めた句を寡聞にして知らぬ。

平成二十三年作。