裸のわれ抽斗あける吾(わ)とおなじ 加倉井秋を
自分の身体から、魂が浮遊している句だ。時間軸のずれも、面白い。まず「裸のわれ」があり、そのわれが抽斗をあけたのだが、一瞬意識が飛んだあとのように、行為者が自分の肉体と同一であることを再認識している。作中主体をも一度疑うようで、昭和30年に書かれた句ながら今読んでもナンセンスな新しさを感じる。
「風」は、小型「天狼」といった感じだが、ここでいちばんおもしろい作家は、加倉井秋をである。
(中略)
この作家は、日常意識の欠落個処に、ふいに見慣れない造形をこころみる。だがこの作業には、天性のするどい知覚が要求されているはずで、この不意打が、いつも新鮮な詩的衝撃を与えるのである。
(『現代文学大系 第69巻 現代句集』月報69 「俳句と私」村野四郎 筑摩書房 s43)
前々回で、青年時代の自由律俳句を取り上げた、詩人村野四郎はこう書いている。「私は、詩人になる前に俳人であった。」「この俳句という狭い土俵の中で勝負をするために、言葉を大事にすることが、どんなに大切かということを痛いほど教え込まれた。」そんな村野が加倉井秋をを評した言葉に、そういえば秋をは東京美術学校(現芸大)の建築科を卒業しているのだ、と思い出す。絵画や写真といったものに例えられる句とは違い、秋をの俳句は言葉を縦横に構築していく印象がある。ときに骨組だけであったり、石積みだったり。色彩を塗りこめたりアングルを計算した句とは違う、おおらかさや素材の意外性が楽しい。
言葉はタダだからといって、むだ使いしているかぎり、いつまでたってもロクな詩がかけないということ、いや本当の詩語というものは、ものすごく高価につくものだという考えは、今もって少しも変わっていない。
(前掲書 「俳句と私」村野四郎 より)
折鶴のごとくに葱の凍てたるよ 加倉井秋を
曲がることなき毒消売の道
ある晴れた日の繭市場思い出す
蠅(はい)生れて以後と以前とをわかつ
葡萄棚より首出してつまらぬ世
母亡き正月土管があればそれを覗き
秋は素朴な河口暮しの対話から
冬来ると足裏見せあつて話す
(『自註現代俳句シリーズ第二期⑪ 加倉井秋を集』 俳人協会 s56)