なつかしの濁世の雨や涅槃像 阿波野青畝
雨が降っている。上空から落ちて来た雨は地を打つ。草木を打つ。頭を打つ。雨の音は耳から入り身体中を巡る。世界は今、涅槃の日の雨のあかるさの中にある。
陰暦2月15日、釈迦は入寂した。その姿が涅槃像である。一切の迷いから抜け出た悟りの面持、ゆったりと横たえられた身体。綺羅とした雨が万遍なく降り注ぎ、眼前の、或いはまなうらの涅槃像を覆う。気が付くと己が釈迦となって雨の音を聴きながら「なつかしの濁世」に思いを馳せているのだった。
我々が生きている時代。日常の些細な喜びの外へ目を向ければ、過去から学ぶことなく争いが起り、悪は絶えず、人間が愚かで哀れな存在であることを思い知らされる。喜び、怒り、哀しみ、楽しみは、それぞれがそれぞれを消しながら流転し続ける。やがて必ず訪れる死から目を逸らし、想像力を働かせることもなく、目の前に突き付けられた強烈な現実もすぐに忘れて繰り返す歴史。新たな負の遺産。
混迷のスパイラルから脱した釈迦は、そして青畝は、こんな濁世でもなつかしく思うだろうか。
「あちらでおうす一服いかがですか」と住持が私を別の居間へよんだ。苔の庭が雨に
一層さえて眺められた。濁世とすぐいうけれど、かようなおちついた気分で一切を忘れるのも、生きている娑婆、浮世がなつかしいからだ。なに末世であるもんか。思いようでこの浮世はありがたくなるような気がする。音楽を聞くような雨のひびきがする。
(『自選自解 阿波野青畝句集』昭和43年より)
掲句は大正15年、青畝27歳の句。
難聴で養子という辛抱の日日、境涯の虚無感を若くして抱いた青畝が、寺という世間とはかけ離れた静謐な場に身を置きながらも彼岸に心を寄せるのではなく、市井を恋い、浮世がありがたくなるようだと言う。青畝の句の「華美な明るさよりも何か神秘のささやくような陰翳のふかいところを選んで詠もうとする(同上)」傾向は、ものの根源に通じていく目線であり、表面を一枚剥がせば確かに認められる。しかし青畝の句は閉じない。「ありがたくなる」と言い切るある種の達観と庶民的な喜怒哀楽の融和。緻密に整えられた調べの後ろにある俳句への強い意思で、小宇宙から大宇宙まで自由闊達な世界を展開させていくのである。
一つ扨て生れてさみし蘭の蠅
さみだれのあまだればかり浮御堂
星のとぶもの音もなし芋の上
傀儡の頭がくりと一休み
いつとなく金魚の水の上の煤
香煙の四簷しみ出て閻魔かな
隠棲に露いつぱいの藜かな
みちをしへ道草の児といつまでも
葛城の山懐に寝釈迦かな
(『万両』昭和6年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)