一塊の海鼠の如く正気なり 「呼鈴」海鼠、と聞いて、何を思い浮かべるだろう。動かないもの、海底に沈んでいるもの、渾沌を有しているもの、あるいは手っ取り早く男根の象徴。掲句では、「一塊の」という措辞を用いることにより、海鼠がまるで生きているようには見えぬ、泥のような生物として表現されている。そのように作者は正気であるというのだ。これは作者にとっての正気とは何か、を定義しているのである。
泥の如く、何かの集合体の如く、暗く、ぐにゃぐにゃと柔らかく、深く静かに沈み、しかし正気であるから意識ははっきりと見開いている。このような在り方こそが、この狂気に満ちた世界で正気を保つ姿勢だと確信している。(その確信の態度は末尾の「なり」という強い言い切りに表われている。)仮に下五を「泥酔す」や「眠りをり」などに置き換えれば、安易極まりない比喩の句となる。
人間が想起する海鼠の在り方と、海鼠自身の意識は、実は全く逆かもしれぬ、そう思わせる処に、この句の手柄がある。
平成十八年作。