不機嫌である特権 娘たちに 上野ちづこ
特に春を詠む句ではないが、春の気分に相応する。吹き出物が出る思春期はとうに過ぎても、我慢していたことが突出するような感情は、ことさら春に出やすいのではないか。ネガティブな感情は押し殺すべきだ、と思えば思うほど不機嫌になる。娘たちに限らず、人間に不機嫌である特権があってもいいのかとは思うが、社会生活の上ではやれパワハラ、セクハラ、モラハラという言葉と結びつき何かと問題視され、不機嫌になることにより自己に跳ね返ってくるものが予想外に大きい。感情がうまく処理できないことになると、有名な一文でいう、「とかくに人の世は住みにくい。」と感じることになる。かの『草枕』の冒頭部分も春に出来たのではないかと思う。
この句、「娘たち」に限って不機嫌の特権を与えているところが、さすがの後に社会学者として高名になる上野千鶴子女史の句である。「娘たち」とは未婚の出産経験のない女性たち(ただし20~30代くらいと想定しよう)のことだろう。娘たちはいつも笑っていること、にこやかなことが必須という社会的認識が我々に植え付けられていることが、句の作成から25年経過した今でも変わっていない可笑しみみがある。
「娘たちに」をいろいろ置き換えたらどうなるのか考えてみた。例えば、「妻たちに」「夫たちに」であったら恐ろしい離婚劇、「老人たちに」であれば、年金問題への反逆、さらに具体的な会社名、「マクドナルドに」とか「松屋に」としたら社会性俳句か?とも思える組織への反逆ともとれるし、もっと大きく「市民に」「国家に」とすると政治的感情と解することができる。「不機嫌」というのは恐ろしい人間の感情であることが味わえる。
現在、貧困という格差の狭間に息を潜めている「娘たち」がいることも確かである。そういう作者の先見の眼も感じる。作句時に「娘たち」のひとりであった作者の並外れた「知的な大人らしさ」が漂うのである。
娘たちよ! 大手を振って不機嫌になって、世の中を変えていってください。
減るもんじゃないし 感情の大浪費
からだという一つのうそをまた重ね
腐ってゆく貝とひとつ部屋に居る
むきみのあさりとなって悪戯(ふざけ)あう
《「黄金郷」1990年深夜叢書》