2015年4月18日土曜日

黄金をたたく17 [竹岡一郎]  / 北川美美



はつこひに蓮見のうなじさらしけり   竹岡一郎


「蓮見のうなじ」とくると、襟を抜いた妖艶な着物(あるいは湯上りの浴衣)姿の女性が浮かぶ。「うなじ」は女性のセックスアピールの箇所で男性が見てゾクっとくる視覚的な箇所。「はつこひ」の頃の無知だった自分の恋に自分の性的うなじをさらけだす、それも蓮の花を愛でる成熟した女になった。いささか自意識過剰な女性句という印象を持つが(作者は男性だが)、キーになるのは「さらしけり」の<さらす>が、「恥をさらす」「さらし首」などの用法から、本来は望んでいないことを露呈していると解釈でき、その真意を深読みしてみる。

本来は見られたくない姿…「鶴女房」(あるいは「鶴の恩返し」)を連想した。鶴の<つう>が昔、命を救ってくれた恩義から人間に姿を変えて<与ひょう>の嫁になるが、鶴の姿で機織りをしているところを<与ひょう>に見られてしまう…<与ひょう>はそれを見て腰を抜かす。一説では、鶴が羽を広げた姿から出産のシーンを見てしまったとも言われている。もともと、動物である人の姿が人にとって至極残酷な姿に映る。性交、血まみれの出産、あるいは排泄、そして人間もいずれ死に、屍になり、放置すれば腐っていき蛆がわく。それを見たくない、見せなくないものとしている。それを人としての尊厳と考える。「古事記」の中のイザナギが黄泉の国で死んだ妻の姿が全身腐乱して蛆虫がわいていた、という箇所が元ネタである。人は、人が動物である事実を受け入れ、人として成長していく。しかし、うなじ…。

「うなじ」を作者の意思でさらす…、「うなじの苦い思い出」を「はつこひ」に差し出しているという景がみえる。「はつこひ」の頃はウブだったが、今はうなじを…というか…男根のことかもしれない…。過激な深読みになってくる。しかし、うなじはやはりうなじであり、頭をささえている頸椎のあたり。「はつこひ」という淡く苦い自分の原点に、今の自分を問う姿勢と考える。

自ら<蓮見のうなじ>をさらすことにより、「はつこひ」にも、読者であるこちら側からも見えないもの…、それは正面にある顔。「はつこひ」という昔の恋と対極に、老いていく自分の顔、あるいは鬼かもしれない自分の顔が隠くされている。怖い!でもなんだか解る…その光景。能の演目のようでもある。

遠い「はつこひ」も性的な「うなじ」も「さらす」という行為を介して、蓮池の水面の表と裏に対峙している。過去と現在を行き来でしながら、一人称である作者は蓮池に立っている。

所収される句集『ふるさとのはつこひ』には漫画家・逆柱いみり氏の奇々怪々とした装画そのままの異次元の世界がある。

《『ふるさとのはつこひ』2015ふらんす堂所収》