紫陽花や読経の声の響きたり 福井蒼平
「紫陽花」と「読経」、か。なるほどな。
四枚の萼で出来た花びらのようなものがたくさん集まって、一朶の紫陽花。大抵の紫陽花は、その葉や茎などの緑の部分を除けば、単色の世界。にもかかわらず、なんだか奥深い世界観を持っているようで、見惚れてしまう。萼がたくさん集まっているけど、煩いと感じたことは全くと言っていいほどない。かといって、紫陽花の四葩一つ一つの細かな違いに変化やコントラストを見出しているわけでもなく、似たようなもの、同じようなものがたくさん集まっているというくらいの認識でしか普通は見ていない。造形美、という言葉を思いついたけれども、なんだかそれも違う気がする。確かにそういう美も紫陽花にはあるのかもしれないけれども、紫陽花を形容する言葉ではない気がする。一朶の紫陽花の美しさって、どう表現したらしっくりくるんだろう。そう思っていた。
「読経」……ああ、そうか。その世界観だ。掲句を見てピンときた。日本の音楽の原点は、真言声明・天台声明と言われる。お経に節をつけて唱えるのである。音楽としては単旋律音楽に他ならない。これを大人数で唱えたところで、単なるモノフォニーになるかといえば、そうでもない。スピード、タイミング、高低の幅、音程、一人ひとりにズレがある。大人数でお経を唱えたときのあの独特な響きを思い出してもらえばいいかもしれない。ここに発生しているのは、間違いなく、ヘテロフォニーの響き。
普段耳にする音楽といえば、旋律と伴奏の組み合わせだけで成り立つホモフォニーに、時たま輪唱などのように多くの独立した旋律線によって成り立つポリフォニーの響きが加わったようなもの。西洋音楽の多くがこれである。対して、モノフォニーは極めて原始的であるし、ヘテロフォニーも原始的なもので、エキゾチックな印象を受けるし、西洋音楽だとしても宗教色が色濃く感じられる。現代の日本人にとっては、ヘテロフォニーの音楽はどことなく異質な感じがあるのかもしれない。
「紫陽花」と「読経」がどう僕の中でしっくり来たのか。それは、こういうことだ。「紫陽花の魅力って、もしかしたらヘテロフォニーの魅力にほかならないんじゃないか」と。それも、日本の音楽の根底とも言える、「読経」によるヘテロフォニー。
掲句自体、形の上で気になる部分(「~や~たり」のような部分)があったり、この読経が一人なのかそうでないのか判別しがたかったり(何人もが声を合わせるのは「諷経」という言葉があるらしいが、使いづらいのは確か)、そういう部分も確かにある。だから、この捉え方が作者の意図どおりなのか、あるいは一般的なのか、いつにも増して自信は無いのだけれども、ただ、この句を読んで僕の中でこういう発見があったという喜びを今回の記事では伝え、筆を置こうと思う。
《出典:『第十四回俳句甲子園公式作品集 創刊ゼロ号』(NPO法人俳句甲子園実行委員会,2011)》